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No.a6fhc750
作成 2006.8
●2006年6月に発売された『週刊新潮』に、南米の「ナチ残党」についての記事が載った↓
『週刊新潮』2006年6月15日号の記事
── この記事の内容 ──
南米はナチの「揺りかご」!? 暴かれたアンデスのドイツ人帝国
ユダヤ人大量虐殺の責任者、元ナチ幹部アイヒマンが、逃亡先の南米で情報機関モサドに捉えられ、絞首刑に処せられたのは1962年のことだ。が、驚くべきことに今も、ナチ残党は南米に根を張っている──。チリの“国家の中の国家”と囁(ささや)かれていたドイツ人居留地『尊厳のコロニー(コロニア・ディグニダ)』の幹部たちに、この5月、法の裁きが下った。
同コロニーの独裁者だったパウル・シェーファー(84)はナチの衛生兵(医師)だったが、戦後いち早く、国内で牧師を隠れ蓑に戦争孤児院を設立するが、男児に性的暴行を加えたことが発覚、信者を引き連れ、チリへ逃亡していた人物だ。〈中略〉
フォーサイスの小説『オデッサ・ファイル』のオデッサとは、ナチ親衛隊幹部の逃亡支援組織の名称だ。ナチの亡霊は世紀をまたぎ、南米の地で生きている。
●この奇妙な事件は海外のニュースサイトなどでも詳しく報じられている。
以下、この事件の概要を簡単にまとめておきたい。
元ナチスの軍人パウル・シェーファー
ヒトラー・ユーゲント出身で、
大戦中はナチ占領下のフランスで従軍。
戦後1961年、南米チリにドイツ人コロニー
「コロニア・ディグニダ(尊厳のコロニー)」を築いた。
◆元ナチスの空軍衛生兵(医師)だったパウル・シェーファーは、ドイツでの児童虐待の罪を逃れ、1961年に南米チリの首都サンチアゴから南へ350キロ、アンデス山脈の麓(パラルの町周辺)に、鉄条網で囲われた強制収容所さながらのコロニー「コロニア・ディグニダ(尊厳のコロニー)」を築いた。
初期のメンバーは約300人で、大多数はドイツからの移住者とその子弟で、一部チリ人もいた。
チリの国旗
奇怪なドイツ人コロニーは、チリの中南部パラルの町周辺に作られた
◆このドイツ人コロニーでは、成人男女は別々の寮生活を強いられ、結婚の相手や時期、“生殖期間”さえもシェーファーの一存で決められた。
彼らは日に16時間もの労働奉仕に従事、赤ん坊は2歳になると両親から引き離され、8歳から12歳の男児は、ほとんど連日、シェーファーの慰みものにされたといわれている。
チリの“国家の中の国家”と囁かれていた
ドイツ人コロニー「コロニア・ディグニダ」
このコロニーは鉄条網で囲われ、センサー、監視カメラ、
サーチライト、見張り塔などで厳重に守られていた
◆このドイツ人コロニーは、アウグスト・ピノチェト将軍の独裁のもと、秘密警察の拷問センター、秘密の大武器庫、武器の国際密輸中継基地の機能も果たしていた。
チリ政府は2005年6月、このドイツ人コロニーで、同国史上最大規模の数の「機関銃」と「ロケットランチャー」が隠匿されているのを発見した。
南米チリの独裁者
アウグスト・ピノチェト将軍
1974年に大統領に就任。その後16年間にわたり
軍事政権を率いて強権政治を行い「独裁者」と呼ばれた。
チリのホルヘ・ゼペダ裁判長はドイツ人コロニーが拷問センター
および秘密の墓地として利用されていた、と語っている。公式記録
によると、1990年までのピノチェト政権下で、約3000人が
殺害され、2万8000人が拷問を受けたと推定されている。
※ ピノチェトによる軍事独裁政治が敷かれている間、
後見人のアメリカは、冷戦が終結する直前
まで見て見ぬ振りを続けたのである。
◆チリの日刊紙記者は次のように語っている。
「ピノチェトの独裁は1974年から1990年まで続きました。この間、秘密警察による反体制運動家などの拷問、虐殺が横行し、いまだに2000人以上が行方不明のままです。コロニー内の地下牢ではワグナーやモーツァルトのBGMのなか、拷問が行われたそうです。無料の病院もあり、現地人にも定期的に開放されていました。
ところが1996年、病院に預けていたはずの少年が行方不明になり、大騒ぎになった。政権はすでに中道左派の大統領に移っていたのですが、その後も秘密警察を後ろ盾にコロニーは“治外法権”を享受していたのです。少年は何とか脱出に成功し、両親が告訴します。
翌1997年に警察隊がレイプ容疑でコロニーに雪崩れ込んだ時には、すでにシェーファーは70人の仲間とともに行方をくらましていました。そして、潜伏8年の後、2005年に仲間とともにアルゼンチン(ブエノスアイレス)でやっと逮捕されたのです」
上空から撮影されたドイツ人コロニー
「コロニア・ディグニダ」の全体像
◆シェーファー遁走直後の1998年の報道によると、総資産は約50億ドル(約5500億円)。広さは当初1万5000ヘクタールもあり、学校、病院、滑走路、レストラン、ガソリンスタンドなどを備えていた。
また、トウモロコシなどの作物、酪農、林業からの収入の他、2本の滑走路を備えた空港、サンチアゴの国際会議センター、カジノをも運営し、年間数百万ドルを稼いでいた。
また、仕事の提供、学習や医療の無料サービスにより、この地方の信頼を得ていた。このコロニーは、一部の欧米のメディアで「世界有数の金持ちコロニー」と報道された。
このドイツ人コロニーは、学校、病院、滑走路、レストラン、ガソリンスタンドなどを備えていた
◆このコロニーを訪問した者によれば、そこが1930年代のドイツのような光景で、女性はエプロン、髪は三つ編み、男性はドイツ固有の服を着ていたという。
コロニーの弁護士は、ここのメンバーはエキセントリックな印象を免れないが、人と争ったりせず、良好な生活をしてきたと述べている。
↑ドイツ人コロニー「コロニア・ディグニダ」の住人たち
コロニー創設者のパウル・シェーファーは
牧師的存在で精神面での指導者だったという
(コロニー内では「教皇」と呼ばれていたらしい)
◆チリの著名な精神科医で、このコロニーで働いていたオットー・ドル・セーヘルは、『ニューヨーク・タイムズ』に対しこう語っている。
「私はこのコロニーをよく知っており、非常に気に入っていました。ここの住人の考え方は時代錯誤なところがありますが、嘘をつくことを正当化しません」
◆パウル・シェーファーをはじめとする18人のコロニー幹部の罪状は、26人の子供に対するレイプ、ユダヤ人数学者殺しなどで、2006年5月、シェーファーには懲役20年の刑が言い渡された。
※ シェーファーはチリのみならず生まれ故郷のドイツからも人権に関する罪状で国際指名手配されていたという。
◆なぜパウル・シェーファーは長期の逃亡が可能だったのか?
チリの人権活動家は次のように語っている。
「大規模な捜索をかいくぐったのは、親ナチの地下組織の支援があったからだろう。アルゼンチンにも強力なドイツ移民社会があり、親ナチの勢力が根強く残っている」
◆この問題に詳しいイギリス人ジャーナリストは次のように語っている。
「当時のパウル・シェーファーとチリ政府との密接な関係から、ドイツ人コロニーは『国家内国家』として侵すことの出来ないものだった。ピノチェトとコロニーの関係を隠しておきたい秘密のセクターが、まだチリには存在する。しかしチリが過去との和解を完成したいなら、この告発に立ち向かうべきである」
◆ナチスの犯罪を追及している「SWC(サイモン・ヴィーゼンタール・センター)」は、悪名高いアウシュヴィッツの医師ヨーゼフ・メンゲレ博士がコロニーに一時期滞在していたことを明らかにしている。
ヨーゼフ・メンゲレ博士(SS大尉)
彼は「アウシュヴィッツ収容所」の専属医師で、
収容所の囚人を用いて人体実験を行っていた。いつも
穏やかな笑顔をたたえながらユダヤ人を選別していたため、
人々から「死の天使」と呼ばれて恐れられていた。戦後は
南米で逃亡生活を送り、イスラエルの秘密情報機関に
追われるが、ついに逃げのびて1979年2月に
ブラジルで海水浴中に心臓発作で死亡した。
◆また、コロニーの幹部には連合国から戦争犯罪人として追及されていた元SSのヴァルター・ラウフもいたという。
(左)“ナチ・ハンター”の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタール
(右)彼に追われていたヴァルター・ラウフ(SS大佐)
ヴァルター・ラウフは大戦中にチュニジアでユダヤ人の
連行・徴用および強制労働の管理監督部隊の指揮官を務めた。
戦後アメリカ軍に捕まったが、捕虜収容所から脱出。1949年
に家族とともに南米へ逃れ、死ぬまでチリで生活を続けた。
(1984年5月に肺ガンと心臓麻痺により死亡)。
◆パウル・シェーファーの遁走後、コロニーの新しい指導者になったペーター・ミュラーは、コロニーの近代化に努め、住人が大学に通うのを許可したり、コロニーを観光客に開放するようになったという。
現在、このコロニーの名称は「コロニア・ディグニダ」から「ビジャ・バビエラ」(バイエルン村)に変わり、宿泊施設を備える観光地に変貌しているとのこと。
■追加情報:映画『ミッシング』で描かれた南米チリの独裁者
●上で紹介したアウグスト・ピノチェト将軍に関する追加情報である。
ピノチェト将軍は1973年にCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こして、翌年、大統領に就任し、アメリカや保守層、軍部の支援を受けながらその後16年間にわたって軍事政権を率いて強権政治を敷いたので、南米チリの「独裁者」と呼ばれていた。
南米チリの独裁者アウグスト・ピノチェト将軍
1974年から16年間、この将軍に
よる「軍事独裁政治」が敷かれている間、
後見人のアメリカは、冷戦が終結する直前
まで見て見ぬ振りを続けたのである。
(左)映画『ミッシング』(1982年制作)
(右)コスタ・ガヴラス監督
ピノチェト将軍の独裁政治をテーマ
にしたこの映画は、1982年にカンヌ
映画祭のパルムドールを受賞した。
●1982年にコスタ・ガヴラス監督が作った映画『ミッシング』は、この南米チリの独裁者を題材にした作品だが、この映画を観たある批評家はこう述べている。
「実際に起こったアメリカ青年の失踪をモデルにしているこの作品は、チリの民主主義政権が戦車と銃器によって倒され、戒厳令下に入った首都の不気味な雰囲気を、ドキュメンタリー・タッチな映像で見事に再現されている。また、そのクーデターをCIAや多国籍企業が陰で糸を操っていた事を、J・レモンの父親とその息子の嫁が身を持って実証していく姿が感動的だ」
「2005年のアメリカ議会において、ピノチェト将軍が起こしたクーデターにはアメリカの国際電話電信会社(ITT)とCIAが共謀し、人民連合政府打倒の謀略に加担していた事や、クーデターに際して当時のニクソン大統領は48時間前には知っていた事、さらにはアメリカの艦隊が合同演習の名目でチリ沖に出動していた事などが公表され、大きな話題になった」
●ちなみに、ピノチェト将軍の軍事政権下では多くの左派系の人々が誘拐され行方不明となったが、2004年のチリ政府公式報告書では、死者・行方不明者数は3197人と記録されている。しかし、実際にはもっと多いのではないかともいわれている。
●奇しくもパウル・シェーファーが逮捕された翌年(2006年)にピノチェト将軍は心不全のため死去した。
↓この新聞記事によれば、ピノチェト将軍が死亡したことにより、国家元首の犯罪は未解明のまま裁判は終結するという……。
2006年12月11日『東京新聞』
■追加情報 2:『20世紀最後の真実』の「エスタンジア」の正体
●さらに続けて南米チリ関係の追加情報です。
日本の某有名ジャーナリスト(愛称ノビー)は昔、南米チリのドイツ人コロニー(通称「エスタンジア」または 「ディストリクトX」)の内部を取材したことがあるという元記者(チリ人)に会ったという。このチリ人によれば、「彼ら(コロニーの住人)は普通の人間ではない。人を人とも思わないバイオレントな連中」だという。
※ このセンセーショナルな情報は、かの有名な『20世紀最後の真実』(集英社)で紹介されているので、知っている人は少なくないはず。
1980年代に「ノンフィクション」として出版された
『20世紀最後の真実 ─ いまも戦いつづけるナチスの残党』(集英社)は、
あまりにも突飛な内容だったため、その信憑性をめぐって長らく大きな話題になった。
明らかにおかしい記述があるために今ではすっかり「トンデモ本」扱いされているが(笑)、
本書で著者が報告した「エスタンジア」は、実在の元ナチスのドイツ人パウル・シェーファーが
創設した「コロニア・ディグニダ」であることが、ピノチェト政権の崩壊後に明らかに
なっている。また本書で著者がインタビューした元ナチ党員「フェニックス」
の正体については諸説あり、今も様々な憶測を呼んでいる。
●このチリ人が語った衝撃的な「体験談」は、どこまで真実なのか分からないが、スリリングな話で面白いし真実味が高いと感じるので、参考までにポイントを絞って簡単にまとめておきたい。
(あくまでも“参考”程度に読んで下さい)↓
◆ ◆ ◆
「チリで最大の部数を誇る日刊紙『エル・メルキュリオ』の記者だった私が、このドイツ人コロニーの存在を初めて知ったのは1966年のことだった。そこにユダヤ人少年たちが収容され、虐待されているという噂が立ったのである。
私は即座にドイツ人コロニーに取材を申し込んだが、相手は拒否した。
そこで私は(チリ中南部の)パラルの市長に取材同行を頼み込んだ。
市長がドイツ人側と交渉してくれたおかげで、3ヶ月後、ようやく取材許可が下りた。相手の条件はカメラ、テープレコーダーは絶対に持ち込まないことだった。
定められた日、私は市長とともにドイツ人コロニーを訪れた。
ゲートを入ってしばらく行くとガード・ハウスがあった。そこで厳重なボディ・チェックを受け、車や持ち物を徹底的に調べられた。
それが終わると病院へのゲートが開けられ、先導車に従って並木道を真っ直ぐに進んだ。」
「200mぐらい行くと巨大な白い建物にぶつかった。この病院はサンチアゴ(チリの首都)の総合病院よりもサイズが大きかった。
救急車の数も非常に多く、全てベンツだった。20台以上はあった。そんなに多くの病人が一度に出るとは思えず、また警備が非常に厳重だったのが不自然に感じられた。正面から見ただけでも5人以上のガードマンがいた。
この巨大な病院の前を左に曲がって少し行くと町に入ったが、全てが整然としていた。ヨーロッパの町をそのままスッポリと持ってきたような感じだった。
碁盤の目のように整頓された道路は広く、きれいに舗装されていた。走っている車は全てドイツ製だった。メイン・ストリートらしき道路には、ベーカリー、映画館、車の整備工場などがあり、街角のいたる所にスピーカーが備え付けられていた。」
「私と市長は赤いレンガ造りの建物に案内され、そこでヘルマン・シュミットという男に迎えられた。彼はこのコロニーのリーダーの1人だった。建物の中には20人くらいの男女がいた。皆コロニーの運営に携わっている者たちだとシュミットが説明した。
その後、このシュミットに町の中を案内された(といっても見ることを許されたのはごく限られた一部だった)。
シュミットの説明によると、このドイツ人コロニーの広さは約5000ヘクタール(※ 東京の千代田区の4倍強の広さ)もあり、そのほんの一部が町であり、他はプランテーションや牧場として使われているという。
我々が歩いているとあちこちに付けられたスピーカーが何やらドイツ語でアナウンスしていた。外部からのお客さんが来ていることを町の人々に知らせているのだとシュミットが言った。
1つだけ不思議だったのは、子供の姿がどこにも見えないことだった。これについてシュミットに聞くと、子供は一ヶ所に集められ、そこで教育され育てられるという。」
「このドイツ人コロニーの内部は全てが珍しかったが、特に印象に残った事柄をあげるとすれば2つある。
1つはあそこの住人たちの規律正しさというか、リーダーに対する絶対服従の姿勢だ。まるで昔のプロシアの軍隊並みだった。リーダーのひと声で全員が一体となって動いているようだった。我々チリ人から見ればすごいというか怖ろしいというか……。
第2に印象に残っている事柄はなんといってもあの経済力だろう。あれだけの道路設備やビルを作り上げるセメントの量だけでも大変なものだ。もちろんセメントは全て自家製だった。セメント工場を見たが規模も大きく、あれなら十分な量が生産できると思った。」
※ このチリ人記者は、セメント工場の他にトラクター工場を見ることが許されたが、セメント工場同様の大きな規模であったという。彼と市長は5時間ほどコロニーにいて、ともに帰ったという。
── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──
●ところで、3日後、このチリ人記者は再びドイツ人コロニーを訪れたという。
今度は前もって連絡もせず、文字通りの「抜き打ち訪問」で、市長も同行しなかったという。
●期待と不安で胸一杯になりながら、彼がコロニーのガード・ハウスに近づくと、案の定、ドイツ人側は取材拒否の構えを見せ、一刻も早く立ち去るよう威圧的に警告したという。
(この時、記者に同行したカメラマンがコロニー周辺を撮影し始めると、ドイツ人ボディガードの2人が血相を変えてカメラマンに飛びかかり、カメラを叩き落としたという)。
びっくりしたカメラマンと記者は、すでにエンジンがかかっていた車に飛び乗り、ほうほうの体で逃げ出したが、その後、彼らはパラルの町でドイツ人たちに尾行(盗撮)されていることに気づき、言いようのない恐怖を感じたという。
以来、この記者は二度とドイツ人コロニーに近づこうとはせず、しばらくしてから新聞社を辞めたという。
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http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/5014608.stm
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