No.a6fhe400

作成 1998.3

 

幻に終わったユダヤ満州共和国

 

~満州のユダヤ国家建設計画「河豚計画」の秘話~

 

●ある方から提供された資料です。

満州にユダヤ国家を作るという「河豚(フグ)計画」の実態について興味深いことが書かれています。少し読みやすくするために画像やキャプションなどを追加して再編集したものを参考までに載せておきます。

 


(左)満州国の国旗 (右)イスラエルの国旗 

満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、
黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。

一方イスラエルの旗は1891年にシオニズム運動の
運動旗としてダビデ・ウルフゾーン(リトアニア
出身のユダヤ人)が考案したものである。


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はじめまして 〈省略〉 これは藤田謙一氏の息子が書いた文章です。
ここには驚くべき事実が記されています。〈省略〉
ぜひ参考にして下さい。

 


 

■■Part-1


■日本政財界の上層部で活躍した私の父


「ユダヤ満州共和国」計画の話を紹介する前に、まず私の父の話を紹介したい。なぜならば、私の父は「ユダヤ満州共和国」計画に密接な関係を持っていたからである。少し長くなるが予めご了承願いたい。

私の父は明治・大正・昭和の三代にわたって、日本政財界の上層部で活躍し、「昭和の紀伊國屋文左衛門」とか「日本一の政商」との異名をとり、一代で巨億の財をなし、そして倒産した元貴族院議院、第5代日本商工会議所会頭の藤田謙一である。

 


藤田謙一

 

その生涯は常人には想像もつかないほどに波瀾万丈で、きわめて浮き沈みの激しい人生だった。父は青森県弘前の武家の生まれで、16歳のときに短刀一振りを手に上京し、桂家にやっかいになったが、この桂家の主人が明治の元勲、元総理大臣にして陸軍大将の桂太郎だったことが幸いした。

 


桂太郎

第11・13・15代総理大臣。
公爵。元老。拓殖大学初代総長。

 

父は桂太郎の草履取りとなるや、人の嫌がる仕事を何一つ不平をいわずに引き受け、一心不乱に働いた。あるとき、主人の桂太郎がこの働きぶりに目をつけ、倒産して誰も手をつけない、クモの巣がはっているような「岩谷天狗煙草」という会社の立て直しを、父謙一に命じた。桂は、「明石(父の旧名)は、とにかく変わっており、誰もやりたがらない仕事ばかりやる男だから、ひとつ、あの店の立て直しをやらせてみよう」と考えたのだ。そして、「あんな化け物屋敷のような店を立て直すなんて、どうやっても不可能な話だ」という世間の冷笑を背に、父は見事に立て直してしまうのである。

その後、この一件で有名になった父には、企業の再建工作を頼みにくる人があとを絶たず、今でいう「企業コンサルタント」の草分けとなっていった。

当時、神戸に現在の三井、三菱、安田、住友といった大財閥を上まわる「鈴木商店」という大財閥があったが、同店の大番頭・金子直吉に見込まれ、配下の関東地方の十数社を任されたりもした。このときの同僚として働いていたのが金光傭夫(元商相)、堤清六(元日魯漁業社長、代議士)、後藤新平(元東京市長)、部下に堀久作(元日活社長)、堤康次郎(元西武鉄道社長、衆院議長)、鳩山一郎(元首相)、永田雅一(元大映社長)などがおり、いずれものちに政財界のドンとなっていく。

やがて父は、第5代日本商工会議所会頭となり、勅選の貴族院議員に任ぜられ、国際労働会議の日本資本家代表としてスイスのジュネーブで活躍し、数十社の役員を兼ねるようになった。また政界でも政友会の領袖の一人であった。


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しかし、無一文からわずか数十年で日本政財界のトップに登りつめたのであるから、その過程でねたみ、恨み、そねみを買うことも数多かったようだった。反対党の民政党に虚をつかれ、多数の政財界巨頭とともに、今日のロッキード事件のような「昭和三大疑獄事件」、および「帝人事件」という日本裁判史上未曾有の大裁判事件に連座してしまう。

この裁判はだらだらと十数年も続き、「政治裁判」化したのち、昭和三大疑獄事件は執行猶予に終わり、帝人事件は全員無罪という結末になった。なお前者では、贈賄の相手先とされた賞勲局総裁・天岡直嘉が父の大恩人の桂太郎の娘婿で、何かにつけて面倒をみたことが贈賄とみられたのであり、まことに遺憾な話であるが、父は「日本の政界はこんなものさ」と豪快に笑い飛ばしていたのを思い出す。

また、この事件を機に父は政財界の一切の公職から引退してしまうのだが、晩年、引退した父のもとに、日本のトップクラスの人々が参集して引きも切らなかったのは、やはり父の陰徳の成果であったのだろう。

有田八郎(元外相)、小磯国昭(元首相)、河原田稼吉(元内相)、秋田清(元衆院議長)、町田忠治(元民政党総裁)、望月圭介(元内相)、それに徳富蘇峰、今泉定助などの諸氏とは特に親交が深かったのを覚えている。


父は、政財界に雄飛したころから、海外との交流(特に中国との友好交流)に熱意をもって力を尽くしていた。中華民国の大総統・孫文が辛亥革命に失敗して日本に亡命した際、孫文、蓼仲愷、宋慶齢、何香凝、胡漢民、戴天仇など当時の中国の最高権力者たちを自費をもって快くかくまい、また頭山満、萱野長知、田中昂らの革命支援者と協力して、巣鴨の松柏軒という元水戸黄門の屋敷跡にも中国要人をかくまったそうである。

 


孫文(1866~1925年)

清朝打倒を目指し、1894年にハワイで
革命秘密結社「興中会」を組織、1905年に東京で
「中国革命同盟会」を結成して、三民主義を綱領とした。

「辛亥革命」で臨時大総統に就任後、政権を袁世凱に譲った。
だがその独裁化に抗して「第二革命」を開始。1919年に
「中華革命党」を「中国国民党」と改組、1924年に
「国共合作」を実現して、革命推進のため広東から
 北京に入ったが病死した(享年58歳)。

 

父の家はそのころ下神明町(現在の大井町)にあったが、一時は「下神明町の支那人屋敷」といわれ、不逞のやからが家の門に馬糞や石をぶつけて散々に汚された。しかし父は、中国革命の志士や要人の庇護を決してやめなかったそうである。

 

■「日中友好協会」の成立


私も亡父の遺言を守り、あらゆる誹謗・中傷・妨害と戦いながら、日中友好交流に一身を捧げた。

学徒兵として大学を繰り上げ卒業し中国各地の戦線に4年間従軍した際にも、最初から戦争に大反対であり「この中国との戦争は根本的に間違っている。結局日本の見るも無残な敗北に終わるだろう」と予言し、戦闘もせずに中国民衆との交歓をはかったりしていた。そのため非国民、国賊などと言われて軍幹部の迫害を受け、耳が変形するほどの制裁をくらった。だが、私の主張したように日本は敗れ、中国大陸その他から、300万の敗残兵が旗を巻いて引き揚げざるをえなかったことは歴史の示すとおりである。


復員後は遅々として進まぬ日中国交回復に業を煮やし、檄文を表して政財界の各要人たちに配布した。これには多くの賛辞が集まり、岡崎嘉平太氏をはじめ藤山愛一郎氏、古井喜美氏、石橋政嗣氏、佐々木更三氏、高木健夫氏、帆足計氏など500名にものぼる数となった。そしてついに、親子二代にわたる熱意は、1975年9月29日、日本のトップクラス600名あまりが集った「日中友好協会」の成立へとつながっていくのである。

私にとっては、1975年5月16日、当時の「日中友好協会」会長・蓼承志氏(彼も父のところに来ていた一人で、孫文に抱かれた7歳の彼の写真が手元に残っている)に北京飯店貴賓室に招かれ盛大な歓待を受けたこと、昔話に時のたつのも忘れて語り合ったことは、生涯忘れえない思い出である。

さらにこののち、アメリカが中国との国交回復に努力していたとき、私は、コロンビア大学教授で『ニューチャイナマガジン』誌編集長であったキール氏と、キッシンジャー国務長官の北京入りの御膳立てを努めた(これについては米中問題全国委員会々長のローゼン博士などに大いに評価された)。いまは亡き父とのシンクロニシティを感じてならない。

 


(左)ニクソン大統領 (右)ヘンリー・キッシンジャー

キッシンジャーはドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスを嫌い、
1938年にアメリカに移住し、ハーバード大学の博士号を取得。
ニクソン政権の誕生とともに、国家安全保障担当大統領補佐官
として政権中枢に入り外交全般を取り仕切る。1971年に、
極秘に中国を2度訪問し、米中和解への道筋をつけた。
1973年、ベトナム戦争終結への貢献を理由に
ノーベル平和賞を受賞。

 

父が余生を「日中友好」や「世界平和」のために捧げたこと、とくに父の遺著『世界平和への道』が「地球連邦論」であることに驚きを禁じえないのである。これはのちに述べるが、父は孫文らをかくまうにあたって、「陰の世界権力」の陰謀をかなり意識していた節がある。

父の霊は、自分のなしえなかった「地球連邦」の夢を、私に託して実現させるつもりであることが、このところにきて私にようやくわかってきたのである。

 

 


 

■■Part-2


■アジア民族が共通に伝承する「愛」とは何か


日露戦争のころ、ロンドンで英文出版された岡倉天心の『東洋の理想』(1903年)は、「アジアは一つである」の有名な文句で始まっている。

「アジアは一つである。ヒマラヤ山系は、孔子の共同社会思想をもつ中国文明と、ヴェーダの個人思想をもつインド文明との二大文明を分け隔てているが、それは両者をただ強調するだけのものとなっている。しかし、この雪をいただく障壁といえども、究極普遍なるものを求めるあの広大無辺な愛を、一瞬たりとも妨げることはできない。この愛こそ、あらゆるアジア民族が共通に伝えもってきた思想であり、アジア民族をして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させたものである。またこの愛は、特殊に留意し、人生の目的を探究することなくその手段を探究することを好む、地中海やバルト海沿岸の諸民族との区別を示すものである。」

 


岡倉天心(1862~1913年)

明治期に活躍した美術家、美術評論家、美術教育者
である。アメリカの東洋美術史家フェノロサの日本美術研究を
手伝った彼は、1890年に東京美術学校(現東京芸術大学)の
 校長に就任、横山大観や菱田春草などに大きな影響を与えた。

 

天心は、アジアは「究極普遍なるものを求める、人々の広大な愛のひろがり」によって一つであると言っている。一方、西洋人は普遍よりは特殊に目を向け、また人生の目的よりは手段を好むが、それは、彼らがアジア民族に共通の愛とは異なった思想を持っているからだと言うのである。

天心はこの「一つのアジア」の中核に「日本の芸術と文化」を置いたために、後の大東亜共栄圏とダブルイメージでとらえられることが多い。が、私は、天心の説いた「アジア民族に共通の愛」は、現在にアジア諸国の連合を考えるうえで、見逃すことのできない言葉だ思う。

そこで、この「アジア民族が共通に伝え持ってきた愛」について、少々考えてみたい。

 

■アジア民族の大地母神への愛


アジアの農村に行ってみるとわかるのだが、中国でも東南アジアでも、一つの村落がほぼ自律的な共働生産社会となっている。日本の政治家の悪しきパトリオティズム(郷土主義)とは違い、ここでは良きパトリオティズムが脈々と息づいている。つまり、ここでのパトリオティズムは、だれでもが自分の住む土地に感じる愛、いわば普遍的な郷土愛なのである。

それらの村落にはおよそ共通な信仰がある。それは第一に、土地は母であり、生産物を生み出す母体そのものだという信仰である。そこで、パトリ(郷土)への愛は母への愛であり、豊かな恵みを与えてくれる自然への愛だということがわかる。

東洋の宗教や倫理は、おおむねこうした大地母神への信仰に発している。それについては、中国人も朝鮮人も日本人も、また各地の少数民族も東南アジアの人々も、変わるものではない。もちろん、西洋にもそうした信仰の息づく時代があった。ただアジアと異なるのは、彼らは早い時代に、そうした信仰から脱して、大地に種を植えつけるほうの力を、つまり父の力を信仰するようになっていった。それが大地に対する天上への信仰となった。

一方、アジアではおそろしく長い間にわたって大地母神への信仰が続いたため、天なる父への愛よりは、母なる大地への愛が、より強固に形成されてきたのである。西洋人に言わせれば、大地母神への愛は、それぞれの土地としてのパトリへの愛だから、特殊、ローカルなものであり、天なる父神への愛こそが普遍的なのだと言うことになるだろう。

しかし、岡倉天心はそれを逆だと言うのである。それを私なりに考えてみると、人は誰でも特殊なある一人の母親から生まれた子供であり、それは誰にも共通する普遍性なのだ、ということになるだろう。たとえ父親が誰かわからなくとも、母親と子供の関係だけははっきりしている。父親は自分で生まないし、母親は自分で生む。自分と直接的・自然的な関係にあるのは母親であり、父親はどうしても間接的・社会的な関係としてあるしかない。したがって、社会(父)より自然(母)のほうが広大無辺であり、究極のものであり普遍的なものである。

こういったことから、東洋=母、西洋=父という愛の質の違いがあるように思う。そこで、岡倉天心の言う「アジア民族が共通に伝えもってきた愛」が、なぜ「究極普遍なるものを求める愛」なのかということがわかってくる。そして、その愛によって東洋が一つだということも。

 

■「天人合一」をはかる王道思想のアジア


アジアの連帯は、元来は「アジアは一つ」の母性的な愛を核にして、朝鮮の東学党にしろ、日本の岡倉天心にしろ、インドのガンジーにしろ、発想していたものだった。が、日本の大東亜共栄圏は、父性的な「種を植えつける力」によって、強引に推し進めたところで、決定的な間違いを犯してしまったのである。

母性的な愛を核にしたアジアの連帯は、いまだ成し遂げられないまま現在に至っているのだ。私はそれを推し進めたい。私が構想する「東アジア連邦」の根本を流れるものが、そうしたアジア民族が共通に抱え持つ遺伝的な思想ともいうべき、母性なる愛、恵みを生む自然への愛であることを、お分かりいただきたいと思う。

したがって、私が言うアジア、あるいは東アジアとは、単に地域的な名称なのではない。それはある精神の高さを示すものである。かつて欧米列強が、そして軍国日本が、アジアを統一支配下におこうとしたイデオロギー、それを超えて「アジアは一つ」へと向かう精神の高さなのである。

私は「東アジア連邦」建設は覇道ではなく王道でやるものだと考えている。王道とはこの精神の高さによって調和をつくりだしてゆく道のことを言うのである。王道の原則は道義を貫くところにあり、天の声を聞き「天人合一」をはかるところにあると言われる。それは、ある意味で「天なる父」と「地なる人」との一体化だと言ってよいだろう。さらに言えば、天(父)、地(母)、人(子)の調和とバランスによって構成される宇宙、つまり大自然ということなのだ。

 

■新大東亜共栄圏への落とし穴


西田幾太郎は戦前に、中国は王道だが日本は皇道だと述べ、「王道対覇道」の対立を超えるものとして「皇道」を打ち出した。天の声と人の声を合一して国をつくり政治を行う王という精神に対して、世の初めから永遠に伝わる万世一系の皇統という精神をより高いものとして据え、この皇道によってこそ、東洋対西洋の対立を超えることができると論じたのである。

 


西田幾多郎
(1870~1945年)

日本を代表する哲学者。
京都大学教授。京都学派の創始者。

 

西田自身は、皇道は帝国主義ではなく、西洋の帝国主義を撃つものと言ったのだったが、大東亜共栄圏にかっこうのイデオロギーとして導入されてしまった。それは当然と言えば当然のことだった。

岡倉天心にしろ西田幾太郎にしろ、いずれも良心から誠意をもってアジアを論じたには違いないが、戦前にアジアを論じたほとんどの知識人は、彼ら同様、日本をアジア統一の核とすることで一致していた。この一点で、すべてのアジア論は大東亜共栄圏のイデオロギーに巻き込まれることになったのである。

そうであるのに、現在にアジア経済ブロックを構想するについても、日本をその核とする論議が幅をきかせている。それは、単にソフトに装われただけで、大東亜共栄圏構想となんら変わるものではないと思う。

天の声を聞くこと、そして人の声との合一をはかること。そこから考えれば、アジアの連帯に日本の果たすべき役割はおのずとわかってくるはずである。私はそれを「世話役」と言っているのである。

 

■アジア連帯の“世話役”としての日本人


いかに日本が経済的に他のアジア諸国より豊かであり、産業の発展度も生産力も高いとは言え、そのことと、日本がアジア諸国の連合の核になれるかどうかとは、まったく別問題である。

強い者が、力のある者が中心になるというのは、明らかに覇道の論理だろう。天の声は、つまり世界の意思はどうなのか、また人の声は、つまりアジアの人々の意思はどうなのか、それを知り合一させるのが王道ではないのか。とすれば、王道をゆく者とはすなわち、そのために飛び回る“世話役”だと私は思うのである。

私自身、微力ながらアジア諸国の連合を目指して、王道を歩んでいるつもりである。日本人一人一人が、自分にできるやり方で王道を歩むこと、そこから「東アジア連邦」の地平が見えてくるのだと思う。単に政治家や企業家に任せておけばよいものではない。戦前は、人知れず王道を地道に歩む民間人がかなりいたのである。

私は「東アジア連邦」の実現を推し進めるについて、そこが大切なところだと考えている。したがって、現在アジア各地から日本へ渡ってくる「外国人労働者」とつきあうなかで、またアジア各地へ旅行する際に、私たちができることはたくさんあると思う。

豊かさの高見から他のアジアの人々を見下すのではなく、アジア民族に共通の愛を確認し合い、分け隔てなくつきあっていくなかで、日本人としての自分にできることを考え、実行していくことである。

そして、この作業は私の体験から言っても、ことのほか楽しいものとなるはずである。風俗習慣が異なるため、最初はとまどうことも多いが、しばらくつきあっていくと、あまりにも互いの共通性の多いことに驚かされる。ああ、やっぱり同じアジア人なんだなと、嬉しくなってくることがたくさん出てくる。

理論で押してくる西洋人とのつきあいから教えられることも多いが、アジア人とのつきあいでは、何か私たちのなかにあって忘れてしまっていたものを、感覚的に呼び覚まされる、教えられるという体験がしばしばある。そんなとき、自分がアジア人であることを、いまさらのように自覚することになる。

 

 


 

■■Part-3


■幻の「ユダヤ満州共和国」計画とは?


今、まさしく「東アジア連邦」結成の好機が到来しているが、日本の出方をよほど慎重にしないと、あと一息のところでドンデン返しをくらわされることが大いに考えられる。というのは、実は「東アジア連邦」構想はかつて一度提示され、そして失敗した「秘話」があるからである。

それは、一般に知られているような、戦前に軍部が呼号した構想なのではない。1938年、近衛文麿内閣のときに極秘裡に立案された、「ユダヤ満州共和国」建国にかかわる一連の構想のことである。

当時、ナチスに追われて500万人以上ともいわれるユダヤ難民が洪水のように安住の地を求めて移動していた。「ユダヤ満州共和国」計画はこの難民を救済しようとして構想されたのである。日本はまた、そうすることで日米関係を打開しようとも考えたのだ。

 

 

結局は、軍部中枢の反対にあって「ユダヤ満州共和国」は幻に終わるのだが、もし成功していたならば、第二次世界大戦の悲劇を避けることができたはずなのである。ユダヤ人たちの満州(中国東北部、現在の黒竜江省、吉林省、遼寧省、内モンゴル自治区)受け入れが実現していれば、太平洋戦争そのものが起こらなかっただろう。

最初に私の父、藤田謙一の事跡についてお話したのも、父がこのプロジェクトに密接な関係を持っていたからである。どうやら父は「陰の世界権力」の存在と力を知っていた節があると先述した。そして、日本の未来は、「陰の世界権力」のことを念頭に置いて考える必要があると述べた。「ユダヤ満州共和国」はこの「陰の世界権力」の問題と根っこのところでからんでくる。

ともあれ、以下に「陰の世界権力」とは何かを明らかにし、ついで「ユダヤ満州共和国」の隠された秘話をご紹介していこう。

 

■「陰の世界権力」とは何か?


私は、巷間いわれるように、『シオンの議定書』(ユダヤ・プロトコール)を著わし、世界を支配しようとしている「ユダヤ賢哲会議」の存在には、つまりユダヤ人による世界支配戦略なるものには、それほど関心を持っていない。むしろ国際組織である「メイソン」に深い関心を抱いているのである。

一般にユダヤ人の定義は、血脈ではなく「ユダヤ教徒」であることとされている。彼らは世界各地に存在しているが、わずか1400万程度という勢力が、とても世界を動かすなどということは考えられない。

なるほど、世界に散ってもなおユダヤ教を放棄しなかった信仰堅固な人々が、祖国を滅ぼされ自分たちを「流浪の旅」に追放したアッシリアやバビロニアなど(あわせて現在の中東・イスラム教国)に対し、またローマ(つまりは現在のヨーロッパ・キリスト教国)に対して燃えるような復讐の怨念をたぎらせることはきわめて当然であろう。

また、流浪のユダヤ人たちは各国に入り込んでいかざるをえない。そのため、「寄生」を受けた側の国家と民族からすれば、それらのユダヤ人を不穏分子であり、また陰謀分子だとみなすことももっともなことだとは言える。だが、迫害される側のユダヤ人からすれば、毎日が自衛の日々であっただろう。つまり、背景としてはユダヤの世界支配戦略があると仮定してもよいが、実行力に疑問符がつくわけである。

では、いかなる秘密組織が世界戦略を企図しているのか? 私が「メイソン」に関心を寄せるのは、ユダヤの背景を現実の勢力に架橋しているからである。


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メイソンとは、もともとは廃れかかった石材職人の中世的同業組合だった。ヨーロッパでは中世から近世にかけて各種の大規模建築が盛んになるが、そのため国内ばかりでなく国外からも優秀な職人を呼ぶ必要が生じ、そのような職人には国境通過を自由にさせた。そこから「自由石工」という名が出てくる。

このメイソンはゴシック建築の最盛期である13世紀に結成されたが、16世紀の終わりにはすでに衰退期を迎えていた。この機構を乗っとり、今の形に改変したものが誰かは不明だが、すでに17世紀には有産階級だけの、あるいは有産階級が主導する結社となっていたといわれる。

そして、メイソンに先のユダヤの世界支配戦略に関与する部分が出てくるのもこの時期である。当時、ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人にとっては国内移動もままならず、ましてや国境を自由に越えることは夢物語のようなものであった。なんとかメイソンに入り込みたいと考えたとしても不思議はない。

一方でギルドとしてのメイソンは、衰退とともに「公認された者」(石工以外のメンバーを表す)の加入を認め、このときから富裕階級のユダヤ人が、その富をもって続々とメイソンに入ってきたのである。

犬塚きよ子氏(後述)は「ユダヤ人とメイソンは関係ない」としているが、私の調べた範囲ではラビ(ユダヤ教指導者)を含め多数のユダヤ系の人々が加入している。

私としては、ユダヤの世界支配戦略というような一元的なとらえ方をするのではなく、まず、「見えざる世界の権力構造」を考え、それらが網の目のようにつながっている、そしてそのキーにメイソンがあるとするのが最も妥当ではないかと考えている。そう考えることで「陰の世界権力」の力のほどもうかがわれ、話のつじつまもあってくるのだ。

 

■「陰の世界権力」を激怒させた日本の政策


長崎市内の大浦天主堂横の丘の上にグラバー園がある。観光名所として年間500万以上の人が訪れるという。その園内に、グラバー邸のほか八戸の洋館などを見て通り過ぎる際に立つ石碑は、なんとメイソンの石碑なのである。

トーマス・ブレーク・グラバーは、1859年(安政6年)、21歳のときイギリスから来日した。桂小五郎(木戸孝允)をかくまい、伊藤博文らの渡英を助けるなどして勲二等を贈られたが、その実体は薩摩、長州、肥前などに武器を売って巨利を得たいわゆる「死の商人」である。その息子トム・グラバーは、自ら倉場富三郎と名のるほどに親日家だったとされていたが、第二次世界大戦中にスパイの嫌疑を受け、戦後ピストル自殺をとげている。

 


トーマス・グラバー

 

1904年に始まった日露戦争時から日本への工作が活発化してくる。というのも、1871年ウィーンにおいて「最高法院」会議が開かれ、満州に「ユダヤ極東共和国」を建国することが決定されたからである。

この目的を遂行する手段としてロシア革命を画策、またアメリカの「東部エスタブリッシュメント」のユダヤ銀行クーン・ローブの頭取ヤコブ・シフが日銀総裁・高橋是清の要請を容れて戦債2億5000万円(現在の約3兆円に相当する)を一手に引き受けた。

 


高橋是清
(たかはし これきよ)

日銀副総裁。のちに蔵相、首相。
「ダルマ首相」と呼ばれて親しまれた。
「2・26事件」で青年将校達に射殺された。



(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。
日露戦争の時に日本を資金援助した。(中)「クーン・ローブ商会」
(右)司馬遼太郎が書いた歴史小説『坂の上の雲』(文藝春秋)
 (この本の第4巻にヤコブ・シフが登場している)。



勲一等旭日大綬章

日本政府は「日露戦争」勝利の功績に
報いるため、1906年にヤコブ・シフを
日本に招いて、明治天皇が午餐会を催し、
シフ夫妻を拝謁。「勲一等旭日大綬章」
という勲章をシフに授与している。

※ 明治天皇が民間人である
外国人に陪食を賜ったのは
シフが初めてだった。

 

そのことは、ヤコブ・シフが「南満州鉄道会社」に対して、共同経営をひそかに申し出ていることからも明らかである。満鉄は建国に欠くべからざるものだったのだ。だが、高橋是清が貸付けを受けた代償として内諾していたにもかかわらず、軍部の反対によりこの密約は破棄された。

次いで1931年、上海の有力ユダヤ人らは日本の「満州国」建設方針に注目し、「国際シオニスト組織」とともに、おりからのナチスのユダヤ民族迫害の激化もあって、50万人のユダヤ人移民計画がたてられた。1937年の「ユダヤ満州共和国」構想はこの流れによるものである。

しかし、日本陸軍当局はこれもシャットアウトしてヒトラーのユダヤ人排斥計画に同調した。

これらの経緯が「陰の世界権力」の逆鱗にふれた。

その報復処置はすさまじく、すぐさま「国際連盟」からの日本追放を可決させ、松岡洋右の脱退宣言を引き出している。そして、彼らの本拠とするアメリカで排日運動を展開させ、ハワイでの対日戦準備、日中戦争の泥沼化と続き、日本は太平洋戦争に完敗し、中国大陸からの全面撤退を余儀なくされたのである。原爆の投下や極東軍事裁判はその究極の復讐であった。

 

■私は生前、父よりこれらの話を何度も聞かされてきた


私がこのことを特記する理由の一つは、1921年のワシントン会議や日英同盟廃棄前後ころから、多数のユダヤ専門家(彼らはのちに日ユ同祖論者となっていくが、伊勢神宮の研究などから私もこの論をとるものである)が輩出し、「ユダヤ満州共和国」建国に向けて活躍しつつあった人々のなかに、私の父、藤田謙一もいたことである。私は生前、父よりこれらの話を何度も聞かされてきたのである。

父は1911年に辛亥革命を起こした近代中国の父・孫文の日本亡命時に私費を投じてかくまい親交を深めたのだが、孫文はメイソンと密接な関係を持った人物であった。孫文を後援した「淅江財閥」の成立は、アメリカ系メイソンと結ぶことによって出来上がったものである。その代表の宋子文は国民党政府の要人ともなっている。

その延長からか、父は「ユダヤ満州共和国」建国を推進した酒井勝軍、犬塚惟重(元海軍大佐)、安江仙弘(元陸軍大佐)、内田良平、田中義一(元首相・陸軍大将)、石原莞爾(元陸軍中将)らと親交があった。同様に後藤新平、頭山満、有田八郎らとの交際は前記したとおりである。

 


左から、酒井勝軍、犬塚惟重、安江仙弘

 

以下に、父の話などからまとめた、幻に終わった「ユダヤ満州共和国」構想のあらましを記しておこう。

私はこの逸話を、1987年4月、犬塚大佐未亡人きよ子氏と安江大佐のご子息弘夫氏と会った際に話したが、両氏によって全て事実であることが裏書きされた。

なお、犬塚きよ子氏には、上海海軍武官府内に組織された「犬塚機関」(きよ子氏は当時機関長秘書であった)の調査に基づいて著した『ユダヤ問題と日本の工作』(日本工業新聞社刊)があり、秘められた歴史を知る貴重な資料となっている。

 

■「ユダヤ満州共和国」構想が日本の運命を決めた


1937年の近衛文麿内閣のときの立案は、当時の駐米大使斉藤良衛が「アメリカの世論はすべてユダヤ系のマスコミによって操られているので、この方面に運動されたし」と秘密電報を打電してきたことに始まる。

しかし、政府機関にはユダヤ問題の専門家がおらず、第一次世界大戦以後ユダヤ問題に専念してきた犬塚、安江両大佐がこれを担当することになった。

そして、「ユダヤ人が2000年の太古より日本とかかわりがあるという『ユダヤ百科事典』の記事やユダヤの民族指導部の意図から、ヨーロッパから逃げてくるユダヤ難民の保護にあたり、極東ユダヤのイギリス依存を日本依存に転向させるなどの工作に従事する」というユダヤ政策を決定し、ナチスのユダヤ政策とは違う方向へ向かった。

 


近衛文麿

第34、38、39代総理大臣。
軍部を中心とする勢力にかつがれて
三たび首相となった昭和の貴族政治家。

1938年12月6日に、近衛首相・有田八郎外相・
板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相
による「五相会議」が開催され、ユダヤ人保護の
『ユダヤ人対策要綱』が決定された。

 

そこから1938年の立案は近衛首相以下、有田外相、池田成彬蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相の承認のもとに、事務局に鮎川義介(日産コンツェルンの創始者で久原房之介の義兄/満州重工業開発総裁)、その下に田村光三が就いて、約2億ドル余の経費を計上してこの膨大な計画にとりかかった。

 


鮎川義介

大正・昭和期に活躍した実業家。
「日産自動車」の実質的な創立者。
満州重工業開発総裁。

 

しかし、陸軍統制派の反対にあい、逆に1940年9月には「日独伊三国軍事同盟」が締結されて消滅していった。

ついでながら、この変転は王道派(石原莞爾ほか)対統制派(東條英機ほか)の角逐をテーマに、佐治芳彦氏が『覇道から王道へ』という論文にまとめている(『月刊アーガマ』1990年4月号)。

そもそもユダヤ人たちの満州国への注目は、石原莞爾らが唱える「五族協和」「王道楽土」の理想にあった。石原が当時の日本政府の覇道主義(植民地化の動き)に激しく抵抗したのをみても、軍部が呼号した「大東亜共栄圏」が日本の一部からの発想であったことがわかる。

 


石原莞爾

 

石原はどの民族が長となるというのではない「水平的連合をめざす大東亜連邦論」を展開していた。そして、太平洋戦争に対しては、「早すぎる日米軍事対決」として反対した。彼は東條軍閥に弾圧されたが、戦争中は太平洋戦争を「アジア民族解放戦争」に転化しようと腐心し、さらに戦後は核戦争の脅威下における非武装国家日本の生き残り戦略に身命をかけた。

が結局、満州国はしだいに石原らが唱える理想から遠ざかっていったのである。

それとともに、「ユダヤ満州共和国」の構想も徐々に縮小していった。

それでも、犬塚、安江大佐の奔走によって、「国際シオニスト組織」が阿部信行首相(1939年時)に請願文を提出して、その答えとして「上海にユダヤ地区を設置することは現地機関において案を作成すべし」という指令が出た。しかし、これも親独派の陸軍に妨害されて現実化にまで至らなかった。

 


第36代総理大臣
阿部信行

 

そして最後の手段として、内務省事務官の村井順が「上海自由港論」を提出し、上海市街から半径50マイルの独立自由港区域を設置し、これによってユダヤ難民を受け入れようとしたが、この計画も消されていったのである。

ユダヤ工作による対米工作は、ここに完全に瓦解した。

そのころ、犬塚大佐らは、CFR(外交問題評議会)に連なる「サッスーン財団」の助けを借りてユダヤ人の救済を準備していたのだった。上海には一時3万人のユダヤ難民が集中していたという。私は1944~1946年まで、上海のブロードウェイ・マンション近辺に居住したことがあるが、そのころ虹口、揚樹浦方面にいた難民は各地へ散っていき、いま上海にはユダヤ人は一人もいないとのことである。


ことここに至って、日本は「陰の世界権力」を敵に回すことになる。

まずイギリスが、中南支横断鉄道を担保に2000万ポンドのクレジットを設定し、これにより「サッスーン財団」はその所有銀貨1万6000元をアメリカのロックフェラー財団の「ナショナル・シティバンク」に送金・処分して、国民党政府買上げの6割回収率で640万ドルの利益をあげる。

次に、アメリカのマネートラストが蒋介石政権に公債発行を保証し、上海の「ナショナル・シティバンク」(ロックフェラー財閥の経営)に保管させ、その銀貨で蒋介石政権の有価証券を買収し、ロンドンで売り出して巨利を占める。

 


蒋介石

 

また、ロスチャイルドなどのイギリス系ユダヤ財団は、国民党政府が6割で回収した銀貨を「サッスーン財団」(上海代表デビット・E・サッスーン)を経てロンドンに取り寄せて売り出し、その利益を同財団と国民党政府要人とで山分けにする。要人たちはロスチャイルドほかの銀行にそれを預金し、銀行はその預金を「国際シオニスト組織」の「ユダヤ自治預金」に流用していた。

さらに、これによって蒋介石政権のパトロンでもある「淅江財閥」も1500万ドルの紙幣増発権を入手し、それが法定紙幣に交換されることによって現金化を得た。蒋介石はこの資金によって軍需物資を購入したのである。

こうしてABCD包囲網の準備が整っていった。

この仕掛けは、日本の諸銀行に大損を与えることでもあった。銀を保有していた日本の銀行は、いままでの一切の紙幣とともに6割率で交換させられることになり、1500万ドルの保有銀を死蔵したばかりか、莫大な損失を被ったのである。

1941年12月8日、大東亜省(軍部の大東亜共栄圏構想のために創設された)が「サッスーン財団」を接収したときに押収した資料から、サッスーンがイギリスの「国際問題王立研究所」にかかわっていたこと、またその下部機関はイギリス系メイソンであることが分かっている。

表面的には日英・米対決であるが、すべては「陰の世界権力」の大東亜共栄圏構想破壊の戦略によるものであったのだ。ABCD包囲網の完成も蒋介石政権顧問のドナルド(イギリス系メイソン)とアメリカに渡ってルーズベルトと会談した宋美齢(蒋介石夫人。淅江財閥の娘で、アメリカ系婦人メイソン「イースタン・スター」結社員)の活躍に負うところが大きかった。

 

 


 

■■Part-4


■「ユダヤ東北アジア共和国」建設計画


以上が幻の「ユダヤ満州共和国」建国構想の経緯である。

ところで、1986年夏、私のもとへ某国際組織の役員を通じて、将来に激戦が予想される中東(ガザ地区が中心になろう)紛争を防止することなども含めた目的で、「ユダヤ東北アジア共和国」をつくる計画があるとの報せがもたらされた。そして、私にその計画への協力援助の要請が伝えられたのである。実に昔日の再現である。

私は「ユダヤ満州共和国」構想を推し進めた体験のある某氏から、一人のユダヤ人の長老が「我々ユダヤ人がこの地上で最も住みよい、天国であると公私ともに思えた場所は満州であった」と話してくれたということを聞いている。そういうことからも、私は満州地域にユダヤ人の国を建設することには現実性があり、また国際上の諸問題の解決にも大いに有効性があると考えている。

というのは、同祖とされる日本とユダヤが一致協力することで、東西の衝突を、ことに中東の衝突を止めることができると考えるからである。

そういう経緯から、「ユダヤ東北アジア共和国」の建設計画は、すでに実践段階に入っている。いま、進められている計画を公表することはできないが、すでに大きな勢力の心的・物的援助を受け、着々と進展していることをご報告しておきたい。

(余談になるが、1990年8月14日に、NHKテレビでベルギー制作による「ユダヤ満州共和国」を扱ったテレビ番組「日本への脱出」が放映された。ユダヤの人たちはその時の想いと苦悩をとつとつと語っていた)。

 

■アメリカのエゴに踊らされてはいけない


私が「陰の世界権力」の存在にふれ、「陰謀に踊らされてはならない」と言うのは、単にだまされるなということなのではない。世界の実相を知ったうえで、「大人」の対応をしていかなければならないということである。それがひいては、陰謀・密約の罠に足をとられないことにつながるのだ。

ありていに言えば、アメリカの出方には最大の注意が肝要である。とくに焦点とすべきが、アメリカの通商・技術競争戦略である。

アメリカの通商戦略は、単に国際競争力をつけて通商拡大をはかるのではなく、アメリカ主導のもとで国際的枠組みの改変、新設を行い、自国の通商上の優位性を確立しようとするものであることは明らかである。

前にも触れたが、私が構想する「東アジア連邦」の建国は、父の遺言を受けてのものなのである。そしてそこには、父と私の二代にわたり、日本と中国の政界・財界の要人から軍人、役人をはじめとする、数多くの人たちとの運命的な体験があったのである。

また、無前提に「東アジア連邦」などというと、時代的な大アジア主義を思い出して不快な気分になる方がいるが、前に述べたように、私の構想する「東アジア連邦」は、戦前のそれが「覇道」によるものであったのに対し、「王道」によるものである。

 

■「東アジア連邦」構想


私は結論として次のように強調し、提唱したい。

「地球連邦」完成のために、まず「東アジア連邦」をつくり、そして「ヨーロッパ連邦」、「中東連邦」、「アフリカ連邦」と、各ブロックの連邦化を積み重ねてゴールに至ることが最良の道である──。

かつての「地球連邦」運動のように、本部をアメリカに置いて一斉に支部をつくったものの、たちまち衰滅して名前だけの運動になってしまった前轍を踏むべきではないのだ。

各ブロックの連邦化のプロセスでは、「環太平洋連邦」も生まれていくだろうが、まずは「東アジア連邦」の結成を急がねばならない。そして、その一員として「ユダヤ東北アジア共和国」を再現することが、新たな世界大戦を、また「陰の世界権力」の暴走を防止する唯一無二の方法となる。そして、事態はきわめて緊急を要している。

問題は日本の出方である。日本は「東アジア連邦」のまとめ役となり、進んで斡旋・仲介の労をとるべきであろう。かつての苦い経験「大東亜共栄圏」の轍を踏むのではなく、アジア諸国の世話役に徹してこそ、アジアを1つにする力となりうるだろう。

また、「東アジア連邦」構想にとって最大の難関となるのは中国である。この、世界最多の人口と世界屈指の国土を持つ大国は、1つの国家に統一すること自体が無理なことだった。中国はいま、その弊害に苦しんでいる。

中国は9つに分割し、それぞれが自治国家として共同する「中国連邦」として運営していく方法が最も賢明だと思う。それが台湾の平和的な復帰にもつながる。また、こうしないかぎり中国の未来はなく、同時に「東アジア連邦」の未来もないと考える。

「中国連邦」を提唱する理由は、中国地域が元来、他民族の雑居エリアだからである。辺境諸国(地区)特にモンゴル、満州、新彊ウイグルなどを回って感じることは、人種・民族、宗教、風俗・習慣、言葉などがみな異なり、多いところで17、8種族が混在していて、統一などまるで非現実な考えにすぎないということである。

また、現在、極端な地域間の経済格差が広がっていること、各地方の中央政府離れが強まっていることなども、将来の中国の分裂の大きな要因となるだろう。

〈後略〉

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 

平和郷であり、王道楽土だった満州国 

 


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