ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a4fhc420
作成 1998.5
●「ドクター・ハマー」の愛称で知られるユダヤ人大富豪アーマンド・ハマーは1898年、ニューヨークのロシア系ユダヤ人の家に生まれた。
※ ハマーの父親ジュリアスはロシアから移住してきたユダヤ人医師だったが、熱烈な共産主義者で、「アメリカ共産党」の元となった「社会主義労働党」の創設者でもあった。
アーマンド・ハマー
(1898~1990年)
ロシア系ユダヤ人の家に生まれた彼は、
医師の資格を持つ事から「ドクター・ハマー」
の愛称で知られる。モスクワ滞在中にソ連最高幹部
と親密な関係を結び、東西両陣営を股にかけて活躍し、
米ソ外交の“影の主役”として歴史に名を残している。
※ 彼の伝記作家によれば、「アーマンド・ハマー
(Armand Hammer)」の名前は共産主義の
シンボルの鎌(アーム)とハンマーを
もじって命名されたという。
●ハマーはコロンビア大学で「医学博士」の学位をとったが、父親の祖国で「ロシア革命」が成功すると、単身ソ連に渡り、革命軍の医療班に身を投じた。
そんなハマーを知ったレーニンは、彼をクレムリンに招いて丁重な礼を述べたという。ハマーはこの時、アメリカの余剰穀物をソ連に送ることを約束し、その代わりにロシア産の毛皮、キャビア、美術品、宝石などの特産物をアメリカに輸入したいと提案した。
レーニンはこの申し出を感動をもって受け入れたという。
ウラジーミル・レーニン
●これが「ロシア革命」以後、ソ連が初めて西側と行った貿易であると言われる。
その後、商魂たくましいハマーは米国産穀物をソ連へ送り込みながら、「フォード社」の代理人としてソ連にフォード車を売り込み、トラクターの組み立て工場も建設した。
●以来ハマーは、歴代のクレムリンの主たちに特別の好意を寄せられるようになる。
そしてハマー自身は、ソ連との貿易によって実業家としての基礎を固め、ソ連から帰国後、貿易で得た莫大な資産を元に、倒産寸前だった石油会社「オクシデンタル石油」(略称「オクシー」)の再建にあたった。
1957年にこの会社の経営権を握ったハマーは、大胆な戦略と巧みな買収・合併によって同社を「フォーチュン番付」第19位の国際的企業に成長させ、大財閥「オクシー財閥」を作りあげた。
「オクシデンタル石油」
(略称「オクシー」)
●ハマーはモスクワに滞在中、レーニンを含むソ連の最高幹部と親密な関係を結び、また、アメリカ情報部がソ連の大物スパイとみなしていたロシア人女性と結婚した。
また、ハマーはアメリカにおけるKGBの活動資金を提供し、1980年の「モスクワ・オリンピック」では記念硬貨を発行して、2億ドルもの金を儲けた。
●ハマーは東西冷戦終結後の1990年12月に92歳で死去するまで、70年にわたって米ソ間を数え切れないほど旅し、ソ連のトップとアメリカの指導層を結びつけた。
ハマーはレーニン、トロツキーからブレジネフ、ゴルバチョフまで歴代ソ連指導者と直に電話一本で話が出来る男として知られ、ニクソンやカーター、レーガンなどのアメリカの指導者とも個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になるなど、その影響力をビジネスだけでなく政治や外交にもふんだんに発揮した。
『フォーブス』の表紙を
飾ったアーマンド・ハマー
ハマーは自家用ジェット機で世界中を
飛び回り、世界各地でVIP待遇を受け、
「私的な外交官」として活躍した。
●ハマーは「美術品収集家」としても世界的に有名で、主にロマノフ王朝時代のロシアをはじめとするヨーロッパの絵画や彫刻などを大量に収集し、その傍ら、ニューヨークに画廊をオープンするなど、趣味と実益を兼ねたビジネスを行っていた。
そのため彼は「ロマノフの財宝で巨財を築いた男」と呼ばれることもある。
1987年に出版された
自伝『ドクター・ハマー ~
私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』
アーマンド・ハマー著(ダイヤモンド社)
●現在、モスクワの「クレムリン宮殿」内にはレーニンが使用していた部屋が当時のまま残されており、室内の大きなデスクの上には奇妙な彫刻(猿が人間の頭蓋骨を見つめている)が置いてある。レーニンは執務中、この彫刻をよく眺めていたと言われているが、この彫刻をレーニンに贈ったのは、他ならぬハマーであった。
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