ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a4fhc700
作成 1998.1
ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、
壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、
まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしい
アメリカが犯した「戦争犯罪」であった。
最初に断っておきますが、当館(ヘブライの館)は、ユダヤ研究をメインにしているので、今回、原爆の問題を扱う際にも「ユダヤ」に関連する考察が多くなっています。そのため、ここで紹介されている原爆とユダヤ人のつながりに、少なからずの抵抗(とまどい)を感じる人は少なくないと思いますが、原爆の問題を別の角度(視点)から考えてみる良い機会だと思って読んでほしいです。なお当館は「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはありません。
第1章 |
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第2章 |
ユダヤ人大富豪
バーナード・バルーク |
第3章 |
「戦争早期終結論」の虚構
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第4章 |
戦争犯罪者 トルーマン大統領
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第5章 |
演出された東西の「冷戦」
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第6章 |
冷戦で肥大化していった
「軍産複合体」 |
第7章 |
葬られたスミソニアンの「原爆展」
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第8章 |
都市に対する無差別爆撃
そのものが犯罪である |
第9章 |
原爆投下を肯定する
在米ユダヤ人組織「SWC」 |
追加1 |
イスラエル在住の
日本人からのレポート |
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追加2 |
ユダヤ人科学者テラー博士は語る
「広島への原爆投下は間違っていた」 |
追加3 |
『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』
~「反転爆撃」説の紹介~ |
追加4 |
広島の空に白く大きく華やかに
開いた「落下傘」の謎 |
追加5 |
長崎原爆で破壊された
東洋一の「キリスト教大聖堂」 |
追加6 |
ナチス・ドイツに匹敵する
悪魔のような「人体実験」 |
追加7 |
ユダヤ人歴史学者の提言
「米日共同で『原爆展』開こう」 |
追加8 |
日本の敗戦は必至であった
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追加9 |
パール博士の言葉
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追加10 |
映画『フォッグ・オブ・ウォー』
~マクナマラ元米国防長官の告白~ |
追加11 |
ウクライナ系ユダヤ人は語る
「日本人には申し訳ないことをした」 |
追加12 |
ユダヤ人女性監督は語る
「原爆は日本への罰」 |
追加13 |
ナチスによる「ホロコースト」の
恐怖は消え去ったが… |
全てを焼き尽くす「地獄の炎」
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放射能をたっぷり含んだ
「黒い雨」の恐怖 |
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「ラッセル=アインシュタイン宣言」と
核兵器廃絶を求める科学者組織 「パグウォッシュ会議」 |
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大戦中に「マンハッタン計画」を離れた
ユダヤ人科学者ロートブラット博士 |
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原爆をテーマに映画を作った
アメリカの中学生 |
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日系アメリカ人監督による
ドキュメンタリー映画 |
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関連動画(リンク集)
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関連記事(リンク集)
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原爆関連の書籍の紹介
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映画化された『夕凪の街 桜の国』
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アメリカが行ったホロコースト
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■■第1章:「マンハッタン計画」とユダヤ人科学者
●戦後のアメリカの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産官学複合体)を生み出す大きなきっかけとなったのは、「マンハッタン計画」である。
「マンハッタン計画」とは、第二次世界大戦中にアメリカが極秘にスタートさせた原爆開発計画のことである。5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
この軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」は、多くのユダヤ人科学者が参加したことで知られている。具体的にみてみよう。
●まず最初は、「コンピュータの父」として知られるフォン・ノイマンである。
彼はハンガリーの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、1930年に渡米。天才的頭脳の持ち主であり、現在のほとんどのコンピュータの動作原理であるストアードプログラム方式を考案した。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者で、現在使用されているコンピュータは「ノイマン型コンピュータ」と呼ばれる。また、彼はゲーム理論におけるミニ・マックス法の発明者としてや、自己増殖オートマトンの考案、量子力学についての研究でも知られている。
大戦中は「マンハッタン計画」の軍事顧問として参加。
爆縮レンズ開発に従事し、爆薬を32面体に配置することにより核爆弾が製造できることを10ヶ月に渡る計算により導いた。また、地面ではなく空中で爆発させたほうが原爆の破壊力が増すことも計算により導いた。
その圧倒的な計算力と、極めて広い活躍領域から、「悪魔の頭脳」と評された。
コンピュータの父、フォン・ノイマン
大戦中は「マンハッタン計画」の軍事顧問
として参加し、原爆の開発に貢献した
●次は、レオ・シラードである。彼もハンガリー生まれで、アメリカに亡命したユダヤ人科学者である。
彼は原爆のアイデアを思いつき、同じユダヤ人でドイツからアメリカに亡命したアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す手紙=「アインシュタイン書簡」(1939年8月)を送ったことで有名である。この手紙がきっかけとなって、アメリカの原爆開発はスタートしたのだ。
ちなみに、シラードがアインシュタインに自分のアイデア(核連鎖反応)を話したところ、アインシュタインは「考えもしなかった」と驚いたという。アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから2週間悩んだすえに、署名したのだった。
※ アインシュタインは手紙に署名しただけで、「マンハッタン計画」には参加していない。彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
ユダヤ人科学者アインシュタインとレオ・シラード
シラードはアインシュタインを説得して、ルーズベルト大統領宛に
原爆開発を促す「手紙」(右)を送った(1939年8月)
●同じくハンガリー生まれで、アメリカに亡命したユダヤ人科学者にエドワード・テラーがいる。彼はハンガリーからドイツに移り住んでいたが、ヒトラーの迫害を恐れたためイギリスを経てアメリカに亡命して「マンハッタン計画」に参加した。
(エドワード・テラーは1939年、アインシュタインの別荘をシラードとともに訪れていた)。
そして、彼は誰よりも早く、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた「超強力爆弾」(水素爆弾)へと核兵器を発展させるべきだと主張し、戦後、積極的に「水爆計画」に携わった。そして、1952年にソ連より半年早く水爆実験に成功し、「水爆の父」と呼ばれた。その後、「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任。
1954年に行われた水爆実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、エドワード・テラーの作品であった。
※ ちなみに、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』のモデルは、エドワード・テラーだといわれている(ノイマンがモデルという説もある)。
(左)原爆・水爆・SDIの父、エドワード・テラー
(右)彼のアイデアで生まれた「SDI(戦略防衛構想)計画」
テラーは「マンハッタン計画」に参加した最初の科学者の一人であった。
「マンハッタン計画」では、テラーは最初シカゴ大学でシラードと共に働いた。
1943年に「ロスアラモス研究所」の理論物理学部門のグループ長になったが、
彼が水爆に熱中したため他の科学者、特に部長のハンス・ベーテと不仲になった。
※ 戦後、テラーは防衛力強化政策を辛抱強く唱え、水爆の開発と核爆発実験の継続
を求め続けた。テラーはアメリカ歴代政権の核戦略、防衛政策に影響力を行使し続け、
1980年代のレーガン政権時代には「SDI(戦略防衛構想)計画」を推し進めた。
●このエドワード・テラーは、1980年代のレーガン政権時代には「SDI(戦略防衛構想)計画」を推し進め、「SDIの父」とも呼ばれるようになる。「電話一本で話ができる間柄」と評されるほどテラーとレーガンの関係は親密だった。レーガン政権の「科学顧問」はテラーの愛弟子が務めた。
レーガン大統領はアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」をテラー博士に贈った。
※ この「SDI計画」はブラックホールさながらに300億ドル以上という天文学的な額のカネを呑み込み続けただけで、何一つ使途が明らかにされないまま1993年5月に中止されてしまった。
だが、「SDI」は死ななかった。この「SDI」は「BMD(弾道ミサイル防衛)」という名前に変え、ペンタゴンに新設された「弾道ミサイル防衛局(BMDO)」の下に移管され、しぶとく生き残り、現在もアメリカ国民の税金を食い続けている。
「BMD」の中核には「TMD(戦域ミサイル防衛システム)」や、アメリカ本国を守る「NMD(国家防衛システム)」なるものがあるのだが、中でも「TMD」は日本が参加するのかしないのかで注目されている。もし参加したら数兆円もの日本人の血税がアメリカに流れると言われている。
この記事からもわかるように、「SDI」は死んでいない。
「ミサイル防衛」という名のもとで「指向性エネルギー兵器」の研究や
宇宙の軍事利用は今後、ますます活発化していくだろう。
●さて、話を「マンハッタン計画」に戻そう。
同じくハンガリー生まれで、アメリカに亡命して「マンハッタン計画」に参加したユダヤ人科学者に、ユージン・ウィグナーがいる。彼は「原子核反応理論」で1963年にノーベル物理学賞を受賞した。
ユージン・ウィグナー
1963年にノーベル物理学賞を受賞
●今まで紹介したユダヤ人科学者、フォン・ノイマン、レオ・シラード、エドワード・テラー、ユージン・ウィグナー……。
こうして並べてみると、ハンガリー生まれのユダヤ人科学者が「マンハッタン計画」で大きな力になっていたことが分かる。特にシラード、テラー、ウィグナーの3人は、原爆開発の発端となった「アインシュタインの手紙」の作成に直接関わった「ハンガリー3人衆」である。
もちろん、ハンガリー系以外にも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者は大勢いる。有名なところでは、「ロスアラモス研究所」の所長に就任して「マンハッタン計画」を主導したロバート・オッペンハイマーである。(彼はニューヨーク生まれのユダヤ人である)。
●ロバート・オッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行われるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物である。彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけを論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。
彼は戦時中、日本への原爆使用に反対した科学者たちを巧みにのけ者にしていった。そして、1945年7月に、ロスアラモスで最初の原爆実験に成功した際、狂喜して、「いま私は死神になった。世界の破壊者だ!」と叫んだ。
ロバート・オッペンハイマー
「ロスアラモス研究所」の所長を
務め、「マンハッタン計画」を主導した。
「原爆投下は日本に警告なしに行われるべきだ」
と主張し、原爆の対日投下に反対した科学者たちを
巧みにのけ者にしていった。戦後は水爆に
反対し、エドワード・テラーと対立。
●しかし、オッペンハイマーは、戦後は核開発、特に水爆に反対するようになり、水爆の開発をめぐって、推進派のエドワード・テラーと激しく対立したことで知られている。
彼は1945年10月に、ロスアラモス研究所の所長を辞任する際、「人類がロスアラモスと広島の名を呪う時が来るだろう」という言葉を残している。
ニューメキシコ州アラモゴードの核実験場
※ 1945年7月16日にこの場所で
人類史上初めての「核爆発実験」が行われた
●オッペンハイマーと同じく、ニューヨーク生まれのユダヤ人科学者、リチャード・ファインマンも、大戦中、「マンハッタン計画」に携わり、重要な役割を果たした。彼は量子電磁力学におけるくりこみ理論で、1965年にノーベル物理学賞を受賞した。
ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人科学者、ハンス・ベーテも、「マンハッタン計画」に携わった。彼は、ファインマンの良き指導者となり、ロスアラモス研究所の理論物理学部門の責任者(初代理論部長)を務め、疲れを見せない研究への没頭ぶりから「戦艦」と称された。戦後は、歴代アメリカ大統領の核兵器問題担当上級顧問を務め、核融合の研究で、1967年にノーベル物理学賞を受賞した。
ファインマンとベーテの2人はチームを組んで、爆発を起こすのに必要な核分裂しやすい材料の量など、鍵となる数学方程式を考え出した。ファインマンの才能の1つは、数式を頭の中で早く解くことができるということであった。ファインマンとベーテは、三次方程式が早く解ける短絡解法を編み出したことでも知られている。
(左)リチャード・ファインマン(1965年にノーベル物理学賞を受賞)
(右)ハンス・ベーテ(1967年にノーベル物理学賞を受賞)
2人はチームを組んで、爆発を起こすのに必要な
核分裂しやすい材料の量など、鍵となる
数学方程式を考え出した。
●ノーベル化学賞受賞のハロルド・ユーリーも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。
彼は1934年に「重水素」発見の功績によりノーベル化学賞を受賞し、第二次世界大戦ではその功績を買われて「マンハッタン計画」に参加。ウランからウラン235のみを得るための「気体拡散法」を開発し、原子爆弾の実現に大きな貢献をした。
ハロルド・ユーリー
戦後は、核科学研究所や
カリフォルニア大学の教授を歴任した
(1934年にノーベル化学賞を受賞)
●1925年にノーベル物理学賞を受賞したジェームズ・フランクも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である。
ドイツからアメリカに亡命した彼は、オッペンハイマーと違って、実戦使用される前から原爆の対日投下に反対していた。彼は大戦末期の1945年6月11日に、対日戦での原爆の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を政府に提出したことで知られている。
ジェームズ・フランク
1945年6月11日、対日戦での原爆の
不使用を強く勧告する「フランク・レポート」
をアメリカ政府に提出したことで知られている。
※ 彼はこのレポートの中で、原爆の威力を各国の
前でデモンストレーション(砂漠か無人島にて)で示す
ことにより戦争終結の目的が果たせると提案していたが、
この提案は政府に拒絶された。また彼はこのレポートで
「核兵器の国際管理」の必要性をも訴えていた。
(1925年にノーベル物理学賞を受賞)。
●先に紹介した、最初に原爆製造を進言したユダヤ人科学者レオ・シラードも、ナチス・ドイツの敗北が決定的になると、原爆の実戦使用(対日投下)に反対するようになった。
シラードにとって「原子爆弾」とは、ナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用するためのものではなかったのだ。
1945年3月、シラードは、アインシュタインと会い、再び大統領への手紙にサインするよう求めた。原爆の対日投下を阻止しようと、シラードは、大統領に働きかけるつもりだった。原爆開発を進めるにも、原爆投下を止めるにも、アインシュタインの名声が必要だったのである。アインシュタインは、再びシラードの意見に同調しサインした。
しかし、効果はなかった。
シラードは対日戦争での原爆使用に対して最後まで「反対請願」を展開したが、時すでに遅しだったのである(戦後、シラードは、分子生物学へ転向した)。
レオ・シラード
彼は最初に原爆製造を進言した男だが、
ナチスの脅威が去ると、対日戦争での
原爆使用に対して、最後まで
「反対請願」を展開した
●「近代量子論の父」で同じくノーベル物理学賞受賞のニールス・ボーアも、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者である(彼は、アインシュタインに次ぐ20世紀で最も影響の大きかった物理学者で、「近代量子論の父」と世界的に認められている)。
ボーアは大戦中、アメリカに渡り「マンハッタン計画」に参加した。しかし、彼は原爆が日本に投下される前に、その巨大な破壊力がいかに恐ろしい惨禍をもたらすかを誰よりも早く悟っていた。
戦争が連合国側の勝利に終わると、ボーアは祖国デンマークに戻り、その後の人生を、「超大国が責任を自覚し、核エネルギーを適正に管理し、平和利用に専心するように促すこと」に捧げた。
しかしその努力は、実を結ぶことはなかったのである。
近代量子論の父、ニールス・ボーア
(1922年にノーベル物理学賞を受賞)
彼は核エネルギーの「軍用化」には
反対の立場をとっていた
●結局、原爆開発に関わる科学者たちを駆り立てた「戦争早期終結論」は、広島に続く「長崎」への原爆使用によって、「ドイツ原爆対抗論」と同様に虚構の理論であったことが明らかにされた。
●最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたことが判明している。
大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。
原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。
(左)ヨシフ・スターリン (右)激戦の末、ベルリンの
帝国議会のドームに翻ったソ連の国旗(1945年4月末)
●ちなみに、「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。
しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。
●一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。
アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『京都に原爆を投下せよ — ウォーナー伝説の真実』(角川書店)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。
京都・奈良・鎌倉など、貴重な文化財の残る日本の古都が
アメリカ軍の空襲を免れたのは「その価値を認めてくれたからだ」
という「定説」は全くのデタラメだった。それどころか、京都は
第3の原爆投下目標の1つだったのである。この本は
その証拠を丹念に洗い出し、この俗説が流布・
信奉された理由を暴いている。
●ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない」
「マンハッタン計画」をスタートさせた
第32代大統領フランクリン・ルーズベルト
※ 強烈な親中反日主義者だったことで知られている
●当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」
●ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。
※ この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった。
アメリカに作られた日系人強制収容所。人里離れたアメリカの砂漠の中に
建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列。約12万人もの
日系民間人が財産と市民権を奪われて収容された。
整理用名札をつけられ、
日系人強制収容所に送り込まれた少女
●この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。
彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。
ヘンリー・スチムソン陸軍長官
「マンハッタン計画」の最高責任者。
広島と長崎への原爆使用を決定した彼は、
日系アメリカ人を強制収容所に送った最高責任者
でもある。戦後は、原爆投下に対する批判を
抑えるための「原爆神話」を生み出した。
●彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。
それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。
ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。
これが原爆使用正当化の定説となった(=「原爆神話」の誕生)。
◆
●さて、最終的に2個の原爆が日本に「無警告」で投下されたことに満足したフォン・ノイマンは、戦後のビキニ環礁の核実験に立ち会ってガンになり53歳の短い人生を終えた。
また、全人口に対してユダヤ人口が5~6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた。機長のポール・ティベッツもユダヤ人である。広島に原爆を落としたとき、彼はまだ30歳だった。
ポール・ティベッツ機長をはじめ搭乗員の多くは、戦後もずっと「全く後悔していない。夜眠れなくなったことも一度もない。あの時、我々は人類にとって最善のことをしたんだ」と述べ、原爆投下の正当性を強調した。
このことからも、ユダヤ人の中には原爆の対日投下に反対する一方で(レオ・シラードなど)、日本に対して敵対的な感情を持つユダヤ人がいたことが伺える。
(左)ユダヤ人ポール・ティベッツ機長 (右)B29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員たち
彼らは戦後もずっと「投下は間違っていなかった」
と述べて原爆投下の正当性を強調し続けた
広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」
(左)広島に投下されたウラン型原爆「リトル・ボーイ」
(右)長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファット・マン」
●ところで、アメリカのユダヤ人には、猛烈な反日ユダヤ人もいれば、日本の文化を愛する親日ユダヤ人もいる。
現在も、日本に何の興味も持たないユダヤ人もいれば、「日ユ同祖論」を信奉する強烈な親日家もいる。また、アジアの中では日本よりも中国(華僑勢力)との友好を求めるユダヤ人もいるし、アジア勢力全体を嫌悪するユダヤ人もいる。
アメリカのユダヤ人は、親日家と反日家含め、実にさまざまな人間がいるといえよう……。
◆
●ちなみに、アインシュタイン博士は親日ユダヤ人として知られている(1922年に日本に来ている)。
1945年8月、アメリカ軍が日本に原爆を投下したニュースを聞いた時、彼は「ああ、何ということか!」とうめいたという。
博士は1922年11月16日に初来日して43日間日本に滞在した。
博士は来日途上の船中で「ノーベル物理学賞」受賞決定の電報を受け取った。
(左)「東京大学」の物理学教室で講演するアインシュタイン博士
(右)博士の来日を特集した雑誌『改造』(1922年12月号/改造社)
※ この「改造社」の山本実彦社長が博士を日本に招いたのである。
●先に触れたように、アインシュタイン博士は「マンハッタン計画」に参加しておらず、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す「手紙」に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
1952年に雑誌『改造』へ「日本人への弁明」を寄稿。
1955年には、核兵器の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名。その1週間後に動脈瘤破裂のため、76歳の生涯を閉じたのであった。
※ またアインシュタイン博士は、パレスチナにユダヤ人国家「イスラエル」を建設するという「シオニズム」に理解を示していたが、権力や権威的なものは嫌いで、第2代イスラエル大統領への就任を辞退していた。彼は拡張主義の考えはなく、パレスチナ人と共存できると信じていたのである。
アルベルト・アインシュタイン博士
(1879~1955年)
ドイツ出身の理論物理学者。
1921年度のノーベル物理学賞を受賞。
(受賞理由は「光電効果の発見」であり、
「相対性理論の発見」ではない)
■■第2章:ユダヤ人大富豪バーナード・バルーク
●「マンハッタン計画」の舞台裏を語る時に、忘れてはならない人物がいる。バーナード・バルークというユダヤ人大富豪である。
「バルーク家」はラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーで、ロスチャイルド家と深いかかわりをもち、彼は「アグダス=イスラエル・ユニオン」というユダヤ系結社の代表を務めていた。
バーナード・バルークは、相場の世界では冷徹な投資で巨額の資産を作った相場師として有名であり、政治家としても幅広く活躍した。
ユダヤ人大富豪
バーナード・バルーク
(1870~1965年)
●第一次世界大戦中は、アメリカの「国家防衛会議」に所属し、総力戦体制の遂行のために設置された「戦時産業調整委員会(WIB)」の委員長を務め、独裁的権力を振るった。1916年のウッドロー・ウィルソン大統領の選挙資金集めでも決定的な役割を演じ、戦争が終わると、ヴェルサイユ講和会議に参加し、「賠償委員会」の委員長を務めた。そして、法外な賠償金をドイツに支払うように決め、ロスチャイルド商会傘下の国際銀行家たちやダレス兄弟と組んで、ドイツにヒトラー政権が誕生する手助けをした。
彼は、その後も大統領顧問を務め、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンなど、6人から絶大な信頼を寄せられた人物だった。チャーチルの親友でもあった。(バーナード・バルークは「影の大統領」と呼ばれていた)。
●第一次世界大戦前、バーナード・バルークは100万ドルの資産を持っていたが、それが終わった時には2億ドルになっていた。ヒトラーが戦争を起こすと、彼はチャーチル、ルーズベルトと語らってアメリカを参戦させた。
バーナード・バルークは、第二次世界大戦中は、原爆開発の有力な支援者となり、「マンハッタン計画」を指導した。「マンハッタン計画」は、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行われる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。この計画の存在については大統領や陸軍長官など限られた関係者のみに知らされ、議会への報告などは一切行われなかった。
そして原爆が完成すると、バーナード・バルークは大統領顧問として、原爆の対日使用を積極的にすすめたのである。彼にとって、日本人の命なんてどうでもよかったのだろう(彼は京都への原爆投下を主張していた)。
◆
●戦争が終わると、バーナード・バルークは「国連原子力委員会」のアメリカの主席代表となり、原子力の管理に大きな影響力を持つようになる。彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者でもあったのだ。
1946年、バーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。
1947年4月、バーナード・バルークは「冷たい戦争(コールド・ウォー)」の言葉を初めて使用した。一般に、彼が「冷戦」の名付け親であるとされている。(ちなみに「鉄のカーテン」という表現を最初に口にしたのはチャーチルである。念のため)。
●このように、ユダヤの大富豪であるバーナード・バルークは、第一次と第二次の2つの世界大戦で重要な役割を演じ、「原爆」と「冷戦」の誕生にも深く関与していたのである。彼は戦争によって自分の資産を増やしていた。一部の研究家の間では、バーナード・バルークは「戦争仕掛人」と呼ばれている。(バーナード・バルークは1965年に亡くなった)。
◆ ◆ ◆
以上、見てきたように、原爆の誕生にはユダヤ人が大きく関わっている。これは否定できない事実である。もちろん、対日使用に賛成の者もいれば、反対の者もいた。様々なユダヤ人が様々な「思惑」を抱いて関与していたのである。(念のために繰り返しておくが、当館は「原爆の責任は全てユダヤ人にある」と主張するつもりはない)。
これら原爆に関わったユダヤ人たちに対する評価は、人によって大きく分かれると思うが、いずれにせよ、広島と長崎の悲劇はアメリカ政府が犯した「戦争犯罪」だったことは確かである。
※ この件に関しては次章で詳しく触れたい。
原爆によって廃墟となった
広島中心部の様子(1945年10月)
■■第3章:「戦争早期終結論」の虚構
●一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。
「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。
●しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。
「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。
●1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。
◆
●1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。
そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、アメリカの大規模な日本侵略が行われることはなかったであろうと記されている。
つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。
●また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと結論づけていたのだ。
◆
●原爆投下の決定を聞かされたアメリカ軍部の指導者の中には、嫌悪を催した者もいた。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。
「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、もはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた」
※ アイゼンハワー将軍の見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官
ドワイト・アイゼンハワー将軍
(後の第34代アメリカ大統領)
※ 1945年7月20日に
「日本に対し原爆投下は不必要」
とトルーマン大統領に進言していた。
●現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは1945年5月には、「降伏条件を変えるだけで戦争は終結する」と大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。
タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。
スチムソン陸軍長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。
ジョセフ・グルー
日米開戦時の駐日アメリカ大使で、
開戦と同時に帰国し国務次官。1945年5月28日、
「天皇制を保証すれば日本は降伏するであろう」と
トルーマン大統領に進言していた。
●陸軍次官補ジョン・マックロイは、1945年6月18日に開かれた「対日戦略会議」において、日本への原爆使用は「事前警告」した上で使用するべきだと主張し、
「無警告」による原爆投下に反対していた。
ジョン・マックロイ
大戦末期に「ポツダム宣言」を起草し、
1953年にロックフェラー財団の理事、のちに
ロックフェラー系「チェースマンハッタン銀行」頭取、
「セブン・シスターズ」の法律顧問、CFR議長を務めた。
※ 第二次世界大戦中に陸軍次官補だった彼は、「一発で都市を
吹っ飛ばせる兵器を我々アメリカが所有していることを事前に警告
すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下する、と日本政府に
伝えるべきだ」と主張して「無警告」による原爆投下に反対していた。
●アメリカ極東軍司令官だったダグラス・マッカーサーは、1961年の書簡で次のように証言している。
「私は原爆使用については相談を受けなかった。もし相談を受けていたとすれば、それは不要である、日本はすでに降伏の準備をしている、との見解を表明していたであろう」
極東のアメリカ軍司令官
ダグラス・マッカーサー
1945年8月30日から約5年半、
GHQの最高司令官として
日本占領に当たった。
●アメリカ海軍太平洋艦隊の空母機動部隊の司令官だったウィリアム・ハルゼーも、次のように述べている。
「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった。あのような兵器を必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか?」
ウィリアム・ハルゼー海軍元帥
彼は攻撃精神旺盛な性格で、
あだ名は「ブル(雄牛)」だった。
日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!
敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」
など度々過激な発言を繰り返したことで
知られているが、日本への原爆投下
に対しては批判的だった。
●海軍元帥で当時の大統領主席補佐官のウィリアム・リーヒも、1950年発行の回顧録『私はそこにいた』で原爆は不要だった、と断言している。
「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だが、トルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。
この野蛮な兵器を広島と長崎に投下したことは、日本との戦争でなんら重要な意味をもたなかった。日本軍はすでに敗北していたし、海上封鎖の効果と、通常兵器による爆撃の成功によって、降伏しようとしていた。」
「この新兵器を『爆弾』と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは『毒物』である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。
アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない。」
ウィリアム・リーヒ海軍元帥
非戦闘員を犠牲にすることをよしと
しない軍人としての立場から、日本への
原爆投下に対しては批判的だった。
●以上、当時原子爆弾に批判的だったアメリカ人エリートたちを簡単に紹介してみたが、
結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、戦争を早期に終結させるためではなく、戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。
アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。
大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きるという予想が大勢をしめていた。
しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、というイメージを全世界に与えようとしたのだ。
ヨシフ・スターリン
戦後の世界再建交渉において、
アメリカと対等の席につくはずであったが、
原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、
アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまった。
●ところで、ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つが、壊滅寸前の日本に対する“炎の絶滅兵器”の使用は、まさに「原爆ホロコースト」と呼ぶにふさわしいアメリカが犯した「戦争犯罪」であった。
まさに「炎」の地獄だった。前代未聞の「炎」の海。超高熱と放射線の嵐。一瞬にして数万人の一般市民が焼き殺され、この世から生命を奪われてしまった。一瞬にである。
※ 原爆はユダヤ人の頭脳を結集して誕生した「ホロコースト兵器」であり、通常の爆弾と違って深刻な「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。
何度も強調したいが、原爆は大量の人間を
一瞬にして焼き殺す「ホロコースト兵器」である!
■■第4章:戦争犯罪者 トルーマン大統領
●「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。
「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。
しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。
彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
原爆の「対日使用」にゴーサインを出した
第33代大統領ハリー・トルーマン
1958年2月3日『東京新聞』
── この記事の内容 ──
トルーマン前米大統領は2日、CBSテレビ放送番組「今だから話そう」の対談に出演し、「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。これからも万一の場合、水爆使用はたしかだ」と語った。〈中略〉
「我々が強力な新兵器を持っていた以上、それが大量殺人兵器だからといって、私はこれを使うことに良心のとがめを感じることはなかった。戦争には反対だが、勝てる兵器を持ちながら、それを使わなかったとすればバカげたことである。〈中略〉」 といった。
●広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行ったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか」
トルーマン大統領は原爆の惨状についての
報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。そして
被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
被爆者である橋爪文さんが書いた
『少女・十四歳の原爆体験記』(高文研)
詩人の感性を持つ少女の目を通して、被爆の
実相と廃墟に生きた人々の姿が克明に描かれている。
「ABCC」の実態についても触れられている。
「原爆傷害調査委員会」と訳されたアメリカ軍施設「ABCC」
「私は広島の生き残りのひとりです。〈中略〉ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行いました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行われた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちは今も追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています」
原子爆弾は通常の爆弾と違って、深刻な
「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。
放射線の影響は、その後長期にわたってさまざまな障害を
引き起こした。体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を
引き起こすのか、50年以上経過した現在でもまだ十分に解明
されておらず、被爆者は後障害で今なお苦しみ続けている。
※ 現在もアメリカは被爆者たちを追跡調査している。
放射線の影響により、髪の毛がごっそり抜け落ちてしまった姉弟
被爆して顔面に大ヤケドを負った6歳の少女(包帯姿が痛々しい)
後ろの母親は左腕と両足をヤケドして歩くことができなかった。
この親子は広島の地方専売局の臨時救護所に通い続けた。
原爆で負傷した彼女たちは一生消えない傷を背負って
戦後の社会を生きていかねばならなかった。
1993年2月5日『朝日新聞』
── この記事の内容 ──
ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。同事務所は「分類方法に不適切があった」とし、「次版から書き方を変更することを検討する」としている。〈後略〉
●トルーマン大統領の原爆に関する「罪」は、これだけでは終わらない。まだ大きな責任がある。
大戦の終結とともに、アメリカは「世界最初の原爆保有国・使用国」として、原子力を厳重に管理して、世界に原爆を拡散させないようにする重大な責任があった。「原子力の国際管理」は地球の未来を占う非常に重要なテーマであった。
第2章でも触れたように、1946年、トルーマン大統領の国連特使を務めたバーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。
また、大戦の終結とともに、「マンハッタン計画」に参加していた科学者たちは、原子力研究を平和時の状態に戻し、「軍管理体制」を解除するよう求めていたが、トルーマン大統領はこうした動きを完全に無視して、原爆の開発を軍の指揮下で積極的に推し進めた。そして、1948年には「サンドストーン計画」という「原爆大量生産計画」をスタートさせたのである。
●そして、1949年にソ連が「原子爆弾」の開発に成功すると、トルーマン大統領は、翌年1950年に「水素爆弾」の開発にすんなりとゴーサインを出してしまった。
1952年に最初の「水素爆弾」の実験が行われたが、この時、太平洋の小島「エルゲラブ島」が消滅してしまうほどの威力を見せつけた。
この水爆実験成功によって、ユダヤ人科学者エドワード・テラーの唱え続けていた「超強力爆弾」の理論が妄想でないことが実証されたのである。
「水素爆弾」は広島に投下された「原子爆弾」の
1000倍以上の破壊力を持つ悪魔の兵器である
●1954年3月1日に行われた「水爆」実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、テラー博士の作品であった。
恐ろしいことに、日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。
この世界中を震撼させた「ビキニ事件」は、映画「ゴジラ」の製作のきっかけにもなった事件である。(アメリカが行ったビキニ環礁の水爆実験でジュラ紀の恐竜が目覚め、身体にたまってしまった放射能を吐くという設定)。
1954年3月1日に行われた「水爆」実験によって日本の
マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまった。
※ 日本人は広島・長崎に続いて「核の被害」にあったのである。
●「水素爆弾」の完成は、アメリカ科学者たちの間に大変な反響を呼び、テラー派と反テラー派とに大分裂させた。
さらにこの頃、「マッカーシー旋風(赤狩り)」が荒れ狂っており、原爆開発のリーダー的存在であったオッペンハイマーは「ソ連のスパイ」ではないかと告発され、「政治的理由から水爆の緊急開発計画に反対を唱えた」というテラー博士らの追い打ち証言もあって、かつての英雄オッペンハイマーは「国家反逆」のレッテルを貼られて第一線から追放されてしまったのである。
ジョセフ・マッカーシー上院議員
マッカーシズムといわれる嵐を巻き起こした。
マッカーシズムとは、1948年頃から1950年代半ばの
アメリカで起きた激しい反共産主義運動のことである。
米誌『タイム』の表紙を飾った
オッペンハイマーとテラー博士
●しかしこの事件は多くの人々に“不正”なものと映ったため、この「オッペンハイマー事件」以後、一般にオッペンハイマーは「科学への殉教者」、テラー博士は彼を落としめた「迫害者」と見なされ、かつての親友たちもテラー博士を敬遠するようになったという。
結局、テラー博士もまたアメリカ科学アカデミーの主流から隔絶されてしまったのである。
原爆・水爆・SDIの父である
ユダヤ人科学者エドワード・テラー
水爆の開発をめぐって、水爆反対派の
オッペンハイマーと激しく対立した
●しかし、科学者の仲間から拒絶されたテラー博士は積極的に資本家や産業界の重鎮、大物政治家との親交を深め、軍部にも急接近していった。ネルソン・ロックフェラーとはすぐに親友になった。時の副大統領のリチャード・ニクソンは、テラー博士に助言を求めた。後にニクソンは大統領になったとき、テラー博士の研究を推した。
1960年代、テラー博士の招待に応えたロナルド・レーガンは、テラー博士の研究所を訪れた最初のカリフォルニア州知事となった。後に大統領となったレーガンは、強力な軍拡路線を敷く中で、テラー博士を最大限に擁護した。レーガンは、テラー博士のアイデアである「SDI計画」をブチ上げたことで知られる(1983年3月23日)。
※ レーガン大統領はアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」をテラー博士に贈った(前述)。
(左)レーガン大統領と握手するテラー博士(1983年)
(右)テラー博士の考案したSDI兵器の1つ「核X線レーザー衛星」
※ 小型水爆の周囲に数十本のロッドを配して、自らの核爆発によって
各ロッドから「核X線レーザー」の一撃を放出させる兵器である
●さて、話をトルーマン大統領に戻そう。
冷戦時代の外交官で第一外務次官を務めたコルニエンコは、1995年に『冷戦 ─ 冷戦参加者の証言』を出版し、冷戦発生の責任はその全てとはいわないが、そのほとんどの部分は西側列強にあり、冷戦を開始したのはアメリカ、トルーマン大統領であったと主張している。彼は次のように語っている。
「フランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日に亡くなるまでソ連との協力を望んでいたが、同大統領の亡きあと大統領となったトルーマンはただちにポーランド問題で冷戦の『第一発』を放った。また、トルーマンが冷戦の道を歩むことを最終的に決めたのは同年9月21日、彼がスチムソン陸軍長官の原子爆弾の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶように主張した提案を拒否した日であり、冷戦を公式に宣言したのは1946年3月5日、チャーチルがアメリカ・ミズーリ州フルトンで有名な『鉄のカーテン』演説をしたときに同席した日である。」
◆
●このように、トルーマン大統領は、原爆の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶのを拒否し、無秩序な核開発計画を進めたのである。
結局、アメリカとソ連は、トルーマン政権以降、熾烈な核軍拡競争に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発以上の原爆・水爆を製造し、1700回以上の原爆・水爆実験を実施し、各地に死の灰を降らせた。
また両国各地に点在する巨大な核施設の爆発事故・放射能漏れ、原発事故、さらには老朽化した原潜・ウラン鉱山なども住民に深刻な放射線被害を引き起こし、環境に多大な汚染をもたらしてきた。
全く狂気の沙汰としかいいようがない。
核実験の回数(核爆発をともなう実験)
●トルーマン大統領の「罪」は、原爆の対日投下と、戦後の無秩序な核開発だけにとどまらない。
彼は1947年の国連による「パレスチナ分割案」を強力に後押しし、国連加盟諸国へ脅しの根回しをして、イスラエル建国を実現させた元凶でもあるのだ。
イギリスは第一次世界大戦中の1917年に、ユダヤ人に対して「連合国を支援すればパレスチナの地に
ユダヤ国家建設を約束する」という「バルフォア宣言」を行なった。第一次世界大戦後、それまでパレスチナ
を支配していたオスマン・トルコ帝国の敗北にともなってパレスチナは国際連盟の委任統治の形式でイギリスの
支配下に置かれた。第二次世界大戦後にイギリスは深刻化するパレスチナ問題を国連に付託した。1947年に
国連総会はパレスチナに対するイギリスの委任統治を廃止し、パレスチナの地をアラブ国家とユダヤ国家に分割
する決議を採択した。この分割決議はユダヤ人にとって有利なもので、翌年にユダヤ人が独立宣言(建国宣言)
すると、アラブ諸国は猛反発し、すぐさま大規模な武力衝突(第一次中東戦争)が勃発した(新生ユダヤ国家
であるイスラエルは米英の支持を得てアラブ諸国を打ち破り、イスラエルの建国は既成事実となった)。
この両者の紛争は1973年の第四次中東戦争まで続き、多くのパレスチナ先住民が土地を奪われ、
イスラエルの支配地域は拡張していった。半世紀以上たった現在も450万人ものパレスチナ人が
その土地を追われたまま、ヨルダンを始め、レバノン、シリア、エジプト、湾岸諸国などで難民
生活を強いられている。100万人近いパレスチナ人がイスラエルの領内で人種差別的な
厳重な監視下の生活を強いられている。ヨルダン川西岸、ガザ地区ではそれぞれ
170万人、100万人ものパレスチナ人がイスラエル占領軍の
極限的な抑圧のもとに置かれて苦しんでいる。
●中東を専門分野とするイギリス人の国際評論家、デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使した著書『パレスチナ人の歴史 ─ 奪われし民の告発』の中で、この経過を次のように描きだしている。
「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の一メンバーにすぎないアメリカだった。パレスチナ分割とユダヤ人国家創設に賛成するアメリカは、国連総会に分割案を採択させようと躍起になった。
分割案が採択に必要な3分の1の多数票を獲得できるかどうかあやしくなると、アメリカは奥の手を発揮し、分割反対にまわっていたハイティ、リベリア、フィリピン、中国(国府)、エチオピア、ギリシアに猛烈な政治的、経済的な圧力をかけた。ギリシアを除いたこれらの国は、方針変更を“説得”された。フィリピン代表にいたっては、熱烈な分割反対の演説をした直後に、本国政府から分割の賛成投票の訓令を受けるという、茶番劇を演じさせられてしまった。」
※ 当初、この「パレスチナ分割案」が国連総会で採択されるとは誰も思っていなかった。そのため、この予想外の可決は国連総会が開催されたニューヨークの地名をとって「レイクサクセスの奇跡」と言われた。
「イスラエル共和国」の独立宣言(1948年)
●なお、ここで注意してほしいのは、トルーマン大統領は最初からシオニズムの支持者ではなかったという点だ。
彼は最初はアラブ諸国、とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家建設に反対する意向を表明していたのである。これに対し、当時の在米ユダヤ人社会は強く反発し、「1948年の大統領選挙ではトルーマンはユダヤ人票を失うだろう」と警告したのである。
大きな票田を持つ都市に集中するユダヤ人の票は、当時、戦局不利が伝えられていたトルーマンにとって勝敗を左右する重要な要素だった。このままでは共和党候補に敗北する、という危機感を抱いたトルーマンは、前言を翻して国連決議案の支持に回った。これによって、翌年の大統領選挙では75%のユダヤ票を獲得し、きわどい差で勝利したのである。
ハリー・トルーマン大統領
ユダヤ票欲しさに熱烈なシオニズム
支持者になり、イスラエル建国を実現させた。
(ちなみに彼は父方がユダヤ系である)。
●マスコミの連中がトルーマン大統領に聞いた。
「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか?」
トルーマン大統領はこともなげにこう言った。
「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが」
●このようにトルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである(これは有名な話だ)。
原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、中東でのイスラエル建国といい、彼は自分の下した決定が、どのような深刻な悲劇を引き起こすのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。
シオニズムが抱える深刻な問題については、当館6階の
シオニズムのページで具体的に考察しているので、
そちらをご覧下さい。本当に深刻な問題です。
●『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、「トルーマンのコンプレックス」について次のように述べている。
※ 興味深い指摘なので参考までに紹介しておきたい↓
「1995年に刊行された『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』(ロナルド・タカキ著/草思社)という本の中に、驚くべきことが書いてある。
トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死した後を継いで大統領になった時は頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。だから、男らしいところを見せようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだと書いてある。
それ以前にも、この話は聞いたことがあった。その時は『ウソだろう』と思ったが、還暦を越した今では、その気持ちが分かる。そういうことはあるだろうと思う。歴史は、こうした個人の性格によっても左右されるものらしい。」
『アメリカはなぜ日本に
原爆を投下したのか』
ロナルド・タカキ著(草思社)
この本は、トルーマン大統領の性格と
彼の置かれた立場を分析することによって、
彼が原爆投下の決定を下すに至る経緯を
初めて明らかにした衝撃の書である。
興味のある方は一読して下さい。
■■第5章:演出された東西の「冷戦」─ 原子力利権の実態
●1992年3月10日に朝日新聞は、「ソ連原爆1号はアメリカのコピーだった」として次のような記事を載せた。
「1949年8月に初めて実験に成功したソ連の原爆は、アメリカの原爆製造に参加したドイツの亡命物理学者クラウス・フックスからのスパイ情報をもとに、アメリカ製原爆の構造をほぼ真似たものだったことを、ソ連の原水爆の設計責任者を長年務め『ソ連の原爆の父』とも呼ばれるユーリー・ハリトン博士が、朝日新聞とのインタビューで明らかにした。
西側でも、フックス情報がソ連原爆開発の力になったと推定されてはいたが、当事者がこれを認めたのは初めて。また、ソ連初の原子炉は占領したドイツから押収したウランを燃料としたなど、これまで秘密にされてきたソ連の核兵器開発の様子を詳しく語った。」
クラウス・フックス(ユダヤ人)
ドイツ共産党に入党していたが、ナチスの
弾圧を逃れてイギリスに亡命。物理学で頭角を現し、
1943年にアメリカに渡り、「マンハッタン計画」に参加。
その間、原爆情報を旧ソ連政府に流していた。スパイ容疑で尋問
され、1950年に自白。懲役14年の判決を受けたものの、
1959年に釈放される。その後、旧東ドイツの原子力
研究所副所長を務め、1988年1月に死亡。
(左)1992年3月10日『朝日新聞』(右)ソ連初の原爆「Joe-1」
※ ソ連初の原爆はアメリカ製の「長崎型原爆」をコピーしたものだったとのこと
●驚くべきことに、ソ連の原爆開発には、「マンハッタン計画」を主導した<オッペンハイマー博士も関与していたという。
1994年4月18日に、中日新聞は次のような記事を載せた。
「第二次世界大戦中にアメリカが原爆を開発した『マンハッタン計画』の責任者で『原爆の父』といわれるロバート・オッペンハイマー博士らが、核戦争回避のため力のバランスをつくり上げようと自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた事実が明らかになった。
18日発売の米誌『タイム』(4月25日号)が元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ氏の回顧録の抜粋で紹介したもので、戦後の『冷たい戦争』も『核抑止力による平和』も、実はこれら科学者たちが“演出”したものだったことになる。
スドプラトフ氏は現在は引退してモスクワに住むが、大戦当時はソ連の欧州・北米担当情報網の責任者。スターリンによるトロツキーの暗殺計画も担当した大物スパイ。
『タイム』誌が抄録した同氏の英語版新著『特殊任務 ─ 望まれない証人の回顧録』によると、原爆製造情報の秘密提供に参加したのは『マンハッタン計画』の責任者でロスアラモス研究所所長のオッペンハイマー博士のほか、1938年のノーベル物理学賞受賞者で1939年にイタリアからアメリカに亡命したエンリコ・フェルミ博士、さらにニールス・ボーア博士ら。3博士らとも熱心な戦争反対論者として知られるが、スドプラトフ氏によれば、『原子力の秘密情報を米ソが共有することで力のバランスをつくり上げ、核戦争を回避しようとした』のが動機という。
ソ連は広島、長崎に原爆が投下される以前の1945年初めに、アメリカの原爆設計図を入手。33ページにわたるこの設計図がその後のソ連製原爆の基礎となった。ソ連は1949年に最初の原爆爆発テストに成功している。」
米誌『タイム』
(1994年4月25日号)
●この記事で紹介されているパベル・スドプラトフの回顧録は、現在、日本でも翻訳出版されている (邦題『KGB衝撃の秘密工作』/ほるぷ出版)。かなり衝撃的な内容である。興味のある方はぜひ読んで欲しい。
(左)元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ
(右)彼の回顧録『特殊任務』(英語版・1994年)
左から、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーア
※ パベル・スドプラトフによれば、この3人は原爆製造情報の秘密を
当時のソ連スパイに秘密裏に提供し、冷戦を演出したとのこと
※ 3人とも熱心な戦争反対論者として知られるが、
「原子力の秘密情報を米ソが共有することで力の
バランスをつくり上げ、核戦争を回避
しようとした」のが動機という
●「マンハッタン計画」と「冷戦」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。
例えば、ユダヤ人大富豪ロスチャイルドの研究で有名な広瀬隆氏は、次のような事実を明らかにしている。
「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である」
「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。
そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である」
上は広瀬隆氏が作成した「系図」。ユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、
チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、血のつながりを持つ一族だった。
オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかったのだ。
●さらに広瀬隆氏は次のように語る。
「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。
このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている」
「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである」
「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ」
第二次世界大戦中の
ロスチャイルド直系当主
ヴィクター・ロスチャイルド男爵
※ 彼はソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの
「ケンブリッジ・サークル」の最大の黒幕だったという
●さらに広瀬隆氏はこう語る。
「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである」
「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの“放射能の安全論”であった。ここで数々の生体実験を行ってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。〈後略〉」
◆
●上の広瀬隆氏の話の中に出てくる「ケンブリッジ・サークル」とは、イギリスを震撼させた「ソ連の二重スパイ組織」のことで、ケンブリッジ出身の4人のダブル・スパイ、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーンがメンバーだったことで知られている。名門パブリックスクールからケンブリッジに進学したエリート中のエリートで、彼らはその才能とバックグラウンドを生かしてイギリス情報部、外務省、BBC、王室とイギリスの支配階級の中枢に深く潜入し、KGBに情報を送り続けていたのである。
なぜ将来を約束されたエリートたちが共産主義に傾倒し国を裏切るようになったのか、今でも大きな関心を集めている。
ソ連の二重スパイだった「ケンブリッジ・サークル」のメンバーたち。左から、
キム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーン。
特にキム・フィルビーは、冷戦時代にスパイ界の「キング」と呼ばれていた。
※ 1979年11月、サッチャー首相は公的にアンソニー・ブラントを
「反逆者」と発言し、ナイトの称号を剥奪した。
●スパイの世界に詳しい高橋五郎氏は、「ケンブリッジ・サークル」のメンバーだったキム・フィルビーについて次のように述べている。
「冷戦時代にスパイ界の『キング』と呼ばれたキム・フィルビーは、学生時代の1933年から熱烈なレーニン主義信奉者で筋金入りのソビエト・ロシアのスパイ。CIAは、フィルビーの正体を1960年代初頭には薄々感づいていたといわれるが、フィルビーは1963年頃にモスクワに逃げてしまった。逃げたというよりも、CIAが逃がしたというほうが、ベラスコのいう『良心的な歴史観』に沿っているかもしれない。
フィルビーがモスクワに逃げて、西側は大打撃を受けた。フィルビーは戦前・戦後を通してイギリス情報網の組織強化に情熱を燃やし、アメリカ戦略情報局(OSS)をCIAに改組強化するうえで力を貸し、両機関のソ連対策にまで知恵を授けてきたとんでもない人物だったからだ」
「ところで、フィルビーの正体をCIAが見破ったことで、皮肉にも西側戦勝国の戦史や政治史の信憑性が疑われることになる。歴史学者はパニックに陥った。それまで戦勝国が公表してきた第二次世界大戦史と、それに沿って再生産された秘密諜報活動史、軍事作戦史をはじめとして、それらに準拠したスパイ小説、戦争指導者たちの得意げな、あるいは控え目な回顧録、映画、新聞、雑誌記事、テレビ番組など、とくに1960年代前半までに公開された『史実』は書き換えを余儀なくされた。しかし一度知った『歴史』を世間の人びとは面倒がって書き直さない。それをよいことに戦勝国は、スクープされない限りは、いまだに歴史の修正に無関心を装っている」
◆
●ちなみに「原子力利権」の実態について、「アジア・アフリカ研究所」の名誉所長である岡倉古志郎氏は、著書『死の商人』(岩波書店)の中で次のように述べている。
「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。
『1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。
原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』『GM』『フォード社』『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。
この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。
『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。
ジェイムズ・アレンが『原爆崇拝のかげで景気のいい一つの商売がおこなわれている。それは、国家の権威をまとい、えせ愛国主義の霊気に包まれているが、いうなれば“ボロもうけの商売”である。しかも、この事業の目的たるや、大量殺人でしかない』と慨歎しているのも当然である。」
<原爆開発と原子力開発の組織の変遷>
1947年1月1日に「原子力委員会(AEC)」が発足し、「マンハッタン計画」を継承。
1977年10月1日に「エネルギー省(DOE)」が発足し、「AEC」など諸機関を継承。
■■第6章:冷戦で肥大化していった「軍産複合体(MIC)」
●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。
●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。
●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。
ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
「ロスアラモス研究所」
この研究所は、1943年、原爆の開発を目的として
ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密の国立研究所で、
初代所長はユダヤ人ロバート・オッペンハイマーが務めた。
1945年春には、理論物理部、実験原子核物理部、
化学及び冶金部、兵器部、爆薬部、爆弾物理部、
それに高級研究部があった。
●そして第二次世界大戦が終結すると、今度はソ連を相手にした兵器近代化競争に打ち勝つため、アメリカ政府は膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を結集して新しい武器の開発を求めてきた。
そこで得た研究成果は、「ダウ・ケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。
●この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、さらに同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。
このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした“中央集権的組織”となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。
1947年に「国家安全法」に基づいて誕生した
「国防総省(ペンタゴン)」と「CIA(中央情報局)」
●軍産複合体は年々肥大化し、ペンタゴンから発せられる莫大な「軍需注文」は、2万2000社もある「プライム・コントラクター(ペンタゴンと直接契約する会社)」と呼ばれる巨大な航空機メーカーやエレクトロニクス企業に一括して流されている。
さらに、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。
●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。
例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。
●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。
プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。
ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。
●「軍産複合体」がアメリカ経済に対し、依然として強い影響力を持っていることに関し、国防産業協会の会長J・M・ライル元提督は以下のように言っている。
「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的にそれを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである」
●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。
「アメリカが必要としているのは、永久的な“戦争経済”である」
●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。
「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる“ビッグ5(国連常任理事国)”の兵器産業である」
「ベトナム戦争ひとつを振り返ってみても、本当の“死の商人”が誰であったか一目瞭然だろう。まず、フランスが膨大な兵器を流し込み、その後をアメリカが引き継いだ。もちろん、そうなるとソ連も放っておけないから、北ベトナムやベトコンにどんどん新兵器を与え、やがては中国も介入していった。そうやって戦争がエスカレートして行きさえすれば、それぞれの国の兵器産業を中心とした軍産複合体もまたどんどん肥え太っていくわけだ」
(左)ベトナム戦争で大量の「枯葉剤」を散布するアメリカ空軍機
(右)「枯葉剤」により破壊された森(かつてマングローブ
だった場所は焼け野原のようになってしまっている)
※ ベトナム戦争がエスカレートすると「ランチハンド作戦」という名の
枯葉剤作戦が容赦なく実行された。ダイオキシンをはじめとする高濃度の
有害物質を含む枯葉剤が見境もなく広大な森の上に何度も繰り返し散布され、
森林は広範囲にわたって破壊された。(ベトナム戦争においてアメリカ軍は
4万5000キロリットルもの枯葉剤を化学兵器として軍事利用した)。
※ この時期のアメリカ政府は国内のほぼ全ての化学メーカーを管轄下に
置き、ベトナム戦争で使用する化学薬品以外は製造させなかった。
(政府の委託を受けて枯葉剤を製造した「ダウ・ケミカル社」や
「モンサント社」などのアメリカの大手化学メーカーは
この戦争によって莫大な利益を計上した)。
●ところで、「軍産複合体」という言葉を最初に使ったのは、トルーマン大統領の次に就任したアイゼンハワー大統領である。
彼は第二次世界大戦の欧州戦域で「連合軍」を指揮し、近代戦の凄まじい消費と後方の生産力のシステム化に成功した「戦争管理型軍人」として知られている。その意味で、「軍産複合体」の生みの親ともいえる人物であるが、それだけに内在する危険性についても考えていたようだ。
トルーマン大統領の次に就任した
第34代大統領ドワイト・アイゼンハワー
※ 退任する時に「軍産複合体(MIC)」の
危険性について警告を発していた
●アイゼンハワー大統領は1961年1月17日の退任演説で、「軍産複合体」の危険性に関して次のような警告を発していた。
「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤(すき)製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している」
「軍産複合体の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。〈中略〉軍産複合体が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない」
●この退任演説の3日後に、ジョン・F・ケネディが大統領に就任。彼の対キューバ政策や対ソ連政策、対ベトナム政策などは、軍産複合体の利益と真っ正面から衝突した。
ケネディ暗殺の首謀者が誰なのかは知らないが、「2039年には全面的に真相を公開する」というアメリカ政府の声明は謎めいて聞こえる。
(左)第35代大統領ジョン・F・ケネディ
(右)ケネディ暗殺の瞬間(1963年11月)
■■第7章:葬られたスミソニアンの「原爆展」
●1995年、国立スミソニアン航空宇宙博物館で、「大戦終結50周年記念特別展」として、エノラ・ゲイを中心とする「原爆展」の開催が予定された。
この「原爆展」では、広島・長崎の被爆の様子も大きくとりあげ、被爆者の様々な遺品も展示される予定だった。アメリカではほとんど知られていないキノコ雲の下で起こった悲惨な出来事にも光を当てることで、核兵器の全体像をとらえようという意図だった。
スミソニアンの「原爆展」を企画した
マーチン・ハーウィット館長
●しかし、この企画はアメリカ国内で大きな反発を招いた。
多くのアメリカ人にとって、第二次世界大戦は正義と民主主義を守るための「よい戦争」であり、原爆の投下は戦争の終結を早めたと考えられているからだ。そのため、B29とキノコ雲は、アメリカにとって、勝利と栄光のシンボルである。
この「原爆展」の前に、アメリカはキノコ雲をデザインした「原爆切手」を発行しようとしたが、日本の反発で発行中止となる騒ぎがあった。この騒ぎで、アメリカ国内に、日本への原爆投下が残虐行為として認定されてしまうのではないかという危機感が広がり、この危機感がそのまま「原爆展」への反発へとつながっていったのである。
第二次世界大戦終結50周年を記念して、
1995年にアメリカが発行しようとした「原爆切手」
※「原爆の投下が戦争の終結を早めた」という文章が
刷り込まれていたが、日本の反発で発行中止となる
●スミソニアンの「原爆展」への反発は、やがて、保守派を中心に議会や大統領まで巻き込んでの大きな動きとなった。特に「原爆展」反対を大きく唱えた団体は、「全米在郷軍人会」なる組織であった。
こうした動きに関連してクリントン大統領は、「原爆展」の中止を支持するとともに、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と言明した。
第42代アメリカ大統領
ウィリアム・クリントン
「トルーマン大統領が下した原爆
投下の決断は正しかった」と言明した
※ トルーマンもクリントンも同じ「民主党」である
●結局、「原爆展」は50年前に勇敢に戦ったアメリカ兵を侮辱するものだとされ、中止に追い込まれてしまい、B29「エノラ・ゲイ号」だけを展示するものに差し替えられてしまったのである。
国立スミソニアン航空宇宙博物館に展示された
B29「エノラ・ゲイ号」(1995年)
●この「原爆展」を企画したマーチン・ハーウィット館長は辞任に追い込まれてしまった。
彼は「原爆展」企画から中止までの経過を一冊の本にまとめて出版したが、取材に訪れた日本人記者に対して、「『原爆展』の挫折で日本人に学んでほしいこと」として、次のように語っている。
「“戦争教育”は、ある意味において諸刃の剣にも似た危うさを伴っています。もちろん“アメリカの正義”を主張するのも大切ですが、その側面だけを強調して、他の側面(被害者の立場)を捨象してしまえば、単なる戦争礼賛のためのデモンストレーションとなってしまいます。私は必死に説得活動を続けましたが、結局、私の考えは拒否され、館長を追われる結果となってしまいました。
このたび、考えに考えたすえ、ようやく脱稿した『拒絶された原爆展』という本が出版されましたが、真の“戦争教育”とは何かという主題をみんなで徹底的に議論してほしいという祈りをこめてこの書を世に問うたつもりです。
日本では、アメリカのタカ派とは全く逆の論調から、ややもすれば『加害者の立場』のみが強調されがちだと聞きますが、これもまた戦争の一面だけしか伝えないという意味において実に危険なことだと思います。スミソニアン博物館で何が失われ何が得られたかという議論を通じて、日本の“戦争教育”のあり方をもう一度真剣に考え直してもらえれば……と、私はいま痛切に感じています」
スミソニアンの「原爆展」はなぜ挫折した
のか?「原爆展」の企画から中止までの経過を、
館長を追われたマーチン・ハーウィット
自らが綴ったドキュメントである。
●この「原爆展」の諮問委員会を務めた、スタンフォード大学の著名な歴史学者であるバートン・バーンスタイン教授(ユダヤ人)は、アメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』に「広島再考」と題した論文を寄稿し、対日戦の早期終結に向け「アメリカ指導者は原爆使用以外の道を探求しなかった」などと、日本への原爆投下に批判的な説を展開した。
バーンスタイン教授は、「マンハッタン計画」の目標委員会の会議録などをもとに、ニューメキシコ州での爆発実験前から日本での投下先が詳細に検討され、都市中心部に目標が定められていた事実を紹介しながら、アメリカ指導層が当初から市民の大量犠牲を前提にしていたと指摘。
原爆投下が早い段階で既定路線になった背景として、彼はアメリカ軍によるドイツの「ドレスデン空襲」や「東京空襲」など戦略爆撃の例を挙げ、指導層や国民の戦争モラルが変質したと強調。「民間人の大量殺傷」を許す素地があったため、原爆投下を避けようとはしなかったと主張している。
バートン・バーンスタイン教授
スタンフォード大学のユダヤ人歴史学者。
原爆問題について30年近くも研究を続け、
現在、原爆史研究の第一人者である。
●また彼は、こうした「道義感」の変質を「第二次世界大戦の産物」とし、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害(ホロコースト)と、アメリカの原爆投下に本質的な違いはないと結論づけている。
●さらにバーンスタイン教授は次のように主張している。
「原爆が戦争終結を早めたという議論の根拠はとぼしく、たとえ原爆を投下していなくても、ソ連の参戦によって11月前には日本は降伏していただろう。加えてアメリカの指導者の中で、1945年春から夏の段階において、『50万人のアメリカ兵の命を救うために』原爆を使用すべきだったと考えていた者など一人もいなかった。
広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、20億ドルもの資金を投入したプロジェクトの持つ政治的・機構的勢い、そして第二次世界大戦の熾烈な戦闘を通じて、(市民を戦闘行為に巻きこまないという)旧来の道徳観が崩れてしまっていたからに他ならない。
この道徳観の衰退こそ、後における核兵器による恐怖の時代の背景を提供したのである。
ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜアメリカを含むほかの諸国の道徳観までもが荒廃していたのか、この点にこそ我々が歴史の教訓として学ぶべきテーマが存在する」
■■第8章:都市に対する無差別爆撃そのものが犯罪である
●スミソニアンの「原爆展」が中止になってからすぐに『スミソニアンの判断』という本がアメリカで出版された。
内容は「原爆展」中止に至るまでの経過の解説と、幻の企画書全文の紹介で、残り3分の1は前出のバーンスタイン教授の長い論文が占めていた。
この本を編集したのは、フィリップ・ノビレという異色のアメリカ人ジャーナリストで、彼は「アメリカ政府は原爆投下について日本に謝罪すべきだ」という考えの持ち主である。
(左)アメリカ人ジャーナリスト、フィリップ・ノビレ
(右)彼が編集した『スミソニアンの判断』
(原爆展についての内容である)
●このフィリップ・ノビレは、都市に対する無差別爆撃=「戦略爆撃」そのものが犯罪であり、広島・長崎はその極限に位置すると捉えている。
広島・長崎はそれが「核爆弾」だったからいけないというのではなく、東京その他の日本の都市、ドイツのドレスデン、そして広島・長崎を挟んでのベトナムのハノイ・ハイフォン・バグダッドにまでつながってくる20世紀の戦争に特有の、「戦略爆撃」の歴史の中で位置づけなければならないと言う。
彼は次のように述べている。
「戦略爆撃、すなわち都市に対する無差別爆撃は悪魔的で残酷な行為であり、ローマ教皇も『無差別爆撃は神に対する犯罪である』と言っている。多くのアメリカ人は都市爆撃そのものがすでに間違いだったということに気付いていない。〈中略〉爆撃する側も払うコストが大きく、ヨーロッパではアメリカ軍の戦死者の10人に1人が飛行士だった。いずれにせよ、アメリカ人が、われわれは善人であいつらは悪人だと考えているうちは、真実の全体像は浮かんでこない。
わが国は、日本とドイツの戦争犯罪人を裁判にかけて絞首刑にしたわけだが、同時に自分自身も罰すべきなのだ。善意に満ちたアメリカ人が日本人と協力して、トルーマン大統領やチャーチル首相の戦争当時の意思決定や行動について徹底的に調査して、彼らを戦争犯罪人として裁く法廷を開くべきだ」
廃墟になったドイツのドレスデン(1945年2月13日)
米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、
宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち
並ぶ文化の街は一変、ガレキと化した
●ところで、日本本土への爆撃作戦(戦略爆撃)の司令官を務めたのは、ユダヤの血をひくアメリカ人、カーチス・ルメイ少将である。彼は対ドイツ爆撃(ドレスデン空襲その他)で実績を上げ、「空の英雄」と呼ばれていた。
彼は日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、それまで補助的に使われてきた、油脂をばらまいて炎を広げる焼夷弾(Incendiary bomb)を用いて焼き払う方法を考え、ユタ州の砂漠に日本の家屋を建てて焼夷弾を投下してその効果を確かめもした。すなわち、最初から家屋を燃やし、日本人を焼き殺すという目的があったのである。
アメリカ軍による日本本土への爆撃は、最初は、武蔵野の中野飛行場など軍需工場を狙う「精密爆撃」だった。ところが、カーチス・ルメイが作戦の司令官に任命されてから、一般庶民皆殺しのために焼夷弾を投下する「無差別爆撃」に変わったのである(これは非常に重要なポイントである)。
日本本土への爆撃作戦の
司令官を務めたカーチス・ルメイ
戦後は、戦略空軍(SAC)司令官、
空軍参謀総長などを歴任。ケネディ政権時には
キューバやベトナムへの「核攻撃」を主張した。
(ベトナム戦争で北爆を推進したのは彼である)。
※ 1968年の大統領選では、無所属で出馬した
ジョージ・ウォレスの副大統領候補になった。
(1990年10月1日に83歳で死去)。
焼夷弾(Incendiary bomb)
投下後に38個の子弾(右)を空中で放出し、その衝撃
により爆発、高温の油脂が飛び散って燃え広がる仕組みである。
(この焼夷弾の「実戦的テスト」がユタ州で日本の典型的町並みを
再現した標的に対して行われ、最高の効果を示していた)。
●アメリカ軍は1944年11月1日から都市空襲を本格化させ、六大工業都市を狙った後、人口の多い順に日本全国64の都市を火の海にして、焼け野原にした。
1945年3月10日の東京大空襲では、40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後、約100万発(2000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。
こうして、一夜のうちに10万人以上の民間人(非戦闘員)が生きたまま焼き殺された。まさにホロコースト状態である(ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つ)。
これが虐殺でなくて一体何が虐殺か?
カーチス・ルメイの指揮のもとに行われた
1945年3月10日の東京大空襲では、300機以上のB29爆撃機が
大編隊を組んで、無差別じゅうたん爆撃をした。約100万発の焼夷弾を落とし続け、
人も家屋も焼いて焼いて焼き尽くしたのである。一夜にして10万人の民間人が
焼き殺され、関東大震災をはるかに上回る面積が焼失した。運河も道路も
公園も、逃げながら焼け死んだ黒こげの死体で埋め尽くされた。
まさに「ホロコースト状態」である。これは原爆投下に
匹敵する戦争犯罪であり「大虐殺」であった。
空襲後、廃墟となった東京
3月以降も東京への空襲は続けられた。3月10日に
次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、
それまで空襲を受けていない山の手が主な対象になった。
女性も子供も、生きたまま焼き殺され、黒こげになった死体の山
※ まさに「東京大虐殺」と呼ぶにふさわしい残酷な事件である
●対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイは、戦後、回想記のなかで次のように述べている。
「原爆を落とすまでもなく太平洋戦争は実質終わっていた。
私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊したのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。女、子ども、老人も全て戦闘員だった。」
●このカーチス・ルメイは、明らかに東京大空襲を始めとする無差別爆撃および原爆投下の直接の責任者である(日本人は彼を「鬼畜ルメイ」と呼んだ)。
しかし1964年12月6日、日本政府は彼に対して「勲一等旭日大綬章」(勲章)を授与した。授与理由は「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」からだという……。
日本の100万もの民間人を虫ケラのように虐殺した人物に勲章を与えてしまった日本政府の態度は卑屈以外のなにものでもない。無残である。
この時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。
※ なお、勲一等に叙する勲章は本来、授与に当たって直接天皇陛下から渡されるのが通例であるが、昭和天皇はカーチス・ルメイと面会することはなかったという。
1964年12月6日、日本政府は
日本人を大量虐殺したカーチス・ルメイに
対し「勲一等旭日大綬章」(勲章)を授与した。
※ この勲章(上の画像)のデザインは、輝く太陽を
宝石やプラチナが取り巻く形になっている。この勲章は
国のために最大級の功績があった人にしか贈られず、
今までも皇族や総理経験者など、数えるほどの
納得できる人物にしか贈られていない。
■■第9章:原爆投下を肯定する在米ユダヤ人組織「SWC」
●「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」というユダヤ人組織がある。
「SWC」は、第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストを記憶し、ユダヤ人の人権を守るため、1977年に設立された組織である。その名前は“ナチ・ハンター”の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタールを記念して付けられている。本部はロサンゼルスにあり、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、トロント、パリ、エルサレムにもオフィスを開設している。
“ナチ・ハンター”の異名を持つ
サイモン・ヴィーゼンタール
●アメリカだけでも会員が40万人を超える「SWC」の影響力は、計り知れないものがある。
「SWC」の力を日本人に知らしめたのが1995年に起きた『マルコポーロ』廃刊事件である。
※ この事件に関する詳細は、当館作成のファイル
「在米のシオニスト組織SWCと『マルコポーロ』廃刊事件」をご覧下さい。
「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が運営する
「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」=ホロコースト博物館
※ センターが運営するこの博物館は、1993年2月にロサンゼルスに設立された。
館内は「マルチメディア資料室」「公文書資料室」「ホロコースト・セクション」の
3つに分かれており、コンピュータを活用したマルチメディアや実際の展示品
などによって、ナチスの残虐さについて理解を深めることができるように
作られている。年間40万人を超える来館者があるが、このうち
約15万人は学校の授業で訪れる子供たちだという。
博物館の内部(ガス室を模した学習ルーム)
●この「SWC」は広島・長崎の原爆投下についてはどのような見解を持っているのだろうか? ナチスのホロコーストに匹敵する悲劇だと思っているのだろうか? アメリカが犯した「戦争犯罪」だと思っているのだろうか?
この「SWC」の主張と活動を知る上で、非常に興味深い取材記事がある。『新潮45』(2000年12月号)に掲載された、『特別インタビュー「ユダヤは怖い」は本当ですか? 「SWC」のアブラハム・クーパー副館長に聞く』という新潮社編集部の取材記事である。
●この取材記事の中で、「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパーは、南京虐殺事件と原爆投下について驚くべき見解を披瀝している。
取材記事の一部分を下に掲載しておくが、これは日本人にとっては看過することのできない内容であろう。
(左)『新潮45』(新潮社)2000年12月号
(右)「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパー
〈南京虐殺事件に関して〉
◆編集部:「SWC」は『ザ・レイプ・オブ・南京』を書いたアイリス・チャンをサポートしていると報じられています。けれど、彼女の本には多くの間違いがあることが指摘されています。
◆クーパー:アイリス・チャンだけではなく、本多勝一氏を招いてフォーラムを開きました。多くのアジア系アメリカ人の活動家がこのフォーラムに参加してくれました。
◆編集部:アイリス・チャンと本多勝一という人選はあまりに偏っています。否定派は招かないのですか?
◆クーパー:センターとして色々オープンな形で受け入れるけれども、「犠牲者はわずかに3、4万人」というようなことを口にする人を講師として招くことは、絶対にしません。
〈原爆投下に関して〉新潮社編集部の「第二次世界大戦で人類に対する明らかな犯罪が2つあったと思います。ひとつはホロコースト、もうひとつは原爆投下です。その責任追及を『SWC』がする予定はないのでしょうか?」の質問の中で、次の問答がある。
◆編集部:原爆による無差別爆撃の事実は明らかで、これは戦争犯罪ですから、アメリカの戦犯追及を考えるべきです。
◆クーパー:率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません。
◆編集部:それは納得できません。非戦闘員の殺害は明らかに戦争犯罪じゃないですか。
◆クーパー:ノー。戦争というのは非常に悲惨な出来事なわけですけれども、2つの原爆を落としたことで、戦争が終わったという事実はあるわけです。もしトルーマンが原爆を落とさなければ、さらに多くの死傷者が出たでしょう。
●上の取材記事からも分かるように、「SWC」に代表されるシオニスト・ユダヤ人勢力は、自分たちのホロコースト体験は世界に向けて盛んに宣伝するが、他民族が体験したジェノサイド(ホロコースト)に対しては無関心(冷淡)のようである。現在、パレスチナで進行中のホロコーストに対しても冷淡で、むしろユダヤ人によるパレスチナ人の虐殺を積極的に支持している有様だ。
「SWC」を「平和・人権団体」と呼ぶ人がいるが、「SWC」は非ユダヤ人の平和・人権に関しては無頓着だといえる。その偽善ぶりに、最近では、「SWCはホロコーストを商業化している!」として、一般的なユダヤ人からも批判が出ている(この件に関しては別の機会に詳しく触れたい)。
◆
●なお、日本政府や日本の民間諸団体は、以前からイスラエル政府に、ユダヤ人の災難犠牲者と原爆被害者を合同で追悼するよう呼び掛けている。
つい最近、日本政府はイスラエル政府に、ユダヤの「イェド・ファシム機構」のような「日本災害機構」を広島市に建設する計画を提案したことがある。イスラエルからユダヤの災難を表す物品を提供してもらい展示するというものだった。
しかしこの要請は断られた。
イスラエル政府の外務省高官は、「日本には敬意を表するが、2つの災難を比較することは出来ない」と語った。
●このことから分かるように、在米ユダヤ人組織やイスラエル政府は、ユダヤ人が被った災難と、広島・長崎への原爆投下を同列に扱われることを非常に嫌がっているのだ……。
もっとも、ユダヤ人たちの気持ち(心情)は分からないでもない。
「アウシュヴィッツの悲劇」を、「原爆の悲劇」とは比較することのできぬ「人類史上最悪の出来事」として、このままずっと世界中の人々に強くアピールし続けていきたいのだろう。
●しかし、当館は声を大にして次のように主張したい。
「核兵器は『ホロコースト兵器』であり、大都市を一瞬にして“焼却炉”にし、一般市民の命を無差別に奪いとる『炎の絶滅兵器』である。
広島・長崎への2度にもわたる原爆投下は、アウシュヴィッツの悲劇に勝るとも劣らない『人類の悲劇』であった」と──。
核兵器は大量の人間を一瞬にして焼き殺す「炎の絶滅兵器」である。
通常の爆弾と違って深刻な「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。
このような悪魔の兵器が、二度と都市に対して使われることがないように祈りたい。
以上で「本論」は終了です
ここより下はサブテキスト(追加情報)です
■■追加情報 1:イスラエル在住の日本人からのレポート
●下は、とあるイスラエル在住の日本人が書いたレポートである。この文章を読むと、ユダヤ人の中にも、アメリカの対日原爆投下に対して強い疑問を抱いている人がいることがわかる。参考までに、どうぞ。
── なぜトルーマンは日本に原爆を落としたのか? ──
イスラエルに移住して、キブツでビジネスに携わる40代のカナダ系ユダヤ人のA氏と話したときのこと。国際法にも詳しく、弁護士資格も持つA氏は、歴史には疎いといいながらも、私の妻が長崎生まれだと教えると、話題がアメリカの原爆投下の話になった。「日本人は原爆投下でアメリカを非難しているのか?」とA氏。「少なくとも高校までの歴史教育では、アメリカを非難する論調はなかった」と答えると、「どうして?」と不思議そうにさらに尋ねてきた。
「日本の歴史学者は左翼が多く、戦争に導いた日本の旧指導部を非難することはあっても、原爆を投下したアメリカを非難することはあまりない」などと答えておいたが、自らを振り返り、原爆投下の功罪を大学生になって、自ら歴史を勉強するようになるまで考えることのなかった教育環境についても考えさせられた。
「しかし、アメリカでも、本土決戦に突入した場合、アメリカ軍に50万から100万人もの犠牲者が出ると想定し、その前に原爆投下をしたことで日本の早期降伏をもたらしたとの、いわゆる原爆投下を正当化する意見もあるが…」とこちらが問い返すと、「それは詭弁だ」とA氏。
A氏によれば、仮に原爆投下で日本を早期降伏に導くつもりなら、北海道の原野など過疎地域に原爆と落とし、その威力を日本の当時の指導部に知らしめることで十分、その目的は達せられたというのだ。
それをわざわざ人口密集地に落とし、非戦闘員である多数の婦女子を含む一般市民を大量虐殺したのは、やはりアメリカの大きな戦争犯罪である、と指摘するのである。
A氏の話を聞いていて、当時のアメリカ指導部(トルーマン大統領など)は、大量殺戮兵器の威力を具体的な人体実験で試してみたいという“悪魔の思想”に取りつかれていたのではないか、との考えがよぎった。そして人体実験には白人ではない日本人を選択した……。
日本の歴史学者などは、過去の日本の悪事を暴くのに熱心だが、アメリカの原爆投下の真意なども、冷静な目で研究すべき課題ではないのか。ユダヤ人A氏との会話で、そう強く感じた。
(1997年8月13日)
■■追加情報 2:ユダヤ人科学者テラー博士は語る「広島への原爆投下は間違っていた」
●「原爆・水爆・SDIの父」とも「大量殺戮兵器の父」とも呼ばれるエドワード・テラー博士。
彼は1958年に、「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任し、その後カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら同研究所の副所長を務めた。
ユダヤ人科学者エドワード・テラー
レーガン時代にアメリカ科学界最高峰の
栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」を受賞
●彼は絶えず「核計画推進」の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた。
(この「ローレンス・リバモア国立研究所」は、冷戦中、アメリカの核戦略ミサイルの10発中9発の核弾頭の開発を担った。またSDI研究の中心地として活躍した)。
(左)「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所として、
1952年にカリフォルニア州に作られた「ローレンス・リバモア国立研究所」。
(右)1984年に「SDI計画」の予算を使い同研究所内に設けられたレーザーの
実験施設「ノバ」。10本のレーザーを使い、当時世界最大出力を誇ったが、
膨大なエネルギーを消費するため、1日に数度しか運転できなかった。
●テラー博士は晩年、「ローレンス・リバモア国立研究所」の名誉所長に指名され、その後、非常に高齢なため現役を退き、コロラド州デンバーから飛行機で1時間半ほど飛んだ、サン・ホセという街の郊外で、美しい環境に囲まれた2階建ての家に、夫人と2人きりで生活していた。
晩年のテラー博士
●1993年6月8日、テラー博士はニューメキシコ州のロスアラモス市で開かれた原爆開発50周年の記念イベントで講演し、次のような貴重なコメントを残している。
「広島に原爆を投下するよりも、東京湾のように被害が少なくて済む場所で爆破して戦争を終結する方法もあった……」
●この件に関しては1993年6月10日付『朝日新聞』夕刊で詳しく報じられているが、この後の朝日新聞の取材に対しテラー博士は、「広島への原爆投下は核時代の誤った幕開け(wrong start)だった」とも話したという。
※ テラー博士は2003年9月に、脳溢血のため死去した。95歳だった。
◆
●ちなみに、最初に原爆製造を進言したユダヤ人科学者レオ・シラードも、戦後、次のように述べていた。
「振り返ってみると、示威についての議論は示威の可能性をあまりに強調しすぎたと思う。私たちが十分議論しなかったことは日本は必ず負けるということであった。この戦争は『政治的手段』で終わらせることができ、『軍事的手段』で終わらせる必要がなかった」
ユダヤ人科学者レオ・シラード
彼は最初に原爆製造を進言した男だが、
ナチスの脅威が去ると、対日戦争での
原爆使用に対して、最後まで
「反対請願」を展開した
●大戦中、「マンハッタン計画」に参加したフェルト博士も次のように述べている。
「何といっても、最初の原爆投下はある意味では、わき目もふらずにあれほど強く専念してやったことが成就したものであった。しかし、2発目(長崎)の原爆によって我々は『一体どうなってしまっているのか。こんなことを放っておいてよいのか』と疑いを持った……」
◆
●この博士が述べているように、なぜアメリカは2発目の原爆を使用する必要があったのか?
なぜ、広島を破壊した後、しばらく様子を見ることもなく、すぐに(3日後に)長崎を破壊したのか?
この問題について、ある歴史研究家は次のように述べている。
「ヒロシマについで3日目、ナガサキに原爆が落とされた。これにはさすがにアメリカ市民の間でも早過ぎるという非難の声があがった。
また現在にいたるまで、もし日本の軍部がもっと早く調査をし、政府が早く終戦の決定をしたならナガサキは防げたと考えられている。しかし、この観察には一番重要な要素、すなわち主導権を握っていたアメリカが欠けている。
なぜ2発目が時間を置かずに相次いだのか?
これも原爆投下は誰が、いつ、何の動機で決定したかの問題である。
当時、トルーマン大統領は、実は日本が降伏しようとしまいと、あまり関心はなかった。だからこそポツダム宣言を発表して日本に降伏勧告はしたものの『原子爆弾を使うぞ』とも言わず、また宣言から『天皇制は存続させてもよい』保障を削ってしまった。
したがって、ポツダム宣言が日本政府に〈黙殺〉されたからヒロシマ攻撃を発令したのではない。また、ヒロシマがやられてもまだ降伏しないからナガサキを攻撃せよ、と命令したのでもない。その証拠は存在しない。
当時、原爆開発の司令官だったレズリー・グローブス陸軍少将は、日本が早く降参しないようにと祈っていた。同時に早く原爆が出来るようにと祈っていた。
1945年6月と7月、『急げ! 金も手間も材料も惜しむな! とにかく急げ!』の厳命がマンハッタン機構の隅々にまで走っていた。これについての証言は、いくらでもある。〈中略〉
結局、アメリカの指導者たちは原爆を人間が密集するエリア(都市)に落とすことで、その殺傷能力(破壊力)を観察したかったのだ。それは、ウラン型とプルトニウム型という2種類の異なる原爆を連続して投下したことからも分かる。また彼らは、原爆のテスト(生体実験)と同時に、戦後の覇権争いをにらんで、アメリカの力を世界に誇示したかったのである。
つまり2発の原爆は、日本政府を威嚇するためではなく、世界(特にソ連)を威嚇するために使用されたのだ。」
退任直前の陸軍長官スチムソンから勲章をもらう
レズリー・グローブス陸軍少将(1945年9月13日)
グローブスは原爆開発のための「マンハッタン計画」を
指揮した。高圧的な性格で、何かトラブルが起きるとすぐ
「オレは大統領のお墨付き。文句があるなら大統領に言え!」と
怒鳴り散らしたという(彼は京都への原爆投下を主張していた)。
●1999年12月20日に世界三大通信社の一つである「AP通信」に加盟する、世界36ヶ国にある71の報道機関が選んだ「20世紀における20大ニュース」の1位に選ばれたのは、広島・長崎に対する原爆投下であった。ちなみに日本軍の真珠湾攻撃は18位だった。
世界のジャーナリストが原爆投下を20世紀最大のニュースとしたのは、核兵器の使用が人類史上、希にみる残虐な行為であり、国家(アメリカ)が犯した最大の過ちだったからである。
■■追加情報 3:『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』──「反転爆撃」説の紹介
●戦時中、広島で原爆を体験した若木重敏氏は、アメリカ軍の爆撃機B29は、広島への原爆投下に先立って「巧妙なトリック」を仕掛け、人間の被害を極大にしたと述べている。
※ 1994年に出版された若木氏の著書『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』(光文社)より。
著者の若木氏は京都大学理学部卒の工学博士で、
抗生物質並びに抗ガン物質の研究に従事し、1972年に
「紫綬褒章」を受章。1987年には「勲三等旭日中綬章」を
受章し、1989年には「高松宮妃癌研究基金学術賞」と
「ベルギー王冠コンマンダー勲章」を受章している。
●若木氏によれば、8時15分の前に、爆撃機は広島市上空を旋回し、警戒警報を出させ、その後いったん飛び去り、警報が解除されて市民が安堵感から防空壕や家から外に出てきた頃合いを見計らって、直ちに「反転」して広島市上空に戻り、原爆を投下したという。
その証拠に、「エノラ・ゲイ号」とその僚機の当日の航路など、具体的な行動記録については現在に至るまで公表されていないという。
広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」
●若木氏は次のように述べている。
「爆撃を行った当のアメリカの権威ある数多くの著書のどれにも、エノラ・ゲイ号が日本に近づいてから、どんな航路を取り、またどこでどのように進路を変えたかの具体的な記述をしたものは一冊もない。これは実に異様なことである。
その異様さの第一は、日本の海軍も陸軍もNHKの放送も、豊後水道および国東半島を北上した大型3機が広島上空に来襲し旋回したので警戒警報が出されたといっているのに、アメリカのどの文献にもその3機のことについての記載が全く出てこないことだ。またアメリカの文献では一様に気象観測機のストレート・フラッシュ号が広島を襲ったので7時9分に警報が出されたと書いている。日本のどの記録にも、ストレート・フラッシュ号のことなどは問題にしていない。問題にしているのはアメリカ人だけである。
第二は、広島が被爆したときに空襲警報も警戒警報も発令されていなかったことは明白な事実なのに、アメリカの代表的な著名文献の全てが、被爆時、警報は発令されていたと、例外なく書いているのである。
この明白な2つのウソをなぜ揃いもそろって書かなければならなかったのだろうか。それは、この2点こそが、アメリカ空軍の作戦を立てた人が、日本人に、いや世界の人に最も知られたくない問題点であったからではないかと私は思うのだ。」
『原爆機反転す』の著者・若木氏が推測する「エノラ・ゲイ号」の航路
●そして若木氏は自著の中で数々の「傍証」をあげながら、次のように述べている。
「私は自分の得た情報に基づき、エノラ・ゲイ号らは、いったん広島上空を西から東に飛び、ついで方向を東から西に変え、いわゆる『反転爆撃』をしたのではないかと推測している。
爆撃機(3機のB29)が広島上空を旋回し警戒警報を出させ、播磨灘に抜けたのは7時25分であり、警報解除になったのが7時31分である。〈中略〉
……すなわち、私は爆撃機がいったん広島上空を飛んで警戒警報を出させ、ついで飛び去り、警報が解除になり人々が防空壕から出て、リラックスしたその瞬間を狙って爆弾を炸裂させた、謀略的に人間の大量殺戮実験を行ったのではないかという懸念を抱いているのだ。〈中略〉
広島爆撃の2ヶ月前の名古屋空襲でも、警報解除後を見計らっての爆撃という同じことが行われ、恐るべき人員殺傷効果を上げた事実がある。警報発令、次いで解除された状態で、アメリカ空軍が爆撃して大きな殺傷効果を上げたことは、すでにヨーロッパで実験済みである。〈中略〉
広島被爆後50年経った。そろそろ、本当のことをアメリカのジャーナリストが、調査し報告してくれてもいいのではないかと考えるのである。本書以上の検証は日本人には不可能に近いのではないかと身にしみて感じているからだ。こんな本を書くと、私は反米主義者ととられそうだが、お断りしておきたいことは私は反米主義者ではなく、むしろ親米主義者に近いつもりである。」
●このように若木氏は述べておられるが、氏が主張する「反転爆撃」説は、果たして正しいのか否か──。
これは非常に重要なテーマだと思うので、今後、新しい研究(新資料の発掘など)によって、この問題が完全解明されることを期待したい。
■■追加情報 4:広島の空に白く大きく華やかに開いた「落下傘」の謎
●1945年8月6日、「エノラ・ゲイ号」とともに作戦に参加したB29「グレート・アーティスト号」(科学観測機)は、原爆投下と同時に爆発力測定用のラジオゾンデを吊るした「落下傘」を3つ落下させていた。
この青空に目立つ直径3mの「落下傘」は、空を見上げた市民たちに目撃されている。
(左)「落下傘」を3つ投下したB29「グレート・アーティスト号」
(右)この機体に大きく描かれたノーズアート(帽子を手にした芸人)
●広島の被爆者である河内朗氏(元・国連本部の財務官)は、著書『ヒロシマの空に開いた落下傘』(大和書房)の中で、このパラシュート(落下傘)の落下は一般に説明されているように、原爆の爆発を確認するための電波を出させる器具であったばかりでなく、人々を死に誘い出すための工夫であったと主張している。
※ 参考までに、この本の一部分を抜粋しておきたい↓
── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──
原爆攻撃は最初から最後まで、綿密かつ完壁に計画された。
まず10ヶ月の長きにわたり、訓練している。1発だから1機でいいのに、2機も伴走させて人々がいかに死ぬるか、観察した。その3機を見て人々が逃げ出さないよう、あらかじめ馴らした。このような準備は、すべて、可能なかぎりたくさんの人を殺そうとしたからである。〈中略〉
同じ理由から攻撃の時刻もわざわざ計算に入れた。月曜日の朝、8時15分。通勤・通学のラッシュ・アワー。人々は勝手を知った身辺の防空壕を離れて移動中であった。〈中略〉
……そして、ひどいと言えば、いまひとつ非道が残っている。パラシュートである。
朗は江川隆の眼球が溶けて真珠になったのを目撃し、親友が「見てくれ、おれはこうして死んだ」と呼んだのだと信じた。でなければ、あれだけ多数あった死体の中で、かれとも知らず、その一体にだけ惹きつけられた理由がない。
眼球が溶けた、すなわち江川は、何かを、見ていた。
何を見つめていたのか気になった。爆撃機は点であったし、爆弾は石ころのように落ちたのだから見えはしない。見えたのは、その数分前に、広島の空に、大きく開いた3つの落下傘に間違いない。
落下傘は「観測筒」を吊ったという。
直径35cm、全長1.6mの「観測筒」の内部にはリレーだのスイッチだの発信装置らしいものが入っている。説明も気圧測定のラジオ・ゾンデと同じように原子爆弾炸裂時の圧力その他を無線で送信したとあり、一般もまたそのように納得した。
しかし、それは日本側の自己解釈だから、マンハッタン機構側の裏づけを取る必要がある。ところが、どうしたわけか、観測データどころか、「観測筒」そのものについても説明が見つからない。犠牲者が出るとわかっていたからその場で観測したと発表するのにとがめを感じたのだろうか、とにかく、「観測筒」についてもデータについても話が全く出てこない。〈中略〉
マンハッタン計画の司令官グローブス少将の陰険な性格と自己顕示の心理からして何かわけがあると直感し、つぎのように調べてみると、なんと、爆発力測定が無益無用であった。
兵器専門家、火薬担当官などに尋ね、科学書で裏づけを取ってみると、爆薬の強さは爆風圧で測るが、爆風圧は距離の二乗に反比例してツルベ落としの急激さで弱まるので、距離はごく精密に設定しなければならない。
1mの誤差があってもダメだという。だからこそ爆弾でも砲弾でも直撃点から少し離れてさえいれば助かる。逆に新しい種類の爆薬の効率を測るには、まず爆発点とセンサー、すなわち感知機との距離を正確に測定する。つぎに爆発させてセンサーの度合いを調べ、それを既知既定の度合いと比較する。したがって正確な2点間の長さが決め手となる。
ということは気圧源との距離を無視するラジオ・ゾンデとは全く似て似つかぬ方法なのであった。
ヒロシマの場合はどうか。
落下傘にブラ下がってフワフワ降りる「観測筒」は風向き次第、感知器はどこへ行くやら知れたものではない。一方、爆弾は石ころのように落ちる。このどちらも動いている両者の間の距離は、絶対に、測り得ない。また、そうまでムリをして概算しなくても7月16日、アラモゴードでは、動かない地上の2点間をあらかじめキッチリ測り、爆発力はすでに計算してあった。
とすると「観測筒」は全く無用──。
しかしあのグローブス少将が不必要なことをするはずがない。
よく考えてみると「観測筒」は見せかけのラジオ・ゾンデとして皆を欺くためであり、実際に必要なのは、だれ一人としてその意味を疑わないであろう「落下傘」なのであった。
なぜ「落下傘」か? 地上の人間の注意を喚起するためである。落下傘は現在ですら珍しい。当時とすれば尚更のことで、結構な見世物になった。かすかな爆音に気づいたヒロシマの人たちが不安を感じてその方角を見上げると、青く晴れた空にポッカリ、見たこともない落下傘が白く大きく華やかに開く。
思いがけない光景に人びとは袖を引き、他の人に声をかけ、アレヨアレヨと皆で3個の落下傘を見守った。その背後に「原子爆弾」がツーと落ちつつあるとも知らないで……。そしてその人たちはすべて死ぬか、目を焼き切られた。〈中略〉
「そういえば、爆音がして一番先に気づいたのは落下傘だった」と繁が言った。「ぼくも見た」と優が言った。シルク・ロードを描いて有名な平山郁夫画伯を除き、他にあの「落下傘」を見て無事な人はいない。
※ 以上、河内朗著『ヒロシマの空に開いた落下傘』(大和書房)より
■■追加情報 5:長崎原爆で破壊された東洋一の「キリスト教大聖堂」
●長崎の浦上(うらかみ)地区は、長崎の北に位置する農村であり、戦国時代の末頃から「キリシタンの村」であった。
度重なるキリシタン弾圧に耐え、信仰の自由を得たカトリック信徒たちは、レンガを一枚一枚積み上げ、30年の歳月をかけて大正14年(1925年)、自分たちの教会=「浦上天主堂」(うらかみ てんしゅどう)を完成させた。
この大聖堂は、赤レンガ造りのロマネスク様式で、当時、東洋一と言われていた。
(左)原爆で破壊される前の「浦上天主堂」(1925年に完成)
双塔の高さは26m、東洋一の壮大さを誇っていた
(右)「浦上天主堂」内部の祭壇の様子
●この日本におけるキリスト教布教のさきがけとなった地(日本最大、最古の信徒が残った地域)に原爆を投下したのは、皮肉なことに“キリスト教の国”だった…。
※ 正確に表現するならば、プロテスタントの国がカトリック教会を破壊したのである。
(左)長崎に原爆を投下したB29「ボックス・カー号」
(右)この機体に大きく描かれたノーズアート
長崎に投下する直前に撮影されたプルトニウム型原爆「ファット・マン」
(長さ3.25m、直径1.52m、重さは4.5tもあり、かなり大きい)
↑笑みを浮かべながら原爆にサインを書き込むアメリカの軍人たち…
原爆を積み込んだB29「ボックス・カー号」は、
広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」と同様、
早朝テニアン島を出発し、当初第1目標の小倉上空に
達するが、天候が悪かったため投下を断念、目標を
急遽第2目標の長崎に変更したのであった…。
長崎上空でプルトニウム型原爆が炸裂した瞬間
最高数百万度の熱火は、直径280m、
表面温度5000度の火の玉に膨れ上がり、
放射線と強烈な爆風を四方に放ちながら、
一般市民や、家と工場、学校を焼いた。
●1945年8月9日、長崎への原爆投下により、浦上一帯は猛火に包まれ地獄と化した。爆心地から至近距離にあった「浦上天主堂」は、一瞬のうちに爆風で全壊した。天主堂には、被昇天の祝日の準備のため信徒24名と神父2名がいたが、全員が即死した。
※ 天主堂は深夜まで燃え続け、浦上地区に住んでいた1万2000人の信徒のうち、8500人がその日に亡くなった(爆死した)。
廃墟となった「浦上天主堂」(Urakami Cathedral)
爆心地から至近距離にあった「浦上天主堂」は、一瞬のうちに爆風で全壊し、
天主堂内にいた2人の神父と24人の信徒が運命を共にした。この原爆のために、
浦上教区信徒1万2000人のうち8500人が爆死し、浦上一帯は廃墟と化した。
※ この「浦上天主堂」の廃虚は、広島の「原爆ドーム」とともに原爆の威力と悲惨を
物語る長崎の代表的な原爆遺跡として注目されていた。「原爆ドーム」と同様に、
平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民の声は高かった。
しかし破壊が凄まじく、保存が困難であるなどの理由で1958年、ついに
「全面撤去」され、長崎は歴史的な“証人”を失ってしまったのである。
●浦上の信徒たちの願いは、一日も早い「神の家」の再建だった。
「浦上の聖者」と呼ばれた永井隆博士は「浦上天主堂」の残骸撤去を支持し、こう述べている。
「こんなもの(天主堂の残骸)を見るごとに私たちの心がうずくばかりでなく、これから生まれ出る子供たちに、我々の世代が誤って犯した戦争によって『神の家』さえ焼いた罪のあとを見せたくない。むしろ平和な美しい教会を建て(再建して)、ここを花咲く丘にしたい」
(左)「浦上の聖者」と呼ばれた永井隆博士
(右)博士が書いた被爆の体験記録『長崎の鐘』
博士は原爆に被爆し、自ら病を患いながらも被爆者の
救護に努めた。壮絶な闘病生活の中、『長崎の鐘』など
多くの名作を生んだ。(43歳の若さで亡くなった)。
※ たくましい人間愛の物語でもある『長崎の鐘』は、
欧米数ヶ国語に訳され、世界的反響を呼んだ。
●この永井博士の言葉通り、現在、浦上地区には新しく作り直された「浦上天主堂」が建っているが、戦前から「浦上天主堂」の写真を撮り続け、被爆後の残骸を写真に収めた津場貞雄氏は、1958年の旧・天主堂の取り壊し工事のときのことを次のように語っている。
「取り壊しには昔ながらの万力が使われた。強力な万力を使っても、まるで壊されるのを拒むかのように天主堂はなかなか壊れなかった。そして大部分はハンマーで打ち砕かれていった。
原爆の大切な資料が消されていくことに、取り返しのつかない無念さを感じた」
※ この津場氏と同じく、当館も旧・天主堂の残骸撤去には「取り返しのつかない無念さ」を感じる。旧・天主堂は広島の「原爆ドーム」とともに、原爆の威力と悲惨を物語る長崎の代表的な「原爆遺跡」として残しておくべきだったと思う。
(左)被爆した聖人の石像。どれも熱線で黒く焼けこげ、
鼻や頭部を欠いたものもあり、その姿は痛々しい
(右)溶けたロザリオ(数珠と十字架)
●ところで、被爆したあの日のことを浦上(うらかみ)では「浦上五番崩れ」という。
その前の「浦上四番崩れ」は明治新政府により、浦上地区のカトリック信徒が村ぐるみ「流罪」に処せられたキリシタン検挙事件を指すが、「四番崩れ」で壊滅し、その後復興した村は、再び「五番崩れ」の原爆で廃墟となった。
●現在、浦上で生活しているクリスチャン女性はこう語っている。
「ここに原爆が落とされたのは、雲の切れ間にこの町が見えたというその日の天候だけが理由で、本当は他の大都会が目的だったらしいのです。山の谷間のような地形のここでなく、広い平野の町だったら、この何百倍もの被害が出たかもしれません。
浦上は、人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町だったと思います。」
再建された「浦上天主堂」で祈りを捧げる信徒たち
今も長崎にはカトリック信徒が多く、町全体が
静かに祈っているような雰囲気がある。そのため同じ
被爆地でも、広島が「怒りの町」と呼ばれるのに対し、
長崎は「祈りの町」と呼ばれる傾向にある。
●原爆文学の記念碑的作品である『地の群れ』を書いた作家・井上光晴氏は、こういう長崎の姿勢に対して、「なぜ長崎の人はもっと怒らないのか。怒り方が少ない。原爆まで妙な観光にしてしまって」(季刊『長崎の証言』3号)と嘆いた。
長崎の問題に詳しい「西日本新聞社」東京支社の編集長である馬場周一郎氏によれば、長崎には一般の日本人にはあまり知られていない“意識の断層”問題が横たわっているという。
彼はこう語っている。
「原爆の対日投下に関するアメリカの『暫定委員会』資料によれば、もともと長崎市への投下目標は浦上ではなく、人口が密集した市街(眼鏡橋が架かる中島川付近)だった。それが、一瞬の天候条件によって浦上上空で炸裂したのだった。
これを一部の市民は『市街に落ちなかったのは、お諏訪さん(秋の大祭「くんち」で知られる諏訪神社)が守ってくれたおかげ』と言ってはばからなかった。そして『浦上に落ちたのは、お諏訪さんに参らなかった“耶蘇(キリスト教)”への天罰』との悪罵(あくば)を浴びせた。それは長いキリシタン迫害の歴史のなかで醸成された長崎の一般民衆の異教徒への信仰差別が吐かせたものであった。〈中略〉
……同じ被爆都市ながら、広島は河口に発達した比較的平坦な地形であることから被害は万遍なく広がった。これに対し、長崎市は市街と浦上地区が山で遮られていることで被害は軽重を分けた。
加えて、カトリック(浦上)と神道(市街)の宗教的、文化的異相……。『原爆は長崎に落ちたのではなく浦上に落ちた』。長崎でよく口にされるこの言葉こそ、原爆がどのようにとらえられているかを如実に示すものといえる。
長崎の反原爆運動が広島ほど全市的な怒りの熱気を帯びないのも、こうしたことに淵源(えんげん)がある。反文明の究極兵器の使用に対して、立場や地域を超えた運動の構築が求められるのに、『俺のところには関係ない』といった他者意識が連帯を分断する。〈中略〉
……戦争においては被害者と加害者は常に裏返しの関係であり、第三者など存在しない。長崎原爆は浦上でも市街でもなく、人類全体の頭上に落とされたことを知るべきである。」
浦上駅のプラットホームで寄り添って死亡していた母と子
※ 子供の顔は熱線による火傷で朱赤色にはれ上がっていた
(左)長崎の病院に運び込まれた少女。全身ボロボロに皮膚が垂れ下がっていた。
(右)長崎の爆心地から南南東700m付近で全身焼け焦げた少年。ガレキの中で発見された。
●ところで、戦後、「浦上天主堂」の廃墟の中から黒くこげた「マリア像」の頭胸部が発見された。
これは、1920年代にイタリアから送られてきて、天主堂の祭壇の上部に安置されていた木製の聖母マリア像だった。
「浦上天主堂」のガレキの中から奇跡的に発見された「被爆マリア像」
●この「被爆マリア像」は、現在、平和と反核のシンボルとして再建された同天主堂に保管されており、このマリア像を「世界遺産」に登録するための運動も行われている。
この運動を支援している佐多保彦氏は、次のように語っている。
「第二次世界大戦はどちらが正しくて、どちらが間違っていたかを責めるのではなく、原子爆弾のような革新的科学の成果は、良心と正義の心で使われるべきだというのが私の固い信念である」
「被爆のマリア像が訴えるものは実にパワフルで、世界平和のシンボルにこれほどふさわしいものはないと考えている。それは単なる反核の訴えを越えて、人類普遍の平和に対する認識と熱意を感じさせるからである。お像の廻りに“反核”や“平和”などの言葉によるプロパガンダは要らない。ただ静かに傷ついたお顔を堂々とお見せになられているだけでよい。人々はその前に跪き、各々の祈りを心に唱えることだろう。それは目に見えずとも、平和を訴える大きなパワーとなって浦上から世界へ流れ出てゆくに違いない。
被爆者の身体は月日と共に朽ち、記憶も薄れる。しかし世界で唯一傷ついたマリア様のお顔は、浅はかな人間の行為や科学の過ちを後世に伝えてゆく。その意味で、このマリア像はまさしく『世界遺産』ではないだろうか」
●当館はこの佐多氏が言うように、「被爆マリア像」は世界平和のシンボルとして「世界遺産」に登録されるにふさわしいと思う。
※ この運動に興味のある方は、下のリンク先のページをご覧下さい。
「被爆マリア像」に関する詳しい説明や署名フォームなどがあります。
(世界遺産への署名は簡単にできます)。
↓↓↓
◆「被爆マリア像」を世界遺産へ The Madonna of Nagasaki
http://www.madonnagasaki.org/ja/index2.html
■■追加情報 6:ナチス・ドイツに匹敵する悪魔のような「人体実験」
●「マンハッタン計画」には、原爆を開発した「原爆開発班」の他に、第2の部門として「医学班」が存在していた。
そしてこの「医学班」の医師たちは、ナチス・ドイツに匹敵する悪魔のような「人体実験」を行っていたのである。
スタッフォード・ウォーレン
「マンハッタン計画」の「医学班」の最高責任者。
「プルトニウム人体実験」を承認。広島・長崎に
原爆が投下されたあと、現地を調査した。
カリフォルニア大学に医学部を創設し、
自らその学部長に就任した。
放射能被爆の権威。
●1993年末、アメリカ地方紙の記者が、7年の歳月をかけて空軍機密文書の「謎の記号」を追跡し、アメリカで極秘に行われていた「プルトニウム人体実験」の実態を暴露。
このスクープ・レポートは、「戦後最大のスキャンダル」として、全米を揺るがした。
※ このスクープ・レポートをまとめた本は、日本では小学館から『マンハッタン計画 ─ プルトニウム人体実験』という題名で翻訳出版されている。(この本は1994年ピューリッツァー賞受賞作品である)。
『マンハッタン計画 ─ プルトニウム人体実験』
アルバカーキー・トリビューン編(小学館)
1994年ピューリッツァー賞受賞作品
●この本によって明らかにされたのは、「マンハッタン計画」の科学者たちが、プルトニウムの毒性を調べるため、18人のアメリカの一般市民に対し、プルトニウムを注射するという「人体実験」を行っていた事実である。(いうまでもなく、プルトニウムは、極めて発ガン率の高い地上で最も毒性の強い物質である)。
被験者はプルトニウム注射後、必要もないのに内臓を切除されたり、死亡後の遺灰までも研究材料にされ、文字通りモルモット同然の扱いを受けていた。
知らない人には、本当にこれがアメリカで行われたことかと目を覆うばかりの内容であるが、このケースはアメリカで行われてきた「人体実験」の氷山の一角にすぎなかった。
↓「プルトニウム人体実験」に直接関わった代表的な医師たち
(左)「プルトニウム人体実験」で中心的な役割を果たしたジョゼフ・ハミルトン博士。
世界で初めて「放射性物質」を人体に注入した。(中)サミュエル・バセット博士。
「ストロング・メモリアル病院」の医師で新陳代謝の権威である。多数の患者に
プルトニウムを注射した。(右)バートラム・ビーア博士。カリフォルニア
大学の「放射線安全委員会」の初代委員長で、腫瘍の治療に放射性
物質を使用したパイオニアである。人体への放射線の
直接照射の熱心な研究者であった。
●そして、これらの恐るべき「人体実験」は、妄想に取り憑かれた医師の異常さが生み出したものではなかった。「マンハッタン計画」に参集した人間が組織的に、というよりむしろ国の機関が中心となって実験を続けてきたのである。
広島・長崎の被爆者や、ビキニ環礁の核実験で被爆した「第五福竜丸」の乗員たちは、長年にわたって「人体実験のモルモットにされた」と訴えてきたが、このピューリッツァー賞を受賞したスクープ・レポートによって浮かび上がってきた新事実は、それを広大な範囲で証明するものである。
※ 追記:
驚くべきことに「プルトニウム人体実験」は戦後にスタートしたプロジェクトではない。広島・長崎で原爆が使用される前から、既に始まっていたのである。
最初の被害者(第一号患者)がプルトニウムを注射されたのは1945年4月10日である。この人は自動車事故で重傷を負った黒人だった。(ちなみに被験者18人中、黒人が3人で、白人が15人であった)。
また、放射能の人体実験にかけられた被験者は18人だけではなかった。1994年6月27日にエネルギー省が公開した大量の資料によれば、1940年代から1989年に至るまで放射能の人体実験が行われ、その被験者の数は1200人にも達することが明らかになっている。
また、現在、次のような衝撃的な事実も明らかにされている。
◆1940年代から1960年代にかけて、「ロスアラモス国立研究所」の職員、労働者とその家族たち、合計50人以上が、ヨウ素131、セシウム137、亜鉛65、ウランなどの放射性物質で被曝する人体実験にかけられていた。この中には、4歳から10歳までの幼い子供8人と、12歳から14歳の若者3人が含まれ、これらの実験が、本人の同意のないまま実施された。
◆1960年から1972年にかけて、オハイオ州の「シンシナティ大学医療センター」で、黒人のガン患者たちに大量の放射線を照射する人体実験が行われ、2ヶ月以内に25人が死亡した。ここでの人体実験患者は82人だったが、うち61人が低所得層の黒人であり、安全基準の10倍に相当する250ラドが照射されていた。シンシナティ大学名誉教授ユージン・ゼンガー博士が関与し、国防総省が65万ドルを提供した「国家的なプロジェクト」であった。
◆1951年から1975年にかけて、「バッテル・パシフィック・ノースウェスト研究所」は、少なくとも319人の病院患者と職員および囚人を使って放射能の人体実験を行った。テネシー州オークリッジの核兵器研究所の付属病院では、1960年から1974年にかけて、少なくとも89人のガン患者がネズミと一緒に大量の放射線を照射され、その中には8歳でこの世を去った少年が入っていた。
◆甲状腺への影響を調べるため、1950年代から1960年代初めにかけて、テネシー、ミシガン、ネブラスカ、アーカンソー、アイオワの各州で、200人以上の幼児に「放射性ヨウ素」が経口投与または注射された。(※ 生まれたばかりの新生児7人に「放射性ヨウ素」を注入する人体実験も行われた)。
◆この他にも、アメリカの一般市民に対して様々な「人体実験」が行われたようであるが、詳しいことは上で紹介した本『マンハッタン計画 ─ プルトニウム人体実験』(小学館)に書いてあるので、興味のある方は一読されることをお勧めします。
■■追加情報 7:ユダヤ人歴史学者の提言 ─「米日共同で『原爆展』開こう」
●第7章で紹介した、原爆史研究の第一人者であるバートン・バーンスタイン教授(ユダヤ人歴史学者)は
「米日共同で『原爆展』開こう」と題する記事を、朝日新聞(1995年2月8日)に寄稿している。
(左)1995年2月8日『朝日新聞』
(右)バートン・バーンスタイン教授
スタンフォード大学のユダヤ人歴史学者。
原爆問題について30年近くも研究を続け、
現在、原爆史研究の第一人者である。
●この記事には次のような記述がある。
「展示は米日両国がお互いを人種的に排斥しあったことの実態、太平洋での戦争が著しく残虐に戦われた理由、戦時下の米国人は日本人を通常の人間以下とみなしていたことも明らかにする必要がある。」
「展示はしかし、広島、長崎の惨状や8月15日の降伏で終わってはならない。原爆後遺症に苦しみ、時には日本の社会からさえも排除されていると感じた被爆者や、莫大な費用が投じられた戦後の危険な核軍拡競争にも視点を広げなければならない。」
※ この記事の全文はココにあります。
●バーンスタイン教授は上の記事の中で、「戦時下の米国人は日本人を通常の人間以下とみなしていた」と述べているが、この件に関しては、東アジア史の専門家であるジョン・ダワー教授(マサチューセッツ工科大学)が、著書『人種偏見』(TBS・ブリタニカ)の中で詳しく分析している。
この本によれば、アメリカ側からみると対ドイツ戦よりも対日戦の方が遥かに「人種戦争」という面が濃厚であった。またドイツの側にしても、西部戦線より対ソ東部戦線の方が格段に凄惨な戦闘であったという。
(左)ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学教授)
(右)彼の著書『人種偏見』(TBS・ブリタニカ)
●ダワー教授によれば、アメリカ側の日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。
ところがアメリカのヨーロッパでの敵は、ドイツ人自体ではなくヒトラー一派であり、ジャーナリズムは日本軍の残虐行為については盛んに報道したという。
●ダワー教授は、このような相手を人間以下とみなす発想は、日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものにすぎないとしている。
■■追加情報 8:日本の敗戦は必至であった
●大戦中、アメリカ軍による空襲は大都市にとどまらなかった。アメリカの爆撃機は大都市を焼き払った後、地方の中小都市にも空襲を拡大していったのである。
空襲の結果、日本は抗戦能力をほとんど失っていた。敗戦は必至であった。
それを知りながら、アメリカは「原爆」を2発も使用して、追い討ちをかけたのである。
●アメリカの戦略立案に深く関わったアルバート・ウェデマイヤー大将は、戦後に出した『回想録』の中でこう記している。
(左)アルバート・ウェデマイヤー大将
(右)彼の回想録『第二次大戦に勝者なし』
ウェデマイヤー大将は大戦中、連合軍東南アジア副司令官、
中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任。第二次大戦後期の
戦闘においてアメリカ陸軍と国民革命軍を指揮して日本軍と対峙したが、
終戦時に中国大陸に取り残された390万人の日本軍将兵と在留邦人の日本
本土への早期帰還に大いに尽力した(彼は本国政府を大変な思いで説得して
輸送船や物資をかき集め、日本に送り届けてくれたのである)。大戦後の
冷戦期では、ベルリン封鎖に対する空輸作戦の主要な支持者となり、
反共主義者の大物の1人としてもてはやされた。1951年に
退官し、1989年に92歳で亡くなった。
「1945年初頭の諜報と日本諸都市の爆撃結果についての写真を判読すれば、東アジアにおける戦争の終結は、あと何週間かの問題であることがわかった。
……それなのにアメリカは、この事実を見て見ぬふりをし、最後の勝利を求めてソ連を戦争に引き入れた。
アメリカの情報当局者は、日本に対して原爆を使用しないよう、またソ連に参戦の機会を与えないよう、アメリカ政府に対し勧告すべきであった。
われわれは暗号解読によって、日本の天皇がモスクワ駐在の日本大使に対し、停戦を実現するためアメリカとの調停者となるよう、ソ連に要請する訓令を出したことを知っていた。
……アメリカは1945年の初め、連合国が無条件降伏を主張しないならば、日本には終戦の用意のあることを実際に知っていた。」
◆
●当時の状況をもっともよく知るアメリカ人エリートの一人であるハミルトン・フィッシュ(元下院議員)も、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。
「アメリカ国民の85%は、第二次世界大戦はもとより、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたという現実にも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。
〈中略〉
日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。
非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦および対独戦を行うことを決意していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した。
駐日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、かかる首脳会談の開催を強く要請した。しかしルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、策謀とごまかしとトリックを用いて、全く不必要な戦争へ我々を巻き込んだのである。」
(左)ハミルトン・フィッシュ (右)彼の著書
『日米・開戦の悲劇』(PHP文庫)
… ハミルトン・フィッシュの略歴 …
ハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦に
従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され、
1945年まで12回にわたり選出される(共和党員)。
アメリカの孤立主義の指導的代表者であり、ルーズベルト
大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没。
■■追加情報 9:パール博士の言葉
●「東京裁判」において、判事11名の中ただ一人「日本無罪」を主張したパール博士(インド代表判事)。
判事中唯一の「国際法学者」だった彼は、国際法に拠らず、事後法によって行われた裁判を、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」であり、違法裁判であると非難した。
※ 後にこの主張は世界中で高く評価された。
ラダ・ビノード・パール博士
(1886~1967年)
インド・ベンガル州ノディア出身
※「東京裁判」において判事11名の中
ただ一人「日本無罪」を主張した
●パール博士は1952年、広島の爆心地「本川小学校」講堂で開かれた「世界連邦アジア会議」にゲストとして招待され、この会議の中で次のように述べた。
「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である」
「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を『実験』として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔(ざんげ)の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか」
●その後、パール博士は「原爆慰霊碑」を訪れ、献花し黙祷を捧げた。そしてその碑に刻まれた文字を通訳させ、疑うかのように二度三度と確認したという。
その慰霊碑にはこう刻まれていた。
安らかに眠って下さい
過ちは二度と繰り返しませぬから
広島の平和記念公園にある「原爆慰霊碑」(1952年完成)
この慰霊碑は、東京大学教授(当時)の丹下健三氏が
設計したもので、原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという
気持ちから、屋根の部分がはにわの家型をしている。
※ この慰霊碑の碑文を書いたのは被爆者のひとり、
雑賀忠義氏(広島大学教授)である。
●パール博士は怒りを顔にあらわして、次のように述べた。
「ここで言う『過ち』とは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、私は疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》と言うならうなずける。
この『過ち』が、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」
■■追加情報 10:映画『フォッグ・オブ・ウォー』 ─ マクナマラ元米国防長官の告白
●2003年にアメリカで『フォッグ・オブ・ウォー』というドキュメンタリー映画が制作され、大きな話題になった。
この映画はハーバード大学院卒、「フォード社」社長、ケネディとジョンソン政権下で国防長官、「世界銀行」総裁とエリート街道を歩み、政財界の中枢を歴任してきたロバート・マクナマラが、キューバ・ミサイル危機、東京大空襲、ベトナム戦争当時の真実を告白する衝撃のドキュメンタリー映画である。
(左)映画『フォッグ・オブ・ウォー』
(右)ロバート・マクナマラ元米国防長官。
政財界の中枢を歴任してきたスーパーエリート。
●この映画の中で85歳になったマクナマラは、「私の人生は戦争と共にあった」と告白している。
カーチス・ルメイの部下としてマクナマラは、東京大空襲での焼夷弾使用を立案。多くの民間人を殺し、さらに原爆まで投下したことを「明らかに行き過ぎた行為」と振り返る。
「第二次世界大戦中、私は統計管理官として、東京大空襲でいかに効率的に日本人を殺戮できるかを仲間と共に研究した。その結果、一晩で子供を含む10万人を殺した」
マクナマラは東京大空襲は、現在から振り返ってみて「不要だった」と断罪する。その理由が、残虐だとか無差別爆撃だということではない。「日本を敗退させるのに喪失した人命(日本人の)が多すぎる」ということなのだ。
日本本土への爆撃作戦の
司令官を務めたカーチス・ルメイ
戦後は、戦略空軍(SAC)司令官、
空軍参謀総長などを歴任。ケネディ政権時には
キューバやベトナムへの「核攻撃」を主張した。
(ベトナム戦争で北爆を推進したのは彼である)。
※ 1968年の大統領選では、無所属で出馬した
ジョージ・ウォレスの副大統領候補になった。
(1990年10月1日に83歳で死去)。
●この映画の中で、カーチス・ルメイは「負ければ戦争犯罪人だ!」と述べている。
それでは「勝ったから許されるのか? 私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」とマクナマラは自問自答する。さらに「日本全土、67都市を爆撃し、その上、原子爆弾を落とす必要があったのか?」
「私は戦争にも目的と手段の釣り合いが必要だと考える」とマクナマラは語っている。
映画の中で驚くべき告白をする
ロバート・マクナマラ
●またマクナマラはこうも語っている。
「原爆投下を許可した好戦的性格のルメイや、ケネディ亡き後、私と意見を違えて、ベトナム戦争を拡大、泥沼に落ちたジョンソン大統領も選ばれて『国家と国民のために』と称した行為である事を思う時、『人は善をなさんとして、いかに悪をなすものなのか』(パウロの「ローマ人への手紙」)という言葉を思い起こす」
※ この映画は第76回アカデミー賞、
長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した
●この映画が制作された翌年(2004年)、マクナマラは来日したが、日本人に向けて次のような貴重なコメントを残している。
「原爆投下が必要だったとは思わない。賢明な選択ではなかった。〈中略〉原爆投下がなければ核戦争の時代の到来は避けられた。」(2004年1月31日『読売新聞』)
■■追加情報 11:ウクライナ系ユダヤ人は語る「日本人には申し訳ないことをした」
●『週刊新潮』(2005年7月28日号)の連載「変見自在」の中で、帝京大学教授の高山正之氏が面白い事を書いている。
『週刊新潮』2005年7月28日号
●高山正之氏がアメリカのロサンゼルス空港からタクシーに乗ったら、いきなり「申し訳ないことをした」と運転手が謝罪したそうだ。
その運転手はウクライナから移民してきたユダヤ人で、彼によるとウクライナのユダヤ人コミュニティにはある言い伝えがあるそうだ。『旧約聖書』によると「イスラエル12支族」のうち、10支族がいなくなったが、そのうちの1支族が日本人であると。
それなのに、「ユダヤ人のオッペンハイマーは日本に落とす原爆を作った」というのが謝罪の理由だったという。
※ この記事の全文はココにあります。
■■追加情報 12:ユダヤ人女性監督は語る「原爆は日本への罰」
●ユダヤ人の中には、下のような意見を持つ人が存在していることも、一応紹介しておきたい。
もちろん、このような意見はユダヤ人の中でも「少数派」に属する
と思うが(そう願いたいが)、とても悲しい発言である……。
大戦中、日本人が上海や満州で多くのユダヤ難民を
助けたことを知らないのだろうか?
↓↓↓
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◆ユダヤ人女性監督は語る「原爆は日本への罰」
迫害に直接関わらなくとも、日本を見るユダヤ人の目は今も厳しいのです。
ユダヤ人学生は、広島の平和記念公園に、ホロコースト慰霊碑があることに驚いて、
「ヒロシマ」の横に「アウシュヴィッツ」を並べて、同列に扱うのはおかしいと言いました。
「むしろ『南京虐殺』を並べて、原因と結果の因果関係を展示すべきではないか」と。
また、ホロコースト生存者の映画を撮ったユダヤ人女性は、
「原爆は日本への罰」と言いました。つまり、原爆の被害を受けた日本でも、
ユダヤ人から見れば、加害者でしかないということです。
吉永世子のアメリカ便り 連載★第4回(2005年)
アウシュヴィッツ収容所解放60周年「遠くて近いアウシュヴィッツへの道」より
http://www.dokushojin.co.jp/yoshinaga_seiko4.html
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※ おまけ情報:
大戦中、ナチス・ドイツと同盟を結んでいた日本政府は、
ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか?
日本人はユダヤ人を迫害したのだろうか?
この問題に興味のある方は、当館作成のファイル
「上海と満州のユダヤ難民を保護した日本」をご覧下さい。
■■追加情報 13:ナチスによる「ホロコースト」の恐怖は消え去ったが…
あの戦争によって、
地上からナチスは消えたが、
その代わりに「核兵器」が生まれた。
ナチスによる「ホロコースト」の恐怖が消え
去ったと思いきや、それと入れ替わるようにして
「核ホロコースト」の恐怖が地上を支配し始めた…。
※ ナチス・ドイツが「無条件降伏」したのは1945年5月7日で、
その約2ヶ月後、アメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠にて、
人類初の原爆が巨大な「産声」をあげたのである(1945年7月16日)。
(左)ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠(トリニティ実験場)
(右)人類史上初めての「核実験」の様子(1945年7月16日)
このようにナチスの恐怖に代わって「核ホロコースト」の恐怖が
新たに台頭してきたわけだが、「核兵器」は「究極の暴力」であり
形を変えた「ナチズム」であると言っても過言ではなかろう。
1994年11月17日『朝日新聞』
↑「イスラエルの核兵器は約200発」と報じる新聞記事
※ ユダヤ人の国イスラエルは、戦後1948年5月に中東に誕生した
第9章で紹介した在米ユダヤ人組織や
前章で紹介したユダヤ人女性監督もそうだが、
あれだけ「ナチスの暴力」を非難する人たちが、なぜ、
このようなジェノサイド(虐殺)を生み出す「悪魔の兵器」
の世界的拡散(自国での製造)については、黙り続けているのか。
なぜ「ナチスの暴力」には断固反対なのに「核の暴力」には反対しないのか。
なぜナチズムに通じる究極の暴力である「核兵器」の廃絶には消極的なのか。
なぜ他の国で起きたジェノサイドには鈍感(無神経)でいられるのか。
なぜ日本で起きた人類史上初の「核ホロコースト」の悲劇を
あからさまに肯定(賛美)し続けるのか。
全く理解できない。
※ もし本当に彼らが真の世界平和
(人類平和)を希求するのであれば、
核兵器の存在を肯定する事は
できないはずだが…。
※ 追記(補足):
●ここでちょっと偉そうなことを書いてしまった感があるが、前章で紹介したユダヤ人女性監督の「原爆は日本への罰」という言葉に、非常に強い反発を感じたので、心の中にモヤモヤと湧いてきた言葉(素朴な疑問の数々)をそのままストレートに表現してみた次第である。ご理解いただきたい。
●あと、これも正直に言っておきたいが、アメリカにいるユダヤ人(特に「SWC」の方々など)の意識が変わらない限り、原爆の問題は永遠に解決しないと感じる今日この頃である。
※ もちろん、アメリカのユダヤ人の中には、核兵器反対運動に参加している人もいるし、全てのユダヤ人が原爆を肯定しているわけではない。しかしアメリカ政府を動かすほどの運動には発展していないというのが現状である。
●もしも全世界のユダヤ人・平和団体が、ナチズムの怖ろしさだけでなく核の怖ろしさも再認識し、「核兵器廃絶」に共鳴してくれたら、世界は大きく変わると思うのだが……(期待しすぎだろうか?)
●また、昔ながらの「やられたらやり返せ」という“報復思想”(暴力主義)が欧米社会で正当化され続ける限り、「原爆はパールハーバーのお返しだ」とか「南京でやったことのお返しだ」とか、そういう「浅薄な主張」が外国人の間で支持され続けていくと思う。
ところで最近、日本人の間では自虐史観の影響もあり「原爆投下はしょうがなかった」と主張する人が増えているようだが、本当に「しょうがなかった」で済むような問題なのだろうか??
1945年夏、ナチスによるホロコーストの恐怖が消え去った直後、
「核ホロコースト」の恐怖が全地球(全人類)を浸食し始め、
終わりの見えない核の時代の幕が切って落とされた
●あの戦争中、地球上の最高の頭脳を結集して、「原子力」という全く新しい究極的なエネルギー(火)を手に入れた人類──。
ギリシア神話に登場するプロメテウスは人間に「火」を与えた罰として、永遠にハゲタカに内臓をついばまれるという怖ろしい刑を受けたが、「火」の誤用(悪用)によって引き起こされた原爆の悲劇は「日本の戦争問題」という枠組みを超え、人類全体の問題としてもっと真剣に考えていくべきではないだろうか?
二度にわたる原爆の使用は、決して日本の降伏によって幕を閉じた過去の出来事(過ぎ去りし悲劇)ではなく、現在の我々の世界にも深くつながる現在進行形の悲劇として強く認識すべきではないだろうか?
なぜならば、原爆の怖ろしさ(理不尽さ)は広島・長崎で「終わった」のではなく、
むしろ「始まった」(増殖・拡散した)のだから……。
(左)人類史上初めての「核実験」が行われたニューメキシコ州アラモゴードのトリニティ実験場は、
1965年にアメリカの歴史記念物に指定され、爆心地には高さ約3.6mの記念碑が建っている。
(中)「トリニティ・サイト ─ ここで世界最初の核実験が行われた」と記されている銘板。
(右)爆心地の記念碑前で記念撮影をするアメリカ人たち。手前の人物が着ている
「キノコ雲」をあしらった記念Tシャツは売店の人気商品だという…。
ここから下は「特別編」です。
原爆の問題をもうちょい違う角度(視点)から
考えてみるために作りました。
参考までにどうぞ。
※ グロテスクな表現が含まれて
いるのでご注意下さい
■■特別編 A:全てを焼き尽くす「地獄の炎」
あの戦争中、人類は全てを焼き尽くす「地獄の炎」を手に入れた…
核兵器は「地獄の炎」を生み出す「絶滅兵器」である!
ボタン1つで、いつでもどこでも人間を大量に「焼き殺す」
ことが可能な「炎の絶滅兵器」であり、地上のどこでも狙った場所を
「灰の山」にすることのできる「空飛ぶアウシュヴィッツの火葬場」である。
戦後、このようなシロモノが世界中に広まり、国連常任理事国をはじめ多くの
国が大量に保有するという狂った世の中になってしまったが、広島・長崎
に続く新たな「核ホロコースト」はもう二度と起きてほしくない!
↑「核ホロコースト」により一般市民が生きたまま
焼き殺され、廃墟となった広島の町(1945年8月)
空から落とされた核爆弾によって町全体が「焼却炉」になった。
その後、この町と周辺地域には「核エネルギー」を含んだ
「死のシャワー(黒い雨)」が大量に降り注いだ…。
これはまさにアウシュヴィッツの「シャワー室」
(死のガス室)を連想させる悲劇である!
※ 爆発の瞬間の爆発点は「数十万気圧」にも達し、
これが爆風を起こした。爆風の風速は「音速」を超えたという。
(エネルギー比では台風の暴風エネルギーの100倍の爆風であった)。
広島原爆による全焼地域は、爆心地から半径2キロ前後にまで及んだ。
1キロ以内の建物1万9667件のほぼ100%が全壊全焼、1キロから
2キロの2万5526件の99%が全壊全焼または大破したという。
(市内全域の7万6327件でみれば半壊・半焼・大破を
含め、92%が被害にあったと報告されている)。
※「黒い雨」(=強い放射能を帯びた粘り気の
ある大粒の雨)は、爆風や熱線の被害を受け
なかった地域にも降り注ぎ、広範囲に
深刻な放射能汚染をもたらした。
↑原爆の悲劇から7年後に、広島市外(坂町)の仮設救護所跡で
発見された死体の一部(1952年7月30日)
■■特別編 B:放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」の恐怖
●原爆が投下された後に激しく降った「黒い雨」──。
原爆の悲劇は、その場にいた人たちが焼き殺されただけでなく、家族や知人の安否を気づかい、廃墟になった町の中に入った人々にも襲いかかった「黒い雨」の恐怖を抜きにしては語れない。
『黒い雨 ~広島・長崎原爆の謎~』
(1986年制作・45分)NHK特集名作100選
地方の時代映像特別賞(平和賞)・ギャラクシー奨励賞受賞
広島と長崎に原爆が投下された直後、爆心地周辺には万年筆大の
激しい「黒い雨」が降った。アメリカ軍も予想していなかった「黒い雨」の
正体は戦後40年明らかにされることがなかった。この「黒い雨」の謎を解くため、
NHKが一般市民に資料の提供を呼びかけたところ、広島市内の住宅内部の壁に
くっきりと「黒い雨」の痕跡が残されていることがわかった。「黒い雨」の
人体や環境への影響はどうだったのだろうか。様々な証言や
残されたデータを手がかりに科学的手法で謎に迫る。
●広島出身の小説家・井伏鱒二(いぶせ ますじ)は、小説『黒い雨』を書き、放射能の雨に打たれただけで原爆病に蝕(むしば)まれていく女性の姿を克明に描いた。
彼はこの作品で1966年に「第19回 野間文芸賞」を受賞し、同年に「文化勲章」も受章した。
(左)井伏鱒二(1898~1993年)
(右)原爆をテーマにした彼の小説『黒い雨』
彼は31歳の時に『山椒魚』その他で文壇に登場。
以後独特のユーモアとペーソスをたたえた風格の
ある作品を書き続けた。彼の小説『黒い雨』は
海外でも翻訳され出版されている。
●この小説『黒い雨』に登場する若い女性は、周囲から「被爆者」だと噂されて縁談を破棄され、そのうえ原爆症を発病してしまうが、このような悲劇は決して小説の中だけの話ではなく、現実に起きた出来事である。
この女性のように運よく生き残っても、常に発病の恐怖と世間からの偏見に苦しむ人々は実際に多く存在したし、今現在も原爆後遺症で苦しんでいる被爆者は多く存在している。
原爆による「後でやってくる恐怖」(第2の恐怖)を描いたこの小説は、原爆がもたらす非道さ、原爆の本当の怖さを物語っている。
この小説を読むと、原爆は1つの都市を物理的に抹殺するだけでなく、運よく生き残った人々に対しても陰湿にジワジワと肉体的・精神的ダメージを与え続けていく〈悪魔の兵器〉であることを改めて痛感する。
◆
●なお、この小説は社会派の名匠・今村昌平監督が1989年に映画化している。
女優の田中好子は熱演し、映画祭主演女優賞を総なめした。
◆カンヌ映画祭(1989年)第42回 高等技術委員会賞
◆日本アカデミー賞(1989年)第13回 作品賞、監督賞(今村昌平)、主演女優賞(田中好子)、助演女優賞(市原悦子)
◆ブルーリボン賞(1989年)第32回 主演男優賞(三國連太郎)、主演女優賞(田中好子)
◆報知映画賞(1989年)第14回 主演女優賞(田中好子)
◆キネマ旬報賞(1989年)第63回 作品賞、監督賞(今村昌平)、主演女優賞(田中好子)
◆毎日映画コンクール(1989年)第44回 日本映画大賞、主演女優賞(田中好子)
原爆による「黒い雨」を浴びてしまった若い女性(田中好子)↓
この映画は、井伏鱒二のベストセラー小説をもとに、今村昌平監督が
原爆被爆者の悲劇を庶民の普通の生活を通して淡々と綴った力作である
●ちなみに、この映画の前年(1988年)に制作された新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』にも、「黒い雨」が不気味に降り注ぐシーンが盛り込まれているが、映画『黒い雨』よりも生々しい描写になっている。
↓原爆による「黒い雨」を浴びてしまった「さくら隊」の劇団員
1945年8月6日、巡演中の広島で原爆投下に遭遇して被爆、非業の死を遂げた
移動劇団「さくら隊」の悲劇を、『原爆の子』『第五福竜丸』の新藤兼人監督(広島出身)が、
記録映像や証言を交えて忠実に再現したセミドキュメンタリー。放射能の影響で髪が抜け落ち、
全身に発疹ができ、高熱を発してもがき苦しむ劇団員たちの姿が生々しく描写されている。
↑「黒い雨」を浴びた「さくら隊」の女優・園井恵子(元宝塚歌劇団スター)は、
放射能による病に犯され、徐々に衰弱して死んでいった(享年32歳)
※ 同じく被爆した女優・仲みどりは、東大病院で治療を受けたが8月24日に
亡くなった。彼女は世界で初めて「原子爆弾症」と診断された(今でも
彼女の肺と骨髄の一部は東大病院に保存されているという)。
●ところで、広島出身の漫画家・中沢啓治氏は、原爆マンガ『はだしのゲン』(1973年~)で有名だが、彼はこの作品よりも先に『黒い雨にうたれて』という原爆をテーマにした作品を発表している(1968年)。
この『黒い雨にうたれて』は、戦後の広島を舞台に原爆後遺症で苦悩する人々を描いたマンガで、1986年にアニメ化されている。
被爆直後の広島には、放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」が
降り注ぎ、その死の灰の影響は二世、三世にまで及んでいた。
原爆が被爆者の体と心にどれだけ深い傷を残しているかを
漫画家の中沢啓治氏は鮮烈なタッチで描いている。
(左)アニメ『黒い雨にうたれて』(1986年制作)
(右)1983年公開の劇場用アニメ『はだしのゲン』
原作・企画・脚本・制作:中沢啓治氏
■■特別編 C:「ラッセル=アインシュタイン宣言」と、核兵器廃絶を求める科学者組織「パグウォッシュ会議」
●第1章の内容と重複するが、ユダヤ人科学者アインシュタイン博士について再度触れたい。
●1945年8月、アメリカ軍が日本に原爆を投下したニュースを聞いたとき、アインシュタイン博士は「ああ、何ということか!」とうめいたという。
アインシュタイン博士は「マンハッタン計画」に参加しておらず、ルーズベルト大統領宛に原爆開発を促す「手紙」に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
1952年に雑誌『改造』へ「日本人への弁明」を寄稿。1955年には、核兵器の廃絶と紛争の平和的解決を求める「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名。
その1週間後(1955年4月18日)に動脈瘤破裂のため、76歳の生涯を閉じたのであった。
アルベルト・アインシュタイン博士
(1879~1955年)
ドイツ出身の理論物理学者。
1921年度のノーベル物理学賞を受賞。
(受賞理由は「光電効果の発見」であり、
「相対性理論の発見」ではない)
●この「ラッセル=アインシュタイン宣言」は、イギリスの数学者であり著名な思想家のバートランド・ラッセルが起草したもので、アインシュタイン博士の死から約3ヶ月後の1955年7月9日にロンドンで発表された。
※ この時に開かれたラッセルの記者会見には、全世界の一流紙のロンドン特派員が集まり、会見はテレビとラジオで全世界に中継された。
バートランド・ラッセル卿
(1872~1970年)
イギリスの貴族出身の
論理学者、数学者、哲学者。
1950年にノーベル文学賞を受賞。
1955年7月9日に核戦争回避を訴えるための
記者会見を開いて、核兵器の廃絶と科学技術の平和
利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。
1961年には「百人委員会」を結成し、委員長に就任。
イギリスの核政策に対する抗議行動を行った。
その後も97歳でこの世を去る直前
まで精力的に活動した。
●アインシュタイン博士が人類に残した「遺言状」ともいわれるこの宣言は、アメリカ、イギリス、ソ連など6ヶ国の政府首脳に直接送られ、「ラッセル=アインシュタイン宣言」として世界中に広まった。
この宣言には、日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士ら世界の著名な学者9名が署名に加わった。
湯川秀樹博士
(1907~1981年)
京都市出身の理論物理学者で、
1949年にノーベル物理学賞を受賞。
(日本人初のノーベル賞受賞だった)
1954年に起きた「第五福竜丸」事件を
契機に反核運動に力を注ぎ、終生、
核兵器の廃絶を訴え続けた。
●「ラッセル=アインシュタイン宣言」の内容は、核兵器による戦争が人類に終末をもたらす危険性を警告し、「世界科学者会議」の開催を呼びかける、というものであった。
この宣言の要請を受けて、核兵器廃絶を求める科学者組織「パグウォッシュ会議」が誕生し、第1回会議(1957年7月)には10ヶ国22人の著名な科学者が集まった。
日本からは湯川秀樹博士、小川岩雄博士(湯川博士の甥)、朝永振一郎博士らが参加した。
※「パグウォッシュ」はカナダ東海岸の小さな漁村の名前である。また、「パグウォッシュ会議」の正式名称は「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」である。
「第1回パグウォッシュ会議」に集まった科学者たち
(左から4人目の人物=朝永振一郎博士)
この会議は1957年7月に、カナダ・ノバスコシア州の
漁村パグウォッシュで開かれ、世界平和と科学者の
社会的責任について真剣に討議された
朝永振一郎博士
(ともなが しんいちろう)
(1906~1979年)
日本の物理学者で、1941年に35歳
で東京文理科大学(筑波大学の前身校)教授、
1956年に50歳で東京教育大学の学長になり
定年まで務めた。原水爆の禁止や原子力の平和
利用に熱意を示し、平和運動、国際交流に
対して湯川博士らと協力して行動した。
1965年にノーベル物理学賞を受賞。
●この科学者の国際会議は、「私たちはすべて、人類は戦争を廃絶するか、さもなくば、破滅に導かれるに違いないということを確信する。それゆえ、対立する強国間のジレンマと軍拡競争は破棄されねばならない」と結ぶ声明を発表した。
以後、この会議は毎年(年に1~2回)世界各地で開かれている。
※ 湯川博士と朝永博士は、京都府立一中と第三高等学校、京都帝国大学において学んだ同級生で、1975年に京都で開かれた科学者会議では「核抑止を超えて」と題する「湯川・朝永宣言」を共同発表している。
↓日本パグウォッシュ会議の公式サイト
https://www.pugwashjapan.jp/
●1995年7月に「第45回パグウォッシュ会議」が広島で開催された。
テーマは「核兵器のない世界を目指して」で、137名(うち日本から24名)の科学者が参加し、「広島宣言」が発表された。この「広島宣言」は次のような文章で始まっていた。
「50年前、2発のアメリカの原子爆弾が広島と長崎という2つの日本の都市を破壊した。そこに発生した2つのキノコ雲は──その下には恐るべき惨状が現出したのだが──、史上最悪の破壊をもたらした戦争の終結を告げるものとなった。
しかし、それは同時に、人類が地球規模の核戦争の危険におびえながら暮らさなければならない、新たな時代の開幕でもあった。もし地球規模の核戦争が起これば、第二次世界大戦が6年間に及ぼした以上の災厄が、6時間もかからずに出現することになるであろう。〈後略〉」(「広島宣言」 1995年)
●この年の10月に「パグウォッシュ会議」への「ノーベル平和賞」授賞が発表され、12月に授賞式が行われた。
45回目の会議が広島で開催された年(1995年)に、
「パグウォッシュ会議」は当時のジョセフ・ロートブラット
名誉会長とともに「ノーベル平和賞」を受賞した
●ところで、前出のバートランド・ラッセルは、かつて原爆投下について「一人の人間として人間に訴える」と厳しく批判している。
その内容を簡単に紹介しておきたい。
「ヒロシマ原爆は、単にアメリカの非人道的行為たるにとどまらず、白人全体の罪である。日本をして、降伏を決意させるために心要な行為であったと弁解するのは偽りである。日本は、すでにその1ヶ月前にポツダム宣言受諾の方針を決定していた。そうして、スターリンに対して米英首脳への仲介を依頼していた。
ヒロシマ原爆は、新型原爆の実験であり、アメリカのソ連に対する牽制と東南アジア諸国向けの示威であった。
いずれにしてもこの原爆投下は許さるべき行為ではなかった。どんなにもっともらしい言い訳を言ったとて、またどんなに壮厳らしく見える慰霊祭典を挙行したところで、それでこの罪を償えるものではない。真に罪を償う道は、2度と核戦争をしないことであり、その証明としての『核兵器撤廃』である。」(『世界はひとつ、道ひとすじに』八幡書店)
■■特別編 D:大戦中に「マンハッタン計画」を離れたユダヤ人科学者ロートブラット博士
●ポーランド生まれのユダヤ人科学者ジョセフ・ロートブラット博士は、第二次世界大戦が始まった時、イギリスに留学中だったが、ナチスの脅威に対抗するためにアメリカの「マンハッタン計画」に参加した。
ジョセフ・ロートブラット博士
(1908~2005年)
ポーランド生まれのユダヤ人科学者。
ワルシャワ大学卒業後、イギリスのリバプール大学で
核物理学研究に取り組む。大戦中、ナチスの脅威に対抗
するためにアメリカの「マンハッタン計画」に参加した。
●しかし1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると、
「ドイツが降伏した以上、原爆は必要ない。アメリカも核兵器開発をやめるべきだ」と訴えた。
そして、科学者として原爆の開発計画に関与してしまった責任を痛感し、良心に従って「マンハッタン計画」から離脱したのである。
※ ロートブラット博士は、このような理由で「マンハッタン計画」を離れた唯一の科学者だったが、当時、このような行動を起こすのは相当の勇気が必要だったと思われる。
「ロスアラモス研究所」
1945年5月、ロートブラット博士は、ドイツが
降伏した以上原爆は必要ないとロスアラモスを去った
●その後、博士は広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、反核運動に目覚め、1955年に「ラッセル=アインシュタイン宣言」の起草に尽力し、宣言の署名者の一人となった。
その後、「パグウォッシュ会議」の創設に加わり、初代事務局長に就任。
核兵器廃絶を目指して世界中を飛び回り、核兵器に反対する運動家として象徴的存在となった。
◆
●1995年に(前章で触れたように)「パグウォッシュ会議」とロートブラット博士(名誉会長)は「ノーベル平和賞」を共同受賞した。
受賞理由として「核兵器が国際政治で果たす役割を減少させ、長期的には核兵器廃絶を実現するために努力した」ことが挙げられた。
1995年に「ノーベル平和賞」を受賞した
ロートブラット博士(名誉会長)
●それから10年後の2005年8月31日、博士はロンドンで死去した。享年96歳だった。
「日本パグウォッシュ会議」代表の大西仁氏(東北大学理事)は、「ロートブラット元会長逝去の報に接して」の中で、博士についてこう述べている。簡単に紹介しておきたい。
※ この記事はロートブラット博士の人柄を知る上で大変興味深い内容である。
「ロートブラット氏は、日本も度々訪れ、日本の国民がヒロシマ・ナガサキを忘れず、核兵器廃絶を世界に向かって訴え続けていることへの感動と讃嘆の気持ちを率直に述べると共に、平和憲法の重要性も繰り返し力説していました。
ロートブラット氏が日本に対してそのような特別な思いを懐いていたにもかかわらず、本年7月に広島で開催された第55回パグウォッシュ会議年次大会は、生前に氏が出席できなかった唯一の年次大会になってしまいました。氏は、病床から同年次大会の開会式に向けて挨拶文を送って下さいました。その中で、氏は、これまで54回の年次大会に欠かさず出席してきたのに、今回初めて欠席することになったのは大層残念だと語っています。
さらに、『冷戦の終焉は人々に安堵感をもたらしましたが、現実には、核兵器が紛争で使われる可能性は、これまでになく高いのです』と警告しています。
そして恐らく、これが、氏の世界に対する最後のメッセージになりました。〈後略〉」
■■特別編 E:原爆をテーマに映画を作ったアメリカの中学生
●映画『魔法のランプのジニー ~ジニーは広島・長崎で何をしたのか?~』は、アメリカの少年2人が描いた広島・長崎原爆に関する短編ドキュメント(16分)で、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた「核拡散防止条約(NPT)再検討会議」や、ロサンゼルスで開かれた「国際こども映画祭」などで上映され、大反響を呼んだ。
(左)シカゴ市在住のスティーブン・ソター君
(右)彼が作った映画『魔法のランプのジニー ~
ジニーは広島・長崎で何をしたのか?~』
※ この映画は16分という短い作品だが、
鋭い感性で作られており、内容は濃い
●この映画の監督を務めたスティーブン・ソター君は、映像作家を目指して12歳だった2004年夏に、同級生とドキュメンタリーの製作を始めた。
テーマは、教科書ではよく分からなかった「アメリカはなぜ原爆を開発し、日本に投下したのか」という疑問。
●この作品は「マンハッタン計画」に関わった科学者らの話を中心に構成され、題名はランプの中の魔神ジニーを「一度出したら元に戻せないもの=原爆」に例えて付けたという。
重いテーマだが、魔神に扮した男を登場させてコミカルにこう語らせたりする。
「オレは悪くない。爆弾は使われるだけで、使うのはいつも人間だろ!」
映画の中に登場する魔神ジニー
※ ジニーは魔法のランプに閉じ込められた魔神
の名前で「核エネルギー」を象徴しているという
●スティーブン・ソター君は、アメリカ国内に原爆投下を悪いと思わない人がいるのは、「よく知らないから」と指摘し、こう語っている。
「史上最悪の決断だった。二度と繰り返してはならない。ボクはこの映画で原爆が人を傷つけたのではなく、人が人を傷つけたのだと訴えたかったのです」
2006年7月に初来日した
スティーブン・ソター君
●このスティーブン・ソター君のような鋭い感性を持った〈新しい世代〉が、アメリカに登場したことは非常に喜ばしいことである。
しかしまだ若いので、今後、アメリカ国内の多数派である「原爆肯定派」や周囲の大人たち(学校の先生など)から強い影響を受けて、原爆に対するスタンスが変わっていくかもしれないという一抹の不安がある。
彼の鋭い感性(才能)が成長とともに曇ることなく、このままずっと輝いていくことを祈りたい(温かく見守っていきたい…)。
◆14歳の米映画監督ヒロシマを撮る(中国新聞の記事)
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2006/news/An06071702.html
■■特別編 F:日系アメリカ人監督によるドキュメンタリー映画
●名前が「スティーブン」つながりというわけで、この映画監督も一緒に紹介しておきたい↓
2006年6月5日『東京新聞』
●この記事で紹介されているスティーブン・オカザキ監督は、1952年ロサンゼルス生まれの日系3世で、「日系人強制収容所」を描いた作品『待ちわびる日々』(1991年)で米アカデミー賞ドキュメンタリー映画賞を受賞。
広島・長崎の原爆問題に関心を寄せるようになったのは、英訳の『はだしのゲン』を読んだのがきっかけで、1981年に広島を初訪問して以来、25年の歳月をかけて500人以上の被爆者を取材し続けてきたという。
●オカザキ監督は新作映画の発表に向け、こう語っている。
「偏見もあり、特別扱いされていた被爆を、普通の人間の体験として伝えていきたい。1995年の米スミソニアン協会の原爆展で長編を作る予定だったが、当時はアメリカ国内の反発で実現しなかった。
2005年にアメリカの記録映画会社から『手遅れになる』と、制作を持ちかけられ、ようやく実現した。被爆者にとって、あの日の体験は今も生々しい。高齢化で今語らなければという緊迫感もある。若者には、自分にも起きたかもしれない体験として見てほしい」
●このオカザキ監督の原爆映画の最新情報はこちらにあります↓
◆「ヒロシマ ナガサキ」公式サイト(予告編ムービーあり)
http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/
■■関連動画(リンク集)
Hiroshima and Nagasaki 英語(1分50秒)
http://www.youtube.com/watch?v=X5Lpemjki_A
上の動画の中に登場する被爆した少年
※ くどいようだが原爆は通常の爆弾と違って深刻な
「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である
上で紹介した原爆アニメ『はだしのゲン』のワンシーン(9分2秒)
http://www.youtube.com/watch?v=BfJZ6nwxD38
↑心臓の弱い方は観ないほうがいいと思います
英BBC制作 広島 原爆投下(9分37秒)
http://www.youtube.com/watch?v=i3fmPaWyA7U
↑CGを使って広島原爆をリアルに再現しています
核爆発の映像集(5分43秒)
http://www.youtube.com/watch?v=IHeI4TRoKvo
↑衝撃の映像集(BGMがうるさいので要注意)
…… これらの映像を見た感想 ……
「核の暴力」にさらされるようになった
戦後の世界はまさに病んでいるといえる。
「核兵器」のない平和な世界は、もう我々の
住む「星」には永遠に訪れないのであろうか?
現在、世界には地球を何回も破壊できるほどの
核兵器が存在するという。一体いつまで人類は
このような「愚行」を続けるのだろうか?
核によって自分たちの文明が滅びた時、
ようやく「正気」に戻るのだろうか?
(今、とても悲しい気分である…)
■■関連記事(リンク集)
◆原爆投下の歴史的時間 ─ 広島の高校生による原爆ドームの変化を再現するCGギャラリー
http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/miyakou/cg.htm
◆反日の「民主党」のF・D・ルーズベルト大統領は
日本へ18発もの原爆投下を承認していた。しかし「共和党」は
日本との戦争にも反対し、分割占領にも反対していた。
http://www.geocities.jp/tqovopy/TORAshi.htm
◆原爆投下、市民殺戮が目的 ─ 米学者、極秘文書で確認
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html
■■原爆関連の書籍
毎年、様々な原爆関連の書籍が出版されていますが、
オススメの本を簡単に紹介(掲載)しておきたいと思います↓
■■追加情報 14:映画化された『夕凪の街 桜の国』
上で掲載中の広島出身の漫画家こうの史代(ふみよ)さんのコミック『夕凪の街 桜の国』(双葉社/2004年出版)を、『出口のない海』の佐々部清監督が見事に映画化しました(2007年)。
この作品は広島に落とされた原爆の影響を、昭和と現代に生きる2人の女性を通して描いた「傑作」です。
詳しくは下のリンク先のページ(公式サイト)をご覧になって下さい。
◆映画『夕凪の街 桜の国』公式サイト
http://www.yunagi-sakura.jp/index.html
■■追加情報 15:アメリカが行ったホロコースト
●多数のベストセラーで有名な渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、月刊『WiLL』8月号緊急増刊(2007年)の中で「アメリカが行ったホロコースト」と題して次のように述べている。
※ 氏が主張されるようにホロコーストの悲劇は、ヨーロッパだけでなく日本でも起きたのである。
「アメリカは原爆、および東京大空襲の無差別爆撃という『ホロコースト』を日本に仕掛けた国です。ホロコーストとは、全てを焼き尽くすという意味です。
東京は何度も空襲され、被災者は60万人を超えています。一晩で10万人が死んでいます。その90%以上は女子供です。これをホロコーストと言わずして、何がホロコーストか。
アウシュヴィッツでも10万人を焼き殺そうと思ったら何ヶ月かかりますか。
アメリカ議会は日本の人道を問うなどと言っていますが、ではアメリカが日本で行った無差別爆撃、原爆についてはどう考えるか問うべきです。
これはホロコーストであり、ホロコーストはいかなる理屈をつけようとホロコーストなのです。
アメリカは苦しまぎれに、『戦争を早く終えるために原爆を落とした』などと言いますが、この件を私はベルリンの学会に出席した際に話したことがあります。
プライベートなお茶の時間でしたが、『アメリカは戦争を早く終えるために原爆を落とした』と言う人がいたので、
『早く終えるために一般国民を殺戮してもよいのであれば、原爆でなく毒ガス(化学兵器)を使ってもよかったではないか』と言いました。
すると相手は『それは考えもしなかった』と言っていましたが、このようにアメリカが言っていることは弁解にもならないのです。アメリカ人も心の底では弁解にならないと思っているはずです。
ですから、彼らの唯一の慰めとして、『日本人は殺されてもいいような悪い奴らだった』ということをなんとしても言いたいのです。
実に悪魔のような潜在意識的欲求があると見なければならないと思います。
事実、私は7年前に出したカタログの序文に『 Tokyo was a holocaust city 』という表現を使ったことがあります。これを読んだ古書を扱う国際的な学会の編集者が感激し、その学会が発行する国際的な雑誌に全文を掲載しました。ですから私は、世界に向かってアメリカの爆撃をホロコーストと書いた最初の人間ではないかと思います。
私たちはこの『ホロコースト』という言葉を使わなければならない。『 Holocaust bombing 』と言わなければなりません。」
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