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No.a6fhb801

作成 1998.1

 

公式に否定された絶滅収容所
「ダッハウ収容所」

 

 

●今ではホロコーストの「絶滅収容所」といえば、ポーランドにある「アウシュヴィッツ収容所」が有名である。「アウシュヴィッツ収容所」はホロコーストの代名詞にまでなっている。しかし1960年代までは、「絶滅収容所」と言えばミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」のほうが有名だった。「ダッハウ収容所」がホロコーストの代名詞だったのだ。

※ 「ダッハウ収容所」はナチスが一番最初に作った収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」とされた人々を収容するために建設された。

 


ホロコーストの代名詞だった「ダッハウ収容所」

 

●「大量ガス殺」の現場証拠として、「ニュルンベルク裁判」で、唯一、法廷に提出されたのは、記録フィルムの上映による「ダッハウ収容所」のシャワールームの水栓の映像のみであった。裁判では、このシャワー栓の映像が法廷で映写されただけで、「ダッハウ収容所」は「絶滅収容所」だと断定され、「絶滅収容所」はドイツ各地に存在したとされたのである。そして、反対尋問も許さず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。

世界の人々は、長い間、この裁判結果に基づいて、大戦中に大量のユダヤ人が「ダッハウ収容所」のガス室で虐殺されたと信じてきた。

 

 
連合軍による「ニュルンベルク裁判」の様子(1945年11月)

この国際軍事裁判はナチスの党大会の開催地だったニュルンベルクで開かれた。
史上初の「戦争犯罪」に対する裁判で、12名のナチス高官に死刑判決が下された。

 

●しかし今では、イスラエル寄りの学者でも、「ダッハウ収容所」が「絶滅収容所」だと言う者はいないし、ドイツ国内に「絶滅収容所」があったと言う者もいない。なぜならば、ドイツ国内に「絶滅収容所」は無かったことが公式に発表されたからである。「ニュルンベルク裁判」から15年後の1960年のことである。

当時、西ドイツ政府の第二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位に会った歴史学者、マーティン・ブロサット博士が、突如として、ナチスが大戦中「ガス室」を作ったのはドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという趣旨の声明を発表した。

「ダッハウでも、ベンゲル=ベルンゼンでも、ブッフェンヴァルトでも、ユダヤ人その他の収容者がガスで殺されてはいない。……ガスによるユダヤ人の大量絶滅が始まったのは1941年から1942年であり、……(旧ドイツ帝国の領土内ではなくて)占領下のポーランドの、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウツェックにおいてである」(1960年8月19日付『ディー・ツァイト』紙)



●このようにブロサット博士は「ニュルンベルク裁判」の判決に全く反する声明を発したのである。ブロサット博士はその後、1972年に「ミュンヘン現代史研究所」の所長に就任したが、この研究所は、それまで「大量ガス殺」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行っており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体とみなされていた。しかしブロサット博士の影響で、従来の見解を捨て去ったのである。

今では、あの“ナチ・ハンター”として有名なユダヤ人活動家、サイモン・ヴィーゼンタールまでが、「ダッハウ収容所」を否定し、ドイツ国内には「絶滅収容所」はなかったと言わざるを得ないのである。

 


“ナチ・ハンター”の異名を持つ
サイモン・ヴィーゼンタール

 

●もっとも、ドイツ国内に「大量ガス殺」収容所、すなわち「絶滅収容所」が存在したことは完全否定されたが、「ガス室」そのものは存在したとされる。場所は収容所ではなく「精神医療施設」。そこでは何万という精神障害者が「ガス室」で密殺されたのである。

また、最近では、収容所内でも「実験的ガス殺」が存在していた、という研究報告も出されている。しかし、この「実験的ガス殺」は「絶滅収容所」のものと比べると非常に小規模なもので、そこでの死者は恐らく数千人程度で、1万人以下であることはほぼ確実だという。



●ホロコーストの代名詞として、「絶滅収容所」として名をはせた「ダッハウ収容所」は、現在は記念館になっていて、そのパンフレットには「このガス室はシャワー室に偽装したものですが、一度も使われたことがありませんでした」と書いてある。

こうして、「ニュルンベルク裁判」で決定された「ドイツ国内にも絶滅収容所があった」という通説は、完全否定され、「ニュルンベルク裁判」で採用された唯一の映像は、決定的な物的証拠ではなかったことが判明したわけである。

それまでは、ダッハウ以外のドイツ国内の収容所(ベルゲン・ベルゼンなど)でも、それぞれ「ガス室」における処刑を告発し、または自供する山ほどの「証言」があった。しかし、これらも吹き飛んでしまったのである。


●この一連の騒動のあと、「ダッハウ収容所」に代わって「絶滅収容所」として注目されたのが「アウシュヴィッツ収容所」である。

「アウシュヴィッツ収容所」は、戦後10年間、ソ連が立ち入りを全面的に禁止していたため、十分な調査(実地検証)がなされていなかった。そのため「アウシュヴィッツ収容所」の実態に関しては不明な部分が多く、現在も「アウシュヴィッツ収容所」を巡る論争は尽きない状態である。

 


ヒトラー政権崩壊直後の「ダッハウ収容所」
(連合軍を称える横断幕が掲げられている)

 

●ちなみに、「ダッハウ収容所」を解放したのは、アメリカの日系人部隊である。

 

 


 

■■追加情報: ダッハウの「ハーブ園」と「医学人体実験」


●ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、1930年代末、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令を受けたSSの植物学者たちは、ダッハウに広大な「ハーブ園」を建設した。こうして実験用およびSS隊員、軍への配給用として香辛料や植物の栽培が始まり、「ダッハウ収容所」は世界最大の「薬用植物研究所」をもつにいたったのである。

多くの囚人たちが、ダッハウ湿原を耕した200エーカーの土地で様々な種類の薬草・香草類の栽培・乾燥・出荷にあたっていた。有機栽培で育てた花からハチミツも作られていた。

 


ダッハウのハーブ園で薬草を摘み取る
ヒムラーとSS隊員たち

 

●アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘース(副総統のルドルフ・ヘスとは別人)によれば、戦争中、軍が使用した調味料のほとんどすべてがこの「プランテーション」で栽培されていたという。これは事業としても収益性が高く、SSは年間何十万ライヒスマルクを得ていた。

そして1945年以後も、ダッハウの菜園は共同農場として運営が続けられ、何百人もの元囚人が労働を続けていたほど収益性の高いものだった。このダッハウの菜園以外にも、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や収容所の多くで薬草の栽培が行われた。


●このように、「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所となっていたのである。


●もちろん、「ダッハウ収容所」は囚人たちにとって「楽園」ではなかった。“死神”がうろつくような劣悪な生活環境であった。栄養失調、石切り場での重労働では数ヶ月しか命がもたなかった。

また、ナチスの医者によって残酷な「医学人体実験」も行われていた。(主な人体実験に「低圧実験」「低温実験」「マラリア実験」「海水飲用実験」などがある。人体実験の被害にあったのはユダヤ人だけではなく、ソ連軍捕虜やジプシー(ロマ)も多く含まれていた)。

 

  
ダッハウ収容所でソ連軍捕虜に対して行われた人体実験の1つ

極めて高い高度での人間の持続と限界を調査するために、
囚人は低圧室に閉じ込められ、高度20000mに匹敵する低気圧にさらされた。
(やがて囚人は意識を失って死んだ)。 こうした人体実験のデータは、
戦後の医学の発展のために利用された。



ダッハウ収容所で行われた低温実験の様子。
この実験で多くの囚人が死んだ。

 

●微笑ましい風景に見える「ハーブ園」と、残酷でおぞましい「医学人体実験」──。

この本来結びつきそうもない両者が、奇妙に共存していたのが「ダッハウ収容所」であった。

ダッハウで「薬草」の栽培にいそしんでいたSS隊員たちにとって、囚人たちは価値のない「雑草」にしか見えなかったのかもしれない……。



●ところで、当時のドイツにとって、囚人たちは貴重な「労働力」であったことも見逃すことはできない事実である。ダッハウではガスによる大虐殺はなかったが、過酷な労働作業が存在していた。(これを象徴するように、ダッハウのゲートには「労働が自由への道」という標語が掲げられていた。これと同じ標語が「アウシュヴィッツ収容所」のゲートにも掲げられていた)。


●ダッハウの「労働力」を使役して進められた大プロジェクトのひとつが、「モル」と呼ばれた巨大地下施設の建造である。防空構造を持たせたこの工場が生産する予定だったのは、「リンゲルタウベ(杜バト)」という暗号名で呼ばれた、ヒトラーの秘密兵器製造計画のひとつである。ドイツ空軍が連合軍機によって空から駆逐されつつあったため、ドイツ側は、猛烈な勢いで世界最初の実用ジェット戦闘機「Me262」の建造に取り組んでいたのだ。

※ この「Me262」は、何機かが1945年初期に離陸を果たすが、そのときにはすでに、連合軍の制空権は圧倒的なものとなってしまっていた。

 


世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」

時速800キロ以上のスピードとその上昇能力によって、
当時のどんな飛行機より遥かに優れていた

 

 

 


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