No.A7F_he_mitra

 作成 1998.3

 

ミトラ教と神智学

 

■■第1章:ローマ帝国内で威勢を誇った幻の世界宗教ミトラ教


●ミトラ教は、ヘレニズム・ローマ世界で主に紀元1世紀から4世紀にかけて、キリスト教と並ぶ救済宗教として絶大な支持を集めていた。

ミトラ教の存在は、キリスト教徒が最も触れられたくない異教のひとつである。なぜなら、ミトラ教こそ、キリスト教のルーツであり、ユダヤ教以外でキリスト教オリジナルとされている儀礼、例えば洗礼や聖餐など、そのほとんどを生み出しているためである。ミトラ教には、キリスト教が備えている救済宗教としての神話も神学も密儀も、全て備えていた。イエス・キリストに当たる救済者すなわちメシアは、ミトラ神そのものだった。


●世に近親憎悪という言葉があるごとく、まさしく初代のキリスト教会は、ミトラ教を激しく弾圧した。あまりにも両者は似ているため、あるキリスト教徒は、ミトラ教を指して「悪魔がキリスト教を模倣してつくった宗教だ」とまで主張するほどだ。

そればかりではない。フランスの宗教史家エルネスト・ルナンは、その著書『マルクス・アウレリウス伝』で次のように述べている。

「もしキリスト教がなんらかの致命的な病によって、その成長を止められていたならば、恐らく世界中がミトラ教になっていただろう。」

エルネスト・ルナンのこの言葉から、キリスト教成立当時、いかにミトラ教が隆盛を誇っていたかが推測できる。実際に、ミトラ教の勢力範囲は、ローマ・ペルシアの地はもちろん、北はイングランド、東はイスラエル・シリア、南はアフリカのサハラ砂漠にまで及んでいたことが、残された遺跡などから確認されている。


●ミトラ教のルーツは、古代ペルシア人(アーリア民族)のミトラ信仰にある。ミトラ神は契約神・戦神・太陽神などの多彩な顔を持ち、古くからイラン・インド両民衆の間に絶大な人気を誇ってきたのであった。

紀元前7世紀頃に実施されたゾロアスターの宗教改革によって、一時期、ミトラ信仰の熱は下火になったが、ゾロアスターが世を去ると、彼の後継者たちは民衆のミトラ人気に抗えず、すぐさまミトラ神をゾロアスター教に取り込んだ。

とはいえ、この時点ではまだミトラ神の階級は「最高神アフラ・マズダ」の神格からすれば、第2位であったが、後には最高神アフラ・マズダと同格にまで引き上げられた。そして最終的には、アフラ=ミトラとしてこの唯一神と習合し、冥府で死者を裁く審判者の役割を獲得したのである。

 


(左)ゾロアスター(ザラスシュトラ)(右)ゾロアスター教のシンボルマーク

※ このシンボルマークは羽が「自由」を、真ん中の人物が「知恵」を、
光輪(金の輪)が神との契約による「信仰」を表していると言われている。

 

●ミトラ神は歴代のペルシア王朝において国家の守護神として厚く尊崇されてきた。また一方では、1世紀後半に西北インドに興ったクシャーナ朝に伝えられて「太陽神ミイロ」となり、後にはこれが仏教に取り入れられ「弥勒菩薩」となる。

アケメネス朝の頃から、ミトラ派の神官たちは小アジア地方にも活動の場を広げていたが、紀元前1世紀頃になると彼らはギリシアの影響を強く受け、その結果、ミトラ神をギリシアの「太陽神ヘリオス」と同一視した新たな信仰が生み出される。

またミトラ派の神官たちは、バビロニアの神官団(カルデア人)と合流し、ミトラの密儀とバビロニアの占星学を統合して「秘教占星学(ズルワーン神学)」を作りあげ、ミトラ教という宗教に発展させた。これはのちにバビロニア=ストア学派の手でローマ帝国に伝えられる。このバビロニア=ストア学派は、バビロニアの宗教思想をギリシアやローマへ導入する窓口で、紀元前4世紀から3世紀まで約700年間活動した。

 

中央に「天の雄牛」を屠るミトラが、周囲に黄道12宮の
表象が描かれ、ミトラが宇宙の支配者であることを示している。
ミトラ教はキリスト教が普及するまでローマ帝国内で広く流行した。
(上の画像はレバノンのシドンにある4世紀頃の大理石のレリーフ)

 

●既に触れたように、ミトラ教はローマ帝国内で非常な威勢を誇った。各地にミトラ神殿が建立され、歴代ローマ皇帝の中にも、ミトラ神を政治的に利用するだけではなく、信仰を捧げた者がいた。

しかしこれは別に驚くほどの現象ではない。もともとミラト信仰はアーリア民族の神話(正典『アヴェスタ』)をベースにしたものであり、ペルシア帝国と同じアーリア系国家であるローマ帝国内でも絶大な人気を誇るのは自然な成り行きであったのだ。

しかし、現実の歴史は、キリスト教による世界独占の方向に進んだ。ミトラ教の敗北は、313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を受容した時点(ミラノ勅令)で、ほぼ決定したのである。

 


イエス・キリストの磔刑像

 

●なお、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥のユリアヌス帝の時代に、ミトラ教には失地を回復するチャンスがあった。ギリシア哲学に傾倒し、教養ある賢帝だったといわれるユリアヌス帝は、キリスト教を捨ててミトラ教に帰依し、ミトラ教の復興に尽力したのである。

 


(左)ミトラの密儀が執り行われていた洞窟。
中央奥に岩から生まれるミトラ神の立ち姿がある。
(右)ローマ帝国のユリアヌス帝。キリスト教を捨て、
ミトラ教に帰依し、ミトラ教の復興に尽力した。

 

●だが、このユリアヌス帝の死後、ローマ政権と結んだキリスト教による一元的な宗教支配体制が着々と押し進められていった。392年には、ローマの伝統である宗教的寛容さを打ち切る旨の勅令が出され、国の祭儀として行われていた古代ローマ時代から続く儀礼への国費補助が打ち切られた。そして、ミトラ教をはじめとする異教の神殿は破壊され、それまでミトラ神の洞窟神殿だった聖域上にキリスト教会が建立されたのである。

 

 


 

■■第2章:ローマ帝国以外でのミトラ教の動き ~東方ミトラ教の活躍~


●ミトラ教は徹底的に弾圧され、ローマ帝国内から駆逐された。しかしこれがローマ帝国崩壊への決定的な引き金となり、ローマ帝国は東西に分裂する。ミトラ教は一般にこの時点で地上から消滅してしまったと考える人が少なくないが、その認識は正しくないといえる。

ミトラ教全体の歴史に関しては、東條真人氏の著書『ミトラ神学 ─ 古代ミトラ教から現代神智学へ』(国書刊行会)に大変詳しく載っている。興味のある方はぜひ一読して欲しい。

とりあえず、ローマ帝国以外でのミトラ教の動きについて、以下に簡単に紹介しておこう。

 


『ミトラ神学 ─ 古代ミトラ教から
現代神智学へ』東條真人著(国書刊行会)

 

●ヘレニズム時代、ヘレニズム政策のもとで、出身民族を問わないミトラ派が勢力を強めていた。

アレキサンダー大王の東方遠征で、もとアケメネス朝ペルシア帝国だった広大な地域には、セレウコス朝シリアやパルティア王国が作られた。この2つの王国は、ともにヘレニズム的な国際主義を国策としたので、ミトラ信仰とミトラ派の「ズルワーン神学」が大いに興隆し、この2つの王国では「ズルワーン神学」が国学となり、国王はミトラ神の化身であるとされた。そして、ギリシア神話との対応関係が研究され、これまでのものに新たな概念が付け加えられた。

このギリシア神話と融合した神話は、西アジア一帯に広まり、大変な人気を博した。この人気を背景に、「ズルワーン神学」の周辺部の知識がギリシア人によって西に伝えられ、「占星術」として知られるようになったのである。


●トルコ北部とクリミア半島には「ポントゥス王国」ができた。これはクルド人がつくったミトラ教国家で、この国の海軍の将兵たちがローマ帝国に積極的にミトラ教を広めたのであった。クルド人は、のちにアユーブ朝とザンド朝をつくり、イスラムにミトラ教を融合させていった。

アフガニスタン・パキスタン・中央アジア・カシミール地方を合わせた地域には、ミトラ神を崇拝するミトラ教国家「バクトリア」が誕生した。バクトリアの王家は、ギリシア系のプラトン一族で、ギリシア本土の哲学者プラトンとつながっている。このバクトリアが滅亡したあと、「クシャーナ帝国」が生まれ、仏教を国教とした。王朝が変わってもミトラ信仰は盛んだったので、それを仏教化した弥勒信仰が生まれた。


●ちなみに、厳密にはピタゴラス、エンペドクレス、プラトン、ストア学派、新プラトン学派というのは、純粋なギリシア哲学ではない。彼らはカルデアの神官から「ズルワーン神学」を学び、それをギリシアに広めたのである。

プラトン一族のもとには、ミトラ教のカルデアの神官がひっきりなしに来訪していた。また、新プラトン学派という呼称は、19世紀にドイツの学者が便宜上つけた名称で、当人たちは「カルデア神学の師」と自称していたのである。

 


古代ギリシアの哲学者プラトン

 

●この件について、ミトラ教研究家の東條真人氏は次のように語る。

「日本は、明治維新以後、欧米から知識を輸入し、その他の地域からはほとんど何も輸入しなかったため、欧米の勝手な歴史観を鵜呑みにしてしまった。その典型が『ギリシア哲学はヨーロッパが継承した』という欧米人のプロパガンダである。これは宗教・神智学に限って言えば完全なウソである。ピタゴラス、エンペドクレス、プラトン、ストア学派、新プラトン学派という一連の流れは、ミトラ教を介して、シーア派とスーフィズム(イスラム神秘主義)に継承されたというのが真実である。〈中略〉

現代イラン(シーア派)の神智学や政治神学もプラトン直系である。こういう事実を素直に認めないといけない。ホメイニ師の政治神学は、プラトンの『国家』を発展させたものである。欧米人はムシのいい一面があって、自分たちだけがギリシア文化の継承者だというイメージを世界に植え付けようとしているのである。こういうイメージ操作を打ち破って欲しい」

 


イランの国旗

 

●こうした一連の歴史の流れの中で、「ズルワーン神学」の後期の形態から「西方ミトラ教」が生まれ、それがさらに発展して「東方ミトラ教(明教)」になった。イスラムが広がり始める7世紀以降は、徐々にイスラムにとって替わられていくが、全てが一夜にしてイスラム化したわけではない。12世紀まで東方ミトラ教の本部はバグダッドにあったし、イラン本土では16世紀までイスラム教徒は60%で、残りはマズダー教徒や東方ミトラ教徒であった。

こういう並存状態の中で、ミトラ神学はイスラム神学の中に移されていった。それには様々な形態があった。イスラム神学者や神秘主義の師たちがこれらを学んで、それをイスラムの中に取り入れる場合もあれば、マズダー教徒やミトラ教徒の集団が「スーフィー教団」と呼ばれるイスラム神秘主義の団体に変わっていくという場合もあった。

やがて、ミトラ神学を理論的支柱としながら、外面的には「マフディー信仰」という形態をとっている宗派が形成されていく。それがシーア派とイスマーイール派である。この両派の柱となる理論は「宇宙の中軸」理論と呼ばれているが、これはミトラ神学を継承発展させたものである。このイスラムの神学は「東方神智学」と呼ばれている。


●ミトラ教は時代によって5つに区分することができる。


◎原始ミトラ教時代 …… 紀元3世紀までのバビロニアを中心とした時期

◎西方ミトラ教時代 …… ローマ帝国とセレウコス朝シリアを中心とした時期

◎東方ミトラ教時代 …… バビロニア=イラン=中央アジア=中国など
               全ユーラシア大陸に広がった時期。
               伝道者マニの名をとって「マニ教」とも呼ばれる。

◎東方神智学時代 ……… イスラムの神学と融合した時期

◎現代神智学時代

 

 


 

■■第3章:「神智学協会」と「人智学協会」の誕生


「神智学」とマダム・ブラバッキー


●現代神智学の祖はロシア人のマダム・ブラバッキーである。本名はヘレナ・ペトロヴナ・ブラバッキーで、1831年にロシアのエカテリノスロフに生まれ、前半生は放浪の生活を送った。自伝によれば、世界を旅して秘教を学び、エジプト、中東、ジャワ、日本にまで足を伸ばし、インドのラダックからチベット入りを試みたという。そして1851年にロンドンのハイドパークで初めてマスター(霊的師匠)に出会ったともいう。

 


マダム・ブラバッキー

1875年に「神智学協会」を設立した

 

●1873年に渡米して心霊研究家となり、1875年にオルコット大佐とともに「神智学協会」を設立。そして1877年に1000ページを越す大著『ベールを脱いだイシス』を完成させ出版。これは古代宗教から東洋思想、西洋的秘教から現代科学までを縦横無尽に並べ、上巻で科学の誤謬を、下巻でキリスト教の誤謬を論じたものであった。そして題名から分かる通り、西洋オカルティズムの故地としてのエジプトを指向していた。


●翌年1878年に、マダム・ブラバッキーはインドに渡った。インド行きは思想面にも転換点を与えた。東洋的秘教用語を積極的に取り入れるようになり、ヒマラヤのマスターの存在を説くようになった。また新たに輪廻転生説やカルマ説を認めただけでなく、根源人種論が加わった。これは7つの循環期、7つの根源人種といった段階を経て人類が霊的に上昇していくという霊的進化論である。それが最初に開陳されたのがA・P・シネットの『エソテリック・ブッディズム』(1883年)であり、驚くべき物量で展開されたのが、マダム・ブラバッキーの主著とされている『シークレット・ドクトリン』(1888年)である。


●「神智学協会」は1882年に、インド・マドラス郊外のアディヤールに本部を移し、その2年後にマダム・ブラバッキーとオルコット大佐はヨーロッパを訪問。多くの著名人から歓迎され各国に支部を建てている。しかし、この欧州訪問中、アディヤールの本部は大騒動になっていた。エジプト時代の旧友で本部の職員だったエマ・クローンが、解雇された腹いせに、インドのあるキリスト教系新聞にマハトマの手紙の「真相」を暴露してしまったのである。

「神智学協会」は注目を集めていた団体だけに、このニュースはすぐにイギリスにも伝わり、この調査に当たったリチャード・ホジスンの提出した報告書は、マダム・ブラバッキーにとって致命的な内容だった。


●この報告書のために、彼女は追われるようにインドを逃げ出し、ヨーロッパを転々とした。1887年にロンドンに到着すると、彼女をあくまでも東方から来た導師と仰ぐ信奉者が、欧州やアメリカから集まり、ロンドンに「ブラバッキー・ロッジ」が開設された。そして機関紙『ルツィフェル』を創刊し、『シークレット・ドクトリン』『神智学の鍵』(1889年)の出版とむしろ精力的な活動を続けるようになる。

1891年、彼女は多くの謎を携えたままロンドンで亡くなった。

 

「人智学」とルドルフ・シュタイナー


●日本でも「シュタイナー教育」で有名なルドルフ・シュタイナーは「人智学」の創始者である。その著作や講演録は、実に400巻に及ぶ膨大なものである。

 


ルドルフ・シュタイナー

1912年に「人智学協会」を設立した

 

●シュタイナーは1861年に、現在のハンガリーとクロアチアの国境沿いにあるクラリエヴェクに生まれた。1879年にウィーン工科大学に入学し、物理学を中心とした自然科学を専攻しながら、同時にドイツ最大の詩人ゲーテの研究にも手を染め、卒業後の彼は、まずゲーテ研究家として世に出ることとなった。1891年にロシュトック大学で哲学博士号を取得。1893年には、ゲーテ科学論文集を編集している。


●シュタイナーは、マダム・ブラバッキーが創始した「神智学」に深い関心を抱くようになり、神智学協会内部での定期的な講演会を持つようになる。そして1902年に神智学協会ドイツ支部が創設されると、多くのメンバーの推薦でシュタイナーはその事務総長に就任。彼は機関紙『ルツィフェル』誌上で、続々と重要な論文を発表していくことになる。

だが1912年、マダム・ブラバッキーの後継者アニー・ベサントと意見が衝突して、シュタイナーは神智学協会から離反することになる。同年末、彼が自ら主宰する「人智学協会」を設立すると、ドイツの神智学者のほとんどは彼に従った。


●マダム・ブラバッキーのような純粋な霊媒とは異なり、自然科学者の目と哲学者の論理的思考能力、それに芸術家の文章構築力を備えた見霊能力者であったシュタイナーは、これからの神秘学は、学問として成立しうるものでなくてはならないと考えていた。そのためには、従来の神智学協会における「マハトマ」のような神秘的存在は、まず第一に遠ざけねばならないと考えた。なぜならば、そうした存在は教祖にしか把握できず、それゆえに教祖の仲介なくしては、それと接触するのは事実上不可能だからである。

万人が自ら、彼のいう「超越的認識」を獲得できてこそ、人智学はひとつの学問たりうる。
「いかなる人もここに述べられている霊学的認識内容を自分で獲得できる」──この高らかな宣言こそ、人智学が従来の神秘主義と決定的な一線を画したことを示す凱歌であった。


●シュタイナーは死後の世界の実在や、輪廻転生、カルマ、存在界の三区分(物質界・生命界・霊界)、生命の霊的進化などの観念を総合し、独自の壮大かつ緻密な宇宙観を組み立てた。そこには当然、彼が神智学から受け継いだ伝統的な東西の秘教の教義というバックボーンがある。だがその多様な霊的知識を、彼は整合性と合理性に裏打ちされた大系にまで高めたのである。


●彼は、物質偏重に傾きすぎた今日の文明のあり方を正すために、今こそ古代以来の秘教的・霊的知識を総合し、これを万人に公開せねばならない、と考えていた。そしてそのためには、近代的認識批判の立場にとっても受けいれられる言葉によって、それを語ることを必要とし、自らそれを実践してみせたのである。

教育においては、「シュタイナー学校」と呼ばれる独自の全人教育システムを考案し、社会芸術としての教育を提唱。社会運動の分野では、社会を法律(国家)・経済・精神(文化)の3つの領域に文節化する「社会三分節化運動」を唱導した。また、今から70年も前に農薬や人工添加物の害を説き、土壌を破壊しない肥料を開発するなど、時代を先取りした農法を理論化し実践した。

そして芸術面では、自ら画家・彫刻家として多数の作品を制作したほか、人間の肉体と心によって霊の存在を可視的に表現する未来芸術「オイリュトミー」を創始している。


●1925年にシュタイナーは世を去った。

※ 彼はナチスによる迫害の対象となり、晩年は苦しい社会的生活を強いられていた。
(詳しくはこちらのファイルをご覧下さい)。

 

 


 

■■第4章:神智学・人智学運動は「東方ミトラ教」の再興であった


前出のミトラ教研究家の東條真人氏によれば、マダム・ブラバッキーの創始した「神智学協会」の教義は、バビロニア=ストア学派直系の教えであり、古代ミトラ教の神学を伝えるものだという。「人智学協会」を創始したシュタイナーに関しても同じで、彼の教義もミトラ教がオリジナルだという。

参考までに、東條真人氏の見解をコンパクトに整理して、以下に載せておくことにする。


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日本人のほとんどの人は、ミトラ教やシーア派の神学の高級な部分に触れたことがないため、シュタイナーやブラバッキーの神智学が、とても新鮮に見えるようである。しかし妙に科学的に解説しているという部分を取り去ると、ミトラ教の神学で既に確立していることばかりで、目新しいものは何もないのである。

時代を7つに区切る発想法、世界教師論、7光線の瞑想法、秘教占星学など、どれも彼らのオリジナルではなく、ミトラ教がオリジナルである。シュタイナーのキリスト論は、ほとんど全てを東方ミトラ教の教義に基づいている。ロゴスや聖霊に関するシュタイナーの解釈は、マニの教義の受け売りである。ミトラ教のオリジナルを本当の意味で発展させたのはシーア派である。

シュタイナーは、『輪廻転生とカルマ』の「人智学運動のカルマ〈1〉」の中で、人智学運動に携わる人は、かつて中部ヨーロッパと南ヨーロッパにいた秘教的キリスト教徒だと述べている。キリスト教やミトラ教の歴史に疎い人は、“ああ、そういうキリスト教徒もいたんだ”くらいで通り過ぎてしまうだろうが、この記述はそういう軽い記述ではない。

シュタイナーがいう「秘教的キリスト教」とは、東方ミトラ教の一派「パウロ派」「ボゴミール派」「カタリ派」のことである。シュタイナーは、ソフトな表現ながら極めてはっきりと人智学運動は東方ミトラ教の再興であることを明言しているのである。このような考えを持つシュタイナーが大マニを高く評価するのは当然のことと言えよう。このような系譜論をはっきりと捉えることにより、“東の智慧と西の智慧はイエスの中で結びついた”というシュタイナーの言葉は、とても具体的なものになるのである。

アリス・ベイリーの著作もミトラの秘儀のひとつメタトロン神秘主義やハランのミトラ教団(サビアン教団)の教義を下地にしている。また、表にはっきりと明示していないが、カバラが重要なベースになっている。ベイリーの著作を読めば分かるが、ベイリーに知識を与えたというジュアル・クールは、チベットの大師という表看板とは裏腹に、チベット仏教についてはほとんど何も知らず、むしろ「ズルワーン神学」やカバラにやけに詳しいのである。

ブラバッキーにミトラ教の神学の伝統を教えたのは、イラン人ベフラムシャー・シュロスである。シュロフからもらった秘教占星学に関する知識をもとに、7光線占星学の解説書が書かれたのである。そもそも古代において、惑星の秘儀を持っていたのは、ミトラ教だけである。その他にも秘儀があったが、それらは惑星には一切関係していない。

また、スーフィズム(イスラム神秘主義)を欧米に最初に紹介したのはグルジェフであるが、グルジェフのスーフィズムは「ナクシュバンディー教団」の教えの一部である。しかし、グルジェフはイスラム色を払拭して西洋にスーフィズムを紹介したので、グルジェフの教えがスーフィズムを基礎にしていることを知らない人もいる。

スーフィズムの教義とブラバッキーやアリス・ベイリーの教義は、用語に違いがあるだけで、本質、定式化、組織化手法などは同じである。ブラバッキーを仏教の焼き直しだというのは的外れな批判である。ブラバッキーの著書『神智学の鍵』に書かれているように、現代神智学は、プロティノスの定式化を現代に継承したものである。ブラバッキー自身は自らの教義を「東方神智学」と呼んでいる。スーフィズムも「東方神智学」と呼ばれている。アリス・ベイリーは『未完の自叙伝』の中で、「サンスクリット語や仏教用語の濫用が、神智学の正しいスムーズな普及の障害になった」と記している。

シュタイナー、ブラバッキー、アリス・ベイリーの著作は、それまでの西洋にない知識を西洋世界に広め、東方ミトラ教を再興した点では偉大な功績があった。もともと現代神智学は、欧米による東洋再発見という歴史的流れの中で生まれたものである。そのため、インド的な発想にかなり傾斜している。これは仕方のないことである。なぜなら、ブラバッキーが現代神智学の基礎を築いた19世紀末から20世紀初頭には、ミトラ教やイスラムのことは、ほとんど欧米には知られていなかったからである。これらに関する研究が盛んになったのは、欧米でも戦後になってからなのである。

本格的に秘教を学ぼうとする者は、彼らの著作は真の秘教に至るための中継点に過ぎないと認識して、彼らがどこから知識を持ってきたのかを探り、幅広く秘教の伝統を学んでいくことが大切である。現在欧米では、アカデミズムの影響が広がって、西欧神秘主義の虚構に満ちた歴史が見直され、スーフィズムなど東方ミトラ教の影響力が再認識されつつある。

では、結局、ブラバッキーと、シュタイナーと、アリス・ベイリーとは何者だったのか? 結論から言うと、この3人は非西洋の宗教的伝統を、欧米に紹介したにすぎないのである。シュタイナーも非西洋なのか? という人がいるかもしれないが、シュタイナーのキリスト論は、ほとんど全てが東方ミトラ教の教義に基づいている(例えば、ロゴスや聖霊に関する解釈は、シュタイナーのオリジナルではなくて、マニの教義の受け売りである)ので、西洋=キリスト教文化と考えるなら、シュタイナーのキリスト論は、非西洋といっていいだろう。

この3人は、非西洋、つまり、仏教、スーフィズム、東方ミトラ教といったアジアの宗教思想や、カバラなどのごった煮のパッケージを独自ブランドでぶち上げて、その権威化を図ったのである。それが1900年頃のことである。

 

※ 以上、東條真人氏の見解である。なかなか鋭い指摘だと思われる。

 

 


 

■■第5章:知られざるミトラ教と日本のつながり


●「ミトラ教」は、「ミトラス教」(古代ローマ帝国)、「明教」(中国)、「マニ教」(摩尼教/中央アジア・中国)、「ズルワーン教」(ペルシア)、「ボゴミール派」(東欧)、「カタリ派」(フランス)などとも呼ばれる。

ボゴミール派やカタリ派をキリスト教の一部とみなし、その異端とする考え方は古い見方で、最近の宗教学では修正され、もともと思想も系譜も異なる東方オリエント系の宗教のキリスト教世界への伝播と考えられるようになってきている。


●「ミトラ神」は、キリスト教徒にとっては「キリスト」そのもので、ユダヤ教徒にとっては「大天使メタトロン」であり、イスラム教徒によっては「イマム・マーディ」、ヒンドゥー教徒によっては「カルキ神」、または「クリシャナ」の再臨とされている。神智学では、ミトラ神のことを「ブラフマー」あるいは「ロゴス」と呼び、その地球上での姿を「世界教師」と呼んでいる。

「ミトラ」という名前は、サンスクリット語で「マイトレーヤ」と転訛し、インドやチベットなどではマイトレーヤと呼ばれている。一方、イラン系ミトラ=ミスラがミフルと転訛。続いてミクル→ミルクル→ミルクとなり、最終的に「ミロク」と呼ばれる。このミロクが漢字に翻訳されて「弥勒」となり、マイトレーヤの訳語となる。これが「弥勒菩薩」である。弥勒菩薩は仏教におけるメシアである。

このように、世界中の主要な宗教の中にミトラ神の像が組み込まれている。

 


広隆寺の弥勒菩薩像

※ 国宝第一号に指定されている

 

●ミトラ信仰は、中央アジアから中国・古代朝鮮を経由して日本にも伝えられ、弥勒信仰の中に生きている。日本において弥勒信仰は、そのまま仏教だった。当時、いち早く仏教を取り入れようとしたのは、蘇我氏であった。彼らは仏教を政治的に利用して、古代日本の支配権を手に入れた。

その際、蘇我氏がバックにつけたのが仏教を持ってきた渡来人たちであった。なかでも、最大の力を誇っていたのが「漢氏(あやし)」なる一族だった。漢氏は、ペルシア系渡来人で、仏教のほかに奇妙な信仰を持っていた。それは、漢氏にちなんで「漢神信仰」と呼ばれたが、その中心は雄牛を殺す儀式にあった。この儀式はミトラ教の密儀に通じている。

 

 

●12世紀以降の中央アジアと中国では、東方ミトラ教ミーフリーヤ派(弥勒派)が活発な活動をし、彼らから朱子は東方ミトラ教を学び「朱子学」を興した(12世紀)。さらに王陽明が「陽明学」を築いた(15世紀)。東方ミトラ教は別名を「明教」というが、中国では明(1368~1644)という王朝名の由来となった。

朱子学と陽明学は東洋版神智学の双璧である。日本では江戸時代に林羅山、三浦梅園らが「日本朱子学」を興隆させ、中江藤樹らが陽明学を興隆させ、伊藤仁斎らが「古学」を起こし、荻生徂徠が「徂徠学」を起こし、本居宣長らが「国学」を起こした。


●「神智学」はマダム・ブラバッキーやルドルフ・シュタイナーの十八番と思われがちだが、そうではない。東方神智学的な認識は、日本の朱子学や陽明学、徂徠学、国学などのいわば日本版神智学と極めて類似した思考パターンを示している。国学=日本版神智学と考えたほうが正解である。

なお、20世紀初頭、インドの巨星タゴールの詩集をいち早く翻訳した功労でも知られる三浦関造氏がブラバッキーの『霊智学解説』を翻訳出版したが、この本が日本における神智学資料の草分け的存在になり、現在、三浦関造氏は日本神智学の祖とされている。

 

 


 

■■おまけ情報:キリスト教とミトラ教の共通点


●キリスト教とミトラ教の共通点を簡単に挙げておきたい。


【誕生の予言と目撃】

ミトラ誕生は、3人の占星術の学者たちが予言し、羊飼いがその誕生を目撃する。そして彼らは捧げ物をもって誕生を祝いに行った。これは福音書のイエス誕生と通じている。

【誕生日】

ミトラの誕生日は、冬至の日、12月25日。これはイエス・キリストの誕生日に置き換えられた。

【奇蹟】

ミトラは死者をよみがえらせ、病気を治し、目の見えない者の目を見えるようにし、歩けない者を歩けるようにする。イエスの数々の奇蹟と共通している。

【12弟子】

イエスには12人の使徒がいた。ミトラは12星座に囲まれる。ミトラ教において、12星座は12人の神に象徴される。

【復活祭】

ミトラの勝利を春分の日に祝うことがもとになっている。(キリスト教の復活祭)

【最後の晩餐】──もとはミトラのオリンポスでの祝宴

これはミトラが天上に帰還する前日に12人の光の友たちと最後の晩餐をすることがモデルになっている。

【聖体拝領】(パンとブドウ酒)

もとは、ミトラとアポロンが催す宴席に信者一同が参加し、聖なるパンとワインを分けてもらうことで自分たちがアポロン同様に「ミトラの友」であることを確認する儀式であった。新しい仲間を迎えるときも、同様の儀式をした。
ミトラ教の密儀では、牛を殺して、その肉と血をメンバーとともに食べる。これは、そのままキリスト教における聖餐の儀礼である。ただ、食べるのがイエスの肉=パンとイエスの血=ワインであるかの違いである。

【洗礼の儀式】

ミトラ教では、メンバーが水に体を浸す洗礼という儀式がある。説明するまでもなく、これはキリスト教の儀式そのままである。

【昇天と再臨の予言】

もとはミトラの天への帰還と再臨の予言である。ミトラは天上に帰る際、自分が再び復活して、光の友と一緒に歩むとの言葉を残している。

【復活の日と最後の審判】

もとはミトラ教におけるコスモスの終末に先立つ、死者の復活とその最後の審判のことである。

【最終戦争とハルマゲドン】

もとはミトラの最終戦争である。ミトラの友は最後の戦いで光の天使軍に加わり、闇の軍団と戦う。『ヨハネの黙示録』によれば、終末の日、イエスは白馬に乗った姿で現れる。同じくミトラも白馬に乗ってやってくる。

 

■その他の共通点

イエスはメシアである。ミトラも救世主である。

イエスは厩(うまや)で生まれた。当時の厩は洞窟であり、岩屋でもあった。ミトラはまさしく岩の中から生まれた。

ミトラ教の聖なる日は、日曜日である。『旧約聖書』によれば安息日は土曜日であったが、キリスト教はミトラ教の影響で、安息日を日曜日にした。

ミトラ教の最高司祭は「パテル・パトルム」(父の中の父)と呼ばれていたが、これがそのままカトリックの教皇の名称「パパ(父)」に通じる。

ミトラ教の密儀は、洞窟や地下で行われた。原始キリスト教徒は、みな地下の共同墓地カタコンベで儀礼を行った。

イエスは創造主なる御父がいる。『アヴェスタ』においてミトラは創造主アフラ・マズダの子供とされている。

イエスは自らを世の光と呼び、ときに義の太陽と称される。ミトラは光明神であり、太陽神でもある。

 

●このように、ミトラ教の儀礼をみれば、キリスト教にオリジナルな儀礼など何もないことがはっきりとわかるだろう。結局、「イエス・キリスト」は何者だったのか? この件に関しては「秘教的キリスト教」(準備中)において詳しく考察していきたいと思う。

※ なお、「ミトラ神学」についてはまだ研究中なので、
まとまり次第、ここにテキストを追加していきたい。

(1998年3月)

 

 





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