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No.a6fhc617
作成 2002.1
ユダヤ人はどのようにドイツ社会からシャットアウトされ、生存権を剥奪されていったのだろうか。
1933年1月30日のヒトラー政権誕生から、1945年5月7日に連合軍に降伏するまでの12年間、ドイツで実施された反ユダヤ人規定や律法を年代順に紹介したいと思う。
↑ナチス時代に作られた反ユダヤ主義のポスターナチスは党の綱領で「宗教の如何を問わず、ドイツ民族の
血統を有する者だけが国民になれる。ユダヤ人は
国民ではない」と明記していた。
■■1933年
■1月30日
ヒトラー政権誕生
この時既に、路上でのユダヤ人襲撃や不当な逮捕、
口頭や書面による多数の反ユダヤ的宣伝が行われつつあった。
1933年にドイツ国民の選挙で誕生したヒトラー政権
※ 第一次世界大戦の敗北による領土の喪失、天文学的な賠償金、
世界恐慌による失業者の著しい増大、共産主義者や無政府主義者の
騒乱による社会不安──。こうした状況下でドイツ国民は力強い
メッセージを表明するヒトラーを支持していくことになる。
※ ヒトラー率いる「ナチ党」は、1932年の選挙で
第一党となった。その際、議席は過半数には
満たなかったものの、保守派と連立して
1933年にヒトラーが首相に
なることに成功した。
■3月23日
共産党議員の登院禁止、一部社民党員を
不当逮捕する中、国会で「全権委任法」が成立。
ヒトラー、独裁権を得る。
7月までに、ナチ党以外の全政党が解散。
また、この頃のドイツ国内に強制収容所が作られ、3、4月だけでも2万5千人を収容。
アドルフ・ヒトラー
■4月1日
ナチス宣伝大臣ゲッベルスの指令により、全国的なユダヤ系の商店、商品、開業医、弁護士などのボイコットが一斉に行われた。こうした処置により、当時ユダヤ人の経営するデパートや商店などの売上げは、28%以上減少したという報告が伝えられている。
ナチス宣伝大臣
ヨーゼフ・ゲッベルス
■4月7日
「職業公務員再建法」が施行され、正式にドイツ国内の非アーリア系官吏や公務員、またナチス政権にとって好ましくない官吏は強制退職させられ、一掃された。
またこの時期、アカデミックな分野でのユダヤ人(科学者)の追放が始まり、全科学者の4人に1人が、物理学者では3人に1人が大学、研究所から追放されていった。
■4月22日
ユダヤ教の儀式上欠かすことのできない動物の屠殺を全国的に禁止。
ユダヤ人開業医は国民健康保険から締め出され、ユダヤ人医師のところで診断を受けた者に対しては保険が適用されなくなった。これはユダヤ人開業医にとって事実上の廃業を意味した。
■4月25日
ユダヤ人の学生に対する就学制限が導入され、それ以後は全ドイツの人口に比例したユダヤ人数(約1%)に制限されてしまった。
■5月10日
ユダヤ系または共産主義的文学作品や書物の焼却破棄(焚書)が全国的な規模で組織され、実施された。指揮をとったのはゲッベルスであったが、ナチスを信奉する学生たちが、観衆として動員された。この「焚書」によってベルリンで2万冊が燃やされた。
ベルリン・オペラ広場での焚書(1933年5月10日)
※ 非ドイツ的、マルクス主義的、自由主義的な書物が
図書館から持ち出され、学生たちによって焼かれた
■7月14日
ワイマール共和国成立以後にドイツ国籍を得たユダヤ人の市民権、国籍は無効とされた。これは主に外来者、東方ユダヤ人に向けられた処置であった。これにより、東方ユダヤ人の多くは早期にドイツを去っていった。
■9月22日
「国家文化省設置法」が成立。
■10月4日
「著作家法」が成立。9月の「国家文化省設置法」とともに、ユダヤ人はドイツでの文化活動から締め出された。
■■1934年
■1月14日
ユダヤ人医学生に対する国家試験の禁止(ユダヤ人は医者になれなくなる)。
■6月7日
ユダヤ系出版社のナチ系出版社への強制買収。
■12月8日
ユダヤ人薬学生に対する国家試験禁止。
■■1935年
■~5月8日
全ドイツで反ユダヤ的宣伝の看板が公に掲げられはじめる。将校になることの禁止。
■7月25日
ユダヤ人の軍役資格の剥奪。
■9月15日
「ニュルンベルク法」の成立、ドイツ人との結婚・性交渉の禁止。「ユダヤ人」概念の規定。
「ニュルンベルク法」によって、祖父母4人のうち、ユダヤ人2人が含まれている人間は〈半ユダヤ人〉、祖父母4人のうち、ユダヤ人1人が含まれている人間は〈4分の1ユダヤ人〉、そして祖父母4人にユダヤ人が3人含まれていれば〈純血ユダヤ人〉とされた。
なお、ジプシー(ロマ)の場合には、曾祖父母8人に
1人でも含まれていれば〈混血ジプシー〉とされた。
■11月14日
選挙権の剥奪。
■11月21日
ユダヤ人公証人、医者、大学教授、教員などの職業禁止。
■■1936年
ベルリン・オリンピックのため、一時的に反ユダヤ政策は緩和される。
ベルリンで開かれた「第11回オリンピック大会」(1936年)
※ オリンピックの「聖火リレー」を最初に取り入れたのはヒトラーである。
右端の画像は、そのオリンピック史上初の「聖火リレー」を撮影したもの。
スタジアムを訪れたヒトラーとナチス式敬礼をする観客たち
※ この「ヒトラーの大会」とさえいわれたベルリン・オリンピックは
「国威発揚」のプロパガンダ(宣伝工作)として空前の成功を収めた。
■■1937年
■4月15日
数々の職業禁止。
■■1938年
■3月12日
ドイツ軍がオーストリアに侵入。翌日、同国を併合。
進撃したヒトラーを迎えるオーストリア国民(1938年)
※ 横断幕には「我々は我らが総統を歓迎する」と書かれてある。
オーストリア国民は必ずしもナチスを支持していたわけではなかった
が、第一次世界大戦の戦勝国によって阻まれた「独墺合併」の悲願を
実現してくれるものとして、ドイツ軍を歓呼の声をもって迎えた
のであった。そして国民投票が行われ、99.7%の国民が
ドイツ・オーストリアの合併に賛成したのである。
■3月28日
ユダヤ教の宗教団体は公法団体としての地位を取り消される。
■4月26日
財産の登録義務、ユダヤ人財産の没収下準備。
■6月15日
「反社会分子」に対する6月行動、約1500人のユダヤ人が強制収容所に。
■7月23日
ユダヤ人に特別の身分証明書交付。
■7月25日
ユダヤ人医師、ユダヤ人の患者のみ診察可。
■7月27日
ドイツ各地のユダヤ人名を持つ道路の取り消し、改称(これはすでにナチ政権初期にも見られた)。
■8月17日
ユダヤ人に「サラ」か「イスラエル」の名を付けるよう強制。
■9月27日
ユダヤ人弁護士の営業禁止。
■10月5日
ユダヤ人の旅券没収、以後大きく赤字で「J」とのみ表記。
「J」スタンプが押されたユダヤ人のパスポート
■10月26日
在独ポーランド系ユダヤ人約1万7000人、国外へ強制退去。
■11月7日
フランスのパリでドイツ人外交官フォム・ラート、ポーランド系ユダヤ人青年に射殺される。
■11月9日
フォム・ラート暗殺事件によりドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が発生。
この暴動はナチス親衛隊によって巧みに組織され、扇動されたもので、当時まだ存在していたドイツ全土の400のユダヤ教会(シナゴーグ)のほとんど全てが焼かれ、7500の商店が壊された。その際に砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから「水晶の夜」と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人の血や遺体、壊された建造物の瓦礫などで、現場は悲惨なものだったという。
この事件で96人のユダヤ人が殺され、2万6000人のユダヤ人が逮捕され、強制収容所に連行された。
1938年11月9日の「水晶の夜」事件で破壊されたユダヤ人商店街
※ 砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いた
ことから「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」と呼ばれている。
右の画像は翌朝、砕け散った窓ガラスを掃き集める青年。
■11月12日
ドイツ人外交官フォム・ラート暗殺の賠償金として10億マルクがドイツのユダヤ人に課せられ、迫害で生じた損害はユダヤ人自身の費用で早急に復興することが義務づけられる。
同日、職工、サラリーマン、アカデミカーとしての職業禁止(ユダヤ人はまともな職につけなくなる)。ユダヤ系企業の「アーリア化」。
■11月25日
ユダヤ人子女の公立学校への通学禁止。
■11月3日
自動車免許証の剥奪。
■■1939年
■1月24日
ヘルマン・ゲーリングが「ユダヤ人出国中央本部」の設置を指示し、本部長にラインハルト・ハイドリヒSS大将が就任。
ナチスのナンバー2だった
ヘルマン・ゲーリング国家元帥
1933年、ヒトラー政権誕生にともない
無任所相に就任し、プロイセン州内相も兼ねた。
この「内相職」を得たことによって全国のほとんどの
警察権を手中に収め、SSや在郷軍人組織「鉄兜団」の
メンバーを補助警察として採用、警察のナチ化に努めた。
同年4月10日にプロイセン州首相に任命され、4月末
には「ゲシュタポ」を創設。翌月には航空相、林野・
狩猟庁長官となり、さらに大きな権力を握った。
(その後、経済相や国家元帥などを歴任)。
■2月17日
ユダヤ人の所有する一切の貴金属拠出令。
■4月30日
借家住まいのユダヤ人に対する法的保護の撤回。
■9月1日
ポーランドへ侵攻、第二次世界大戦開始。
ユダヤ人に対する夜間外出禁止令。
(左)1939年9月1日、国会でポーランドへの侵攻を告げるヒトラー
(右)ポーランドの首都ワルシャワへ侵攻するナチス・ドイツ軍
※ これで第二次世界大戦の幕が切って落とされた
■9月23日
放送機器の所有禁止、拠出令(ユダヤ人からラジオを取り上げる)。
■9月27日
「国家保安本部(RSHA)」を設置、テロ・抑圧措置の統合機関となる。
ラインハルト・ハイドリヒSS大将
※ ヒムラーに次ぐSSナンバー2で1939年に
「国家保安本部(RSHA)」長官に就任
■11月23日
ポーランド総督府、在住ユダヤ人に「シオンの星」(白地に青いダビデの星)を描いた腕章の着用を義務化。
■■1940年
■2月6日
衣料配給券の給付取り消し。
■2月12日
強制大量輸送開始。
■6月~8月
ドイツ外務省と国家保安本部、ユダヤ人のマダガスカル島への移送を計画。
■7月4日
食糧購入の1日1時間制限。
■9月27日
「日独伊三国軍事同盟」成立。
■■1941年
■3月7日
残存ユダヤ人に対する強制労働義務の導入。
■6月22日
ドイツ軍、ソ連へ侵攻。
1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)
アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)
※「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、
ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定の
ために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。
主に標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、
ロマ、共産党幹部、知識人だった。
■9月1日
ドイツ本国の満6歳以上のユダヤ人に「黄色い星」を義務化。
■9月12日
公的交通機関の利用は勤務先へのみに制限される。
■10月3日
労働法上の保護撤廃。
■10月8日
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所が設立される。
アウシュヴィッツ収容所
「アウシュヴィッツ」はドイツ名であり、ポーランド名は「オシフィエンチム」。
現在のポーランド領オシフィエンチム市郊外に位置する。「アウシュヴィッツ収容所」は
「第一収容所」、「第二収容所(ビルケナウ)」(1941年建設)、「第三収容所(モノヴィッツ)」
(1942年建設)に区分され、それ以外に38の「外郭収容所」や「付属収容所」があった。
「第一収容所」はポーランド軍兵営の建物を再利用したもので、SS長官ヒムラーの指令
により1940年4月に開設され、最初の囚人はポーランド人政治犯だった。
アメリカ軍が戦時中にアウシュヴィッツを上空から撮影した写真(1944年)
■10月18日
ドイツ系ユダヤ人の東方におけるゲットー及び強制収容所への大量強制輸送の開始。
■10月23日
ドイツ本国よりの国外移住を禁止。
■11月25日
強制輸送されるユダヤ人の財産は没収されることになる。
■11月21日
公衆電話の使用禁止。
■12月7日
「夜と霧」と呼ばれる法令が成立。
この法令は、当局がこの人間はドイツの安全に害を及ぼすと思ったら、国籍のいかんを問わず誰でも拘引できる、というものだった。多くの政治犯は真夜中に逮捕され、即刑務所に移送された後、強制収容所に送られた。
■■1942年
■1月10日
所有する毛皮・ウール衣料の拠出令。
■1月20日
「ヴァンゼー会議」が開かれる。
■2月7日
新聞、雑誌等の購入禁止。
■4月24日
公的交通機関の利用一切禁止。
■5月~6月
西欧占領地で「黄色い星」を義務化。
■6月4日
ラインハルト・ハイドリヒSS大将がプラハで暗殺される。
■6月19日
電気製品、光学機器、自転車等の拠出令。
■7月30日
メタル製ユダヤ教祭器の拠出令。
■10月19日
肉類、乳製品配給券の給付取り消し。
■■1943年
■2月26日
ちなみに、ナチスはユダヤ人だけでなく、ジプシー(ロマ)も迫害した。
この日以降、ナチスの支配圏となった12ヶ国のジプシーが、「ジプシー収容所」へ続々と連行された。
ナチスによって収容所に収容されたジプシー(ロマ)たち
■4月19日
ワルシャワ・ゲットーの数万人のユダヤ人が蜂起。ドイツ軍はその鎮圧に手を焼き、5月半ばまで抵抗が続く。
■6月19日
ベルリン、ユダヤ人ゼロを宣言。
■7月1日
一切の法的保護の剥奪。
■■1944年
■10月21日
ドイツ人を配偶者としているユダヤ人の強制輸送。
■■1945年
□1月27日
アウシュヴィッツ収容所、ソ連軍により解放される。
□4月29日
ダッハウ収容所、アメリカ軍により解放される。
□5月7日
ナチス・ドイツ、連合軍に降伏。
□11月20日
ニュルンベルクで国際軍事裁判が開廷。
連合軍による「ニュルンベルク裁判」の様子(1945年11月)
この国際軍事裁判はナチスの党大会の開催地だったニュルンベルクで開かれた。
史上初の「戦争犯罪」に対する裁判で、12名のナチス高官に死刑判決が下された。
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