No.a3fhb600

作成 2005.9

 

インドと中国のユダヤ人

 

第1章
アジアのユダヤ商人
第2章
中国東部の「開封」に
ユダヤ人社会が築かれていた
第3章
ユダヤ人の同胞探し
第4章
中国とアメリカ

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 


 

■■第1章:アジアのユダヤ商人 ─「陸のシルクロード」と「海のシルクロード」


ユダヤ商人は紀元前数百年の昔から、中央アジア、メソポタミア、トルキスタン、サマルカンド、チベット、インドなどに多数居住しており、東洋にも中国・漢の全盛時代に、すでに入り込んでいる。

そして6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の教会を持つに至っていた。唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺されたといわれている。

逆に、元朝はユダヤ人を厚遇した。

フビライの宮廷には、ヴェニスの商人、マルコ・ポーロが長年逗留していた。13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。

※ マルコ・ポーロはユダヤ人だったとの説があるが、真偽のほどは定かではない。

 


マルコ・ポーロ
(1254~1324年)

 

●「日本上海史研究会」のメンバーである秦惟人氏(中央大学講師)は、『上海人物誌』(東方書店)の中で次のように述べている。

『陸のシルクロード』も『海のシルクロード』も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続き活動の場を広げていった。

もともとイスラム世界には『ユダヤ人』という考え方はなく、『啓典の民』ユダヤ教徒として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていた。」


「最近『海のシルクロード』と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏には、航海・造船技術の点でも中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の構造船が航海の主役となっていた。

そこにはイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も含まれていた。

たとえばインド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来ユダヤ人貿易商が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占した。

現在もコーチンで胡椒の取引を行う市場は『ジュー・タウン』(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。」

 


(左)『上海人物誌』日本上海史研究会[編](東方書店)
(右)『インド・ユダヤ人の光と闇』小岸昭著(新曜社)



↑西インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)で生活する
「ベネ・イスラエル」と呼ばれるインド系ユダヤ人(1890年)

※「ベネ・イスラエル」とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉で、
ヘブライ語では「イスラエルの子」を意味する。この共同体はインドの
 約1500年前にまで遡り、その中心はムンバイとコーチンであった。

 

●19世紀に入ると「アヘン戦争」(1840年)が大きなきっかけとなって、上海にユダヤ・コミュニティーが結成された。

上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。

 


(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)

上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果として
イギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。
繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。

 

 


 

■■第2章:中国東部の「開封」にユダヤ人社会が築かれていた


●前章で触れたが、13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で

「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。

この「開封(かいほう)」は中国で最も歴史が古い都市の一つであり、850年前の北宋時代に首都になった(当時100万人の国際都市だった)。

 


(左)中国の河南省の都市・開封の位置 (右)開封のユダヤ人家族(1910年)

「河南省」は地域の大部分が黄河の南にあるためこの名がつく。
この地域は中国古代文明の発祥地の一つで、先史時代の裴李崗文化や
仰韶文化などの遺跡がある。中国7大古都のうち、殷周の「都安陽」、
漢から長く都が置かれた「洛陽」、宋の都「開封」の3大古都を有する。

※「開封」は1984年に戸田市(埼玉県)と友好都市締結。
現在、「開封」は観光地として栄えている。

 

●明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は、著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で、この「開封のユダヤ人」について詳しく説明している。

以下、ポイントを絞って簡単に抜粋しておきたい。

※ 各イメージ画像とキャプションは当館が独自に追加

 


『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』
丸山直起著(法政大学出版局)

 

--------------------------------------------------------------

 

■「開封ユダヤ人」の出現


◆1898年11月、上海のユダヤ人は「イギリス・ユダヤ人協会(ANJA)」上海支部を設立した。

ロンドンに本部を置く「イギリス・ユダヤ人協会」は、1871年7月、ユダヤ人の社会的、道徳的教育の促進を図ることと、各地で迫害を受けるユダヤ人を保護・救済することを目的に創設され、その支部がイギリス国内および大英帝国の海外属領に設立された。

「イギリス・ユダヤ人協会」は、大英帝国内のユダヤ人社会を結ぶネットワークをイギリス本国と海外との間に張りめぐらすことになった。

 

 

上海の「イギリス・ユダヤ人協会」の初仕事は、中国最古といわれ、数百年の眠りから覚めたものの、何の措置も講じられなければ消滅する恐れのある「開封のユダヤ人社会」を救済する活動であった。


◆洛陽や西安と並ぶ中国の古都、河南省の開封に最古のユダヤ人社会が存在していたことは、多くの文献によって明らかである。中国では、ユダヤ教は昔からユダヤ教徒が動物を屠る際に血抜きしやすくするため筋を切るところから、「刀筋教」とも「挑筋教」とも呼ばれた。


◆中国最古のユダヤ人の存在が初めて外部の世界に明るみにでたのは、17世紀初め北京に滞在していたイタリア生まれのイエズス会士マッテオ・リッチがローマに報告してからである。

1605年6月、ひとりの老人がリッチのもとを訪れた。リッチがそれまでに入手していた情報によれば、中国の奥地には外部の世界から隔絶されたキリスト教徒が生存しているといわれ、リッチ自身、中国に来たときから興味をかきたてられ、彼らと連絡をとろうとしていたから、突然の老人の出現をキリスト教徒が面会のためにやってきたもの、と理解したのも当然であった。

ところが、リッチを驚愕させたのは、老人が最初考えていたような「キリスト教徒」ではなく「ユダヤ教徒」だったことである。

 


マッテオ・リッチ
(1552~1610年)

イタリア生まれのイエズス会士。
明代末の中国に滞在してヨーロッパの
知識を伝えた彼は、また膨大な中国の
情報をヨーロッパにもたらした。

 

◆リッチの報告を受けた西洋のキリスト教世界も、ユダヤ世界も興奮を隠さなかったが、先に行動したのはキリスト教会で、さっそく開封ユダヤ人をキリスト教に改宗させるため、開封との接触を求めて活動を開始した。

19世紀に入ると、「対ユダヤ人キリスト教普及ロンドン協会(LSPCJ)」「対中国人キリスト教知識普及協会(SDCGKC)」などのキリスト教団体が調査を行った。

「LSPCJ」が1850~1852年に依頼した香港教区の主教ジョージ・スミスが行った調査の報告は、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)の建物は荒れるにまかされ、ユダヤ人社会の運命は風前の灯火であることなど、気の滅入るような内容であった。

しかし、いくつかの事実が明らかとなった。調査の結果は、これまでに最大の謎とされていた、いったいユダヤ人たちは開封にいつ頃、どのようにして渡来したのであろうか、との疑問を解くヒントをもたらすことになった。

 


開封の中国風シナゴーグ(ユダヤ教会堂)

 

◆古くからユダヤ人がシルクロードをへて中国に渡来した可能性は高いが、交易ルートの要衝に位置した開封が10~12世紀に北宋の首都として栄えたことを考えると、開封ユダヤ人社会の成立もこの時期とするのが妥当とみられている。当時のユダヤ人人口は350~500人くらいで、18世紀に入っても1000人を超えることはなかったと推定されている。

やがて海上運搬ルートが開かれ「陸のシルクロード」が廃れると、開封は孤立し、衰退した。

 

アッシリア王国に滅ぼされたサマリアの古代ヘブライ人たちは、
シルクロードを東へ東へ突き進んでいったと推測されている

 


■ユダヤ世界の「開封」救済活動


◆キリスト教会の迅速な行動に比べて、ユダヤ世界の対応は大幅に遅れた

開封のユダヤ人に手を差しのべるだけの情熱もエネルギーもユダヤ世界には欠如していたし、現地では救済の態勢が十分に整わなかったのである。


キリスト教会が衰退の一途をたどる開封のユダヤ人の「改宗」を試みたのに対し、ユダヤ世界はこれらのユダヤ人たちと接触し、同化や改宗をなんとか阻止し、ユダヤ教への復帰を促そうとした。

19世紀に開封のユダヤ人と接触しようと外部のユダヤ人社会は何度か試みたが、そのほとんどは失敗に終わっている。たとえば、イギリスのユダヤ人は、1815年にヘブライ語の手紙を開封のユダヤ人社会あてに送ったが、何の音沙汰もなかった。

キリスト教会の熱心な伝道に刺激されたイギリス・ユダヤ人社会の主任ラビ(ユダヤ教指導者)ナタン・アドラーは、1853年頃、上海の「サッスーン銀行」(ユダヤ系の銀行)に対し開封ユダヤ人社会に関する情報の入手を要請したが、彼らの反応は鈍く、アドラーは失望を味わっている。

 


(左)インドのアヘン倉庫内の様子 (右)茶やアヘンを運んだ「東インド会社」の船


中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン
(1792~1864年)

彼はアヘン密売で莫大な
富を築き「アヘン王」と呼ばれた。

上海の「サッスーン財閥」は、彼の死後、
アルバート・サッスーン、次いでエドワード・
サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。

 

◆1899年1月28日、「SDCGKC」のティモシー・リチャードは、上海のユダヤ商人にあてた書簡のなかで、開封のイエズス会が同地ユダヤ人社会の所有していたトーラー(モーセ五書)の巻物を入手し、上海のイエズス会に送り届けたことを伝えた。

上海のユダヤ人たちは色めき立ち、ただちにイエズス会に急行し巻物を検分したが、上海ユダヤ人社会の受けた衝撃の大きさは想像に難くない。

滅びつつあるといっても、数百年にわたって継承されてきた聖なるトーラーが、こともあろうに異教徒の手に渡ったのである。

 


(左)上海のユダヤ教徒 (右)上海のユダヤ人学校の生徒たち

「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した
英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、
あらゆる点で支配的勢力を占めていた

 

1900年5月14日、上海のユダヤ人たちはようやく「中国ユダヤ人救済協会(SRCJ)」を設立し、滅亡しつつある中国のユダヤ人を救済する体制を本格的に確立した。

「SRCJ」は開封からユダヤ人を連れてきてユダヤ教へ回帰させようと試みるが、そのための資金が不足し、かつ募金活動も不活発で、しだいに上海のユダヤ人の熱意は衰えた

 


開封のユダヤ人たち(1924年)

 

戦後、高齢者の死亡のためユダヤ世界から切り離されたうえ、黄河の洪水や貧困のためユダヤ人社会自体の存続が危うくなり、さらには儒教文化の影響を受けて中国社会への同化が進み、また周囲のイスラム社会への同化なども重なって、

開封のユダヤ人社会は事実上消滅してしまった。


以上、丸山直起著『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)より

 

 


 

■■第3章:ユダヤ人の同胞探し ─ 開封を集団で訪ねるアメリカのユダヤ人たち


●1985年2月11日号の米誌『タイム』に、「中国のユダヤ人にとっての新しい希望」というレポートが載った。

それは次のような内容だった。

「中国の河南省・開封で『ユダヤ博物館』の建設を決心したのはチャオ氏であるが、彼は全く聖書に親しんでおらず、メノラー(ユダヤ教の七枝の燭台)も見たことがないという。

しかし、確かに彼の父や祖父たちが、ユダヤの祭りについて、あるいは塩やイーストを入れないケーキを焼くことなどについて、話し合っていたのを覚えているという。

『父や祖父は、過ぎ越しを祝いたかった。だから中国人が新年のお祝をする時、彼らは小羊の血を家の入口に塗りました』とチャオ氏は回想している。

中国ユダヤ人コミュニティーの歴史において、重要な出来事を記念して、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)の聖なる場所に置かれていた2枚の石板は今、開封の博物館倉庫に横たわっている。

……チャオ氏は、彼の建てたいと思っている博物館に、この石碑を建てる計画をしており、最終的には同じ建物の中に、新しいシナゴーグをも作りたいと願っているようだ。……」(1985年2月11日号 米誌『タイム』)

 

 

●この記事を読んだ日本のある研究家は「中国のユダヤ人」に興味を持ち、その実態を探るべく中国へ旅立った。

彼はこの時の体験をこう語っている。

「シルクロードを経て中国東部の開封の地に流れ込んできたユダヤ人の子孫が、いまでもその地に住んでいるということを知った私は、1985年に中国取材へ旅立つ前に、たびたび開封の河南省人民政府外事部へ手紙を送り、中国系ユダヤ人たちに会いたい旨を打診した。

しかし彼らは『もはや開封にはユダヤ人はいない』という返事を寄こしたのである。つまり、『北宋時代に客家のユダヤ人移民が開封におり、皇帝が7つの姓を与えたが、800年の間に混血を重ねたため、血縁上は存在しても実際的な生活面ではもはや存在しない。ただ、石碑、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)の跡はある。興味があれば手配する』というものだった


河南省・開封に着いた私は、博物館の倉庫に案内してもらった。

多くの塵(ちり)にまみれた美術品の中に、縦2m・横1mほどの大きな石碑が2枚横たえられていた。それには、全面に漢字で、かつてユダヤ人たちがいたこと、そしてシナゴーグがどのような経緯で建てられ、どのような事情で人々が献金をし合ったか、についての歴史が詳しく書き留められていた

シナゴーグが建っていた場所には大きな病院と民家が建てこんでいたが、実に850年前と同じ地名が残っていたのである。

それは『教経胡同』。経とは聖書の意味であるから、日本語では『聖書を教える通り』となる。

これがそのまま中国の地名として850年間にわたって用いられてきたのである。いまから数百年ほど前では、ユダヤ人たちの力とその影響がいかに大きかったか、そしてシナゴーグ(ユダヤ教会堂)がどれほど有名なものであったかがわかる



●さらに彼は次のように述べている。

「私は『タイム』誌のレポートで紹介されていたチャオ氏ヘの会見を試みたが、かなり難航した。張という中国系ユダヤ人の存在まではつきとめることはできたが、省政府の質問に対し、張が『絶対に会いたくない』と答えたといわれたので、不成功に終わった。

正式には中国系ユダヤ人は存在しないというのが中国政府の見解である以上、私の要望に張が首をふったのは当然ではある。

ところが、張がその理由として、予想もしなかったようなことを話したことを、通訳から聞き出すことができたのは収穫であった。

この通訳はこう述べたのである。

『1981年以来、毎月毎月、アメリカからユダヤ人たちの団体がやってきて、私の家や私たちの仲間を訪問してくる。

私はもうそれに疲れてしまった

私たちをユダヤ人ユダヤ人と彼らはいうのだが、もうユダヤ人としての習慣を守っていないし、中国人として生活したいから放っておいて欲しい。もう訪ねないでくれ、と頼んでも彼らは集団で私を訪ねてやってくる……

私はこの話を聞いたとき、ユダヤ人の強烈な民族愛、あるいは失われた自分たちの血縁者に対する熱い思いのたけを、いまさらのように胸深くに叩きこむばかりに教えられていた。

850年間に混血に混血を重ね、聖書すら手元にない中国人そのままの顔をした彼らに、毎月集団で会いにやって来るとは……。どれほどの民族意識かは、とうてい計ることができないほどのものだ」


「……ユダヤ人の同胞探しといえば、3000年も前にソロモンの後でエチオピアに渡ったユダヤ人たちの子孫を、イスラエル政府はエチオピア大飢饉のさなか、スーダン経由でイスラエルまで運んでいる(1984年)。もちろん、エチオピア人そのままの『黒いユダヤ人たち』をである。

850年といい3000年といい、ユダヤ人たちにとっては大きな問題ではないのだ。彼らの歴史スケールと強い民族意識にあっては、焦点は『永遠』以外にはないのだ……」

 


イスラエル航空の旅客機で救出された
エチオピア系ユダヤ人たち(1984年)

 聖書ではソロモン王とシバの女王の関係が記されているが、
シバの女王から生まれた子孫とされるのが「エチオピア系ユダヤ人」
である。彼らは自らを「ベド・イスラエル(イスラエルの家)」と呼び、
『旧約聖書』を信奉するが、『タルムード』はない。1973年に
スファラディ系のチーフ・ラビが彼らを「ユダヤ人」と認定した。

その後、エチオピアを大飢饉が襲い、絶滅の危機に瀕した
ため、イスラエル政府は救出作戦を実施した。1984年の
「モーセ作戦」と、1991年の「ソロモン作戦」である。

イスラエルの航空会社と空軍の協力により
彼らの多くは救出され、現在イスラエル
には約6万人が移住している。


『エチオピアのユダヤ人』
アシェル・ナイム著(明石書店)

 

 


 

■■第4章:中国とアメリカ


●前章で紹介したように、アメリカには中国・開封の歴史に強い関心を抱いているユダヤ人が多く存在するが、将来、中国大陸に開封のようなユダヤ人社会が再び築かれる(再建される)可能性はあるのだろうか?


●ヘルシンキ生まれのユダヤ系アメリカ人マックス・ディモントは、著書『ユダヤ史』の中で面白い意見を述べている。

参考までに紹介しておきたい。

『離散』のユダヤ主義の中心になるのは、この次はどこだろうか?

それは絶えずユダヤ人の離散の型を再編成する歴史の方向によって決定されるであろう。

アメリカがこの先の2、3世紀は中心であり続けるかも知れないが、それもいつかは一時的だったということになるかも知れない……。

中国に『離散』の中心が育つかもしれないというのもあり得ないことではない。12世紀、中国の開封には大いに栄えたユダヤ人社会が存在していた……。

世界的文明が再び中国で育つことになれば、あの広大な国にユダヤの『離散』の中心が育つことも、十分に考えられるのである。

 

 

─ 完 ─

 



■関連記事(リンク集)

中国のユダヤ人(開封のユダヤ人について)
http://yichintang.hmc6.net/news/news.yudaya.html

Jews of China - Igud Yotzei Sin【英語】 ←中国のユダヤ人(Jews)に関する情報サイト
http://www.jewsofchina.org/

Jews of China【英語】 ←これも中国のユダヤ人に関する情報サイト
http://www.haruth.com/JewsChina.html

 



── 当館作成の関連ファイル ──

上海に築かれたユダヤ人社会の実態 ~「アヘン戦争」の舞台裏~ 

 


▲このページのTOPへ




  HOMEに戻る資料室に戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.