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No.b1fha621

作成 2004.12

 

ナチス・ドイツで開催された
「ベルリン・オリンピック」

 

 

●1936年夏、ベルリンで「第11回オリンピック大会」が開催された。

今では当たり前となっている開会式の「聖火リレー」は、ヒトラーによって初めて行われたものである。

また、巨費を投じた競技施設と五輪史上初の選手村、擬似軍隊的な開会・閉会式、国家元首によるおごそかな開会宣言、「民族の祭典」というキャッチフレーズ、初のテレビ中継大会などなど、期間中の華麗な演出はまさに現代オリンピックの原型となった。

この「ベルリン・オリンピック」は、ナチスの力を世界に誇示する場となり、「ヒトラーの大会」とさえいわれた。

 

 
ベルリンで開かれた「第11回オリンピック大会」(1936年)

 
オリンピックの「聖火リレー」を最初に取り入れたのはヒトラーである。
上の写真は、そのオリンピック史上初の「聖火リレー」を撮影したもの。

 

●この「ベルリン・オリンピック」には49ヶ国4066人の選手が参加したが、ドイツは金メダル33個を獲得し、断然トップだった。

このオリンピックはドイツ人の「国民意識」に火をつけ、「ジーク・ハイル、われらの総統、アドルフ・ヒトラー!」という観客の叫びが自発的に湧き上がるほどであった。

ドイツ国民はオリンピックを通じて、ナチスが国際的に受け入れられたと信じた。


●また、この大会の記録映画『オリンピア』(邦題・第1部『民族の祭典』、第2部『美の祭典』)は、

1938年のベネチア映画祭で金賞を獲得するなど各方面で絶賛され、不朽の名作となっている。

 

 
レニ・リーフェンシュタール。ベルリン・オリンピックの記録映画
『オリンピア』の映画監督を務め、ベネチア映画祭で金賞を獲得。


 
映画『オリンピア』のDVD
(邦題・第1部『民族の祭典』、第2部『美の祭典』)

勝敗の結果ではなく、競技する人間の生み出す
最高の美しさを、華麗なカメラワークと当時
最高の撮影技術を駆使して捉えている。

この映画は戦後、アメリカで選ばれた
世界映画ベスト10に入っている。

 

●あるドイツ人教師は、オリンピックで見たヒトラーについてこう回想している。

「周りのおばあさんたちは、まるで救世主が現れたように、すすり泣きしていました。……私もはずかしいことですが、一緒に歓声をあげたことを、白状しなければなりません……」


(ちなみに、この「ベルリン・オリンピック」に参加した日本は、合計18個のメダル──金6、銀4、銅8個──を獲得し、「前畑がんばれ」のラジオ放送は日本中を熱狂させた。閉会の言葉は、「また4年後に東京で再会しよう」だったが、日中戦争の激化で日本はこれを返上。東京オリンピックは“幻”となる)。

 

 
スタジアムを訪れたヒトラー(左)とナチス式敬礼をする観客たち(右)

この「ヒトラーの大会」とさえいわれたベルリン・オリンピックは、
「国威発揚」のプロパガンダとして空前の成功を収めた。

※ この「第11回ベルリン・オリンピック大会」以後、オリンピックの
やり方がガラリと変わってしまった(古代オリンピックの精神は
消えてしまった)。個人の力を競う大会ではなくて、個人の力を
利用して「国家を宣伝」する大会になってしまったのである。
だから、政治的にも大いに利用されるようになった。

 

●ところで戦後、レニ・リーフェンシュタールは世界中のメディアから

「ナチのプロパガンダに協力した御用監督」、「ヒトラーの“お抱え監督”」と呼ばれ、厳しい批判にさらされた。


●映画界から追放され、友人たちからも疎外され、様々な中傷を浴び続けた彼女は、

涙ながらにこう訴えていた。

「あの頃、ドイツ人は誰もヒトラーのことを疑ってませんでした。ナチスの政権が始まってわずか1年600万人もいた失業者激減したんです。短期間に生活はすごく良くなりました。戦争がこれから始まるなんて、誰も考えていませんでした。

あの当時、ナチスに反対する人なんていなかったんです。誰ひとりとして!」

「私はナチ党員ではありませんでしたし、ユダヤ人迫害賛成したこともありません……。

私が興味があったのは、“美”だけでした……」



●彼女は70歳を過ぎた頃、「スキューバー・ダイビング」の免許を取り、2000回にもおよぶダイブによって収めた海中映像や、アフリカのヌバ族を撮影した写真集を出し、世間をアッと驚かせた

その後も、彼女は精力的に芸術分野の仕事を続け、2003年9月8日に亡くなった。

享年101歳だった。

 

  
レニ・リーフェンシュタール(1902〜2003年)

〈ART&LIFE 1902-2003〉

ドイツのベルリン生まれの
舞踏家、女優、映画監督、写真家

※ 彼女の最期を見届けた人によれば、
「自然に鼓動が止まる安らかな死だった」という

 

●ちなみに、彼女は死の3年前(98歳の時)、ヒトラーについてこう語っている。

「ときどき私は、ヒトラーの夢を見るわ。そして、刺し殺してやろうと思う。

でも、なんだか、母親息子を殺そうとしているような、そんな気持ちになってしまう……。

だけど、彼は殺さなくてはいけない人間なの」


●長生きのコツについては、こう語っている。

「どんなことがあっても……、人生に『イエス(Ja)』と言うことよ」

 

 


 

青年ヒトラーの人生 〜「芸術家」から「政治家」の道へ転進〜

 


 


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