No.a3fhb119

作成 1997.2

 

日本で活躍する「イスラエル・ロビー」の実態

 

現在、日本には様々な「親イスラエル団体」が存在
しています。その中の主要なものをリストアップ
して簡単に紹介しておきたいと思います。

 

 
「日本・イスラエル友好議員連盟」


1984年2月に誕生。メンバーは55人(1986年当時)で、会長は春日一幸氏、幹事長は中山正暉(まさあき)氏。メンバーの中には浜田卓二郎氏や山口敏夫氏などもいる。連盟は1985年7月に使節団をイスラエルに送っているが、イスラエル国会内に「イスラエル・日本友好議員連盟」が誕生したのは、その2ヶ月前の5月のことである。

日本の議員連盟結成式の挨拶において中山正暉氏は、次のようなコメントを残している。

「百科事典を引いてみますと、菊は中近東原産と書かれています。日本の伊勢神宮の灯籠には、イスラエルが最も繁栄した頃の王であったダビデ王のマークが入っているのです。日本とイスラエルの不思議な繋がりを思うのです。第二次世界大戦では、ユダヤ人を敵視するドイツと組んだために歴史上初めて悲惨な敗戦の悲劇を味わったことを思い起こす必要性を痛感するのです」

 

 
「日本コムナー協会/日本協同体協会」


イスラエルのキブツ(共産村)に日本人青年を送る団体。日本協同体協会(日本キブツ協会)は、イスラエルからの助成金を得て日本から多くの若者をキブツに送ってきた。しかしのちに、日本赤軍のテルアビブ・ロッド空港乱射事件が起きた際、この協会の『月刊キブツ』のスタッフは、事件の背景のパレスチナ問題にも触れようとして、イスラエル大使館と衝突し、全員が会を出ることになる。その後会は『月刊協同体』を刊行していたが規模を縮小し、栃木県に移った。

 

 
「イスラエル文化研究会」


青山学院大学の近藤伸一研究室に事務所を置き、理事長は早大の小林正之氏。会員100名で、目的は「過去と現在におけるユダヤないしイスラエル民族の生活と文化に関する自由かつ客観的な研究とその成果の発表」「正しいユダヤ理解の促進」としている。また「キブツとユダヤ教」ほかのテーマでイスラエル夏季セミナーなども催している。

 

 
「シオン社」


キブツ研修や「聖地観光」などを企画。

 

 
「日本シオニスト連合」


レバノンへのイスラエルの侵攻は、レバノン再建のために良いとするビラをまいた、反ソグループ。実態はよく分かっていない。

 

 
「中東問題知識人会議」


レバノン戦争については「日本シオニスト連合」と同じイスラエル擁護の立場をとる。事務局長は古田忠雄明大教授。1983年3月に東京で「イスラエルのレバノン侵略に関する国際民衆法廷」(IPTIL)が開催された時、この団体は『レバノン、7年のテロ時代の終焉』という反PLO、イスラエル支持のパンフレットを配布した。

 

 

「日本イスラエル親善協会」


「日本・イスラエル友好議員連盟」と同じく会長は春日一幸氏。この協会は、日本とユダヤ人が互いに手を握り、世界の平和に貢献し文化の交流を通して、理解と親密をはかる、という趣旨のもとに、1953年春に設立された。この協会の母体となったのは、1935年、満州国のハルビンで結成された「極東ユダヤ人協会」であり、その会長に就任したのがユダヤ人医師カウフマン博士であった。

 

 
「日本イスラエル婦人福祉協会」


会長は服部サカエ子女史。有力会員の中には岩動議員夫人もいる(彼女の夫は日本パレスチナ友好議員連盟に属している)。

 

 
「神の幕屋」


隠然なイスラエル支持の活動を展開し、日本-イスラエル関係において特異な存在として注目されている。提唱者は手島郁郎氏で、本部は東京都大田区の東京キリスト聖書塾内。その機関誌『生命之光』の購読者は2万人以上、毎週開かれている各地の幕屋集会(エクレシヤ)は約150ヶ所に及ぶ。超教派的な聖霊による信仰運動で、難病の治療行為などを通して勢力を伸ばしたと言われる。

「日本とイスラエルを結ぶ友情物語」と題する文章を機関誌『生命之光』に寄稿したシュタイナーというユダヤ人は、1967年の第3次中東戦争の際に手島氏がとった行動を次のように書いている。

「1967年6月の対アラブ戦の最中、キブツ在住幕屋人の示して下さった友情、手島先生の御愛は、言葉に絶するものでした。〈中略〉イスラエルが臨戦体勢になるや否や、手島先生から日本人宛てに『戦争になっても踏みとどまってイスラエル国を助けよ』との緊急電報が届きました。それと同時に、先生は日本で「イスラエル救難委員会」を組織してイスラエル弁護を呼びかけられて、必要な資金や物資を送付する計画も立てて御援助下さいました。」

またシュタイナー氏は、この第3次中東戦争ののち、イスラエル建国に貢献した人物を記録するためにユダヤ国民基金が設置している『ゴールデン・ブック(金欄簿)』に手島氏の名前が登録されたことを伝えている。それによれば、当時の駐日イスラエル大使は「ユダヤ民族にとって最高の名誉である『ゴールデン・ブック』」への登録を「手島先生がキブツ・ヘフチバになされた貢献に対して、かつ今次の6日戦争(第3次中東戦争)の戦勝を機に、手島先生の名を永久にイスラエル国が記念するため」として賞賛しているという。(もしこの話が本当ならば、手島氏は安江氏に次ぐ2人目の『ゴールデン・ブック(金欄簿)』登録者となる)

さらに翌年には「神の幕屋」グループによって「大エルサレム祝賀巡礼使節団」が組織され、「主がシオンの運命を回復された時、我らは夢見る者のようであった」という『旧約聖書』の言葉をのぼりにかかげたその一行は、イスラエル国中で大歓迎を受け、イスラエル国営テレビは、エルサレムの「嘆きの壁」の前で涙を流して踊り続ける日本人たちの姿を写し出したという。

この手島氏のイスラエル支持の活動はその最期の時まで続けられ、1973年12月、「シオニズムは人種差別の一形態である」との国連の決議に対して、イスラエルを擁護して立ち上がり、抗議のデモ行進を指導した直後、手島氏は倒れている。

 

 

 


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