No.A5F_hg_SS

 作成 1998.1

 

ナチスと秘密結社

 

~「ナチ党」のルーツ~


── 前身組織の実態 ──

ナチス前史を溯って行くと、19世紀末ウィーンに芽生えた
2つの宗教的サークル(秘密結社)に行きつく。ランツが創設した
「新テンプル騎士団」と、リストが創設した「リスト協会」である。
そしてこの2つの黒い流れは「帝国ハンマー同盟」の姉妹地下組織である
「ゲルマン教団」を媒介にして合流し、第一次大戦後のミュンヘンにおいて
ナチスの思想的母体となった秘密結社「トゥーレ協会」を生み出す。
そしてこの「トゥーレ協会」が生み出したドイツの右翼政党が
「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」、
すなわち「ナチ党」であった。



以下、それぞれの組織の実態について
順番に紹介したいと思うが、「ナチ党」のルーツを見ると、
ナチス・ドイツは一種の「カルト帝国」だったと言えるかもしれない。
オウム真理教のような「カルト団体」が、ドイツという1つの国家を
乗っ取ることに成功して、世界戦争を始めたというわけだ。
もっともヒトラーは極めて合理的かつ合法的な手段で
政権を勝ち取ったので、“乗っ取った”という表現は
適切ではないかもしれないが……。



(左)ドイツ国民の選挙で誕生したヒトラー政権
(右)アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)

オーストリアのブラウナウで生まれた彼は、
1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した

 

 


 

── 第1章 ──

 

「新テンプル騎士団」

1889年


●19世紀末のオーストリアに現れた神秘主義者の一人に、アドルフ・ヨーゼフ・ランツという人物がいた。彼は1889年に、彼が傾倒する中世のテンプル騎士団の名称と儀礼を踏襲して、「新テンプル騎士団」を設立し、1907年にはドナウ河を見下ろす地に聖堂(テンプル)を建てた。

団員は、最下位の「奉仕者」から最上位の「修道院長」まで、7つの位階に分かたれ、それぞれ教団独自の名称を授与された。この秘密結社ともいうべき組織は、ランツの書いた『入会者のための秘密の聖書』など10冊の手引きに基づいた手の込んだ儀礼をうやうやしく実行した。

 


アドルフ・ヨーゼフ・ランツ

 

●ランツの主要関心事は、より優れた純血種の「アーリア人種」を生み出す人種闘争であった。彼はアーリア人種優越幻想に憑かれた人物であった。「新テンプル騎士団」のスローガンの1つには、「絶滅させるまで人種闘争を」の言葉があった。

ランツは、積極的にプロパガンダ活動を展開し、超人妄想を含む人種主義色の強い雑誌『オスタラ』を発行した。その中ではユダヤ人や黒人の殲滅が唱えられていた。彼は劣等人種殲滅のための提案を持ち合わせていた。すなわち、劣等人種の去勢、避妊手術、奴隷化、強制労働、国外追放、そして、アーリア人種による世界革命を通しての全面的抹殺である。彼は自分の教説を「アリオゾフィ」と呼んだ。

奇しくも1909年、若きアドルフ・ヒトラーはウィーンに出て、この雑誌『オスタラ』に出会い、その年のうちにバックナンバーを求めてランツを訪ねたといわれている(異説もある)。

 


(左)雑誌『オスタラ』の表紙
(右)「新テンプル騎士団」本部の儀礼用の部屋

 

●ちなみに、この「新テンプル騎士団」のメンバーの中には、オーストリア文壇の奇才ヘルツマノヴィスキー・オルランドがいた。また、一種の外部会員である名誉団員として、スウェーデンの生んだ文学者オーギュスト・ストリンドベリが所属していた。


●ウィーンに起源を発するランツの教説「アリオゾフィ」は、その熱烈な信奉者を、オーストリアだけにとどまらず、ドイツにも次第に獲得していった。第一次世界大戦の始まる数ヶ月前の1914年2月には、ドイツ帝国のホーレンベルクに第2の聖堂(テンプル)が設置された。

 

 


── 第2章 ──

 

「リスト協会」

1908年


●「新テンプル騎士団」を創設したランツと似たような人物がもう一人、同じ19世紀末のオーストリアにいた。グイド・フォン・リストというロマン主義作家である。彼は古代ローマの歴史家タキトゥスの著した『ゲルマニア』に描かれる「固有な、純粋な血をもった」古代ゲルマン民族の姿に魅了されていた。

彼は1908年に「リスト協会」を設立し、この中に「アルマネン秘法伝授団」なる結社を設けて大いに人気を博した。これはランツの「新テンプル騎士団」と同じく位階制度を備えた一種の宗教的結社であった。アルマネンとは伝説上の古代ゲルマン系の超人種のことであった。

 


グイド・フォン・リスト

 

●歴史と生物学に造詣の深かったリストは、こうした伝説を信ずる神秘主義者で、多くの研究書を書き著わしたが、それらの多くは代表作とされる『アーリア族ドイツ人の法則』にみられるように、過激な反ユダヤ主義の色彩を帯びたものだった。

なお、彼の著した『ルーン文字の秘密』は、1920年代にドイツで隆盛を見ることになるルーン・オカルティズムの始祖でもあり、この系譜はナチス親衛隊(SS)の象徴として用いるほどルーン文字に魅かれたハインリヒ・ヒムラーにつながっていく。


●リストは第一次世界大戦の勃発をゲルマン民族のユートピアが地上に出現する前に不可欠な聖戦と捉えていたが、大戦中から、彼の著作活動は停滞し、一方、予言者、幻視者としての相貌が鮮明になってくる。彼は既に19世紀末の時点から、一種の超人的指導者(フューラー)が地上に現れて世界を救済してくれるという妄想に取り憑かれていた。この妄想は、大戦中にさらに変容を遂げて、前線で死んだ兵士たちの霊がやがて転生して、いわば集合的な救世主として地上に還ってくるという予言となる。

秘教的手法に基づく計算によって、リストは、それが起こる年をいくつか予想し、なかでも1932年を強く推した。奇しくも、彼の夢想したゲルマン民族の全体主義的ユートピアが、ヒトラーをフューラーに戴く国家社会主義体制の形で実現したのは、わずか1年違いの1933年のことであった。しかしながら、リストは自分の夢想が実現するのを見ることなくこの世を去った。リストは1919年5月に旅先のベルリンで70歳の生涯を終えたのである。


●ところで、ランツの創った「新テンプル騎士団」と、リストの創った「リスト協会」は、お互いに協力関係にあった。ランツ自身、「リスト協会」の一員になっていたし、一方、リストも「新テンプル騎士団」の名誉団員として迎え入れられていたのである。そういうこともあって、ランツの信奉者とリストの信奉者は重なり合っていた。なお、ランツとリストが初めて出会ったのは随分と早い時期で、前者がまだ18歳の1892年頃だったらしい。

 

 


── 第3章 ──

 

「帝国ハンマー同盟」と
「ゲルマン教団」

 
1912年


●1902年、過激な反ユダヤ主義者のテオドール・フリッチが、雑誌『ハンマー』を創刊した。この雑誌の読者たちは、1905年にドイツ各地で反ユダヤ主義結社「ハンマー会」を組織した。そして1912年には、フリッチの指導の下、全国の「ハンマー会」を統合する組織「帝国ハンマー同盟」が結成される。

「帝国ハンマー同盟」の実質的な責任者はカール・アウグスト・ヘルヴィッツという退役軍人で、この人物は1908年以来の「リスト協会」のメンバーであった。彼は「帝国ハンマー同盟」にリストの思想を導入した。


●「帝国ハンマー同盟」は公開組織だったが、会員の中には、ユダヤの陰謀に対抗するためには、フリーメイソンのような秘密結社が必要だと考える者がいた。マグデブルクの「ハンマー会」会員であったヘルマン・ポールが、この着想を実行に移し、フリッチの許可を得て、「帝国ハンマー同盟」の姉妹組織というべき秘密結社「ゲルマン教団」(ゲルマン騎士団ともいう)を創設した(1912年)。

「ゲルマン教団」のロッジはドレスデン、ベルリン、ハンブルクなどに設立され、会員はわずか1年で300人を越えた。


●「ゲルマン教団」においては、ランツやリストの思想の影響は著しいものがあった。多くの「リスト協会」のメンバーが「ゲルマン教団」に加わった。入会希望者はランツが発行していた雑誌『オスタラ』を読むように薦められた。「ゲルマン教団」に加わろうとするものは、「新テンプル騎士団」と同じく、純粋なアーリア人種でなくてはならず、入会希望者は頭髪、眼、皮膚の色を書類に記載するよう求められたばかりでなく、両親、祖父母、配偶者についても詳細に報告せねばならなかった。

「ゲルマン教団」の結成には、多分に切実な政治的意味合いを含んでいた。というのも、同年に実施された選挙で、ランツやリストの主張と真っ向から対立する勢力である社会民主党が地歩を固めたのである。危機感を募らせたランツとリストは、社会民主党と戦う人材を徴募・育成するために、「ゲルマン教団」をサポートしたのだった。


「ゲルマン教団」は「帝国ハンマー同盟」の地下組織として順調に発展していった。が、第一次世界大戦の勃発により、危機に陥る。団員の多くが前線に向かうことで、「ゲルマン教団」の活動は停滞し、財政的にも問題を生じた。さらにヘルマン・ポールの指導力に対して内部で評価が分裂すると、教団はますます混乱状態になった。ポールは指導者の地位を解任されると、自分の支持者だけを集めて分派を結成し、ここに「ゲルマン教団」は二派に分裂する事になった。

 

 


── 第4章 ──

 

「トゥーレ協会」と
「ナチ党」

 
1920年前後


●「ゲルマン教団」分裂後、ヘルマン・ポール率いる分派のバヴァリア支部は、ゼボッテンドルフ男爵と名乗る神秘主義者で占星学者のルドルフ・グラウアーの指導の下、急速に成長していった。1918年初頭にはバヴァリアの会員数は200人、同年秋には、首都とミュンヘンだけで250人、バヴァリア全域では1500人という驚くべき膨張ぶりであった。

なお、この新生「ゲルマン教団」は、左翼陣営からの注目を避ける意味もあって、対外的には「トゥーレ協会」の看板を掲げていた。“トゥーレ”とは、ギリシア・ローマ時代に知られた伝説上の極北の島ウルティマ・トゥーレを意味する。

 


ルドルフ・グラウアー
(ゼボッテンドルフ男爵)

 

「トゥーレ協会」は、活動資金をミュンヘンの上流階級から得て、南ドイツ最強のオカルト結社に発展し、敗戦後の混乱の中で現実的にも強い力をもっていた。会員には、判事や警察の上層部、弁護士、貴族、大実業家、大学教授などの有力者が名を連ねていた。例えば、ミュンヘンの警視総監ポーナーや、その補佐でのちにヒトラーの内務大臣となったウィルヘルム・フリックも会員だったのだ。

「トゥーレ協会」の会議は高級ホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」で行われたが、このホテルの所有者も会員であり、ホテルはヒトラー時代になっても党の大物の宿泊所として存続した。


●本来この結社は、ドイツ古代アルファベットの神秘的・象徴的な解読と理解を目的とする神秘学研究集団で、政治的な結社というより、夢想的なオカルト結社であった。しかし、次第に政治色が濃くなり、現実の政治の場において力を発揮し始めた。「トゥーレ協会」は、その秘密活動として、テロ活動、政治的暗殺、人種差別活動などを行ったが、警察権力と結びついていたために、その秘密が暴かれることはなかった。

 


ナチスの思想的母体となった
「トゥーレ協会」の紋章

 

●会員の中には、ドイツの労働者階級に強いイデオロギーが必要だと考える者がいた。「トゥーレ協会」の政治思想を広めるための「労働者サークル」の設立が提案された。これを受け、トゥーレ協会員のカール・ハラーとアントン・ドレクスラーによって、1919年、「自由労働委員会」というグループと合併して生み出されたのが「ドイツ労働者党(DAP)」(後に改名してナチ党となる)と呼ばれる右翼政党であった。

また同時期に「トゥーレ協会」から生まれた右翼政党としては、「ドイツ社会主義党(DSP)」がある。これは「トゥーレ協会」の指導の下、「トゥーレ協会」のメンバー、ハンス・ゲオルク・グラシンガーを代表に1919年5月に「ドイツ社会主義協働団」として発足した。後に「ドイツ社会主義党」と名称を改めたこの政党は、1922年には解散するが、その党員の多くはナチ党へと流れていくことになる。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●この時期のアドルフ・ヒトラーは、第一次世界大戦の後も陸軍にとどまって政治部情報局の仕事に従事していたが、この設立されたばかりの「ドイツ労働者党」の調査を命じられ、これがきっかけとなって、彼は「ドイツ労働者党」に入会した。「ドイツ労働者党」の自称7番目(実際は55番目)の党委員に登録されたヒトラーは、そこで「トゥーレ協会」を中心とする黒い人脈・水脈の洗礼を受けることとなったわけである。

 


ディートリヒ・エッカルト

 

●なかでも「トゥーレ協会」内において一目置かれた存在だったディートリヒ・エッカルトは、ヒトラーに大きな影響を与えた。エッカルトは、ミュンヘンの社交界で詩人として知られていたが、彼はまた神秘主義に精通したオカルティストだった。そして「ドイツ労働者党」および「トゥーレ協会」のイデオロギーをリードしていた。彼はヒトラーの〈親しい友人〉として、1923年に死ぬまで、常に彼の身近にいるようになる。


●彼は、ヒトラーに文書の書き方や演説法を教え、社交上のマナーを実地教育した。会話の文法上の誤りを訂正し、上流のレストランやカフェへ連れて行き、有力な市民にこう紹介したのだ。「この男はやがてドイツを解放する人物です」と。

『我が闘争』にヒトラーは次のように記している。
「私は、その著作、思想、そして最終的には行動によって、生涯を私たちの同胞のために捧げたあの人物を、最も優れた人々のひとりとして挙げたい。それはディートリヒ・エッカルトである。」

 


「ドイツ労働者党」の集会で、立ち上がり熱弁をふるう
ヒトラーの勇姿を描いた絵画。これを機に天性の
煽動家としての才能を発揮していく。

 

●1920年、ヒトラーは「ドイツ労働者党」のプロパガンダ担当主任となった。そして「トゥーレ協会」は、『ルーネン』紙や『アルデンシュナハト』紙といった機関紙のほかに、地元紙『ミュンヘン・ベオバハター』紙を買い取って、大規模なプロパガンダを展開した。この『ミュンヘン・ベオバハター』紙は後に改名して、ナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』となる。

そして1920年2月末に200名弱の党員を獲得していた「ドイツ労働者党」は、その夏、25ヶ条の党綱領を発表して、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改称。その正式略称はNSDAP、すなわち通称「ナチ党」である。

※ 念のために書いておくが、「ナチス(NAZIS)」という呼称は、当時の政敵、後には連合軍が使った蔑称であり、党内では使われていない呼称であった。しかし、現在はナチスという呼称が一般に定着している。

 

「ナチ党」の正式名称は、
「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」

 

●ナチ党は、ヒトラーの天才的な演説の力と、「トゥーレ協会」の指示で彼らを社会主義的な反対者から守った官憲の協力で、どんどん勢力を伸ばしていった。そして、途中の曲折はあったものの、ヒトラー入党14年後には合法的に政権を獲得してしまう。その間、「トゥーレ協会」に関係していた南ドイツの旧支配層は、一貫して自分達がヒトラーを利用していると思い続け、陰に陽に支援を惜しまなかったのである。

 


ヒトラーを中心に集まった
誕生間もない頃の「ナチ党」のメンバー

 

●かのディートリヒ・エッカルトは、1923年12月、死の床で周囲の者たちにこう告げている。

「ヒトラーに従いたまえ。やつは踊るよ。だがその曲を書いたのは、このわしだ。わしは〈彼らとの交感〉の意味をやつに教えてやったのだ。泣いてはならない。わしはいかなるドイツ人よりも歴史の進行に大きな影響を与えたことになるのだから……」

 

 


 



── 第5章 ──

ヒトラーが実施した「オカルト・パージ」


●「ナチ党」を広範な範囲に影響を及ぼす大衆的政治団体に育成することを目指していたヒトラーにとって、党の背後に「トゥーレ協会」の影が潜むことが権力拡大の妨げになると感じていた。半秘密結社的団体の影響力がこのまま長く続いていくのを快く思っていなかった。ヒトラーはナチ党のバックに「トゥーレ協会」が存在していることを一般大衆に公にされるのを嫌っていた。

それは以下の事件からも伺える。


●1919年まで「トゥーレ協会」を指導していたゼボッテンドルフ男爵(ルドルフ・グラウアー)は、1933年に『ヒトラー登場以前 ─ 国家社会主義運動の初期』という回想記を出版した。彼は「トゥーレ協会」がナチス・ドイツの誕生に大きな力を貸したことを強調したのである。

彼の記述は基本的には事実からそれほど逸脱していなかった。

しかし、逆にそれゆえか、ゼボッテンドルフ男爵の言動は、同年には国家社会主義体制、一党独裁制度の確立に成功していたナチスの逆鱗に触れ、翌1934年3月に、バヴァリア政治警察は「ゼボッテンドルフ男爵の回想記は全体として事実に反しており、ドイツ国家の新生を『トゥーレ協会』に帰しているものである」という書面を送りつけて、この書物を発禁処分に付し、ゼボッテンドルフ男爵を拘留するという挙に出たのである。

この事件は次に述べる「オカルト・パージ(弾圧)」へと発展していく。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●1934年8月2日、ヒトラーはドイツ国総統に就任した。一国の権力を握って、彼が最初にしたことは、オカルティストの一掃であった。

まずベルリンの警察が、あらゆる占いを禁止、ドイツ全土の書店にオカルト関係の書物の販売を禁じ、徹底的に没収した。ヒトラーと関係の深い「トゥーレ協会」は解散を命じられた。フリーメイソンも摘発を受けた。


●ヒトラーと同じ年に生まれ、彼のおかかえ占い師として演説を指南したといわれているエリック・ヤン・ハヌッセンは、ベルリンで「神秘(オカルト)の館」を営業し、いつも超満員で人気を博していた。

しかし、ナチスの秘密計画を的確に“予言”する彼の力は、生かしておくには危険すぎるとして、前年4月に暗殺され、彼の「神秘(オカルト)の館」は強制的に閉鎖された。

 


(左)“千里眼を持つ魔術師”エリック・ヤン・ハヌッセン。ヒトラーと同じ年に生まれた。
(右)彼がベルリンで営業していた「神秘(オカルト)の館」の内部の様子。
観客の大半は映画スターなどの有名人やナチ党員だった。

※ 追記:ハヌッセンはチェコ系ユダヤ人だったとの説がある。
また、彼はナチスが政権を握った暁には「オカルト省」
なるものを設立し、その大臣になろうとしていた
とも言われているが真偽のほどは不明。



映画『神に選ばれし無敵の男』

 1932年、ナチス台頭のドイツ・ベルリンを舞台に、
 時代に翻弄された「千里眼の男」ハヌッセンと、
ユダヤ人青年ジシェの運命を描いた作品

 

●1935年には、イギリスの“魔術師”アレイスター・クロウリーの弟子ヨハネス・ゲルマーが、ゲシュタポ(ナチス秘密警察)の手によって強制収容所に送られた。

翌1936年には、ルーン・オカルティストのひとりフリードリッヒ・マルビィが、反ナチ的であるとしてヴェルツハイムの強制収容所に送られた。

 


20世紀最大と称されるイギリスの
“魔術師”アレイスター・クロウリー
(1875~1947年)

ケンブリッジ大学在学中に「黄金の夜明け団」に
入団。その後世界一周の船旅に出て、神秘主義結社を
開設し、数多くのオカルティズム文献を著述した。



怪しげな衣装をまとったアレイスター・クロウリー

 

●1937年以降、さらにそれは徹底され、ナチスに好意的なオカルト組織も禁止された。

神智学協会ドイツ支部の閉鎖、今世紀ドイツの代表的魔術教団「東方聖堂騎士団(O∴T∴O)」の解散。さらに宣伝省職員だった占星術師カール・エルンスト・クラフトはじめ多くの占星術師が逮捕され、その後、ポーランドの不世出の超能力者としてもてはやされたステファン・オソビツキーもゲシュタポに逮捕され、銃殺されている。

 


ナチスに協力していた占星術師
カール・エルンスト・クラフト

※ 彼は「ブッヘンヴァルト収容所」へ
送られる途中死亡した。44歳だった。

 

●1941年にいたって、オカルティズムはナチス帝国の公共の場において事実上息の根を止められた

神智学、人智学、スピリチュアリズムといった各種オカルト運動、擬似宗教団体は一切活動を禁止され、オカルティズムに関するあらゆる文章の発表、出版は全面的に許されなかったのである。



●体制としてのナチスは以上のようにオカルティズムを否定した。

しかしながら、ナチスの指導者たちの一部にオカルティズムへの個人的な傾斜が発見できることも、同時に紛れもない事実であった。そういった一部の指導者とは、アルフレート・ローゼンベルクハインリヒ・ヒムラーなどを指す。

 


(左)アルフレート・ローゼンベルク
(右)ナチス親衛隊(SS)の長官ヒムラー

※ ヒムラーの若い頃からのオカルト大好きな性格は、
異常なまでに熱を帯びていたことで知られる。彼は敬虔な
カトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長
したが、ナチ党に入党してからは徐々にキリスト教とは距離を
置くようになり、「古代ゲルマン異教思想」に染まっていった。

彼はSSの隊員たちをキリスト教から引き離そうと試みたが、
結局彼らをキリスト教から引き離すことはできなかった。
(ヒムラーの空想的な「異教思想」は他のナチ党幹部
にもウケが悪かったといわれている)。

 

●ヒトラーがこのオカルト・パージを実行した理由として、ヒトラー研究家のジェラルド・サスターは以下の4つの理由を挙げている。

「第1に、秘密結社を容認するような全体主義体制はありえず、第2にヨーロッパの国家指導者として、ヒトラーはナチズムが尊敬に値するものであることを示したかったのである。それゆえ国の内外における自分の威信を傷付けるような噂、つまりヒトラーが魔術に夢中になっているという噂を放っておくわけにはいかなかったのだ。

第3に、他の魔術師が勝手に活動するのを許しておくことの危険性をヒトラーは魔術師の立場から、よく承知していたのである。第4に、彼は魔術は絶対ナチス・エリートだけのもの、ヒトラーとヒトラーの欲望の実現のために全てを捧げている結社、すなわちSS(ナチス親衛隊)だけが行うことができるものだと考えていたのだ」



●このヒトラー研究家が指摘するように、ヒトラーの「オカルト・パージ」は、魔術行為の撲滅というよりは、(その魔術行為というものに実際に効果があったのかどうかは別にして)魔術行為の特権をナチス・エリートだけで独占確保するためのものであったのだろう。権力拡大のため、かつての同士エルンスト・レームとその突撃隊(SA)を粛清した発想が、そのままオカルト諸団体に向かったと考えれば不思議ではない。

 


メイソン結社の儀式の中に「死と再生の儀式」がある。
入会する者は一度死を疑似体験し、生まれ変わった者として現れるという。

※ 上の画像は実際にメイソン結社で使われていた儀式用の骸骨と磨かれた石である。

 

●ヒトラーはかつて(政権獲得以前)ヘルマン・ラウシュニングにむかって、彼が摘発することになるフリーメイソンについて、こう語っている。

「しゃれこうべや儀式は子供だましの恐怖だが、その象徴の秘法伝授(イニシエーション)は頭脳ではなく、想像力を一串に突き刺すものであり、その危険な要素をナチスは継承したのだ」と。

 

─ 完 ─

 


 

── おまけ情報 ──


秘密結社「トゥーレ協会」から「ナチ党」
 誕生したように、今度はそこから「SS」が生まれた。



(左)ルーン文字で表記したSSのマーク (右)SS長官ヒムラー


SSの大尉でアイヒマンの同僚であったディーター・ヴィスリツェニーは、
戦後、法廷における証言で、SS長官だったハインリヒ・ヒムラーが冷酷で
冷笑的な政治家などではなく「狂信的な神秘家」であったと語り、ヒムラーが
「占星術師たちの忠告を受け容れ、あらゆるオカルト学に傾斜していくうちに、
SSは次第に新たな種類の『宗教結社』へと変貌した」
と述べている。

※ 詳しくは当館作成のこちらのファイルをご覧下さい↓ 

ナチスの黒い騎士団「SS」とSS長官ヒムラーの野望 

 

 





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