ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a4fha304
作成 1998.1
●1962年に歴史学者のノルマン・ゴルプは、すでに整理ずみの文書群の中に古色蒼然たる羊皮紙文書を見出し、ざっと目を通すと、現在のウクライナの首都であるキエフを示す語に出くわした。文書の下部を見るとヘブライ起源とはとうてい思えない人名が書き連ねられてある。彼は「新資料発見」の予感を抱きつつ、早速解読に取り組み、一応の成果を得た後、ハーバード大学におもむき、東洋学の権威の一人オメリヤン・プリツァクにそれを示し、基本的部分に賛同を得、以後2人は各人が得意とする分野からこの文書の研究を開始し、成果を次々と発表していった。
その集大成が両者の共著『10世紀ハザールのヘブライ文書』(1982年)である。
●『キエフ文書』と名付けられるこの文書は、ある人物の紹介状であり、彼に対する寄付の呼びかけ状でもある。文書全体はヘブライ語で書かれ、文書の下部には11人の署名が並んでおり、そのうちヘブライ名は父称を含めると14、トルコ系名は6つある。この署名の下に書き込まれた突厥文字は、プリツァク教授によると「読み終えた(読了)」を意味するブルガール・ハザール語であるという。
●この新資料の『キエフ文書』について、S・A・プリェートニェヴァ著『ハザール 謎の帝国』の訳者である城田俊氏(モスクワ大学大学院修了のロシア語教授)は「訳者解説」のページで次のように書いている。
以下、抜粋。
──ユダヤ教は辺地にまで、市民にまで──
『キエフ文書』は10世紀、ハザールの西北方向の前線拠点キエフに住む、明らかにトルコ系と思われるハザールのユダヤ教徒の市民により、みごとなヘブライ語を用いて綴られている。文書の末尾には、ハザールの名を持つユダヤ教徒のサインが多数見出される。その上、突厥文字を用いてハザール語の書き込みがある。文書は写本として残されたものではなく、原本そのものである。この『キエフ文書』で特記すべき点をざっとあげれば以上のようになろう。
ハザール研究は学問的に開始されてすでに1世紀半余年が経過する。しかしその間、ハスダイ・ヨセフ往復書簡の偽作説がささやかれ続け、その関連で発掘される史料も常に疑いの目で見られてきたが、この『キエフ文書』の発見はこれら偽作説を吹き飛ばし、疑念を一掃するものといえよう。
また、今までハザールのユダヤ教改宗を事実として認めても、それは国家の上層部に限られた改宗であり、一般市民まで至っていなかったと見るむきが主流をなしており、本書『ハザール 謎の帝国』もその主旨にそって叙述されているが、それに強い疑念をさしはさむ余地がでてきたことになる。
手紙の主は、古いトルコ系の名やユダヤ系の名を持つユダヤ教徒であり、キエフのユダヤ教コミュニティの恐らく指導者達と思われる。ユダヤ教はこのように市民の間にまで広まっていたのである。中世の一王国、それもトルコ系の王国全体がユダヤ教に改宗するはずがないという決め込みが今まで支配的であったのだ。『キエフ文書』はこの決め込みを吹き払うものといえよう。
また、ユダヤ教はイティルのような中心都市だけに広まっていたと考えられてきたが、キエフのような全くの辺境の町にもゆきわたり、その市民層をもとらえていたのである。たしかに、キエフは辺境としても、ハザールの前線根拠地であり、そこには政府・王室に忠誠を尽くすものが送り込まれていたことが考えられるが、それを割引しても今までの一般見解はある種の変改を余儀なくされると言わなければならない。
〈後略〉
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