No.a3fhb202

作成 1997.2

 

日本史における「謎の4世紀」とは?

 

●日本には、いかに考古学上貴重な場所であろうと、決して発掘調査を行うことの許されない禁断の「聖域」が幾つかある。仁徳天皇陵をはじめとする、天皇家の秘密に触れる場所がそれに当たる。

そのため、現在の正史における古代日本の姿は、神話と伝説が入り交じり合っていて、かなり不明瞭なまま放置され続けている。


●ところで、日本史には人類学的にも文化的にも大激変が起きている時期(4世紀前後)が存在しているのをご存じだろうか?

顕著なのが「墓」で、それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳など複雑な形へと変化し、弥生時代の祭祀用具の代表であった「銅鐸」が、突然、製造中止。青銅が中心だった金属器も、「鉄器」が使われるようになる。さらに彫りが深くがっしりした縄文人に近かった体型が、彫りが浅い大陸系の体型に変化し、なぜか、それまで行われていた「入れ墨」の習慣が消滅。

そして4世紀後半になると、この文化的大革命の様相はさらに顕著になり、墳墓は100mを超える「前方後円墳」が中心となり、玄室に「壁画」が描かれるようになる。副葬品も剣や鏡、玉などが中心だったのに対し、「馬具」や「王冠」など、朝鮮半島や大陸の文化に非常に近くなる。


●有名な『魏志倭人伝』には「邪馬台国はもちろん倭の国々にも馬や牛はいない」という注目に値する記述があるのだが、邪馬台国が3世紀末頃に消息を絶つのを境にして、「馬具」や「埋葬された馬の骨」が大量に出土している。

これは、明らかに大陸から馬がやって来たことを暗示しているわけだが、まさか、馬が自分で海を泳いで渡来してきたとは考えられないので、当然、何かしらの意図で馬を連れて来た存在がいたことが推測されている。

そこで問題になるのは、どのくらいの騎馬集団が朝鮮半島からやって来たのかという点である。少数の騎馬集団が段階的に馬をつれて渡って来たのか、それとも高度に組織化された巨大騎馬軍団が疾風怒濤のごとく海を渡って来たのか。

この時期の詳細な記録が残されていれば、馬&渡来人(騎馬民族)の流入の実態がすぐに判明するのだが、この時期(3世紀末~5世紀初頭まで)に限って『魏志倭人伝』のような客観的な歴史書がないのである。


●「邪馬台国消滅」と「大和朝廷誕生」という、巨大な動きが日本列島を襲った4世紀前後の時代は、実態のつかめないまま現在に至っており、邪馬台国が九州にあったのか畿内にあったのかという論争を含め、様々な学説が飛び交っているのが現在の学界の実情である。多くの研究家はこの謎だらけの時代を指して「謎の4世紀」と呼んでいる。



●それで、この「謎の4世紀」論争に波紋を投げかけ続けているのは、東京大学名誉教授の江上波夫氏である。彼は前期の古墳文化と中・後期の古墳文化とが根本的に異質であるということを挙げ、1948年に以下のような仮説を主張したのである。一般に彼の仮説は「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれている。

「中・後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的文化であり、その広がりが武力による日本征服を暗示している。またその文化の濃厚な分布地域は軍事的要衝に多い。4世紀ごろ、古代日本に大陸の騎馬民族が大挙に侵入して、邪馬台国をはじめとする倭の国々は征服された。この征服王朝こそ大和朝廷である」


●彼の仮説が翌年の1949年の機関誌『民族学研究』に掲載されるや、日本中に一大センセーションが巻き起こり、当然のこと、学会から総攻撃を受けた。

ある人が「騎馬文化は来たが、騎馬民族は来なかったんではないか」というと、江上氏は「文化は人とともにやってくるものである」と反論した。

もっとも、天皇家のルーツを大陸に求めること自体、戦前では「不敬罪」に値し、まだこの時期は終戦直後のことであり、皇国史観が根強く残っている時期でもあったので、非難ゴーゴーだったのは、当然といえば当然か。

しかし、時間とともに彼の仮説を補強する材料が多々発見されており、現在も根強い人気を誇っている。


●普通、彼の仮説を初めて耳にする人は、古代の日本には、国々を征服するほどの馬はいなかったんではないかと思いがちであるが、群馬県子持村の「白北中道遺跡」などから無数の馬の足跡が発見され、予想を上回る馬がいたことが証明されている。その後も馬具の発見が相次ぎ、数年前に話題になった奈良県の「藤の木古墳」からも北方騎馬民族の文化と共通する馬具が発見されている。

最近では、朝鮮半島南部の「伽耶(かや)諸国」の遺跡から、次々と馬具が発見され、注目を浴びているが、何よりも関係者を驚かしているのは、これらと全く同じものが日本からも出土されているという点であろう(和歌山県の「馬面冑」など)。

この伽耶諸国の発掘は、江上氏の騎馬民族説の“ミッシングリンク”ともいえる場所だっただけに、一度は葬られかけた江上氏の騎馬民族説が、恐ろしく現実味を帯びて浮上してきたといえよう。


●騎馬民族説を認めない学者の中には、前方後円墳が日本でしか発掘されない点を指摘する。前方後円墳が騎馬民族と深い関係があるのなら、朝鮮半島やユーラシア大陸にも存在してもいいのに、前方後円墳は日本でしか発見されない日本独自の形態であると。

しかし、最近になって朝鮮半島から前方後円墳の発見が相次いでいるという。中でも、北朝鮮の慈江道雲坪里の鴨緑江沿いで発見された前方後円墳は、日本の前方後円墳より少なくとも300年は古いという。

このように、最新の学術調査は江上氏の「騎馬民族征服王朝説」を裏付ける方向にあるといえるが、1991年に日本政府から「文化勲章」を授かると、彼の仮説はますます勢いを帯びたようだ。もっとも、「文化勲章」をもらったからといって、彼の仮説が定説として確立したことを意味するわけではないが。


●現在も、「騎馬民族征服王朝説」を真っ向から否定する学者は多いが、大抵そういう人たちは、4世紀前後の大激変を過小評価しているようだ。しかし、邪馬台国の時代に馬がいなかったことには同意しているらしい。また、「騎馬民族による征服」を認めないながらも天皇家のルーツを大陸の王朝に求める学者もいて、両者の間に何かしらの深い関係があったと見る向きは強い。


●ちなみに、「騎馬民族説」を唱えている学者は江上氏だけではなく、他にもいるのだが、少しバリエーションを変えている点が面白い。

例えば、早稲田大学名誉教授の水野祐氏は、「前期古墳文化と中・古墳文化にはその性格において本質的な相違が見られ、その間には一貫性・連続的継続性は欠如しており、両文化の間には急転的・突発的な文化変化があることに注意するべきである」とし、古墳時代の急進的変化を認めながらも、“巨大騎馬軍団による倭国制圧”という江上氏の掲げた性急な歴史構成を否定し、もう少し時間的余裕を与え、朝鮮から渡来してきた騎馬民族が現地の倭人と同化して、日本化した騎馬民族によって大和朝廷が作られたという、比較的穏和な「ネオ騎馬民族説」を唱えている。



●さて、馬の話はこのくらいにしておいて、「古墳文化」の成立を考慮する上で注目すべきなのは、やはりなんといっても、比較的短期間のうちに「超巨大古墳」が誕生したという歴史的事実だろう。中でも、仁徳天皇は父親である応神天皇の超巨大前方後円墳ばかりか、生前に自分のための超巨大前方後円墳を造っている。

仁徳天皇陵は底面積においてはギザのピラミッドや始皇帝陵を上回って世界一の墳墓として有名であるが、信じられないことに、こんなに重要な人類的文化遺産が宮内庁によって発掘禁止にされ、現在に至るまで学術調査は一切行われていない(法律的根拠のない禁止状態が続いている)。

「仁徳天皇の墓である」という宮内庁側の一方的な説明だけで、直接的証拠すら提示されていない状況である。そのため、現在、一部の歴史学者が天皇陵発掘を求めて宮内庁側と何度も交渉しているが、大きく進展した様子は見られないようである。(最近、動きがあったか?)

仁徳天皇陵には円筒埴輪だけでも推定1万本以上あると言われているが、もっと実戦的な馬具・武器類(騎馬民族特有の曲刀や長弓など)が大量に眠っているのではないかと私は強くにらんでいる。


●ちなみに、仁徳天皇陵は明治の初めに台風の影響で一部が崩れて石室が出て来たとき、当時の県令が盗掘し、出土品を大阪の骨董具屋に売ったと言われているが、実際、骨董具屋には仁徳天皇陵からの出土品とみてよい目録が残されており、その目録を見ただけでも、副葬が前期古墳時代のものとは一変したことがはっきり分かると言われている。

これら出土品は残念なことにすぐに売りに出されて、現在はボストンあたりの博物館にあるといわれているが、少なくとも日本にはないということだ。


●仁徳天皇陵を少し発掘しただけで、日本史は根底から塗り変えられるだろうと言っている人がいるが、私も全く同感である。

宮内庁には職員が1000人以上もいるのだが、そろそろ秘密主義を改めて、日本古代史の学術的解明にもっと積極的に協力すべきだと思っている。私には、宮内庁(特に書陵部)の上層部の人達は、日本古代史の実態(大和朝廷のルーツ)を熟知しているがために、かたくなな沈黙を続けているとしか思えないのであるが……。


●以上のように日本史における「謎の4世紀」は、様々な仮説が飛び交い、実態が把握されていないのであるが、その核心部分を握るとされる数多くの「天皇陵」がまだ未発掘の段階なので、まだまだ学術調査による飛躍的な進展の可能性が残されているといえる。特にここ最近、新たな考古学的発見が相次いでいるので、日本古代史の解明作業にはまだまだ目を離せない「熱いロマン」が宿っているといえよう。

なお、「騎馬民族征服王朝説」の現況を知りたい方は、『騎馬民族は来た!? 来ない?!』(小学館)を読まれることをお勧めします。(^^)

 

 

【内容紹介】

紀元4世紀前後、豪華な馬具と武器を帯びた渡来人によって日本の農耕民族(邪馬台国)は征服されたとする江上波夫氏の騎馬民族説に対して、日本人は一貫して農耕民族であったと主張する佐原真氏が真っ向から対決を挑んだ激論を完全収録している。

〈江上波夫〉
1906年東京都生まれ。東京大学名誉教授であり古代オリエント博物館長でもある。著書に「騎馬民族とは何か」など。1991年に「文化勲章」を受賞。

〈佐原 真〉
1932年大阪府生まれ。国立歴史民俗博物館副館長。著書に「考古学の散歩道」など。

 

 


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