No.a3fhb113

作成 1997.2

 

第二次世界大戦時の

日本とユダヤの知られざる関係

 

●20世紀前後の明治維新(強引な近代化)、そして日露戦争の勝利(帝国主義時代における有色人種の初勝利)という華々しい出来事を飾って、日本は西洋史の表舞台に突然現れた。

この突然門戸の開かれた神秘で謎の国を理解しようという動きは、明治近代以降、急速に加速された。そこには、日本とユダヤとの関連を見出そうとの動きも含まれていた。

しかし、日本は第二次世界大戦中、反ユダヤ主義を掲げるナチス・ドイツと同盟を結んだため、外国の研究家が日本を公正に検証するにはあまりにも時間が少なかった。無謀なアジア進出やアメリカとの対決を続ける日本に対して、かつては優秀な国と評価していた外国の研究家の多くは、日本に対する失望の意を隠さずにはいられなかったという。

 


(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。(右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●軍国主義下の日本では、ナチスを通じて反ユダヤ主義が上陸し、ユダヤ人差別の書籍が数多く出版されたが、同時に、当時の日本には多くの親ユダヤ知識人がいて、ユダヤ人社会が築かれていたことを見逃すことはできない。

日本が中国大陸に進出した時、上海に「ユダヤ人租界」があり、これは一種の避難地だったし、満州にユダヤ人の自治区を作って、そこにユダヤ人たちを集め、その資金力で満州を開発しようという動きも軍部の中にあった。これは「河豚(フグ)計画」と名付けられた。ユダヤ人をフグにたとえ、フグは毒を持っているが、料理の仕方によってはおいしく食べられる、という意味でこう呼ばれたのである。(これはテレビ朝日「ニュース・ステーション」でも取り上げられたことがあるので、ご存じの方も多いはず)。

結局、「河豚計画」は日の目を見なかったが、陸軍中将の樋口季一郎氏が「満州をユダヤ人のために解放し、彼らの安住の地たらしめよ」と世界に向かって放送したことは有名。


●また、ナチスの手を逃れて来たユダヤ人たちは、日本を経由してアメリカに渡った人が多かった。

特にポーランドの北に位置するリトアニアの日本領事・杉原千畝氏が、ナチスの手からユダヤ人を助けるために、数多くの日本通過査証(ビザ)を発行し、6000人のユダヤ人を救出したことは、最近のメディアで頻繁に取り上げられるようになったので、知っている方も多いだろう。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。(ちなみに、かの有名なオスカー・シンドラーが助けたユダヤ人の数は1100人)。

1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなった。

 


6000人のユダヤ人を救った
リトアニアの日本領事・杉原千畝

 

●ユダヤ人を救助したのは杉原千畝氏だけではない。ヘブライ語学者として有名な元青山学院教授の小辻節三博士も、ナチスに追われて横浜・神戸に上陸した多数のユダヤ人の身をかばい、救助したことで有名である。

ユダヤ教のラビであるピネハス・ヘルシュブルグがカナダで出版した『ナチスの涙の谷間より』の巻末には、「小辻博士を讃える手記」が載せられている。

 


小辻節三博士(ヘブライ語学者)

ユダヤ難民への支援のため尽力した

 

●ちなみに、このヘルシュブルグが日本滞在中に小辻博士に、「日本人はイスラエル10支族の末裔であるとの想像を巡らしている人々がいるが、博士はどう思うか」と質問すると、小辻博士は次のように答えたと言う。

「それは学界の定説になっていません。しかしかなり昔の時代に、ペルシャ、インドその他の地方からユダヤ人が日本に流浪してきて、日本人に同化した者もあろうということは考えられないことでもありません」

「日本の神道の観念にはユダヤ教のそれに一脈通ずるものがあります」



●さて、アメリカで開発された「核エネルギー兵器」が2発も日本に投下されて、第二次世界大戦が幕を閉じたわけだが、それはあまりにも皮肉かつ冷酷な歴史であった。

この前代未聞の大量殺戮兵器は、ヒトラーを恐れてアメリカへ渡ったドイツ系の「亡命ユダヤ人科学者」が中心となって開発されたものであった。

また全人口に対してユダヤ人口が5~6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、B−29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた。

このことから、ユダヤ人の中には日本に親しみを寄せる一方で、日本に対して敵対的な感情を持つユダヤ人がいたことが伺える。彼らは自分たちの予言された王(メシア)以外の王が地上に君臨することを、激しく嫌悪していたのであろうか。

あるアシュケナジー系ユダヤ人(白人系ユダヤ人)は日本人の“特攻精神”に対して次のように述べている。

「国家のために死ぬなんて愚かなことだ。いわんや他人(天皇)のためにはなおさらのこと。そんな気持ちはユダヤ人には全く理解できない……」

 


(左)広島に投下された「リトル・ボーイ」(右)長崎に投下された「ファット・マン」

 

●終戦直後の1945年9月27日、GHQ(占領軍本部)のマッカーサー元帥を、敗戦国の「王」である昭和天皇が自らの意志で訪問した。当初、この天皇の訪問希望を聞いたとき、マッカーサー元帥は非常に厳しい顔をしたという。しかし、天皇訪問の当日は穏やかな笑顔を繕って天皇を迎えたのである。

「戦争の責任は私にある。自分の事はどうなってもいいから国民を救って欲しい」と天皇が切り出したとき、マッカーサー元帥は跳び上がらんばかり仰天したと、彼の『回想記』には記されている。

「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。」(『マッカーサー回想記』より)

 


マッカーサーと昭和天皇

 

●日本人の感覚からすると天皇のこの言葉は、それほど驚くべきものでもない。

当時、マッカーサー元帥は天皇訪問の意図を「亡命と財産の保全の斡旋依頼」としか考えなかった。その天皇から「自分の身はどうなってもいいから国民を救って欲しい」と聞かされたので、なおさら天皇の自己犠牲的精神にいたく感激してしまったようである。

 


ダグラス・マッカーサー

1945年8月30日から約5年半、
GHQの最高司令官として
日本占領に当たった

 

●天皇に心を打たれたマッカーサーはその後、朝鮮戦争に参加した。彼はこの極東ユーラシア大陸での戦略面での困難さを体験したとき、日本のかつてのアジア侵略を顧みて、「日本のアジア侵略は“自衛”のための戦争であった」という見解を示している。

その後、マッカーサー元帥は朝鮮戦争中、ホワイトハウスと意見が対立して、突然解任されてしまったわけだが、朝鮮戦争最中(1951年)に行われた「日本とアメリカとの平和条約締結」という、非常に重要な歴史的セレモニーへの出席も禁じられてしまった。彼は以後、ホワイトハウスの晩餐会にも一度も招かれなかったという。次期大統領の候補にも推されていたかつての英雄は、意外にも寂しい晩年を送っていたのである。

ちなみにバージニア州のノーフォークにある「マッカーサー記念館」には、マッカーサーの遺品や思いでの品々が展示されているが、そのほとんどが日本からの贈り物や日本に関するものであるという。



●ところで、あるユダヤ人が天皇について語った文がある。

彼の名はモルデカイ・モーゼ。戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究し、戦後の対日処理立案(GHQ政策)にも加わった男である。彼は著書『日本人に謝りたい』という、極めて異例な内容を含んだ本を残している。以下は長くなるが、この本からの抜粋である。

「万世一系の天皇を頂く日本人は幸せである。この万世一系の天皇は、如何なる意味を持つとお考えであろうか。この点では、ユダヤ人が僭越ながら日本人に少々参考になる意見をお聞かせできるかもしれない。日本人からすると、万世一系の天皇といってもピンとこないかもしれない。他にどんな天皇があるのか、と反問されるであろう。だから日本人は幸せだと思うのである。
何故か。ヨーロッパの王朝というものはみな混血王朝である。歴史上、しょっちゅう外国から国王や女王を輸入した。しかも王朝の権力が強くなればなるほど、外国からますます輸入するようになる。何故か。王朝の権力を弱める必要からである。国内から昇格させようとすると当然争いが起こり、国内が乱れるのでまずい。その点、外国からの輸入君主は当たりさわりが少なく、しかも飾りものなので、最も有効な方法ということになる。」

「我らの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。ルソーは『我もし随意に祖国を選べと言われれば、君主と国民との間に利害関係の対立のない国を選ぶ。しかし現実にそのような国があろうはずもないから、やむをえずその代替物として民主主義国を選ぶ』と言っている。ここに全てが盛られている。ヨーロッパの王朝では常に君主と国民の利害が対立している。しかるに、日本の天皇制は決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の『民のかまどに立つ煙り』の故事を説明するまでもなく、利害関係の対立は全くないのである。これこそ君民共治の見本である。」

「ユダヤ人はルソーの言葉を待つまでもなく、長年(2000年以上)このような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国を持たないユダヤ人は、王を頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を“携帯祖国”として持ち、これによって民族の連帯と発展を推し進めて来たのである。キリスト教国では、このような高尚な理想を持った国は永遠に現れないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ人は日本人には及ばないが、一般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていただければ、はなはだ光栄である。(以下略)」


●またモルデカイ・モーゼは『日本人に謝りたい』の中で、「共産主義」はユダヤ人が作り出したものだと言明し、日本を揺るがした美濃部達吉の「天皇機関説」もユダヤ人ゲオルグ・イエリネックによる国家機能弱体化運動の一環であったとか、宮本共産党委員長を育てたのもユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)だったとの衝撃的な事柄を記述している(真偽のほどは定かではない)が、

その上で、このユダヤの長老モルデカイ・モーゼは、実はユダヤ人は日本を誤解していた、日本こそユダヤの永遠の理想があると言い切り、「日本人に謝りたい」と語っているのである。

 

 


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