No.A5F_hc_KT

 作成 1997.7

 

宗教騎士団

(軍事修道会)

 

 

宗教騎士団(軍事修道会)は十字軍時代に
聖地エルサレム付近で次々と創設された組織で、
普通の修道会の「清貧・貞潔・従順」のほかに
「武器による聖地の守護・巡礼の保護」
を誓っていたのである。

 

 

聖ヨハネ騎士団
(マルタ騎士団)


 

聖ヨハネ騎士団は十字軍の遠征が始まる遥か以前(1043年)、エルサレムの近くに聖ヨハネ病院を建てたのがもとになっている。騎士団として組織が整うのは1080年。創設者はフランス人ジェラール・ド・ブロヴァンス。ヨーロッパ各地から聖地にやって来る巡礼者の看護のため、聖ヨハネ病院を維持し、発展させるのを目的としたのである。


1099年、第1次十字軍が聖地エルサレムをイスラム勢力から奪回すると、その後、聖ヨハネ騎士団は他の騎士団とともに、聖地防衛にめざましい活躍をした。聖ヨハネ騎士団の兵士は、鎧の上に白い十字架を描いた黒マントをまとった。団員の正式名称は「エルサレム洗礼者聖ヨハネ病院騎士修道会(オスピタリエ)」であった。


1187年に、聖地エルサレムがイスラム軍に奪還されると、聖ヨハネ騎士団はエルサレムの北サン・ジャン・ダークル(現アッコ)に逃れて、そこに定住。1291年にサン・ジャン・ダークルもイスラム軍の手に落ちると、聖ヨハネ騎士団はシリア沖のキプロス島へ落ちのびたが、時の総長ジャン・ド・ヴィリエはイスラム軍と戦う姿勢を整え、1308年にロードス島のロードス市を占領。本拠地をこの島に移して輝かしい時代を築いた。


しかし1522年、スレイマン1世指揮下の優勢なトルコ軍に包囲されて降伏。生き残ったわずか180人の騎士団員はクレタ島のイラクリオンからシチリア島のメッシナ、バイア、ヴィテルボとイタリア各地を点々とした後、1503年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世から与えられたマルタ島に落ち着いたのであった。

 


マルタ騎士団の会議風景

 

これ以降、聖ヨハネ騎士団は「マルタ騎士団」と呼ばれ、マルタ島を治めながら1798年にナポレオンに降伏するまで、キリスト教擁護のために戦った。


マルタ島を追われた騎士たちは、聖ペテルブルクに移動した後、時のローマ教皇ピウス7世に引き取られ、まずカタニアに、次いで1834年にはローマに住むことが許された。

 


第78代団長に選ばれた
バーティー氏

 

現在、マルタ騎士団員は団長以下約7400人。巨額の財産と病院などを持ち、「国土なき国家」として独自の憲法、政府機構を備え、隣人愛の立場から慈善運動などの幅広い活動をしている。また「マルタ騎士団」の名で50ヶ国へ外交使節を派遣し、1994年8月には国連のオブザーバーに選ばれた。「マルタ功労十字章」のような独自の勲章授与権を確保しているのも特徴的だ。

 



 

テンプル騎士団


 

テンプル騎士団は、中世の宗教的秘密結社である。もともと、この宗教団体は、聖地エルサレムに参詣に行く巡礼者を保護するため、第1次十字軍(1119年)の後、ユーグ・ド・パイアンほか8名のフランスの騎士たちによって、創設されたものであって、その本部がはじめ、エルサレムのソロモン神殿跡といわれる宮殿に置かれていたので、テンプル騎士団と呼ばれるようになったのである。


この騎士団の騎士たちは、いずれも赤い十字のついた白い征服をまとい、長剣と楯を持ち、髭を長く伸ばし、髪の毛を短く刈っていた。そうした美々しい貴族的な姿で、しばしばイスラム軍と勇敢に戦い、これを打ち破り、ヨーロッパ各地に凱旋しては、市民の熱狂的な歓迎を受けたという。


この宗教色の強い騎士団はどんどん入団者を増やし、ヨーロッパとエルサレムをつなぐ「巡礼領域」において一大勢力に発展。テンプル騎士団は巡礼者の守護に力を注ぐばかりでなく、東方諸国との交易に熱心であり、莫大な富を築き、各国にその本部を置くようになった。


特にフランスでは、各地に修道院と城を兼ねた1万の拠点を持ち、広大な領土を擁し、騎士たちは事業を行って、国王にさえ金を貸していた。いわば、フランス国内に別の国があるようなものであった。


こうした騎士団の勢力の伸張ぶりを快く思わなかったフランス王フィリップ4世は、傀儡教皇クレメンス5世に強く働きかけて、この騎士団を滅ぼそうと考えた。こうして、恐ろしい迫害が始まるのである。


迫害の先頭に立ったのは、フィリップ4世の宰相として絶大な権力を持っていた大法官ギヨーム・ド・ノガレであった。彼は残忍な宗教裁判を主宰し、拷問によって、望むがままの自白を引き出した。


裁判は5年続いた。その間、54人の騎士が捕らえられ、身体に幾本となく楔を打ち込まれ、自白を強制させられたあげく、火刑に処せられて死んだ。やがて王の強請に負けた法王の教書により、当時1万5400の騎士、その他多数の団員および平信徒を擁していた騎士団は、全面的に解散を命ぜられ、騎士団の首領ジャック・ド・モレーは焼き殺された。騎士団の莫大な財産は、フランス国家に没収された。こうしてテンプル騎士団は公式には、1311年のヴィエンヌ公会議において解散させられたのである。

 



 

キリスト騎士団

 


テンプル騎士団は消滅後、数年足らずで姿を変えて復活。ポルトガルを中心に「キリスト騎士団」という結社が生まれ、新法王の命令でテンプル騎士団の財産の一部が、この新騎士団に与えられたのである。


この「キリスト騎士団」はその膨大な財産で巨船を作り、広大な海洋へと乗り出したいった。総長には航海王エンリケが就任。彼はサグレブ岬に研究所を作り、航海術や天文学の研究を進め、多くの航海者を養成し、西アフリカ海岸探検・東インド航路探検に彼らを次々と派遣。喜望峰迂回海路を開く基礎をすえた。百年後のヴァスコ・ダ・ガマも高級幹部だった。


かつてのテンプル騎士団たちは航海者になったのである。

 


サンタマリア号の帆には
ゆかりの赤い十字がついていた

 

クリストファー・コロンブスも、キリスト騎士団の娘と結婚したおかげで、義父から地図と海図を手に入れることができた。だからこそ、1492年10月12日に新大陸へ上陸した時、コロンブスの3隻の帆船、ニーニャ号、ピンタ号、サンタマリア号の帆には、テンプル騎士団の紋章を受け継いだキリスト騎士団の赤い十字が描かれていたのである。


1544年、ポルトガル十字をはためかせた船で鹿児島に上陸したザビエルを後援したのもキリスト騎士団であった。当時のポルトガルはキリスト騎士団の本拠地であり、この国の探検費用は全て、キリスト騎士団の財産でまかなわれていたのである。

 

 

 





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