No.b1fha614

作成 2002.10

 

ヒトラーがプラハに設立した
「ユダヤ人の歴史の啓蒙部局」

 

 

●第二次世界大戦時、チェコの首都プラハはナチス・ドイツの手で徹底的に蹂躙された。

戦略的にはさほど重要ではないこの地が、なぜそこまでの仕打ちを受けたのか…?

 


チェコの首都プラハにある旧ユダヤ人街

 

●ユダヤ人がプラハに住みつくようになったのは、10世紀ごろからである。

プラハは16世紀に、ユダヤ神秘思想「カバラ」を研究する街として重要な街になった。
18世紀には人口の4分の1を占め、ヨーロッパでも最大級のユダヤ人の街となった。

プラハが「魔都」と呼ばれるようになるのも、このユダヤ人の存在を抜きにしては考えられない。


●16世紀から17世紀初めにかけて、プラハではカバラの巨人ラビ・レーフが活躍していた。

彼はプラハのユダヤ人たちから「高徳なるレーフ師」と呼ばれ、崇敬された。

しかし、後世、ラビ・レーフの名が世界に知られることとなるのは、「ゴーレム」つまり、人造人間を造りだしたと言われるようになったためである。ゴーレムの創出は、ユダヤ神秘思想「カバラ」の奥義中の奥義である。ラビ・レーフが「高徳なる」と呼ばれたのは、たんに信仰熱心な、という意味合いではなく、カバラの最高の秘儀をマスターし、それを実践してみせたということを意味していた。

 

 
(左)プラハで活躍したカバラの巨人ラビ・レーフの像
(右)ラビ・レーフによるゴーレム創出の
状況を描いた19世紀のイラスト

 

●このラビ・レーフが活躍していた時代、同じプラハには、神聖ローマ皇帝のルドルフ2世が住んでいた。

16世紀のヨーロッパ大陸で、最大の富と権力を誇ったハプスブルク家の出で、ボヘミア=ハンガリー王を兼ねたこの皇帝は、政庁をウィーンからプラハに移し、丘の上の城にこもった。現在のプラハ城である。

なぜ、首都をウィーンからプラハに移したかは、明らかではない。歴史家は、この時代にボヘミアが中部ヨーロッパで重要度を増したためだろうと解釈する。だが、ハプスブルク家の支配者でプラハに居を構えたのは、ルドルフ2世のほかにいないのも事実だ。

 


神聖ローマ皇帝のルドルフ2世が住んだ「プラハ城」

ルドルフ2世は「カバラ」の研究に熱心で、
ユダヤ人を迫害するよりも積極的に登用した

 

●このルドルフ2世は、変わり者の皇帝であった。

のちにウィーンで作成された『大公建白書』は、「陛下は魔術師や錬金術師、あるいはカバリストといった輩に興味を抱かれ、秘宝と名のつくものを集めるためなら、そして秘術を学び敵を呪おうというおぞましい企てのためには、いかなる出費も惜しまれない。そればかりでなく、陛下はそれこそありとあらゆる魔術書を所持しておられる」と、述べている。

ルドルフ2世は、プラハの丘の上にある壮大な城に閉じこもりがちで、ほとんど人と会おうとはしなかった。ルドルフ2世に謁見が許されたごくわずかな人々、それは錬金術師、オ力ルティスト、異端の芸術家、そしてまた永久機関を完成させんとする時計職人などである。

イギリスの宮廷占星術師ジョン・ディー博士や、高名な天文学者ティコ・ブラーエや惑星運動の研究で知られるケプラーも招かれてきた。試験管で人造人間を造ろうと考えたパラケルスス本人はすでに世を去っていたが、その後、後継者たちはプラハに移り住んだ。また、ルドルフ2世の秘密の庭園には、身の毛もよだつような奇妙な植物、見たこともないおぞましい動物などが、人目に触れぬよう栽培・飼育されていたという。


●ところで、ルドルフ2世はユダヤ人を迫害するよりも積極的に登用した。

当然、カバラの巨人ラビ・レーフとルドルフ2世は交流があったとされる。2人はカバラをめぐって知識を交換し合ったであろう。

このようにプラハは、ルドルフ2世のバックアップもあって、妖しいユダヤ神秘思想の文化が花開いた時代があったのである。

(この頃のプラハはあたかも第2のアレクサンドリアであり、「魔術の町」であった。現在でもプラハには錬金術との関連から名づけられた「黄金小路」と呼ばれる通りがある)。

 


ナチス親衛隊を閲兵するヒトラー

ヒトラーはプラハに「特別調査機関」を設立した

 

●1939年、ヒトラーはいち早くチェコを勢力圏下に置くと、プラハにナチス親衛隊大隊長カチョルスキーをリーダーとする「特別調査機関」(正式名称は「ユダヤ人の歴史の啓蒙部局」)を設立した。

プラハ占領と同時に、市内に住むユダヤ人の商店には目印をつけるように指令が出され、「ユダヤ人立ち入り禁止」のプレートが各所に取りつけられた。その後、ユダヤ人全住民の戸籍簿の作成、ユダヤ人の商店やシナゴーグの閉鎖、ユダヤ教の祭事の禁止と、その締めつけは強くなる。

ナチス・ドイツのチェコ併合の表向きの目的は、その高い工業力に基づく「富」の収奪にあったとされる。

しかし、それだけが目的ではなかった。


●「特別調査機関」の主な任務は、「ユダヤ人が人類に向けてたくらんでいる陰謀を示す証拠品」の収奪にあった。

「特別調査機関」にはプラハ市内のみならず、ボヘミア一帯の町や村から次々と「陰謀に関する証拠品」が送られてきた。ドイツ軍兵士の警備するトラックが「ユダヤ人の歴史の啓蒙担当部局」というプレートを掲げた建物に到着すると、職員が倉庫室に「証拠品」を運び込む。

トーラ(律法)の巻き物、燭台、祭事に用いられる皿、施物箱……。集められた品々は、単にリスト・アップするだけでも気の遠くなるような分量だった。


●調査は、ドイツ本国から送られてきた大学教授などの専門家が行った。

そして、ユダヤ人名簿によって「安全」とされた者が、徹底した身元調査後に雇い入れられ、助手の役割を担った。これらの職員は調査内容の口外をいっさい禁じられ、秘密を漏らすことは、即、生命を失うことを意味した。

こうしてなされた詳細な調査結果は、責任者カチョルスキーの手により、ヒトラーの片腕である親衛隊長ヒムラーのもとに極秘文書として届けられた。調査結果の内容は、ヒトラーとヒムラーの2人しか知ることはなかったのである。

 


シナゴーグ(ユダヤ教会)の内部

 

●しかし、証拠品としてかき集められたものは、ユダヤ教に関する書物や文書、祭事に用いられる諸祭具、シナゴーグに残された記録文書などであり、常識的に考えて、これらのものの中に「陰謀」を指し示す証拠があるはずがなかった。

では、ヒトラーは、それらの収奪品に何を求めていたのか。

一説にはヒトラーがプラハで捜し求めていたものは、「カバラの叡智」で、カバラの巨人ラビ・レーフが活躍したプラハはナチスにとって「叡智獲得」のための最重要地と考えられていたという。

もしそうならば、特別調査機関「ユダヤ人の歴史の啓蒙部局」がプラハに設置された謎も判明する。常識的に考えれば、同じ年に占領し、10倍近いユダヤ人が住むポーランドのワルシャワに置かれるほうが自然だからである。


●さらに、ヒトラーがチェコを最重要と考えていたとする、もうひとつの傍証がある。

1941年、当時の親衛隊保安部(SD)長官のラインハルト・ハイドリヒが、ベーメン・メーレン保護領 (チェコ)の副総督(総督代理)に任命されたことだ。副総督は実質的には保護領チェコの最高指導者という地位である。ハイドリヒは、ヒトラーの最も信頼する部下のひとりである。当時の重要度からいって、たかが保護領の統治者とは違和感を感じる人事である。

しかし、ヒトラーの最大の目的がユダヤの叡智獲得であるとするなら、むしろ当然なものとさえ映ってくる。副総督に着任したハイドリヒは、ただちにチェコ国内に戒厳令を敷くとともに、レジスタンス組織の摘発と処刑を強化。

「特別調査機関」を従えて、何かを探すように徹底的なユダヤ人狩りを行ったのである。

 

 
(左)ラインハルト・ハイドリヒSS大将 (右)ヒムラーとハイドリヒ

ハイドリヒは金髪碧眼、長身の美形で、ヒムラーに次ぐ
SSナンバー2だった。1941年9月にベーメン・メーレン保護領
(チェコ)の総督代理に就任すると、反体制派を次々に逮捕・処刑した。
その冷酷な性格から「プラハの虐殺者」の異名をとり、恐れられた。

 

●しかし、翌年1942年、ハイドリヒは暗殺される。

彼を殺した犯人は、イギリスのチャーチル首相と在英チェコ亡命政府が差し向けたチェコ人レジスタンスだった。

ナチス首脳部は逆上し、犯人逮捕のための苛烈な捜査を開始した。そして暗殺に対する報復として、犯人を匿ったとされるチェコの村リディツェ(人口460人)を焼き払い、村人たちを虐殺した。この暴虐にチェコの人々は震え上がった。

この事件は、ナチスの報復の中でも最も悪名高いものとして知られている。

 




↑ナチスの報復によって、プラハ近くのリディツェ村は 
完全に破壊された。「リディツェ」の名前はナチス
によって全ての公式記録から抹殺された…。

 

 

 


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