No.a6fhb500

作成 2001.8

 

ナチスとスイスの協力関係

 

第1章
ユダヤ難民に冷淡だった
スイス政府
第2章
ナチス御用達の銀行だった
スイスの銀行
第3章
ナチス経済とスイス経済は
密接に結びついていた
第4章
ユダヤ人団体に訴えられた
スイスの銀行

おまけ
ナチスに協力していた
「国際決済銀行(BIS)」の戦争責任
おまけ
『黒いスイス』について
おまけ
「武装中立国」スイスの
“したたかなサバイバル戦略”に学ぶ

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■■第1章:ユダヤ難民に冷淡だったスイス政府


●ナチスがユダヤ人を迫害していた時代、ユダヤ人の資産はスイスの銀行に歓迎された。

だが、ユダヤ人自身がスイスに逃げ込んでくることは歓迎されなかった。

 


スイスの国旗

 

●1938年夏、32ヶ国の代表者たちがユダヤ難民問題を話し合うための国際会議を開こうとしたとき、スイス政府はこの会議の主催国になることを拒んだ。そのため会議はフランスの保養地エビアンで開催されることになった。

この「エビアン会議」では、スイスに限らず大半の国がユダヤ難民に門戸を開くことに消極的で、結局、何の具体的な政策も打ち出せないまま幕を閉じた。

 


フランスの保養地エビアン

※ 1938年7月に32ヶ国の代表者たちがフランスの
エビアンに集まり、ユダヤ難民問題の国際会議を開いた

 

●この「エビアン会議」失敗に終わって4ヶ月が経つか経たぬ中に、ドイツではまずユダヤ教会焼き打ちの狼火があがり、続く「水晶の夜」と呼ばれる事件をきっかけに、計画的ユダヤ人迫害の序曲が始まった。

「エビアン会議」で西側諸国がユダヤ難民の保護に二の足を踏んだことが、ユダヤ人迫害の遂行を急ぐベルリンのヒトラーに「ゴーサイン」を送ることになった、とみる歴史家は少なくない。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●ユダヤ難民の大量流入を恐れていたスイス政府は、同じ年の1938年10月にナチス・ドイツとともに「J」スタンプ緊急導入した。

「J」スタンプとは、第三帝国内に居住するユダヤ人のパスポートに「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字「J」を強制的にスタンプするというものであった。これによってユダヤ人を識別するのは容易になった。

 


「J」スタンプが押されたユダヤ人のパスポート

「J」=ドイツ語で「Jude」、フランス語で「Juif」
(「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字である)

※ ユダヤ難民の大量流入を恐れていたスイス政府は
1938年10月にナチス・ドイツとともに
「J」スタンプを緊急導入した。

 

●この「J」スタンプについて、歴史家グイード・コラーはこう語る。

「スイスはナチス・ドイツに対して、ドイツ人全員にビザ取得を義務づける策をちらつかせながら、ユダヤ人の流入を抑えるための措置を打診していた。それで、ドイツ当局が考え出したのが『J』スタンプだった。だから、一応ドイツのアイデアであるが、スイス側の要請に基づいたものなのである。スイスがドイツに何らかの手を打つよう求め、ドイツが対応策を考えたわけである。人種差別であることは明らかで、国際法にも抵触する。スイスとしては汚点を残したことになる」


●しかし、スイス政府はこの「J」スタンプだけでは満足しなかった。

1942年8月、ユダヤ難民に対して国境を事実上完全に閉鎖することとなる法律を可決させたのである。この立法は単独措置ではなく、第二次世界大戦が勃発する何年も前から始まっていたユダヤ人排除政策の総仕上げともいうべきものであった。

しかし、ユダヤ難民の発生は政治的よりも人種的理由によるものとするこの法律に対して、教会および難民や人道主義的団体から即座に非難の声があがった。激しい反対世論の高まりで、この法律はすぐさま改正へと追い込まれることになった。

しかし、懲りないスイス政府はその代わりに「収容所制度」を制定した。収容所第1号はジュネーブ近くの国境付近に建設され、当初難民は全員ここに収容されてから、国内各地に点在する収容所へと振り分けられるようになった。たいがい健康な若い男子は鉄条網の中に入れられ、ほとんどが過酷な肉体労働を強いられたのである。



●第二次世界大戦中のスイスが人道主義を貫いたという説は今や崩壊した、と歴史家グイード・コラーは語る。

「われわれが調査したところによれば、スイスは、大戦中に保護を求めて押し寄せた3万人以上の難民の入国を拒んだのである。彼らの大多数はユダヤ人だったが、一部それ以外の人種も含まれていた。強制収容所を脱出してきたポーランド人やロシア人の男女、さらにイタリアやフランスの若者などもいた。

スイスの歴史は神話と伝説に満ちている。そのひとつが、スイスは難民政策において積極的かつ人道的であり、中立政策はそこに根拠を置いている、というものであった。しかし、この伝説がいまや崩れ去り、国民は現実を直視すべき時に来ているのである」


●また、特殊利益団体である「スイス・ユダヤ人連盟」の副会長トーマス・リシーも、戦前および戦中のスイスの難民政策は恥ずべきものだと語る。

「スイスはその綺麗で華やかな化けの皮をはがされたわけであるが、それでよかったと私は思っている。その筆頭が『J』スタンプだった。スイス当局はいま、当時の我々の思いがわかったと思われる。3万人以上の難民が追い返されたわけで、彼らが主張していたたった1万人ではなかった。

私の考えでは、スイスは彼らを受け入れられたはずである。そんなことをしたらヒトラーの侵略を招いただろう、と言う人たちもいるが、それは机上の空論にすぎない。全員を受け入れられるだけの余地はあった。スイス以外に逃げ込める場所はないというのに、入国を拒んだのである。どんな運命が難民たちを待ち受けているか知りながら追い返したのである。この難民問題は、スイスの歴史の中の非常に暗い部分である。その暗さは、今日の銀行をめぐる問題以上である」

 

 


 

■■第2章:ナチス御用達の銀行だったスイスの銀行


●「スイス銀行によるナチス政権への財政的援助がなかったら第二次世界大戦は数年早く終息していたであろう」と指摘する人がいる。実際、ナチスの戦争遂行能力の維持に、スイスほど大きな貢献を果たした“中立国”はなかった。


●第一次世界大戦で敗れたドイツの戦争賠償処理を主目的として、1930年にニューヨーク連邦準備銀行をはじめとする世界中の中央銀行が集まって、スイスのバーゼルに「BIS(国際決済銀行)」が設立された。

しかしこの銀行は、ヒトラーの政権掌握以降、アメリカとイギリスの資金がヒトラーの金庫に流入する窓口の役目を果たすようになり、正反対の機能を持つ銀行になった。BISは積極的にドイツへの融資を仲介し、その再軍備を大いに支え、ヒトラーの戦争経済に協力し、必要な財源確保に加担したのである。

 


第一次世界大戦後、ドイツの賠償問題処理のために
1930年にスイスに設立された「BIS(国際決済銀行)」

しかしこの銀行はヒトラーの政権掌握以降、アメリカとイギリスの資金が
ヒトラーの金庫に流入する窓口の役目を果たすようになり、
正反対の機能を持つ銀行になった

 

●第二次世界大戦中、ヨーロッパ諸国間の金融取引は、金と中立国スイスの通貨であるスイスフラン唯一の決算手段として使われていたため、ナチス・ドイツは征服した国々から金を略奪し、「スイス国立銀行」にあるBIS名義の口座に送り込むようになった。

BISや「スイス国立銀行」にとっても、ドイツとの金取引は魅力があり、取り引きは盛んに行われた。戦場では敵味方に分かれて戦っているにもかかわらず、各国の中央銀行の代表たちは、BISがドイツとの取り引きを続けることを容認し続けたのだった。

 


ジョン・フォスター・ダレス

「BIS(国際決済銀行)」の
創立者の1人として活躍した。
ロックフェラー家の一員で、戦後は
アメリカ国務長官を務めた。

 

●BISの初代総裁には、ロックフェラー財閥系の「チェース・ナショナル銀行」の元頭取で、「連邦準備銀行」総裁のマッギャラーが就任した。その後1938年に総裁に就任したアメリカのモルガン財閥の一員であったマッキトリックは、1940年初め「ドイツ国立銀行」を訪れ、BISの役員兼ゲシュタポ高級将校のシュローダー男爵と会談、たとえアメリカとドイツが交戦しても制約なしにBISを存続させ、機能させることに合意したのであった。

イギリスはドイツと交戦状態に入った後でさえ、BISの存続を承認し、イギリス側役員のニーマイアー卿と「イングランド銀行」総裁ノーマンは戦争が終わるまでその地位にとどまっている。

BISの理事の何人かはナチスの人間だったが、スイスは1942年夏以降、保護を求めて流入するユダヤ難民に対してほぼ完全に門戸を閉ざしておきながら、「ドイツ国立銀行」副総裁兼BIS理事だったエミール・プールなどのナチス財務高官たちにはフリー・パスを与えていたのだった。


●1943年5月19日に、『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のような一文を載せた。

「スイスのバーゼルにある国際決済銀行(BIS)では、連合国のスイス、スウェーデン、アメリカと、枢軸国のドイツ、イタリアの銀行家たちが、机を並べて仕事をしている。この戦争の中で敵味方が共同事業を行っているのは筋の通らぬことではないか。一体どのような暗黙の協定があるのか?」


●このナチス御用達の銀行だったBISは、「ブレトンウッズ会議」で解散が決議されていたにもかかわらず解散せず、戦後になってもしぶとく生き残った。ナチス時代にBISの理事を務めた面々は、「イングランド銀行」総裁はじめ、そのまま名誉ある人生を送った。

戦犯に問われたドイツ経済相シャハトらも、連合国の“政策一変”で、早期に釈放され、西ドイツ経済界の重鎮をつとめたり、アメリカの「チェース・ナショナル銀行」幹部に迎え入れられたりした。

 


ヒャルマー・シャハト

ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任し、
ナチスの財布のひもを握った大銀行家。
戦後、ニュルンベルク軍事裁判にかけ
られたが「無罪」の判決を受ける。

 

●一説には、このシャハトは、第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判所に引き出されたとき、「自分は国際決済銀行(BIS)に代表される、国際金融体制の一員として行動していたに過ぎない。もしも自分が裁判にかけられるようなことがあれば、自分は国際金融陣営が『ヒトラー計画』を背後で操っていたことを示す証拠を公開するであろう」と、ニュルンベルク法廷を脅迫したので、アメリカとソ連の裁判官の強い反対を押し切って、釈放、無罪放免とされたとも言われている。

 

 


 

■■第3章:ナチス経済とスイス経済は密接に結びついていた


●大戦中、戦争が進むにつれ、高度技術を駆使したスイスの輸出品はドイツ軍需産業にとって必需品となり、それがベルリンがベルン(スイスの首都)との関係を良好に保とうとした理由のひとつになっていた。

スイス産業界は、軽砲兵器から爆弾の時限装置に至るまで軍事用の製品を各種生産し、ナチス・ドイツに向けて輸出していた。


●スイスの誇るこの高度技術がナチスの戦時体制を支えていた、と語るのは、スイス人歴史家で『スイスとナチス犠牲者の資産』の著者ジャーク・ピカールだ。

「実際のところ、スイスはナチスの軍需産業に貢献していた。具体的には、ドイツの兵器に利用できるような高度技術製品を輸出して利益を得ていたのである。時計がその一例である。時計というのは陸海空を問わず爆弾の時限装置として、さまざまなものに利用できるのだ」



●ナチス経済がスイス経済と密接に結びつき、スイスの企業、銀行、保険会社、法律家たちに依存しながら運営されていたことは、スイスとナチス間の経済協力関係を解明した『セーフヘイブン報告書』によっても明らかにされている。

この、スイスのアメリカ公使館がワシントンの国務長官に送った6ぺージから成る報告書には、スイスがナチスの戦争経済に資金を供給した経緯が事細かく記されている。

報告書によると、ナチスはスイス企業358社に資本参加していたという。そのうちの263社に対して、4億7272万スイスフラン、1949万ライヒスマルク、500万金マルクを投資していたという。

ナチスは卸売、小売、製造、保険など、スイス経済全体に投資の手を拡げていたのだ。


●アメリカ上院銀行委員会の下で働く歴史家マーク・マスロフスキーはこう指摘する。

「スイスはナチスにとって必要不可欠な存在だったのである。いわば通貨の倉庫みたいなものだったからだ。ナチスはごく初期から、スイスの銀行と取引をしていた。ドイツ経済の担い手であった銀行、ブローカー、保険会社は、スイスの企業と手を結んでいた。

要するにドイツが必要としていたものはたったひとつ、強い通貨だったわけである。そして、それを提供できるのはスイス以外にはなく、スイスに手出しさえしなければそれが得られる、と彼らは考えていたのである。ドイツはスイスを取り引き関係の中にずるずると引きずり込むことによって、スイスにノーと言えなくさせたのである。だが、その責任はどちらの側にあるだろうか。スイスである」

 

 


 

■■第4章:ユダヤ人団体に訴えられたスイスの銀行


●第二次世界大戦中にスイスがドイツから買ったり、預かった(ゴールド)は占領した銀行やホロコーストの犠牲者から略奪したものがほとんどだったが、この金の中には強制収容所で死んだユダヤ人の歯から取り出された分も含まれていた。

スイスの銀行はヒトラーの要求で、強制収容所に送られたユダヤ人顧客の口座を凍結し、それを戦後50年間も黙っていたのであった。

 


《 ナチ金塊ルートの一例 》

ナチス・ドイツ軍の攻撃を受けたベルギー政府は、
当時ヨーロッパ一といわれた保有金塊をフランスへ移転。
フランス政府はドイツ軍がパリ間近に迫ると、これを自国所有の
西アフリカのダカールへ送った。フランス降伏後はヴィシー政権の
対独協力により、金塊は川船とラクダに積まれてサハラ砂漠を縦断し、
航空機でマルセイユへ運ばれた。そこからベルリンへ送られ、
大半はスイスの首都ベルン(スイス銀行)ヘ運ばれた。

 

●1996年、アメリカのユダヤ人団体が中心となって、スイスの銀行に対して、ナチス犠牲者の休眠口座の金の返却を求める集団訴訟が始まった。休眠口座は少なくとも3200万ドル相当あるといわれた。

非難はスイスの民間銀行にとどまらないで、金塊を買うことでナチス・ドイツに協力したスイス国立銀行の「ナチの金塊」問題、果てはスイスの中立批判へと、どんどん拡大していった。


●この動きに慌てた「スイス・ユニオン銀行」は、ホロコースト関係の資料をひそかに処分しようとして、警備員クリストフ・マイリに告発された。しかもロベルト・ステューダー会長がテレビでこの警備員を非難したので、「スイス・ユニオン銀行」はごうごうたる批判にさらされた。この銀行の反ユダヤ的な性格が明らかにされたのである。

※ ちなみにこの「スイス・ユニオン銀行」はナチスを支援した「I・G・ファルベン社」の遺産で大きくなった銀行である。


●スイスのドラミュラ大統領は、任期切れ直前の1996年12月末、かかる非難は「脅迫」、一種の「身代金要求」に等しい、ユダヤ人の要求に屈するな、スイスに罪はなかったし、我々はサバイバルの正当な権利を持っていた、と言い放った。

 


スイスのジャン=
パスカル・ドラミュラ大統領

「ユダヤ人の要求に屈するな」などと発言し、
各国のユダヤ人団体から猛反発をくらった

 

●このドラミュラ大統領の発言をスイスの本音と受け取った「ユダヤ機関」をはじめ各国のユダヤ人団体は猛反発して、スイスの銀行に対するボイコットを開始。

米国20以上の州や30の自治体は「スイス銀行制裁決議」(取り引き停止を含む)を決め、ボイコットは銀行に対してだけでなく、スイス企業全体に及ぶことになった。

この影響で1997年1月初旬には、「スイス・ユニオン銀行」など主要銀行の株価が急落した。この動きに驚いたスイス金融界は、3億スイスフランの「ホロコースト基金」を設立し、被害者の慰謝料の支払いを決めた。


●一方、スイス政府(新大統領コラー)は、戦時中にナチスと協力関係にあったことを認め、スイス国立銀行の所有する金塊500トンを売却し、その売却資金で現在の戦争、紛争、自然災害の被害者を援助する「連帯基金」の設立案を発表した(1997年3月)。

 


1997年に就任したスイスの
アーノルド・コラー大統領

ユダヤ人団体に対し、戦時中にスイスは
ナチスと協力関係にあったことを公式に認めた

 

●その後、スイスの銀行はユダヤ人団体および連帯訴訟弁護団との交渉に公式に応じ、銀行側が12億5000万ドルの賠償金を支払うことで、今後一切この問題を取り上げないことを条件に両者は合意したのであった。



●ところで、この一連の騒動についてスイス国民の多くは強い不満を抱いていた。

1997年に行われた『ブリック』紙によるアンケート調査によると、ユダヤ人の要求を「正しい」と受け止めた人が29%だったのに対し、要求を「不当だ」と答えた人が44%にのぼった(残りの人は「分からない」と答えた)。

大方のスイス国民の反応は、結局謝罪を余儀なくされたドラミュラ大統領の発言についてはスイス人の無邪気さだと受け流す反面、50年以上前の問題を蒸し返すユダヤ人の補償要求のほうが無理なのであって、多数派社会をいらだたせる分かえって「反ユダヤ主義」を挑発・強化するだけだと憂慮する声のほうがずっと強かったのである。

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:ナチスに協力していた「国際決済銀行(BIS)」の戦争責任


●第2章で紹介した、ナチスに協力していた「国際決済銀行(BIS)」の戦争責任について、もっと詳しく知りたい方は、ジャン・トレップ著『国際決済銀行の戦争責任 ─ ナチスと手を組んだセントラルバンカーたち』(日本経済評論社)を読まれるとよいだろう↓

 


『国際決済銀行の戦争責任 ─
ナチスと手を組んだセントラルバンカーたち』
ジャン・トレップ著(日本経済評論社)


── この本の内容 ──


第一次世界大戦敗戦国ドイツの戦争賠償処理を主目的として設立されたBIS(国際決済銀行/Bank for International Settlements)は、第二次大戦中、ヒトラーの第三帝国の戦争経済に協力し、必要な財源確保に加担した。

ルーズベルトはBISの解体になぜ最後まで同意しなかったのか。チャーチルはドイツ打倒の旗を掲げながら、なぜBISの存続を望んだのか。BISが公開した報告文書を基に戦時中の金取引の全容を解明する。


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──


●現在、BISは、各国中央銀行間での重要な国際金融問題に関する政策協議の場となっている。また中央銀行からの預金の受け入れなどの銀行業務も行っており、「中央銀行の中央銀行」とさえ呼ばれている。

日本においてBISは、1988年に始まった「BIS規制」でその名が広く知られている。

※「BIS規制」とは、簡単に言ってしまえば、バブル経済に乗って急速に資産を増やした日本の銀行を標的にした規制で、「日本の金融機関の弱体化」を念頭に入れたアメリカ中心の日本叩きである。日本の金融機関は、この「BIS規制」に縛られて貸し渋りすることになり、ついには日本の経済システムが崩壊する結果となったのである。


●「BIS規制」の実態については下の本が詳しい↓

 


『BIS規制の嘘 ─ アメリカの金融戦略と
日本の転落』東谷暁著(日刊工業新聞社)


── この本の内容 ──


「BIS規制」は、アメリカのアメリカによるアメリカのための規制だった。そして、この規制を受け入れた日本が行き着いた先は……。日本の金融界を地獄の底へと導いた、自己資本比率規制の「実像」を鋭くあばく、注目の1冊。

 

 


 

■■おまけ情報 2:『黒いスイス』について


●毎日新聞外信部ブリュッセル(ベルギー)支局長の福原直樹氏が書いた『黒いスイス』(新潮社)という本は、興味深い情報が詰まった本である。

表紙の裏には次のような文章が書かれてある↓

「永世中立国で世界有数の治安のよさ。米国などを抜き、常に『住んでみたい国』の上位に名を連ねる国、スイス。しかしその実態は──。『優生学』的立場からジプシー(ロマ族)を殲滅しようと画策、映画『サウンド・オブ・ミュージック』とは裏腹にユダヤ難民をナチスに追い返していた過去、永世中立の名の下に核配備計画が進行、“銀行の国”でまかり通るマネーロンダリング……。

独自の視点と取材で次々と驚くべき真相を明かす。」

 


『黒いスイス』
福原直樹著(新潮社)

 

●参考までにこの本の「目次」を下に載せておきたい↓

興味のある方は一読をお勧めします。


◆第1章: ロマ(ジプシー)の子供を誘拐せよ (ロマの子供1000人以上を誘拐)

◆第2章: 「悪魔」のスタンプ (ユダヤ難民の旅券に押された「J」スタンプ)

◆第3章: それぞれの戦い ─「祖国」と「人道」の狭間

◆第4章: 中立国の核武装 (核弾頭400個もの配備計画)

◆第5章: 理想の国というウソ1──「相互監視」社会 (政府が堂々と監視・盗聴)

◆第6章: 理想の国というウソ2──民主主義社会 (政府公認の麻薬配付施設が20ヶ所以上)

◆第7章: 理想の国というウソ3──ある政治家との対話

◆第8章: マネーロンダリング (外国人の税金逃れ預金は約150兆円)

 

 


 

■■おまけ情報 3:「武装中立国」スイスの“したたかなサバイバル戦略”に学ぶ


●スイス関係の本で、この2冊もオススメである↓

平和ボケしている日本人にとって、目からウロコの内容であろう。

 


『民間防衛 ─ あらゆる危険から
身をまもる』スイス政府編(原書房)


── この本の内容 ──

この本はスイスの独立と平和を守れるよう、
スイス政府自らが編集し、全スイス国民に配布した
「マニュアル本」である。内容は戦時中の避難方法から
占領された後のレジスタンス活動方法まで、非常に多岐に
 わたっており、日本では原書房から翻訳が出版されている。

 ※ この『民間防衛』に日本人が学ぶことは非常に大きいと思う。


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──



『スイスと日本 ─ 国を守る
ということ』松村劭著(祥伝社)


── この本の内容 ──

強国に囲まれたスイスが平和でいられた理由とは?

スイスが守ってきた2つの国是「永世中立」と「民間防衛」
についてや、スイスの国防観と日本の自衛観の違いなど、
スイス人が教える「平和の常識」を解説した本である。


《スイス人が教える平和の常識》

なぜ、スイスは「武装中立」を選ぶに至ったのか?

◆第1章:「永世中立」と「民間防衛」:スイスが守ってきた2つの国是
 なぜ、戦争がなくならないのか?

◆第2章:スイスの国防観、日本の自衛観
 なぜ、日本人の「和の精神」が非民主的なのか?

◆第3章:スイスが具現化した真の民主主義
 なぜ、スイス兵は最強なのか?

◆第4章:したたかなスイス人
 なぜ、「国境が国防線」であってはいけないのか?

◆第5章:「海洋国家」と「大陸国家」…それぞれの「国防線」

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

『ホロコースト産業』について 

ナチスとアメリカ企業の協力関係 

 


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