ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a3fha300
作成 1997.2
第1章 |
ヘレニストの対立 |
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第2章 |
「エルサレム教団」から
「アンティオキア教団」が分離 |
第3章 |
「エルサレム教団」と
「アンティオキア教団」の対立 |
第4章 |
消えた「エルサレム教団」の謎
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■■第1章:ユダヤ人ヘブライニストとヘレニストの対立
●ユダヤ青年イエスには12人の直弟子「12使徒」がいた。彼らが組織した教団は「エルサレム教団」と呼ばれていた。また彼らは一般に「原始キリスト教徒」と呼ばれるが、まだ当時はキリスト教なるものは成立しておらず、彼らは数多く存在したユダヤ教の宗派(サドカイ派、パリサイ派など)の1つにしかすぎなかった。
ユダヤ青年イエスは、ユダヤ教内部における宗教改革を実施したのであり、ユダヤ教の一派として「ユダヤ教イエス派」を形成させたにすぎなかった。「エルサレム教団」に所属した信者はみなユダヤ人だったし、12使徒をはじめ、マグダラのマリアやイエスの遺体を引き取ったヨセフも、みなユダヤ人だった。彼らはユダヤ教の範囲内においてイエスを信じていたのであり、ユダヤ人であるがゆえに、ユダヤ人として、ユダヤ教徒としてのしきたり、風習をわきまえていた。彼らの生活はユダヤ教徒と同じだった。
●今日のキリスト教会では、この「エルサレム教団」を「初代教会」もしくは「原始教会」と位置づけている。カトリックの総本山バチカンのローマ教皇は、この教団の直系であると自負し、初代のローマ教皇を12使徒のひとりペトロと定めている。
しかし、「エルサレム教団」は、今日の教会とは全く様相が異なっていた。ユダヤ人以外は、この教団に入ることができなかったのである。一種のユダヤ人専用の閉鎖的な集団だったのである。
●しかし当然、メンバーが増えてくるに従い、「エルサレム教団」内部ではやっかいな問題が起き始めた。いわゆる「ヘブライニスト」と「ヘレニスト」の対立と呼ばれるものである。
「ヘブライニスト」とは簡単に言えば、「ヘブライ語」をしゃべるユダヤ人たちのことを指す。もっともヘブライ語といっても、当時はほとんど死語に近く、アラム語が使われていた。
アラム語とは、基本的にシリア語のことで、言語学的にはセム系で、ヘブライ語の方言のようなものである。そのため「ヘブライ語アラム方言」といっても正しい。このアラム語は、中東をはじめ、メソポタミアや地中海などで、広く使われていた言語であり、シルクロードを通って、一部の西域諸国やインドまで伝わっていた。イエスはもちろん、12使徒をはじめ、まわりのユダヤ人はみなアラム語で日常会話を行っていたのである。
●一方、「ヘレニスト」についてだが、当時、ユダヤ人たちは、パレスチナ地方だけに住んでいたわけではなく、地中海沿岸に散らばっていた。彼らはアラム語をしゃべらず、その土地の言語を使っていた。特にアラム語に匹敵するほど大きな勢力を持った言語は「コイネー・ギリシア語」である。これは地中海沿岸に広まっていた言語で、その地で育ったユダヤ人の多くは、このコイネー・ギリシア語を使っていた。当時のギリシア文化は、アレキサンダー大王によって確立された「ヘレニズム文化」のことを指す。そのため、ギリシア語を使うユダヤ人たちのことを「ヘレニスト」と呼んだのである。
当然、この地中海沿岸に住むヘレニストたちも、ユダヤ人ゆえに「エルサレム教団」のメンバーになることはできた。しかし、言語の持つ力とは大きいもので、言語が違うと、文化も違う。文化が違うと、風俗、習慣が違う。違うゆえに軋轢が生まれる。
『新約聖書』には次のような記述がある。
「その頃、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語(アラム方言)を話すユダヤ人に対して、苦情が出た」(「使徒言行録」第6章1節)
●このギリシア語を話すユダヤ人「ヘレニスト」と、ヘブライ語(アラム方言)を話すユダヤ人「ヘブライニスト」の亀裂は、次第に大きくなっていく。
■■第2章:「エルサレム教団」から「アンティオキア教団」が分離
●「エルサレム教団」に所属していたヘレニストのひとりにステファノという男がいた。彼は、「エルサレム教団」がユダヤ人のみから構成されていることを、ひどく気に入らなかった。非ユダヤ人(異邦人)に対して、門戸を開くべきだ。そして、もっと非ユダヤ人に対して、布教を積極的に行うべきだ。そう、主張した。
彼はエルサレムの「ソロモン第2神殿」にこだわることは偶像崇拝につながるとして、ついに独自の布教活動を開始。ステファノのグループは、エルサレムを離れて布教活動をした。
しかし、その布教はあまりにも過激だった。ステファノ率いるユダヤ教イエス派は、ユダヤ教の保守派(パリサイ派など)たちと、まっこうから衝突した。ユダヤ教保守派たちは策略をめぐらし、ステファノを逮捕すると、偽証によって極刑の判決を取りつけ、石打ちによって処刑してしまった。イエス派ユダヤ人(原始キリスト教徒)、最初の殉教者である。
●そしてその後、ユダヤ教保守派たちの迫害の手は、ついに「エルサレム教団」そのものに下され、この結果、多くのユダヤ人が牢獄へとたたき込まれてしまった。
これによって、イエス派ユダヤ人たちの多くはエルサレムを去り、北のサマリア地方へと散っていった。このとき、エルサレムを去った者の多くはヘレニストであった。彼らはヘブライニストと違って、エルサレムにこだわりを持っていなかったのである。
●当時、シリアには「アンティオキア」という都市があった。「ローマ」や「アレキサンドリア」に次ぐ、古代ローマ帝国第3の都市である。アンティオキアでは、かなり早い時期から、ユダヤ教イエス派の布教が行われていた。そこへ、迫害され離散していた元「エルサレム教団」のヘレニストたちが集結。彼らヘレニストたちは、当初、それぞれ別々にユダヤ人を中心に布教していたのであるが、やはり非ユダヤ人にも布教しなくてはならないと、集まってきたのである。
アンティオキアの住民の多くはギリシア人で、使われていた言語はもちろん「コイネー・ギリシア語」であった。コイネー・ギリシア語を使うヘレニストは、ここを拠点と定め、大々的な布教を開始した。これがユダヤ教イエス派に属するもうひとつの教団「アンティオキア教団」の誕生である。
●「エルサレム教団」が従来のユダヤ教の律法を尊重し、ソロモン第2神殿への礼拝を行っていたのに対して、「アンティオキア教団」はイエスの福音を教義の中心に据え、ソロモン第2神殿にこだわることはなかった。
また、「エルサレム教団」がアラム語を使い、ユダヤ人に対して布教を行っていたのに対して、「アンティオキア教団」はコイネー・ギリシア語を公用語とし、非ユダヤ人(異邦人)に対して布教を行っていた。
●この「アンティオキア教団」の筆頭が、かの有名なパウロである。パウロは、もともと名前をサウロといい、ステファノを迫害し、殉教に追い込んだユダヤ教保守派のひとりであった。彼はユダヤ教イエス派に対して非常に批判的であった。
そのサウロは、イエスの霊に出会うことを契機に改宗。名前もサウロからパウロに変えて、熱心なイエス派の信者になる。
バプテスマ(洗礼)を受けたパウロは、使徒たちと布教をするために、「エルサレム教団」のメンバーとなった。しかし、エルサレムには、イエス派に改宗した裏切者パウロを殺そうとたくらんでいたユダヤ教保守派がいた。それを察知したパウロは、エルサレムを離れ、独自の布教を行う。そしてちょうどその頃、各地に散らばっていたヘレニストたちがアンティオキアに集結し、「アンティオキア教団」を形成すると、パウロも、これに合流。卓越した指導力で、「アンティオキア教団」のリーダーとなったのである。
●このように、紀元1世紀の半ばには、ユダヤ教イエス派(原始キリスト教徒)には異なる2つの教団が存在していたのである。すなわち「エルサレム教団」と「アンティオキア教団」である。
ただし当初は、両教団は、決して対立していたわけではなかった。その証拠に、「アンティオキア教団」の成立を知った「エルサレム教団」は、使徒バルナバを布教の指導者として派遣している。
●しかし、時がたつにつれ、「アンティオキア教団」では非ユダヤ人(異邦人)の信者が増加し、ユダヤ人信者と同数か、それ以上の数になっていった。そうなると、今度はユダヤ人信者と非ユダヤ人信者の間に、軋轢が生じるようになる。
非ユダヤ人信者は、ユダヤ教のしきたりなど知らなかった。風俗、風習がまるっきり違っていたのである。ヘブライニストとヘレニストは、互いにユダヤ人という共通の基盤があったが、非ユダヤ人信者には、それがなかったのである。非ユダヤ人信者にも、ユダヤ人キリスト教徒と同じように割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきか否か……。
この問題をめぐって、「アンティオキア教団」内部では、大論争が巻き起こった。もちろん、ユダヤ人信者の多くは非ユダヤ人信者にも割礼を受けさせることを主張し、非ユダヤ人信者の多くは、それに反対した。
●さすがに、問題が問題だけに、パウロは「エルサレム教団」の使徒や長老たちの意見を伺うことになった。そして「エルサレム使徒会議」の結果、使徒や長老たちは、非ユダヤ人信者に対しては、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいと判断。モーセの律法の戒律にしても、偶像崇拝や淫らな行いなどをしなければよいと決議した。
その結果、布教方法においても決議がなされ、ヘブライニストのペトロを中心とする「エルサレム教団」は布教の対象をユダヤ人に限定し、ヘレニストのパウロを中心とする「アンティオキア教団」は非ユダヤ人に対して布教することが決まったのである。
●キリスト教の歴史において、これは大きな転換点であった。ユダヤ教の戒律を離れ、世界的な宗教へと発展していくための重要な第一歩であった。これによって、非ユダヤ人信者(異邦人キリスト教徒)は爆発的に増えたのである。
■■第3章:「エルサレム教団」と「アンティオキア教団」の対立
●ユダヤ教イエス派の指導部が、同じ信者の非ユダヤ人(異邦人)に対して、ユダヤ教の律法を守る必要はないと公式決定しても、ユダヤ人に対しては別であった。ユダヤ人に対しては、これまで通り律法を守らせる。それは暗黙の了解事項であった。
だが、メンバーが全員ユダヤ人で構成されている「エルサレム教団」ならまだしも、非ユダヤ人とユダヤ人が混在する「アンティオキア教団」では、そうはうまくいかなかった。特に食事に関してはそうであった。
一般にユダヤ人は非ユダヤ人と同じ食事をとることはできないとされていた。しかし、「アンティオキア教団」では、ユダヤ人と非ユダヤ人が区別なく、同じ食事をとるようにしていたのである。
●「エルサレム教団」と「アンティオキア教団」の対立が決定的に表面化したのは、この食事をめぐる争いからであった。それは次のような出来事であった。
ある日、「アンティオキア教団」を訪問した「エルサレム教団」のリーダー、ペトロは、たまたま非ユダヤ人と同じ食事をとっていた。そこへ、ヤコブによって派遣された「エルサレム教団」の使者がやってきたのである。彼らに同じ食事をとっているところを見られたくないペトロは、突然、それまでの態度を変えた。これを見た「アンティオキア教団」のリーダー、パウロは、ペトロを強く非難した。「なぜ、非ユダヤ人と同じ食事をとっているのを隠そうとするのか」と。
ここにペトロとパウロの対立、すなわち「エルサレム教団」と「アンティオキア教団」の対立は決定的なものとなったのである。しかしながら、「エルサレム教団」とのつながりだけは、あくまでも求めるパウロは、「アンティオキア教団」を離れ、単独で布教を行うようになる。
●AD37年、古代ローマ帝国の皇帝の座にカリグラが即位すると、彼は国民に対して自らが神であることを宣言。皇帝崇拝を頑強に拒むユダヤ人たちへの迫害は徐々に強くなっていった。もちろん、ユダヤ人のみならず、イエスを信奉する非ユダヤ人も迫害の対象になった。
AD64年、次いで皇帝となったネロの迫害は、熾烈を極めた。彼はローマの市街に放火し、イエス派信者(原始キリスト教徒)の仕業であると決め付けた。これによってローマ市民は一斉にイエス派信者を迫害。膨大な数の殉教者を生み出す結果となった。
この大迫害の中、パロウをはじめとする多くのイエス派信者が、次々と殉教していく。およそローマにいたイエス派信者は、表立って活動する限り、ひとり残らず迫害され、惨殺されていった。
●また、当時、古代ローマ帝国の属州だったパレスチナ地方は、エドム人のヘロデ・アグリッパが“ユダヤ王”として君臨していたが、ユダヤ人を束ねて統治する方法として、イエス派信者をスケープ・ゴートにして利用することを考えついた。
日頃、ユダヤ教の主流派=保守派(パリサイ派など)は、イエス派信者に対して、憎しみに近い嫌悪感を抱いている。そのにっくきイエス派信者を迫害すれば、自ずと統治下のユダヤ集団はまとまる。そう、踏んだのである。
そのために、ヘロデ・アグリッパは「エルサレム教団」に対して、露骨なまでの迫害を開始する。12使徒のひとりヤコブを殺害し、12使徒のリーダーであるペトロをも逮捕した。このペトロはのちに殉教する。
こうしてイエス派ユダヤ人の「エルサレム教団」はリーダーを失ってしまった。
●ペトロ亡きあと、「エルサレム教団」を率いたのはイエスの弟ヤコブであった。彼は典型的なヘブライニストだった。彼は、割礼をせずモーセの律法を無視するイエス派の同胞には常に批判的で、非ユダヤ人への布教を積極的に行うパウロや「アンティオキア教団」に対しても、その点は厳しかったのである。以前、ペトロが非ユダヤ人のコルネリオに布教したときも、ヤコブは彼にエルサレムへの帰還を命じ、律法の無視を批判していた。
ペトロが殉教したあとは、ヤコブは名実ともに「エルサレム教団」のリーダーとなったが、AD61年に大司祭兼衆議長「アンナス2世」によって逮捕、処刑されてしまう。
●AD66年になると、ユダヤ社会全体が古代ローマ帝国に対して宣戦を布告した。世にいう「第一次ユダヤ戦争」である。この戦争によって、ユダヤの牙城であったエルサレムは陥落し、ソロモン第2神殿は完全に破壊されてしまった(AD70年)。
AD132年に「第二次ユダヤ戦争」が起きたが、もはやローマ帝国にとってユダヤは敵ではなかった。ユダヤはこてんぱんにやられ、ユダヤ人は完全に国を失った。そしてローマ帝国内から徹底的に追放され、「ディアスポラ(大離散)」の運命をたどったのである。
■■第4章:消えた「エルサレム教団」の謎
●このユダヤ人の対ローマ戦争時に、イエス派ユダヤ人の間で大きな事件が起きている。エルサレムに定住していた「エルサレム教団」が消息を絶ってしまったのである。「第一次ユダヤ戦争」が勃発するやいなや、戦火を逃れてエルサレムを離れてしまったと言われているが、もし本当ならば大事件である。
なぜならば、「エルサレム教団」にとって、エルサレムのソロモン第2神殿で祈りを捧げることが、最も重要な掟であったからだ。エルサレムを離れることは、「エルサレム教団」であることを否定することにつながる。
かつて、ステファノをはじめとするヘレニストたちは、エルサレムにこだわることは偶像崇拝につながるとし、ソロモン第2神殿を離れて布教した。このとき、「エルサレム教団」は、彼らを徹底的に批判している。また、非ユダヤ人信者が増えてきて、割礼などのユダヤ人の伝統を受けさせるか否かという問題を議論したときも、エルサレムのソロモン第2神殿を尊重することが強調されていた。
最もエルサレムを重視した、当の「エルサレム教団」自身が、エルサレムのソロモン第2神殿を放棄してしまったのである。いったい彼らはどこへ逃げてしまったのか?
●当時の様子を、4世紀の神学者エウゼビオスは『教会史』に記している。それによると彼らは、第一次ユダヤ戦争が本格化すると見るや、エルサレムを脱出し、ガリラヤ湖南方、ヨルダン河東岸にある「ペラ」というギリシア人都市へ集団移住したという。
「エルサレムの教会の人々は、戦争の前に啓示を介してその地の敬虔な人々に与えられたある託宣によって、都を離れ、ペレアのペラという町に住むように命じられた。そこでキリストを信じる人々はエルサレムからそこに移り住んだが、そのためにユダヤ人の第一の首都とユダヤの全地は聖なる人々から完全に見放された形になった。そして、ついにキリストや使徒たちへの悪質な犯罪のために、神の審判がユダヤに臨み、不敬虔な者の世代を人々の間から完全に絶ったのである。」(『教会史』)
●この「エルサレム教団」のエルサレム放棄、ペラ集団移住は、ほかのユダヤ人にとってすれば明らかに裏切り行為であった。ユダヤ民族一致で、古代ローマ帝国と戦おうというときに、戦火が来ないところへ避難する。それは、まさに敵前逃亡であった。当時のユダヤ人にしてみれば、「エルサレム教団」に所属するイエス派ユダヤ人たちは非国民として映ったことであろう。
これがイエス派ユダヤ人に対するユダヤ教保守派(パリサイ派など)の憎しみの火に油を注ぐ結果となった。戦争が終わったあと、ユダヤ教保守派はイエス派ユダヤ人への迫害をさらに強化した。
●こうして「エルサレム教団」のイエス派ユダヤ人たちは、古代ローマ帝国、ユダヤ教保守派、そして非ユダヤ系イエス信者たちからの2重3重の迫害、弾圧、差別を、一身に受けることとなったのである。
ペラに疎開した「エルサレム教団」にとって、もはや帰る地はなかった。エルサレムへ帰ることは、即自殺行為を意味していた。そのため、当初は人間の交流があったらしいが、それも次第になくなり、「エルサレム教団」は、どんどん孤立化を深めていった。
しかし皮肉なことに、「エルサレム教団」すなわちヘブライニストのイエス派ユダヤ人と、非ユダヤ系イエス信者との間に交流がなくなった結果、原始キリスト教の主導権は「アンティオキア教団」のもとに置かれ、イエス信仰は非ユダヤ人の間に爆発的に広まっていった。こうして、キリスト教は人種の壁を超え、ユダヤ教の伝統を離れ、世界宗教へと成長していったのである。
●一方、もともと「アンティオキア教団」において多数派であったヘレニストのイエス派ユダヤ人たちも、非ユダヤ人信者が増えていくなか、次第に少数派と化していった。「アンティオキア教団」を離れた彼らユダヤ人信者は、主にシリア方面に拠点を置き、独自の変質的なキリスト教を発展させていった。彼らの思想は「ナザレ派」や「エビオン派」などといった、キリスト教の異端、同時にユダヤ教の異端の一派になり下がってしまう。そして、長い長い歴史のなかで、それらはいつしか消えていくのであった。
●さて、ペラに移住した「エルサレム教団」は、その後、どうなったのだろうか。原始キリスト教の歴史の上で、これは非常に重要なポイントである。ところが、非常に不思議なことに、どこにも記録がないのである。「エルサレム教団」のイエス派ユダヤ人たちが、どこでどう活動したのか、歴史的な記録が全くないのである。
いいかげんな伝承はある。しかし、そのどれも自分たちの民族や宗教を正当化するために創作されたものであり、歴史的に信頼できるものではない。「エルサレム教団」は忽然と姿を消してしまったのである。
●現在、カトリック系の神学者のなかには、第一次および第二次ユダヤ戦争が終わったあと、「エルサレム教団」は、再びエルサレムに戻ってきたと主張する者がいる。しかし、確固たる証拠はないのである。
●百歩譲って、エルサレムへ帰還した「エルサレム教団」の人間がいたとしても、それはごくごく少数である。ほとんどお忍びのような状態だったに違いない。本隊の「エルサレム教団」が大挙してエルサレムへ帰還することは、絶対に考えられない。なぜならば、彼らは迫害されていたからである。たんなる迫害ではなく、2重3重の迫害である。
エルサレムに戻れば、待ってましたとばかりに石を投げられるのは必至。それはローマにおけるペトロやパウロの迫害以上だったかもしれない。もし、そうした大迫害があれば、必ずや歴史に残る。残らないはずはない。文書として残らなくとも、伝承として残るはずである。とくに原始キリスト教徒の口伝には、絶対に残るであろう。それがない以上、「エルサレム教団」は、絶対にエルサレムには帰還してはいないといえる。ペラに定住したという痕跡もない。
歴史上から蒸発してしまったのである。失われたイスラエル10支族のように、歴史の闇の中に消えてしまったのである。その後の足取りは何もない。
●ただし手がかりはある。当時のシリアは東西交易の西側の始点であったため、商人の多くは、このシリアを起点としてシルクロードを通り、東へ向かっていた。帰る地を無くした「エルサレム教団」は、もしかしたら東方へ旅立ったのかもしれない。ある目的をもって。
こういう点をふまえて、「エルサレム教団」は極東(日本)にまで辿りついたと唱える研究家がいる。非常に面白い説だと思う。(この件に関する詳しいことは別の機会に譲りたい)。
いずれにせよ、「エルサレム教団」の去ったエルサレムは、古代ローマ帝国軍に蹂躙され、ソロモン第2神殿は破壊された。神殿は、その後も再建されてはいない。今日に至るまで……。
─ 完 ─
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