ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a4fha200
作成 1998.1
第1章 |
アシュケナジムとスファラディム |
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第2章 |
アーサー・ケストラー以前から存在する
「ハザール系ユダヤ人問題」 |
第3章 |
ハザール王国に対する
欧米歴史学者の評価 |
第4章 |
「ハザール系ユダヤ人問題」に
関する注意点 |
第5章 |
1992年に発見された
ハザール王国の首都イティルの遺跡 |
追加 |
アゼルバイジャン初の乗用車ブランド
「ハザール」についての情報 |
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おまけ |
当時の西欧系ユダヤ人たちによる
ハザール王国に関する記録 |
おまけ |
イスラエルは東欧系ユダヤ人の
「ガリチア人」が支配している |
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■■第1章:2種類のユダヤ人 ─ アシュケナジムとスファラディム
●なぜか不思議なことに「ユダヤ人」という語の定義は、学問的にも政治的にも非常にあいまいな状態に置かれている。
このテーマを取り上げると必ず、「ユダヤ人という民族はそもそも存在しないのだ」とか「ユダヤ人は人種ではなく、ユダヤ教に改宗した者がユダヤ人になるのである」という主張が一般の研究者の間から出て来る。彼らはそれを主張してやまない。
●ユダヤ人国家イスラエル共和国においてはどうかというと、移民に関する法律「帰還法」において「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という定義を正式に採用している。しかし、本人がユダヤ教徒でなくても、母親がユダヤ人ならばユダヤ人であるが、母親が非ユダヤ人である場合、父親がどうであろうと本人はユダヤ人ではないという、チンプンカンプンでややこしい定義になっている。
ちなみにユダヤ人が他の宗教へ改宗した場合、ユダヤ教ではその人を終生ユダヤ人とみなすという。
(左)イスラエル(パレスチナ地方)の地図 (右)イスラエルの国旗
●いずれにせよ彼らの定義に従えば、他の民族が「ユダヤ人」になるには、ユダヤ教に改宗すればいいわけで、インド人でも黒人でもユダヤ教に改宗してユダヤ人になろうと思えばなれるというわけだ。しかし、ユダヤ教に改宗するためには聖書やヘブライ語を学ぶほか、ユダヤ教の宗教法に従って、ラビ(導師)の指導を受けながら、改宗の手続きを取っていくのだが、審査は非常に厳しいという。
実際に日本ではおもに結婚を理由に、男女合わせて数十名がユダヤ教に改宗しており、最近では名古屋市の牧師が、宗教的信条ゆえにユダヤ教に改宗した例もある。もっとも、ユダヤ教は伝道活動をしないので、改宗者が大幅に増えることはないという。
イスラエルのユダヤ教徒たち
●ところで、ノーベル賞受賞者の3分の1以上はユダヤ人といわれているが、マルクス、フロイト、アインシュタイン、スピルバーグなどなどといった数多くの有名ユダヤ人たちは、不思議なことにほとんど白人系のコーカソイドである。一体どうして世の中には「白人系ユダヤ人」が数多く存在しているのか? 本当のユダヤ人は白人では決してないはずである。
左から、カール・マルクス、ジークムント・フロイト、
アルベルト・アインシュタイン、スティーブン・スピルバーグ
●『旧約聖書』に登場するユダヤ人に白人は1人もいない。彼らは人種的に「セム系」と呼ばれ、黒髪・黒目で肌の浅黒い人々であった。モーセやダビデ、ソロモン、そしてイエスもみな非白人(オリエンタル)だったと記述されている。
↑英BBCの科学ドキュメンタリー
番組『神の子』が最新の科学技術を駆使
して復元したイエス・キリストの顔
(中東男性の顔つきをしている)
※ 詳細はココをクリック
●一般にユダヤ社会では、白人系ユダヤ人を「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼び、オリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人を「スファラディ系ユダヤ人」と呼んで区別している。
※ アシュケナジー(アシュケナージともいう)の複数形は「アシュケナジム」で、スファラディの複数形は「スファラディム」である。
●アシュケナジーとはドイツの地名にもなっているように、もとはアーリア系民族の名前であった。一方、スファラディとはもともと「スペイン」という意味だが、これは中世ヨーロッパ時代のユダヤ人たちの多くが地中海沿岸、特にイベリア半島(スペイン)にいたことに由来している。
8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8~9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったい何が起きたのか?
↑離散ユダヤ人の状況(紀元100~300年)
※ この時期にはまだ白人系ユダヤ人(アシュケナジム)は存在していない
●自らアシュケナジー系ユダヤ人であった有名な思想家アーサー・ケストラーは、「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦した。彼は若い頃からユダヤ問題に関心を持ち、シオニズム運動に参加し、ロンドン・タイムズのパレスチナ特派員を経て、1957年にはイギリス王立文学会特別会員に選ばれていた。彼は白人系ユダヤ人のルーツを丹念に調べ、1977年に最後の著書として『第13支族』を著した。彼は白人系ユダヤ人のルーツはハザール(英語で「Khazar」、カザールともいう)王国にあると主張した。
※ このケストラーの『第13支族』が出た当時、世界的に有名な新聞などがこの著書を絶賛してやまなかった。この本は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色の書で、その内容は世界史の常識・認識を根底から揺さぶるほどの問題作であり、あまりの衝撃ゆえ、翻訳出版を控えた国も出た。(1983年3月にケストラーが夫人とともに謎の自殺を遂げた時、当時の新聞の死亡記事に記載された彼の多くの著作リストの中には、この『第13支族』は省かれていた……)。
(左)ハンガリー出身のユダヤ人アーサー・ケストラー
(右)1977年に出版された彼の最後の著書『第13支族』
※ 彼はこの本の中で白人系ユダヤ人のルーツは
「ハザール王国」にあると主張した
■■第2章:アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」
●一般にハザール系ユダヤ人問題といえば、先に紹介したアーサー・ケストラーが有名である。しかし、彼は最初の「発見者」ではない。アーサー・ケストラーよりも前に、既に多くの人がハザール系ユダヤ人問題をとりあげていた。(あまり知られていないようだが……)主な人物を紹介しよう。
「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって
カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。
9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない
ユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。
●イスラエル建国以来、一貫して反シオニズムの立場に立つジャーナリスト、アルフレッド・リリアンソール。彼の父方の祖父はアシュケナジー系ユダヤ人で、祖母はスファラディ系ユダヤ人であった。彼はアーサー・ケストラーの本よりも2、3年も早く『イスラエルについて』という本を書き、その中で東欧ユダヤ人のルーツ、すなわちハザール人について以下のように述べている。
「東ヨーロッパ及び西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な先祖は、8世紀に改宗したハザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執着を支える一番肝心な柱を損ねかねないため、全力を挙げて暗い秘密として隠され続けて来たのである。」
ユダヤ系アメリカ人のアルフレッド・リリアンソール。
反シオニズムの気鋭ジャーナリストであり、中東問題の
世界的権威である(国連認定のニュースレポーターでもある)。
●古典的SF小説『タイムマシン』の著者であり、イギリスの社会主義者H・G・ウェルズ(1866~1946年)は『歴史の輪郭』の中で次のように述べている。
「ハザール人は今日ユダヤ人として偽装している」
「ユダヤ人の大部分はユダヤ地方(パレスチナ)に決していなかったし、またユダヤ地方から来たのでは決してない」
有名なイギリス人小説家
H・G・ウェルズ
●ハーバード大学のローランド・B・ジャクソン教授は、1923年に次のように記している。
「ユダヤ人を区別するのに最も重要な要素は……ハザール人の8世紀におけるユダヤ教への改宗であった。これらのハザール人にあって……私たちは東ヨーロッパのほとんどのユダヤ人の起源を、十中八、九までここに見出すのである。」
●イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエルが建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
「……これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫──その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者──が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ……」
●このように、ハザール系ユダヤ人問題はアーサー・ケストラー以前から存在しているのであり、決してアーサー・ケストラーが最初の「発見者」ではないのだ。しかし、ハザール系ユダヤ人問題を多くの人に知らしめたという点において、彼は大きな功績を残したといえよう。
●ちなみに自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていたユダヤ人学者のN・M・ポロックは、1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にカスピ海沿岸(コーカサス地方)のステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。
イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。
↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域
※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は
5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれる
↑上はアダムからノアの3番目の息子ヤペテ(コーカソイド)の子孫までの血統図であるが、
ヤペテの子孫に「アシュケナジー(アシュケナズ)」という民族名が含まれていることが分かる。
このように「アシュケナジー」という呼称はもともとは『旧約聖書』にルーツがあり、「ハザール」
という呼称はアシュケナジーの弟にあたるトガルマの7番目の息子の名前が由来となっているのだ。
※ ちなみにコーカソイドとは世界三大人種の一つで「コーカサス出自の人種」という意味である。
現在、コーカサス地方に残っているコーカサス系ユダヤ人(別名「山岳ユダヤ人」)は、
20世紀になってから、同化や移住によって少数派となっており、主にロシアや
イスラエルに分散している。特にイスラエルでは他のユダヤ系移民との
融合が進んでいる一方で、依然として独自の文化や伝統を持つ
「山岳ユダヤ人」コミュニティも存在している。
●ここでもう1人、ナイム・ギラディというユダヤ人についても紹介しておきたい。
彼はかつてイスラエルで活躍していたジャーナリストである。彼は典型的なスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジム)を見て大変とまどったという。
イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。
(左)元イスラエルのユダヤ人ジャーナリスト
ナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディムである。
(右)彼の著書『ベングリオンの犯罪』
●彼は1992年秋、スファラディムを代表する一人として日本各地を講演して回った。彼は講演で次のように語った。
「イスラエルでは本当のユダヤ人たちが、どれほど惨めな生活を強いられていることか……アシュケナジムを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、スファラディムすなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。
……まだイスラエルにいた当時、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。なぜならば、アシュケナジムとあなたがたパレスチナ人の間に、私たちスファラディムがいるからだ。そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである……』」
イスラエルのアシュケナジー系の政治家が、スファラディ系ユダヤ人に対して
「差別発言」をしたことを伝える記事(1997年8月3日『朝日新聞』)
●イスラエル共和国を去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)で素直な気持ちを述べている。
(左)ユダヤ人女性のルティ・ジョスコビッツ
(右)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)
※ この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
ドキュメント・ファイル大賞」を受賞
「イスラエルにいたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。しかし彼らがユダヤ教徒だと聞いたとき、私のユダヤ民族の概念は吹っ飛んでしまった。
同じように黒人がいた。アルジェリア人がいた。イエメン人がいた。フランス人がいた。ポーランド人がいた。イギリス人がいた。まだ会ってはいないが中国人もいるそうである。どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。〈中略〉私の母はスラブの顔をしている。父はポーランドの顔としかいいようがない。私もそうなのだ。」
「私はイスラエルで一つの風刺漫画を見た。白人のユダヤ人がイスラエルに着いたら、そこは純粋なユダヤ人の国だと説明されていたのに、黒人もアラブ人もいたのでがっかりした、というものだ。この黒人もアラブ人もユダヤ教徒だったのだ。彼は自分の同胞に有色人種がいたので、こんなはずではないと思ったのである。」
↑西インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)で生活する
「ベネ・イスラエル」と呼ばれるインド系ユダヤ人(1890年)
※「ベネ・イスラエル」とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉で、
ヘブライ語では「イスラエルの子」を意味する。この共同体はインドの
約1500年前にまで遡り、その中心はムンバイとコーチンであった。
■■第3章:ハザール王国に対する欧米歴史学者の評価
●カール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠した頃(800年)、ヨーロッパの東の境界地帯であるコーカサスとヴォルガ川の間は、ハザール王国によって支配されていた。その勢力の絶頂期は7世紀から10世紀にかけてであり、それは中世ヨーロッパの運命、その結果としての近代ヨーロッパの運命をも左右する重要な役目を果たしたのだった。
欧米の歴史学者はキリスト教側からの視点で、このハザール王国が果たした役割を高く評価している。
※ アラブの歴史学者だったらイスラム教側からの視点で、また違った評価を下すであろう。
●ハザール史の指導的権威であるコロンビア大学のダンロップ教授は、次のように述べる。
「ハザール国は……アラブの進軍の前線を横切るような位置にあった。モハメッドの死(632年)の数年後、カリフの軍は2つの帝国を残骸と化して嵐のように通り抜け、すべてを奪い去り、コーカサスの大障壁に達した。この障壁を越せば西ヨーロッパヘの道が開けている。にもかかわらず、このコーカサスの地で組織的な兵力がアラブ人を迎え撃ち、彼らの長征がこの方向へ伸びるのを防いだのである。100年以上も続いたアラブ人とハザール人の戦いはほとんど知られていないが、このような歴史的重要性を持つのである。
カール・マルテルに率いられたフランク人はツールの平野でアラブ人の侵攻の潮流を変えた(732年のトゥール・ポワティエ間の戦い)。同じ頃、ヨーロッパに対する東からの脅威もそれに劣らず大きかったが、勝ち誇るイスラム教徒はハザール王国の軍に押し止められた。コーカサスの北方にいたハザール人の存在がなければ、東方におけるヨーロッパ文化の砦であるビザンチンはアラブ人に包囲され、キリスト教国とイスラム教国の歴史は今日我々が知っているものとは大きく違っていただろう。それにはほとんど疑いの余地はない」
●旧ソ連の考古学者で歴史学者のアルタモノフもダンロップ教授と同じ見解を示している。イスラム勢力の侵攻を防いだハザール王国は、結果的に、ヴォルガ川、ダニューブ川、そして東ヨーロッパそのものへの東の出入口を守った、と。
「9世紀に至るまで黒海の北、隣接する草原地帯とドニエプル川の森林地帯でハザール王国にかなう者はなかった。1世紀半にわたってハザール王国は東ヨーロッパ南半分の並ぶ者なき王者であり、アジアからヨーロッパへ通じるウラル=カスピ海の出入口を守る強力な砦となっていた。その期間、彼らは東からの遊牧民の猛襲を押し戻していたのである」
「ハザール王国は東ヨーロッパ最初の封建的国家で、ビザンチン帝国やアラブ・イスラム教国にも匹敵する。ビザンチン帝国が耐えられたのは、コーカサスへのアラブの潮流をそらせた強力なハザール王国の攻撃あってのことである」
●『ハザール 謎の帝国』(新潮社)を書いた旧ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士も同じ見解を示している。
「ハザール王国はヨーロッパ東部諸国の歴史に大いなる役割を演じた。アラブの侵略を守る盾の役割である。盾といっても単なる盾ではない。他国の民なら名を耳にしただけでも震え上がる猛将が率いる、無敵のアラブ軍の攻撃を何度も何度も撃退した盾である」
「ハザール王国の役割は、ビザンチン帝国にとってもかけがえないものであった。ハザール王国と戦争を遂行するため、アラブ軍はその大勢力をビザンチン帝国との国境から常に遠ざけざるを得なかったのである。ハザール対アラブ戦役が続行される間は、ビザンチン帝国側はアラブ側に対し、ある程度であるとしても軍事上の優位を保持し続けたのである。カリフ神権体制国の北辺を侵すようにハザール王国をけしかけたのは、ほかならぬビザンチン帝国であり、それも一度にとどまらなかったことは疑いを入れない」
『ハザール 謎の帝国』
S・A・プリェートニェヴァ著(新潮社)
●オックスフォード大学のロシア史の教授ドミートリ・オボレンスキーも次のように述べている。
「北に向かったアラブ人の侵略に対してコーカサスの前線を守りきったことが、ハザール人の世界史への大きな貢献である」
■■第4章:「ハザール系ユダヤ人問題」に関する注意点
●長い間、謎とされてきた「ハザール王国」──。
しかし、学術的な分野での研究は着実に進んでおり、様々な実態が明らかにされ続けている。今後、ますます「ハザール王国」を研究する学者や研究機関は増え、「ハザール王国」の実態はさらに解明されていくだろう。一般人の間でも「ハザール王国」の知名度は急速に高まっていくだろう。
こうした傾向は歓迎すべきことだが、ある問題に関して懸念していることがある。
それについて、簡単にまとめてみたい。
↑9世紀末あたりからルス人(後のロシア人)の艦隊がハザールの海「カスピ海」沿岸を
侵略するようになった。913年に800隻からなるキエフ大公国の大艦隊がやってくると、
事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によってルス人たちは
カスピ海に足場を築いた。965年にはキエフ大公国のスビャトスラフ1世によりハザールの防衛拠点
「サルケル砦」が陥落してしまった。この後、ハザール王国の首都イティルも甚大な被害を受けた。
●祖国を失ったハザール人は、“ユダヤ人”として生きることになった。もちろん、中にはオリジナル・ユダヤ人と混血した人もいるだろう。ハザール王国時代、地中海やオリエント出自のユダヤ人(オリジナル・ユダヤ人)が流入していたことは否定できない。しかし、それはごくごく少数の集団であった。ハザール王ヨセフ自身が明らかにしたように、彼らは自分たちがセム系ではなく、非セム系(ヤペテ系)の「ゴメルの息子」にルーツを持っていることを自覚していた。
現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上がアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジム)だが、彼らの大部分は『旧約聖書』に登場する本来のユダヤ人とは全く関係のない異民族といえる。
●しかし、個人的に彼らを単純に「ニセユダヤ人」と表現することには抵抗がある。
なぜなら、彼らは長期にわたって“ユダヤ人”として生き、オリジナル・ユダヤ人と同じ「キリスト殺し」の汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たわけであり、同情に値するからだ。その思いはユダヤ問題と絡めてロシア・東欧の歴史を再検証してから、ますます強まった。彼らがロシア・東欧地域で体験してきた悲惨な歴史を知れば知るほど、本当に悲しい気分になる……。
↑ロシアの巨大なゲットーと呼ばれる「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」
この地図の中の「定住地域」がちょうど「ハザール王国」が存在していた場所と
重なっていることに注目。1791年から1917年までの間、ユダヤ人のみ移動する
ことが禁じられていた区域である(この定住地域には1897年までに500万人以上の
ユダヤ人が住んでいたが、定住地域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた)。
※ このロシアの「定住地域」は英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている。
(詳しくは「ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史」をご覧下さい)
●1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)により、東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティは大きな打撃を受け、その多くが壊滅した(貴重なハザール王国の痕跡が残る東欧のユダヤ文化はほぼ失われてしまった)。現在、東欧系ユダヤ人にとって「シュテートル」(後述)は、失われた思い出多き町や郷愁を豊かにかりたてる世界を悲しく思い起こさせる言葉となっている。
(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗
↑ナチス・ドイツが占領したソ連内最大の領土(1941~42年)
※ 東欧のユダヤ人はナチス・ドイツの反ユダヤ政策によって最も多くの犠牲者となった。
しかも彼らはその故郷ともいうべき東欧で殺戮された。東欧のユダヤ人はともに300万人
以上がいたポーランドとロシアが中心だった。アウシュヴィッツに代表されるナチスの
絶滅収容所はドイツ国内ではなく、全てドイツ占領下のポーランドにあった。
アウシュヴィッツ収容所
「アウシュヴィッツ」はドイツ名であり、ポーランド名は「オシフィエンチム」。
現在のポーランド領オシフィエンチム市郊外に位置する。「アウシュヴィッツ収容所」は
「第一収容所」、「第二収容所(ビルケナウ)」(1941年建設)、「第三収容所(モノヴィッツ)」
(1942年建設)に区分され、それ以外に38の「外郭収容所」や「付属収容所」があった。
「第一収容所」はポーランド軍兵営の建物を再利用したもので、SS長官ヒムラーの指令
により1940年4月に開設され、最初の囚人はポーランド人政治犯だった。
アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)
※「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、
ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定の
ために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。
主に標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、
ロマ、共産党幹部、知識人だった。
※ 別名「移動虐殺部隊」とも呼ばれる「アインザッツグルッペン」は
主要なAからDまでの4個部隊を中心に行動した。彼らの虐殺行為の多くは
集団処刑(銃殺)という形で行われ、遺体は集団墓地や穴に投げ込まれた。
アインザッツグルッペンに殺害された東欧のユダヤ人の数は約120万人
と推定されている。ちなみにアインザッツグルッペンは複数表記で、
単数形はアインザッツグルッペ(EINSATZGRUPPE)となる。
●ところで、一般に「ユダヤ人」という「人種」は存在しないとされている。ユダヤ教を信仰していれば、誰でも“ユダヤ人”であるという。つまり、ユダヤ人とは宗教的な集団=「ユダヤ教徒」を意味するというわけだ。だから、ルーツが別民族であっても、ユダヤ教を信仰していれば、立派な“ユダヤ人”として認められるという。
実際にユダヤ人は実に様々な人間で構成されていて、イスラエル国内には黒人系(エチオピア系)のユダヤ人すら存在している。
(左)1996年1月29日『朝日新聞』(右)1996年1月30日『読売新聞』
1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、
「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。
さらにイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。
これに対して、エチオピア系ユダヤ人たちは、「エイズ感染の危険性は他の献血にも存在する。
我々のみ全面破棄とは人種差別ではないか!」と猛反発。怒り狂ったエチオピア系ユダヤ人
数千人は、定期閣議が行われていた首相府にデモをかけ、警官隊と激しく衝突した。
イスラエル国内は騒然とした。あるユダヤ人たちは言った。「この騒ぎは
かつてのアラブ人たちによるインティファーダ(蜂起)に
匹敵するほどのものであった」と。
●このエチオピア系ユダヤ人の献血事件について、『読売新聞』は「ユダヤ内部差別露呈」として次のように書いた。
「今回の事件は、歴史的、世界的に差別を受けてきたユダヤ人の国家イスラエルに内部差別が存在することを改めて浮き彫りにした。イスラエルヘの移民は1970年代に始まり、エチオピアに飢饉が起きた1984年から翌年にかけて、イスラエルが『モーセ作戦』と呼ばれる極秘空輸を実施。1991年の第二次空輸作戦と合わせ、計約6万人が移民した。
だが、他のイスラエル人は通常、エチオピア系ユダヤ人を呼ぶのに差別的な用語『ファラシャ(外国人)』を使用。エチオピア系ユダヤ人の宗教指導者ケシムは、国家主任ラビ庁から宗教的権威を認められず、子供たちは『再ユダヤ人化教育』のため宗教学校に通うことが義務づけられている。住居も粗末なトレーラーハウスに住むことが多くオフィス勤めなどホワイトカラーは少数に過ぎない。同ユダヤ人はイスラエル社会の最下層を構成している。」
「ヘブライ大学のシャルバ・ワイル教授は『とりわけ若者にとって、よい職業や住居を得ること以上に、イスラエル社会に受け入れられることが重要だ』と、怒りが爆発した動機を分析する。デモ参加者は『イスラエルは白人国家か』『アパルトヘイトをやめよ』と叫んだ。『エチオピア系ユダヤ人組織連合』のシュロモ・モラ氏は『血はシンボル。真の問題は白人・黒人の問題だ』と述べ、同系ユダヤ人の置かれている状況は『黒人差別』によるとの見方を示した。」
●『毎日新聞』は次のように書いた。
「ユダヤ人は東欧系のアシュケナジム、スペイン系のスファラディム、北アフリカ・中東のユダヤ社会出身のオリエント・東方系に大別され、全世界のユダヤ人人口ではアシュケナジムが過半数を占めている。イスラエルではスファラディム、オリエント・東方系が多いが、少数派のアシュケナジムが政治の中枢を握っている。」
「エチオピア系ユダヤ人は、イスラエル軍内部でエチオピア系兵士の自殺や不審な死亡が多いと指摘するなど、イスラエル社会での差別に苦情を呈してきた。たまっていた不満に献血事件が火をつけた格好だ。」
イスラエル航空の旅客機で救出された
エチオピア系ユダヤ人たち(1984年)
聖書ではソロモン王とシバの女王の関係が記されているが、
シバの女王から生まれた子孫とされるのが「エチオピア系ユダヤ人」
である。彼らは自らを「ベド・イスラエル(イスラエルの家)」と呼び、
『旧約聖書』を信奉するが、『タルムード』はない。1973年に
スファラディ系のチーフ・ラビが彼らを「ユダヤ人」と認定した。
その後、エチオピアを大飢饉が襲い、絶滅の危機に瀕した
ため、イスラエル政府は救出作戦を実施した。1984年の
「モーセ作戦」と、1991年の「ソロモン作戦」である。
イスラエルの航空会社と空軍の協力により
彼らの多くは救出され、現在イスラエル
には約6万人が移住している。
●このように「ユダヤ人」の定義は非常にあいまいな状態なのであるが、正直なところ、「ユダヤ人」の定義はユダヤ人同士の間で勝手に決めてくれればいいと思う。他人がとやかく口をはさむことではないだろう。
宗教的な集まりであるならば、それなりに静かにユダヤ教を信仰して、平穏に暮らしてくれればいい。誰だって、余計な問題に首をつっこんで言い争いはしたくはない。ハザール系だろうがエチオピア系だろうが、「ユダヤ人」として生活したいのならば、それでいい。世界の平和を愛して、平穏に宗教的生活を送ってくれれば、それでいい。
しかし、現実はそんな単純ではない。いつもニュースを騒がしている問題がある。いうまでもなく「パレスチナ問題」のことである。
(左)聖地エルサレム=シオン(Zion)の丘 (右)エルサレム旧市街
シオニズム運動とは一般的に「ユダヤ人がその故地“シオン(Zion)の丘”に
帰還して国家を再建する運動」と解されている。ここでいう“シオンの丘”とは、かつて
ソロモン神殿があった聖地エルサレムを中心にしたパレスチナの土地を意味している。
●パレスチナ問題は極めて深刻な状態である。
主にアシュケナジムのシオニストが中心的に動いて、パレチスナに強引にユダヤ国家を作ってしまったのだが、その時の彼らの主張が非常にまずかった。彼らは、自分たちは「血統的」に『旧約聖書』によってたつ敬虔な「選民」であると主張してしまったのだ。単なるユダヤ教を信仰する「ユダヤ教徒」ではなく、『旧約聖書』のユダヤ人と全く同一のユダヤ人としてふるまい、パレスチナに「祖国」を作る権利があると強く主張してしまったのだ。この主張は今でも続いている。
彼らのイスラエル建国によって、大量のパレスチナ人が追い出され、難民化し、殺されている。これは今でも続いている。全く悲しいことである。
●本来なら、ユダヤ国家の建設地はパレスチナ以外でもよかった。ユダヤ教を信仰する者同士が、周囲と争いを起こすことなく仲良く集まれる場所でよかったのだ。
事実、初期のシオニズム運動は「民なき土地に、土地なき民を」をスローガンにしていたのだ。“近代シオニズムの父”であるテオドール・ヘルツルは、パレスチナにユダヤ国家を建設することに難色を示し、その代わりにアフリカのウガンダ、あるいはマダガスカル島にユダヤ国家をつくろうと提案していたのである。
多くの先住民が住むパレスチナにユダヤ国家を作ったら、大きな問題が起きることぐらい誰でも予測のつくことであった。
入植候補地の東アフリカ(=ウガンダ案)。ヘルツルはパレスチナにかわる
代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。
●しかし、東欧のシオニストたちは、自分たちのアイデンティティの拠り所として、ユダヤ国家建設の候補地は“約束の地”であるパレスチナでしかあり得ないと主張し、ヘルツルの提案に大反対した。さらに東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東欧のシオニストたちは猛反発し、「世界シオニスト機構」を脱退するとまで言い出した。
ユダヤ教に全く関心を持っていなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。しかし、ナショナリズムに燃えていた東欧のシオニストのほとんどにとって、入植運動は、聖書の“選ばれた民”の膨張運動であって、アフリカなどは全く問題になり得なかったのである。そのため、「ウガンダ計画」に激怒したロシアのシオニストの一派が、ヘルツルの副官にあたるマクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。
翌1904年7月、ヘルツルは突然、失意の中で死去した。わずか44歳であった。
結局、ヘルツルの死が早すぎたことが、パレスチナ入植を推進する東欧のシオニストにとっては幸いとなり、シオニズム運動の内部崩壊はかろうじて避けられたのであった。
(左)テオドール・ヘルツル
(右)彼の著作『ユダヤ人国家』
“近代シオニズムの父”と呼ばれる彼は
1897年に「第1回シオニスト会議」を
開催して「世界シオニスト機構」を設立した
↑「第1回シオニスト会議」の入場証
●今後も、彼らがパレスチナでシオニズム運動を続ける限り、彼らを「ニセユダヤ人」として批判する人は増えていくだろう。シオニズム運動が続く限り、「ユダヤ人」という定義は世界から厳しい目でにらまれ続けることになる。誰が本当のユダヤ人で誰が非ユダヤ人なのか、イスラエル国内でも常に「ユダヤ人」の定義を巡って大きく揺れている。
※ このシオニズムが抱える深刻な問題については当館6階のシオニズム研究のページで具体的に考察しているので、そちらも参照して下さい。
イギリスは第一次世界大戦中の1917年に、ユダヤ人に対して「連合国を支援すればパレスチナの地に
ユダヤ国家建設を約束する」という「バルフォア宣言」を行なった。第一次世界大戦後、それまでパレスチナ
を支配していたオスマン・トルコ帝国の敗北にともなってパレスチナは国際連盟の委任統治の形式でイギリスの
支配下に置かれた。第二次世界大戦後にイギリスは深刻化するパレスチナ問題を国連に付託した。1947年に
国連総会はパレスチナに対するイギリスの委任統治を廃止し、パレスチナの地をアラブ国家とユダヤ国家に分割
する決議を採択した。この分割決議はユダヤ人にとって有利なもので、翌年にユダヤ人が独立宣言(建国宣言)
すると、アラブ諸国は猛反発し、すぐさま大規模な武力衝突(第一次中東戦争)が勃発した(新生ユダヤ国家
であるイスラエルは米英の支持を得てアラブ諸国を打ち破り、イスラエルの建国は既成事実となった)。
この両者の紛争は1973年の第四次中東戦争まで続き、多くのパレスチナ先住民が土地を奪われ、
イスラエルの支配地域は拡張していった。半世紀以上たった現在も450万人ものパレスチナ人が
その土地を追われたまま、ヨルダンを始め、レバノン、シリア、エジプト、湾岸諸国などで難民
生活を強いられている。100万人近いパレスチナ人がイスラエルの領内で人種差別的な
厳重な監視下の生活を強いられている。ヨルダン川西岸、ガザ地区ではそれぞれ
170万人、100万人ものパレスチナ人がイスラエル占領軍の
極限的な抑圧のもとに置かれて苦しんでいる。
イスラエル国内を巡回するイスラエル兵
●ところで、ハザール系ユダヤ人問題に触れるとき、必ず「ユダヤ人という人種は存在しない。なぜならば、『ユダヤ人=ユダヤ教徒』なのだから。『血統』を問題にするのは全くのナンセンスだ」と強く反論する人がいる。
なるほど。しかし「ユダヤ人=ユダヤ教徒」ならば、なおさらパレスチナを「先祖の土地」と主張して、そこの先住民を追い払って国を作った連中は、ナチなみのトンチンカンな連中だといえよう。
単なるユダヤ教徒が、『旧約聖書』のユダヤ人の「故郷」だからといって、パレスチナの土地を奪う権利があったのか? 何十年にもわたって無駄な血を流す必要はあったのか? この問題は、将来も長きにわたって歴史家たちの間で問い続けられるだろう。
パレスチナの一般市民に暴力をふるうイスラエル兵
パレスチナの子供に平気で銃口を向けるイスラエル兵
●なお、注意して欲しいのだが、アシュケナジム全てがシオニストというわけでもない。また、アシュケナジムの中には、自らのルーツがハザールであることを自覚して、シオニズムを批判している人もいる。本質的に「シオニズム」と「ユダヤ思想」は別物なのである。この点についても、先に紹介した当館6階のシオニズム研究のページで具体的に触れているので、興味のある方は参照して下さい。
「シオニズム」を批判するユダヤ人たち
■■第5章:1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡
●1992年8月20日付の朝日新聞夕刊は、アシュケナジー系ユダヤ人の由来まで踏み込まなかったものの、以下のような驚くべきニュースを報じている。
「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」
1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡
●この発掘調査に参加した広河氏は次のように語っている。
「ロシアは、ロシア・キエフ公国に起源を求め、それ以前にハザール王国という文明国の影響を受けたことを認めたがらない。〈中略〉このハザールは世界史で果たした大きな役割にもかかわらず、ほとんど知られてこなかった。ビザンチンと同盟して、ペルシャやイスラム・アラブ軍の北進を妨げたのである。ハザールがなかったら、ヨーロッパはイスラム化され、ロシアもアメリカもイスラム国家になっていた可能性が高いという学者も多い」
「……しかしハザール王国の“ユダヤ人”はどこに消えたか。ダゲスタン共和国には今も多くのユダヤ人が住んでいる。彼らはコーカサス山脈の山間部に住むユダヤ人だったり、黒海のほとりからきたカライ派ユダヤ人の末裔だったりする。このカライ派ユダヤ人たちは明らかにハザールを祖先に持つ人々だと言われている。そして彼らはハザール崩壊後、リトアニアの傭兵になったり、ポーランドに向かった」
ダゲスタン共和国は北コーカサス東部(カスピ海西岸)に位置する小さな共和国である↑
※ 広河氏によれば、このダゲスタン共和国には今も多くのユダヤ人が住んでいるという
●さらに続けて彼はこう述べている。
「私はチェルノブイリの村でもユダヤ人の居住区の足跡を見たし、ウクライナ南部では熱狂的なハシディズムというユダヤ教徒の祭りに出合った。『屋根の上のヴァイオリン弾き』はこの辺りのユダヤ人居住区『シュテートル』を舞台にしたものだが、この居住形態はヨーロッパ南部の『ゲットー』という居住形態とは全く異なる。そしてこの『シュテートル』がハザールの居住区の形態だと指摘する人は多い」
ポーランドのユダヤ人居住区「シュテートル」
※「シュテートル」というのはイーディッシュ語で
「小さな都市」を意味し、住民の大部分がユダヤ人からなり、
農民を中心とする周辺の非ユダヤ人を相手に商工業を営んだユダヤ人の
小さな田舎町だった。この「シュテートル」と同じような集落が、ハザール王国
にも存在していた。ポーランドの歴史学者アダム・ヴェツラニは次のように語っている。
「我々ポーランドの学者たちの見解では、ポーランドにおける初期のユダヤ人集落はハザール
およびロシアからの移住民によって作られ、南・西ヨーロッパのユダヤ人からの影響より先
だったという点で一致している。〈中略〉また、最初期のユダヤ人の大部分は東部、つまり
ハザール起源であり、キエフ・ロシアはその後になるという点でも一致している」
※ この「シュテートル」は世界中のディアスポラ(ユダヤ人の離散)の中でも
東欧にしか見られない社会構造・生活様式であったが、第二次世界大戦中の
ナチス・ドイツによる破壊活動で跡形もなくなった。多くのユダヤ人
コミュニティが完全壊滅し、東欧のユダヤ文化もほぼ消失した。
●広河氏は最後に次のような言葉で締めくくっている。
「ところでハザール王国消滅後、しばらくして東欧のユダヤ人の人口が爆発的に増えたのはなぜかという謎がある。正統派の学者は否定するが、ハザールの移住民が流入したと考えなければ、この謎は解けないと考える人が意外と多いのだ。〈中略〉
現代ユダヤ人の主流をなすアシュケナジーと呼ばれるユダヤ人は、東欧系のユダヤ人が中心である。神が約束した地に戻ると言ってパレスチナにユダヤ人国家イスラエルを建国した人々も、ポーランドやロシアのユダヤ人たちだ。〈中略〉ハザールの遺跡には、現在に至る歴史の闇を照らす鍵が隠されていることだけは確かなようである」
ハイム・ワイツマン
白ロシアのピンスク地区出身の化学者で、
「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、
何年にもわたって世界のシオニズム運動の
指導者となった。イスラエル建国後、
初代イスラエル大統領になる。
●ちなみに、前出のユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)の中で、ハザールについて次のように述べている。
「私が自分のアイデンティティを探して、父母の国ポーランドに深く関わっていたとき、私につきまとって離れない一つの疑問があった。それは父母の祖先が、いつ頃どこからポーランドに渡ってきたのだろうか、という疑問である。
ポーランドの歴史にユダヤ人の名が登場するのは、12世紀以降である。一体そのときに何があったのだろう。一般に信じられているユダヤ史では、ドイツにいたユダヤ人が十字軍に追われてポーランドに来たと説明されている。しかし証拠はない。〈中略〉
ハザールの物語は、私に大きな衝撃を与えた。同時に私の心の中に何か安堵(あんど)のような気持ちが湧き上がってきた。うまく言葉にできないが、私は自分と『約束の地』の関係がきっぱり切れたように思えたのである。私はダビデやソロモンとの血縁が無いことになった。ユダヤ民族の祖先がパレスチナを追われ、悲惨な迫害に生き残り、再びパレスチナに戻るというシオニズムの神話にわずらわされることがなくなるわけである。そして、パレスチナにではなくコーカサスに私の根が求められるということは、不正から自分が解放されることになる。それに私は小さい頃から、スラブの地方に言いようのない懐かしさを感じていたのである。
さらに言えば、母がポーランドを逃亡した経路は、故郷に向かう道でもあったのではないか。危急存亡のとき、ポーランドのユダヤ人は、知らずしらず祖先の故国に向かったのではないか。ソ連とソ連領で解放されたユダヤ人が中央アジアを目指したのも、単にそこが暖かかったという以上の何かがあったからではないだろうか。」
(左)ユダヤ人女性のルティ・ジョスコビッツ
(右)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)
※ この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
ドキュメント・ファイル大賞」を受賞
●宗教・民族に関して数多くの著書を出している明治大学の著名な越智道雄教授は、ハザールとアシュケナジム(アシュケナジー系ユダヤ人)について次のように述べている。
「アシュケナジムは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でヴォルガ下流のハザール王国の首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教とイスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。
2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムやホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジムだったとは不思議な因縁である。〈中略〉現在、スファラディムが数十万、アシュケナジムが一千万強といわれている」
↑アシュケナジー系ユダヤ人と
スファラディ系ユダヤ人の移動地図
※ 2つの異なるユダヤ人の詳細はココをクリック
●ヴォルガ川はかつて“イティル川”と呼ばれ、カスピ海は今でもアラビア語やペルシア語で“ハザールの海”と呼ばれている。この地に残る巨大帝国の遺跡群は、シオニストたちに「おまえたちの故郷はパレスチナ地方ではなく、カスピ海沿岸(コーカサス地方)のステップ草原である」と訴えているように感じる。
─ 完 ─
■■追加情報:アゼルバイジャン初の乗用車ブランド「ハザール」についての情報
●興味深いことに、カスピ海(別名「ハザールの海」)の西岸に位置するアゼルバイジャンには、現在「ハザール」という名称の乗用車ブランドが存在している。
↑南コーカサス(ハザール王国の南部に接していた地域)に位置するアゼルバイジャン
(前章で触れたダゲスタン共和国の隣国)は、歴史的にアラブやペルシアの支配を受けてきた
イスラムの国である。カスピ海に面している首都バクー(ペルシア語で「風の街」という意味)は
現在第2のドバイと言われるほどの開発が進み、コーカサス地方の最大都市へと変貌しつつある。
●アゼルバイジャンは日本では馴染みが薄く、車に興味のない方も多いかと思いますが、参考までに『世界の自動車オールアルバム』(三栄書房)に掲載された「ハザール」の情報をご紹介します↓
『世界の自動車オールアルバム』(三栄書房)の特集記事より↑
■■おまけ情報:当時の西欧系ユダヤ人たちによるハザール王国に関する記録
■スペインのユダヤ詩人ユダ・ハレヴィによる記録
ユダ・ハレヴィはスペインで最も偉大なユダヤ詩人といわれている。彼は聖地エルサレムへの巡礼途中で死んだ。その1年前(1140年)に書かれた『ハザール人(ハ・クザリ)』は哲学的な小冊子で、中世のユダヤ人には大変人気があった。ハレヴィはこの本の中で次のように書いている。
「歴史の終わりには全ての人民はユダヤ教に改宗するだろう。ハザール人の改宗はその最終的な出来事の象徴であり、しるしである。」
■ユダヤ人作家ヤペテ・イブン・アリとヤコブ・ベン・ルーベンによる記録
11世紀のユダヤ人ヤコブ・ベン・ルーベンは、ハザール人について「離散(ディアスポラ)のくびきを負わぬ唯一の民で、異邦人に献納しない偉大な戦士達」と述べている。
一方、彼の同時代のユダヤ人作家ヤペテ・イブン・アリは、ハザール人について「ヘブライ種族に属していないのにユダヤ人となったハザール人」と表現している。
■ユダヤ人旅行家トゥデラのベンヤミンとイブラハム・ベン・ダウドによる記録
西欧系ユダヤ人でヴォルガ川までの恐ろしい旅をする者はほとんどいなかったが、文明社会の主要な所でハザール・ユダヤ人に出会った記録が残っている。
12世紀の著名な旅行家トゥデラのベンヤミンは、コンスタンチノープルとアレクサンドリアでハザールの貴族を訪問した。ユダ・ハレヴィと同時代のイブラハム・ベン・ダウドはスペインのトレドで「彼ら(ハザール人)の子孫の数人、賢者の弟子」に会ったと報告している。
■ドイツのユダヤ人旅行家ラビ・ペタチアによる記録
ドイツの著名なユダヤ人旅行家ラビ・ペタチアは、1170年から1185年の間に東欧と西アジアを歴訪して『世界をまわる旅』を出版。
彼は旅の途中、ハザール王国の中心部を8日間かけて横切ったが、ハザール人のユダヤ教の内容を知ってショックと怒りを感じたという。なぜならばドイツの正統なラビ(ユダヤ教指導者)であった彼にとって、ハザール人のユダヤ教の教えは、いかにも原始的で嫌悪すべき異端の教えでしかなかったからだという。
また彼はバクダッドにいた時、ハザール王国からの使節を見かけたと述べている。使節は彼らの国の子供にユダヤ教を教えるために必要なユダヤ人学者を、メソポタミアや遥かエジプトからでも捜してこようとしていたという。
■■おまけ情報 2:イスラエルは東欧系ユダヤ人の「ガリチア人」が支配している
●ユダヤ人作家ジョージ・ジョナスが書いた『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)というノンフィクション小説がある。
この本はモサド暗殺チーム隊長を務めた男(アフナー)の告白に基づく壮絶な復讐の記録である。
(左)『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』
(右)この本を書いたユダヤ人作家ジョージ・ジョナス
●この本の主人公アフナーは本の最後のほうで、ため息混じりにこうつぶやいている。
「しょせんイスラエルを支配しているのはガリチア人だ…」
●この「ガリチア」とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチはユダヤ教の一大中心地となっていた。
下の地図を参考にして欲しい。
(左)現在のウクライナの地図 (右)ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)
↑左右の地図を見比べてもらえれば分かるように、現在のウクライナの首都キエフを含む
東半分はかつてハザール王国の領域であった。※ ちなみに右の地図に記されている
ヴォルゴグラード(旧名スターリングラード)は、ハザール王国の時代に
ヴォルガ交易路の拠点として成立し繁栄した都市であり、現在の
ロシアにおいても重要な産業都市となっている。
●さて、この本の中には「ガリチア人(ガリシア人)」について具体的に説明されている箇所があるので、参考までに抜粋しておきたい。
※ 以下の文中に出てくる「キブツ」とはイスラエルの集団農場(共産村)のことで、
キブツの出身者はイスラエル国家を政治的にも経済的にも社会的にも
支えるエリート集団であると言われている。
「アフナーは4年間キブツですごしたが、そこで学んだことが2つあった。
1つは同じイスラエル人でも、まるで異なるイスラエル人がいるという現実を初めて知った。キブツの主流は東欧系ユダヤ人の『ガリチア人』が占めていた。
ガリチアとはポーランド南東部からウクライナ北西部にかけての地域で、排他性、自堕落、うぬぼれ、狡猾、うそつきを特性とする下層ユダヤ人の居住地だった。
ガリチア人は反面、機敏で活力にあふれ、意志が強いことで知られる。しかもすばらしいユーモア感覚を持ち、勇敢で、祖国に献身的である。が、常につけ入る隙に目を光らせているから油断がならない。概して洗練されたものには関心がなく、平然とうそをつくし、信念よりも物質に重きを置く。おまけに地縁、血縁を軸とした派閥意識がきわめて強く、何かというとすぐに手を結びたがり、互いにかばい合う。ことごとくがガリチアの出身者ではないだろうが、しかしこれらの特性を持ち合せていさえすれば、まずガリチア人といってよかった。」
「ガリチア人からすれば、アフナーのような西欧系ユダヤ人は『イッケー出』であった。イッケーとは、都会のユダヤ人街『ゲットー』や東欧のユダヤ人村『シュテートル』を経験したことがない、西欧社会に吸収された『同化ユダヤ人』のことである。礼儀正しく、万事に几帳面で清潔だ。書物を集め、クラシック音楽に耳を傾ける。しかも政治的には、イスラエルが北欧三国のような解放社会、独立国家になることを望んでいる。そして物不足になれば配給制を主張し、長時間の買物行列に加わることもいとわない。ガリチア人とは違って裏工作をしたり、不正な手段で物資を入手したりするのを忌みきらう。勤勉で時間、規則を重んじ、物事が組織的に運ばれることを好む。たとえばドイツ系ユダヤ人が圧倒的に多い。“イッケーの街”ナハリヤは区画整理が行き届いている。ある点で彼らはドイツ人よりはるかに“ゲルマン的”だ。」
「アフナーはキブツ生活を通じて“ガリチア流”なるものを思い知らされた。東欧系ユダヤ人、とくにポーランド系ユダヤ人、ロシア系ユダヤ人なら徹底的に面倒をみる流儀であった。最高の働き口、世に出る絶好のチャンスはすべて彼らの手に渡るよう仕組まれる。キブツの主導権は彼らががっちり握っていた。
たとえば誰の息子があこがれの医学校に進むかという問題になると、学業や能力は無視された。むろん、建前は民主的に運営され、総会にかけて全員が投票し、進学者を決める。ところが、常に当選するのはガリチア人の子弟にきまっていた。
アフナーはキブツばかりでなく、軍隊を経て社会人になっても、ガリチア人の優位がついて回るのを知った。
ドイツ系、オランダ系、アメリカ系ユダヤ人などの出る幕がないほどであった。オリエント系ユダヤ人にいたっては、ガリチア人の助けを借りない限り、手も足も出なかった。」
以上、『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)より
── 当館作成の関連ファイル ──
◆スファラディ系とアシュケナジー系の2つの異なるユダヤ人の実態
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