No.a3fhb204

作成 1997.2

 

「騎馬民族征服王朝説」と

「日ユ同祖論」には接点があるのか?

 

●江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」は、これまでお互いに何の関係もなく、それぞれ別個に日本文化の特質と天皇制国家のルーツを追求する仮説とみなされてきたが、これを歴史哲学的に分析してみると、仮説構造の特徴においてかなりの共通点があることに気付く。


●「騎馬民族征服王朝説」は、実際には、スメラミコトといわれた天皇が古代シュメールの王家に由来する可能性を暗黙の前提として組み立てられており、アッシリア帝国に滅ぼされた北イスラエル王国(10支族王朝)の王家と天皇家との関わりを明らかにするため、騎馬民族スキタイ人の移動経路を追及したものと見る研究家もいる。

江上波夫氏は、天皇制の遠い起源が北方ユーラシアのステップ地帯にあると考え、ここから満州・朝鮮を南下した扶余族系の騎馬民族が、ひとまず任那に「辰王国」を建てた後、九州に上陸して大和へ東征し、日本国家の基礎をつくったと想定したわけだが、その時期は、崇神天皇から応神天皇に至る数人の天皇が在位したと記されている4~5世紀のこととされる。


●一方、ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)であるサミュエル・グリンバーグは、早くから古代イスラエルの失われた10支族の一つ、ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、天皇家の祖先として日本に渡来したと唱え、『大和民族はユダヤ人だった』の著者ヨセフ・アイデルバーグもまた、天皇家の祖先ないし日本の有力氏族が大和朝廷を樹立したのは4~5世紀の頃であったとみなしていた。

さらに、多くの研究家によってヘブライ集団ではないかと注目されている「秦氏」一族(10万人以上)が、応神天皇の招きによって百済から渡来したのは、高句麗と倭が朝鮮半島の宗主権を巡って激しい戦いを演じていた4世紀末~5世紀初頭のことであった。


●このように、支配民族の渡来ルートとその時期は、「騎馬民族征服王朝説」も「日ユ同祖論」も4~5世紀の朝鮮半島に求められ、前者で紀元前8世紀のスキタイ民族にまでさかのぼられた支配民族のルーツは、後者においては紀元前8世紀に滅亡した北イスラエル王国の10支族に求められる。

なお、ここで注意してほしいのは、朝鮮半島は大和民族にとって単に「経由地点」に過ぎなかったのであり、日本人と朝鮮人は異なる民族である可能性が高いという点である。

 

アッシリア王国に滅ぼされたサマリアの古代ヘブライ人たちは、
シルクロードを東へ東へ突き進んでいったと推測されている

 

●ところで、北朝イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅亡(紀元前722年)した頃、スキタイ系騎馬民族は北方ユーラシア大陸を支配していた。彼らは、イスラエル10支族を連行したアッシリア帝国にも、たびたび戦いを挑み、ときには騎馬の機動力を駆使して、アッシリア帝国内にまで深く侵入し、甚大なダメージを与えている。

このスキタイ系騎馬民族の侵入によって、アッシリア帝国は徐々に国力を低下させ滅亡の道へ至ったとされている。

一般にスキタイ民族はアーリア系と言われているが、実際は多くの民族によって構成されていたという。チンギス・ハーンのモンゴル帝国内では、モンゴル族以外にアーリア系白人をはじめ、中国の漢民族、そしてセム系のユダヤ人まで存在していたことが知られている。

また一般に騎馬民族は、チュルク系、モンゴル系、スキタイ系などと区分されているが、実際は、その境界はあいまいにされている。その意味で、当時、スキタイ民族とイスラエル10支族は同盟関係、もしくは合流があったのではないかと推測する研究家がいるのである。

このスキタイ民族の勢力範囲であるが、スキタイ系特有の墳墓である「積石塚」は、北方ユーラシア大陸のアルタイ地方のみならず、西はヨーロッパ、東は朝鮮半島にまで及んでいる。そして、それと全く同じ構造をもつ墳墓が、この日本列島から1500基以上も見つかっているとのことである。


●かのモンゴル帝国は「騎馬民族国家」であったが、モンゴル族は西はメソポタミア地方北部から東は朝鮮半島まで、またたくまに勢力下におさめている。そして、チンギス・ハーンの孫のフビライは、大船団を組んで日本に2度も襲いかかっている。また、似たようなことは平安時代にもあって、このときは東北アジアの騎馬民族「女真族(じょしんぞく/ジュルチン)」が襲来し、「刀伊の禍」が起こっている。

よって、日本に騎馬民族が襲来することは、長い目で見れば、決して珍しい現象ではないと言えよう。


●またユーラシア大陸をながめるときに「シルクロード」という存在は無視できないものであるが、古来、このシルクロード貿易を独占していたのはユダヤ人の商人(絹商人)であったことが、一般によく知られている。

さらに、イスラエル共和国の「テルアビブ民族博物館」に展示してあるJ・P・プロイス博士の著書『古代開封之清真教史略』によれば、古代ヘブライ人は今から3000年も昔のソロモン王の全盛時代から、インド洋を越えて極東地域に来ていたという。BC950年頃のヘブライ系部族の一つ古代海洋民族フェニキア人は、インド洋に通じる海洋路を知っていたというのである。

以上、大和朝廷の不思議なヘブライ色を考慮にいれたら、ヘブライ系騎馬民族が古代日本にやってきたというのは、全くSFのような話ではないのである。



●ところで、ちょっと蛇足的な紹介になるかもしれないが、興味深い事柄なので紹介させてもらう。

天皇制には昭和とか平成とかいった「元号」があることは誰でも知っているが、「皇紀」が存在していることを知る人は多くない。今年(1997年)は皇紀2657年である。皇紀は紀元前660年から始まっているのであるが、これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たっており、まだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当している。よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた北朝の残党たちが、新しい王朝を再結成したのではないかと推測する者もいる。この時に皇紀がスタートしたというわけだ。


●また、天皇の公式名「スメラ・ミコト」は、古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は、「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという。「サマリア」とは北イスラエル王国の首都である。

さらに、天皇の古称「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味に当たり、ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという。

あと、「東方の日出づる国」は古代よりヘブライの民にとって「天国」を意味しているが、約束の大地カナンは「カヌ・ナー」の転訛としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味し、「東方の日出づる国」はヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。

さらに、大和朝廷の「ヤマト」はヘブライ語アラム方言では、「ヤ・ウマト」と分解され「神の民」という意味になるという。


●まあ、あまりこういった事柄を持ち出すと、単なる言葉のゴロ合わせのような印象を深めがちだが、直接証拠にならずとも「傍証」として注目に値するであろう。

ただし、日本とヘブライの関係を考える場合、「共通点」とともに「相違点」も数多く存在していることも事実なので、「日ユ同祖論」に関する結論はあまり急がないほうが賢明なようだ。

日本と古代ヘブライ人の間に何かしらの深い関係があったとしても、日本人全体がヘブライの末裔とは限らず、日本の支配階級の者たちだけがヘブライの末裔なのかもしれないし、日本に辿り着いたヘブライの末裔たちは反対勢力によって滅ぼされたのかもしれない……。いろいろな可能性が考えられる。

 

 


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