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No.a6fhe511

作成 1998.4

 

戦争中、日本は世界一の民主国であった

 

 

ヘブライ大学の有名なユダヤ人教授、ベン・アミー・シロニー博士は、1982年に出した著書『天皇陛下の経済学』(光文社)の中で次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 

 
ヘブライ大学のベン・アミー・シロニー博士

大の親日家で、日本に関する本を多数出している。
ヘブライ大学で、毎年500人を超える学生たちに
日本の歴史と文化を講義している。

 

※注意:

多分、このファイルのタイトルを見て、
「そんなはずはない!」と強い反発を感じる人は少なくないと思いますが、
内容の正否はともかく、「こういう考えを持っている親日のユダヤ人学者
この世に存在している」ということだけでも記憶にとどめてもらえれば、幸いです(^^;

あくまでも“参考”程度に読んで下さい。


※以下の文章は、『天皇陛下の経済学』ベン・アミー・シロニー著(光文社) 
  P131〜136 から抜粋したものです (画像は当館が独自に追加)。

 


 

■大東亜共栄圏とドイツ第三帝国


1930年代と1940年代の日本の戦争は、ナチスドイツのやり方とよく比較される。

両者とも第二次世界大戦で結束して戦ったため、日本は「東洋のナチス国家」という印象を西洋に与えたようだ。

だが、両者が非常によく似た点をもっていたとはいえ、戦時下の日本は、戦時下のドイツとはまったく違っていた。というのも、日本は戦闘を続けながらも、ドイツのもっていなかった多くの抑制をまだ保ちつづけていたからである。

 

 

 

ナチスと日本の政治姿勢の違いは、占領下の人々にどう対処したかによく現われている。日本は過酷な戦いを挑みながらも、少なくとも公式上の扱いは、まるで兄弟のようであった。

日本の声明、宣伝は、日中戦争を、まるで兄である日本が弟である中国に教訓を与えるために懲(こ)らしているのだと説明した。日本政府の目的は、占領下にあるアジアの国民との兄弟的な交わりをもつことであるといった。

このやり方は、ヨーロッパの、非アーリア人種を従属させ、奴隷にし、時には絶滅をはかるという、ナチスドイツの基本方式とは、まったく異なっていた。日本人が中国やフィリピンで、人道を逸した行為をした時でさえ、ナチスなみの計画的大量虐殺などという発想はみじんももっていなかった。この意味で、日本の大東亜共栄圏構想は、ドイツ第三帝国とは根本的に異なっていた。だからこそ、アジア諸国の民族主義運動の多くの指導者は、日本が西洋帝国主義との絆を断ち切ってくれるという確信のもとに、日本人に対し協力的であったのである。

 

■戦争中、日本は世界一の民主国であった


ナチスドイツと戦時下の日本との最大の相違点は、両者の国内統治体制にみられる。

ドイツでは、政府、政党、秘密警察が、国民に権力をふるい、人々を裁判もせず投獄し、殺していた。

国民全体が、独裁者ヒトラーのもとで支配されていた。独裁者の権力は、無限であり、その威光は、最高をきわめていた。ヒトラーの判断は法律以上の力をもっており、すべての兵士や党員は、それぞれがヒトラーに対して忠誠を誓った。

 


アドルフ・ヒトラー

 

日本の場合はそうではない。明治時代に発達した政治体制は、変化しなかった。憲法は廃止されずにそのまま維持され、帝国議会は、戦時中も事あるごとに開かれた。1942年に、日本で普通選挙が行われるようになり、大政翼賛会の候補者に加えて多くの無所属議員が出馬し、当選したりもした。

カリスマ的指導者や独裁者は、日本には出現しなかった。当時の西洋のマス・メディアが、「東條英機首相は、日本のヒトラーだ」と誇張して報道してはいても、それはあくまでも事実をふまえたうえでの報道ではなかった。

 


東條英機

 

東條は最高責任者であったが、彼はヒトラーの権威も権力ももっていなかった。東條は当たり前のように有力者となっていき、戦時中、批判が高まると、当たり前のように権力の座から引きさがった。

東條は国家の主権者でもなく、総司令官でもなかった。東條は陸軍や海軍の参謀本部に指図する権限はなく、自分の見解に反対の大臣たちを追放することはほとんど不可能であった。

東條は、ヒトラーやムッソリーニという同盟国の独裁者たちよりわずかな権力しかもっていなかっただけでなく、軍隊に命令を下すことのできたルーズベルトやチャーチルのような敵国の民主主義者たちの権力さえももっていなかった。スターリンや蒋介石と比べる必要は、もはやないであろう。

日本は第二次大戦中、正当な合法的方法で内閣が二度変わった唯一の主要戦闘国であった。

ヒトラーやムッソリーニやスターリンが、暴動が起こることもなく、流血もなく、拘引されることもなしに、全面戦争の真っ最中に権力の座から降りることができようとは、誰が考えるだろうか。東條が辞職したときには、誰も殺されることも拘引されることもなかったのである。

独裁者の国ではよく起こるような、後継者たちの非難も東條に対してはなされなかった。その後も東條は、つねに尊敬されるべき国民であり、天皇に助言を与えるべき人物であったのである。

 

■「政治犯収容所」のなかった日本


戦争状態が続き、民主主義の色が徐々にうすくなってきても、日本は、ヨーロッパの圧制に苦しむ国々とは、歴然と違っていた。日本には「政治犯収容所」はなく、日本人が自分の信条のために処刑されるということは滅多になかった。左翼の人が捕らえられても“転向”すなわち考えを改めさえすれば、速やかに釈放された。転向を拒否した人々は留置されたままであったが、その人数はそれほど多くはなかった。

戦争が終わったとき、日本の獄中にいた政治犯は、スパイの容疑者や、根っからの共産党員を含めて、たった2500人しかいなかった。もちろん彼らは、無傷で釈放されたのである。

収容されていた人々が監獄で死んだこと、とくに食料不足や爆撃のあった終戦の年に多数死んだことは事実であるが、政策的な政治犯殺害計画などは、日本では一度も存在しなかった。

憲兵や特高(特別高等警察)は、国策に反対する人々を弾圧しようとしたが、その力も社会のすみずみにまではおよばなかった。憲兵や特高はそれぞれ陸軍や内務省の管轄下にあり、ドイツの秘密警察ゲシュタポやロシアのKGB(国家保安委員会)のような独立した権力をもっていなかったのである。

どの国であっても、最高職につく人材は、権力の基盤を築ききってしまわないうちに、危機にみまわれる。日本の場合にも、東條政権の最初の時期に、彼に反対の動きがあった。そうした動きが彼の地位を危うくさせたとき、特高はこれを鎮圧して東條政権を守る力をもっていなかったのである。

 

■降伏時に示された武士道


こうした日本国内をおおっていた抑制は、日本降伏の時にも如実に現われた。

日本軍は、何年もの間、決して降伏に応じず、恥ずべき敗北より栄誉の戦死を選ぶよう教育されていた。この教育を受けた兵士たちの戦法が、実戦では玉砕、特攻隊、そして“カミカゼ”となって現われた。これは、軍全体、国全体が一丸となり、命令されれば死をも覚悟で戦う決意であることを示している。

ところが、いったん政府が降伏を決定すると、狂信的な軍部は再び徹底して命令にしたがった。すべての戦場で、敗北の経験のなかった中国においてさえ、日本の将校や兵士は武器を置き、敵にみずからを受け渡し、いつでも死ぬ覚悟をもったのである。

戦争機械(ウォー・マシン)となって働いていた日本人のこの豹変ぶりは、日本人が降伏するなど考えもおよばなかったアメリカ人を驚愕させた。降伏という日本の決定は、雄々しい死を選ぶ武士道の伝統を否定するものと思われたからだ。

当時のアメリカ人の見解は、的を射ていなかった。日本の降伏のあり方こそ、死を覚悟せねばならぬ武士道の発露であり、また自己抑制の極致ともいうべきものであっただろう。これは日本の伝統の一環ではなかったか。

90年前、ペリーの軍艦が日本に向かってきたとき、日本人は体裁も感情も捨てて国を守りぬいた。日本降伏の様子もこれと通じているのではないだろうか。

 

以上、ベン・アミー・シロニー著『天皇陛下の経済学』(光文社)より

 

 

 


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