No.a3fhb201

作成 1997.2

 

戦後も続く「皇国史観」の呪縄?

 

●つい50年くらい前まで、日本人は神話が混在した「皇国史観」を植え付けられてきたわけだが、終戦と同時に全ての真相が国民に明らかにされたかというと、そうでもないと思う。

古今東西の古代社会において、権力の座に着く者が自らの正統性を確立し、存続させるために、自分たちにとって都合の良い歴史書を仕立て上げることは、絶対に必要な行為であった。そして都合の悪い文献類は、火にかけて燃やしてしまうこともよくあった。いわゆる「焚書」である。


●秦の始皇帝やローマ帝国のカエサルによる大々的な焚書活動は有名であるが、日本の歴史においても数多く行われていた。

例えば『日本書紀』には、大化改新の際、中大兄皇子と中臣鎌足らが、蘇我入鹿を殺害すると、すぐに兵を率いてその父である蝦夷邸を襲い、蘇我氏が保管していた膨大な史書(『天皇記』『国記』含む)を焼き払ってしまったことが記されている。

この『天皇記』『国記』は、ともに聖徳太子が蘇我馬子とともに編纂した「日本最古の史書」ともいわれている。『天皇記』は『古事記』『日本書紀』などの原史料となった『帝記』と同じ性格のものではなかったかとも言われており、『国記』は日本通史に当たるものだったらしいと言われている。

『天皇記』『国記』の焼失が、意図的なもの、つまり「焚書」であったという具体的な根拠はない。だが、このような国家的にも重要な史書を私邸に保管していた蘇我氏の権勢が天皇家を凌ぐものだったことは、まず間違いないと言われている。


●また北畠親房の『神皇正統記』には、光仁天皇の後を継いで即位した桓武天皇が、多くの「焚書」を行ったとある。桓武天皇は「朝鮮と日本の密接な関係」を抹殺したかったのだろうか?

「異朝の一書の中に『日本は呉の太伯が後なりと云』といえり。返す返すあたらぬことなり。昔『日本は三韓と同種なり』と云う事のありし、かの書をば、桓武の御世に焼き捨てられしなり」(『神皇正統記』より)


●源平の時代から鎌倉末期、南北朝、応仁の乱と、日本国内には戦火が絶えなかったが、こうした動乱期にどれほどの貴重な文献が焼かれたのか、知る由もない。そのため東洋史学者として名高い内藤湖南氏などは、日本の歴史は応仁の乱以前は判らないとさえ言い切っているという。

そもそも中国では、王朝が交替すると、次の王朝が前の王朝の歴史を記す。これが鉄則である。ところが、日本では王朝が交替したことはないということになっている。したがって、史書は自分たちが記さなければならない。そのため、政治権力の大きな移動があった後に、前代の史書の焚書や書き換え(加筆・削除・変更)が必ずといっていいほど行われていたと主張する歴史家もいる。


●ところで、「『古事記』と『日本書紀』のみが正しい日本の歴史を伝えた最古の文献である」と定められたのは、「国家神道」が強引に確立された明治時代に入ってからのことである。天照大神の直系の血筋であり、遠く神代の時代から万世一系で継承されてきている天皇家こそ、日本臣民の「大親」的存在であり、それを証明するものが日本最古の歴史書である『古事記』と、勅選の正史である『日本書紀』なのだという「皇国史観」を体制側は宣言したのである。

つまり『記紀』こそ、天皇の絶対的権威を不動のものとするために必要な、数少ない「証拠」であったわけである。


●現在の我々からすれば、自分たちのルーツをきちんと公にすることなく、神武すなわち天皇家の始祖が天から九州地方に降りてきて(天孫降臨)、日本を統一したという戦前の神話的世界観は全くバカバカしく聞こえるかもしれないが、戦後の日本史を支配している「日本先住民族を代表する王として日本列島を連合的に統一した」という、単一国家・単一民族思想をベースとした「大和朝廷国内自然発生説」も、充分に疑ってかかる必要があろう。

特に現代の日本人は、皇国史観にだまされていた戦前の祖先たちを憐れむことに造作ないが、同じように現代の日本人が未来の子孫たちに憐れまれないという保証はない。


●評論家で、最近とくに古代史や民俗学の分野で精力的に活躍されている谷川健一氏によると、戦後の日本古代学は、極めて危険な「伝統」のもとに惰眠をむさぼり続けているらしい。

谷川氏は、文献史学・考古学・文化人類学・民俗学などが「単独では日本人の古代生活を明らかにしていくことは不可能である」にもかかわらず、日本の古代学の伝統が、依然として学際的な学問になっていないと指摘し、中でも文献史学の場合、その拠って立つ文献が極めて相対的なものであるにもかかわらず、そのことについての意識が希薄なことの危険さについて以下のように警告を発している。

「記紀万葉などが皇国史観の史料的な裏付けとされたこともあって、それらさえあれば日本の古代は十分に説明可能であるという考えが培われており、これは皇国史観を批判する戦後の史観にもそのまま受け継がれてきた。

だが、考えてもみよ。『日本書紀』に明記されているように蘇我氏が滅びたときに、『天皇記』や『国記』などの記録を焼いたとある(皇極天皇4年6月)。これらの書物がもし現在も伝わっているとしたならば、日本の古代史が一変していることは疑問の余地がない。今日私たちが読むのとははなはだ異なった古代の通史が書かれていることになったはずである。

にもかかわらず、現存の記録を相手として研究する史家はいつしかそれだけが与えられた記録であるという考えを持ち始め、それだけで必要かつ充分であるという錯覚に陥る。そこで与えられた記録の中だけで推理し、また理屈をつけるようになる。これは極めて危険なことではあるまいか。」(『古代史と民俗学』ジャパン・パブリッシャーズ)

 

 


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