No.a4fhb200

作成 1998.1

 

ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史

 

序章
はじめに
第1章
ハザール王国とキエフ大公国
(キエフ・ルーシ)の対立
第2章
ロシア帝国における
反ユダヤ政策の実態
第3章
ウクライナ人によるユダヤ人迫害
(ポグロム)の始まり
第4章
ロシア・ユダヤ人社会に
“3つの動き”が生じる
第5章
ユダヤ人が深く関与した
「ロシア革命」の舞台裏〈1〉
第6章
ユダヤ人が深く関与した
「ロシア革命」の舞台裏〈2〉
第7章
ロシア革命後のソ連のユダヤ人
第8章
スターリンによるウクライナ人
大虐殺「ホロドモール」
第9章
第二次世界大戦後の
ソ連のユダヤ人

おまけ
ウクライナのユダヤ人に関する情報

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■■序章:はじめに


■1991年のソ連崩壊に伴い独立したウクライナ


●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。

 


ウクライナの国旗

※ 旧ソ連時代にウクライナはロシアに次ぐ
第2の共和国として経済的・人材的にソ連邦を支えた

 

●1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日本から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日本人にはあまりなじみのない国といえよう。

 


(左)ウクライナの地図 (右)1986年4月にウクライナ北部の
チェルノブイリで原発事故が起き、世界を震撼させた

 

●しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは非常に重要である。なぜなら、そこはハザール(英語で「Khazar」、カザールともいう)王国のあった地域と重なっているからである。そして、ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム)は、このウクライナ人の存在がかなり重要な要素になっているのだ。

※ 上の地図と下の地図を見比べてもらえれば分かるように、現在のウクライナの首都キエフを含む東半分はかつてハザール王国の領域であった。

 


↑カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれていた
ハザール王国(首都はイティル)の地図

キエフはルス人(後のロシア人)の手に渡る9世紀まで
ハザール王国の支配下にあった都市であるが、この都市の名は
ハザールの将軍クイの砦が由来であると言われている(諸説あり)

※ ちなみにヴォルガ川はかつて「イティル川」と呼ばれ、カスピ海は 
今でもアラビア語やペルシア語で「ハザールの海」と呼ばれている。

 

●なお、「ウクライナ」という言葉はもともと「辺境」という意味で、これが国名にも民族名にもなっている。ロシア人が勝手に名付けたもので、日本語で言えば「田舎者」ということになる。

これから詳しく紹介していくが、この地域の歴史はロシア人とウクライナ人とユダヤ人のケンカの歴史である。

 


1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡

※ 朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の
遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国
という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、
報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、
カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」

 

 


 

■■第1章:ハザール王国とキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の対立


■ハザール王国の誕生とユダヤ教への改宗


●ウクライナ人はロシア人、ベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。ウクライナの歴史は古く、紀元5世紀前後に東スラブ族が黒海北方沿岸地域に住み着いた頃までさかのぼる。これ以前この地域は諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた。

紀元前8~7世紀の黒海北岸地域はギリシア人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマートなどの騎馬民族国家が興亡した。2世紀には東ゴート族が侵入し、古代ローマ時代末期にはフン族が東から西へ通過していった。

 

 

●7世紀中頃、ドン川、ヴォルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。総人口は100万で、住民は商人・職人・武人として優れていたが、周囲の国とは違ってこれといった宗教を持っていなかった。

しかし、後にこのハザール王国はオバデア王の国政改革(799~809年)により、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。

 

↑8世紀末、キリスト教を国教とするビザンチン帝国(東ローマ帝国)とイスラム教を
国教とするイスラム帝国は、ハザール王国をはさむ形で政治的にも宗教的にも対立していた。
そのためハザール王国は次第に両国の宗教的な干渉を受けるようになり、どちらの宗教に改宗しても
国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。ふつう国が瀕死の状態になった
時には、どちらか強い方の勢力を選んでしかるべきだが、ハザール王国のオバデア王は
こともあろうに国民まとめてユダヤ教に改宗させてしまったのである。

 

■キエフ大公国の成立とハザール王国の衰退


●882年頃、都市キエフを中心に現在のロシアのルーツとされる「キエフ大公国」(キエフ・ルーシ)が成立。その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。現在にまで至る「ロシア」の名はこれに由来している。

※ 黒海沿岸に位置するハザール王国はビザンチン帝国とキエフ大公国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール王国の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとってもキエフ大公国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。

 

↑9世紀末あたりからルス人(後のロシア人)の艦隊がハザールの海「カスピ海」沿岸を
侵略するようになった。913年に800隻からなるキエフ大公国の大艦隊がやってくると、
事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によってルス人たちは
カスピ海に足場を築いた。965年にはキエフ大公国のスビャトスラフ1世によりハザールの防衛拠点
「サルケル砦」が陥落してしまった。この後、ハザール王国の首都イティルも甚大な被害を受けた。

 

●このキエフ大公国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のヴォルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇った。

なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、キエフ大公国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル大公は988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。

ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側からロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国はキエフ大公国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けてしまう。

 


10世紀前後のヨーロッパとオリエント

 

■ロシア帝国の台頭


●12~13世紀頃に、キエフ大公国は内紛とステップ地域の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、「キプチャク汗国」が成立(「タタールのくびき」の始まり)。

これ以降、この地域の北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心になって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト海沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの支配下に入り、16世紀にはポーランドの支配下に入った。


●そして、この頃からウクライナ南部に逃亡農奴を中心にした「ウクライナ・コサック集団」(自治国家)が形成され、勢力を誇るようになる。これが直接的なウクライナ国家の起源とされる。

しかし、コサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド=リトアニア連合王国や、さらにロシア帝国、オスマン・トルコ帝国に挟まれ、長くは続かなかった。彼らの領土は、ロシア帝国とポーランドによって東西分割され、ポーランドが滅亡すると、ガリチア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となってしまうのであった。

※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチはユダヤ教の一大中心地となっていた。

 


ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

 

●19世紀の民族運動の発展において、ウクライナ地域では、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。そして、ウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族運動が起きるようになるが、ロシア帝国下ではウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化が図られた。

しかし、ウクライナ人への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。また一方で、ウクライナ人はハザール王国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識したのであった。

※ このウクライナ人によるユダヤ人迫害については、後で詳しく紹介します。

 

 


 

■■第2章:ロシア帝国における反ユダヤ政策の実態


■ロシア国内で相次いで実施された反ユダヤ政策


●ロシア国内における反ユダヤ主義は、1470年代に発生した「ユダヤ教的異端」をきっかけに現れた。この異端はモスクワの宮廷内に広がり、高級聖職者、貴族、さらにはイワン3世(モスクワ大公国の第9代大公)の義娘によっても信奉された。この異端の広がりにより、1487年にはノヴゴロド大司教がユダヤ教徒追放令を、1504年にはイワン3世がこの異端信奉者を火刑にする命令を出した。


●ロシア史上最悪の暴君イワン雷帝ことイワン4世(モスクワ大公国の第11代大公)もまたユダヤ人に対する敵意を示している。彼はユダヤ人を“毒薬商人”とみなし、1545年にはモスクワにおいてユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。

また1563年には、ポオツク市においてキリスト教への改宗を拒むユダヤ人を川に投げこむよう命令していた。

 


ロシアの初代ツァーリであるイワン4世(雷帝)

※ ツァーリとはローマ皇帝の称号「カエサル」に由来する。
彼は恐怖政治でロシア絶対王政の基礎を築き、対外戦争によって
 ロシア版図を広げた(彼はユダヤ人を“毒薬商人”とみなしていた)。

 

●ユダヤ人追放令は、以後何度も出された。

1610年にはシュイスキー、1727年にはピョートル2世が、さらに1744年には女帝エリザベータが約3万5000人のユダヤ人をリヴォニアから9年以内に追放するように命じた。この追放令に対しては、ユダヤ人の商業活動による利益を考慮したロシア元老院からの反対があったが、エリザベータは「私はキリストの敵から利益を得たくない」としてこれを拒否した。

※ ここで念のために書いておくが、1721年にロシア元老院がピョートル1世に「インペラートル(皇帝)」の称号を贈った時から、ロシアは「モスクワ大公国」ではなく「ロシア帝国」と呼ばれるようになる。

 

■ロシア帝国は当時、世界で一番ユダヤ人の多い国となった


●1762年に就任した女帝エカチェリーナ2世は、それまでの皇帝によるユダヤ人政策を受け継ぎ、1762年に、ユダヤ人以外の外国商人に対しては、入国許可令を出した。しかしこのようなユダヤ人の入国を許可しない政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。

なぜなら、1772年の第1回ポーランド分割によって約20万人のユダヤ人が、さらに1793年と1795年の分割によって約70万人のユダヤ人がロシア支配下となり、短期間で合わせて約100万人ものユダヤ人がロシア支配下になったためだ。

その結果、ロシア帝国は当時、世界で最大のユダヤ人口を有する国となったのである。同時に、それまでのユダヤ人追放令は機能しなくなり、廃止せざるをえなくなってしまったのだ。

 


第8代ロシア皇帝エカチェリーナ2世(在位1762~96年)

 

●こうして、エカチェリーナ2世は反ユダヤ政策を改め、その植民地化政策の過程で、特別な制限を加えることなく、ユダヤ人がロシアへ入ってくるままにまかせるようになったのである。

彼女の政治的、経済的実用主義は「啓蒙主義」の思想の影響によって本質的に強化された。啓蒙主義者たちはユダヤ人に対して、宗教的な偏見を抱いていなかった。彼らはユダヤ人を、すべての人々と同じ権利と義務とを具えた良き国民につくり上げようとした。

この、第1次ポーランド分割後のロシアの政策は、短期間にユダヤ人を同権をもって遇するということにおいて、他のすべてのヨーロッパの国家に大きく先んじたのであった。


●とはいえ、同権の待遇は、結果として種々の規制も招来した。時間が経つにつれて、とくに第2次および第3次のポーランド分割の後、ユダヤ人がますます大量にロシア帝国の支配下に帰するようになると、かなり大きな反動が現われてくるようになった。

このままユダヤ人を自由にさせていては、ロシア帝国内にユダヤ人が流れ込んでしまう。そのことを内心恐れ始めていたエカチェリーナ2世は、ロシア帝国の支配下に入った地域のユダヤ人全員の移住を禁じ、その土地に縛り付ける政策を実施するようになる。

いわゆる「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」という名の巨大なゲットーのスタートである。

 

■エカチェリーナ2世によって作られた「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」


●彼女は1772年8月16日に、ユダヤ人と非ユダヤ人とを区別し、ユダヤ人はポーランド分割以前の定住地から移動することを禁じる勅令を出した。そして1791年には、ユダヤ商人、職人の身分登録地をベラルーシに限定した(定住地域の成立)。その後1793年にはミンスク、ウクライナ、小ロシア、1795年にはリトアニアなども登録地となり、ユダヤ人は、これらの区域以外には定住することができなくなった。

このようにしてエカチェリーナ2世は、「定住地域」の基礎を作った。ユダヤ人は少数の例外を除いて、1917年のロシア革命直前に至るまで、この区域を離れることが許されなかった。

こうした区域は形式的には、長期にわたる準備の後に1804年に発せられたロシアにおける「ユダヤ人に対する条例」によって確定した。ただし、区域内のユダヤ人をロシアに同化させるかどうかについては、明確な政策を取らなかった。

 


黒く塗られたエリアがロシアの巨大なゲットーと呼ばれる
「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」である

※ 1791年から1917年まで、ユダヤ人が移動することが禁じられた

 

●エカチェリーナ2世がこの「定住地域」を設定したのは、皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。

この「定住地域」の広さは約100万平方キロメートルにも及び、ロシアにおけるいわば巨大なゲットーのような存在であった。1897年までに500万人以上のユダヤ人が住んでいた。

※ この「定住地域」は英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている。


●このように啓蒙君主であるピョートル大帝を除くと、ほとんどのロシア皇帝は、18世紀後半のポーランド分割に至るまでは、ユダヤ人追放という一貫した政策を取ったことがわかる。

そのため、女帝エカチェリーナ2世によって「定住地域」が設置される以前の東欧ユダヤ人は、度重なる追放令によってロシア国内には法的には存在せず、もともとハザール王国の領域だった地域──黒海北部・ウクライナの地域で多く生活していたのである。この時期のウクライナはポーランド領である。

 

↑「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」の拡大図

※ 定住地域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた

 

■スラブ主義者とウクライナ民族主義者の台頭


●1801年に就任した第10代ロシア皇帝アレクサンドル1世は、「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、それはユダヤ人の反対にあい失敗に終わった。そこで、次に就任したロシア皇帝ニコライ1世は、「兵営学校制度」などを施行し、ユダヤ人の強制同化策を取った。しかしこの制度によって改宗したユダヤ人はごく少数であった。また改宗を拒んだユダヤ人の中には、自殺した者も少なくなかった。

ニコライ1世は、1841年にはユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、1844年にはユダヤ人自治組織を廃止する法令を出した。また、1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはユダヤ人の反対にあって実施されず、全体的には失敗に終わった。

 


第11代ロシア皇帝ニコライ1世(在位1825~55年)

 

●ニコライ1世の次に就任したロシア皇帝アレクサンドル2世は、最初は自由主義的な政策を実施し、ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、1861年のポーランド反乱後、急変。ユダヤ人に対する政策は厳しくなり、1870年には都市条例を出し、ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることと、市長職に就くことを禁止した。また1873年には、ユダヤ人の公立学校とラビ神学校を閉鎖した。

 


第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位1855~81年)

 

●一方、ロシア国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。その最たるものがヤコブ・ブラフマンによって1869年に出版された『カハルの書』であった。この序文は、ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、その目的は一般市民を服従させ、搾取することである、という反ユダヤ宣伝になっている。この書は主として政府高官に好評を得た。

また、1880年には、新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が、自由主義から反動的立場に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ユダヤ人のロシア文化への進出に対する危険性が述べられた。

 

 


 

■■第3章:ウクライナ人によるユダヤ人迫害(ポグロム)の始まり


■ウクライナで生活していた富めるユダヤ人と貧しいユダヤ人


●ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。

こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。


●S・エティンゲルの調査によれば、東欧におけるユダヤ人の都市の数は、ハザール王国滅亡後の14世紀には41、15世紀には62、16世紀には、実に198に増加している。ユダヤ共同体も、1503年から1648年に至る期間、ウクライナだけにおいても115も形成されていた。

さらに、C・M・ドゥブノーフによれば、1501年から1648年に至る期間、ポーランドに居住するユダヤ人は、5万人から実に50万人に増加したことになる。ポーランドはロシアに分割される前は、当時、最大のユダヤ人口を有していたのである。


●1817年、ウクライナにおいて工場の30%はユダヤ人が所有していた。とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56.6%、タバコ工場の48.8%、製糖工場の32.5%がユダヤ人経営であった。これらは中小企業にすぎないが、このような産業から何人かのユダヤ人資本家が登場していた。

例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキー、鉄道建設業ではC・ポリャコフが1850年から1870年にかけて第一人者であった。また黒海北部に1883年開始されたドニエプル運河搬業、1876年のヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。


●なお注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、都市下層民に属していたという点である。この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人はウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。

 

■ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生


●1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボフダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺された。

 


ボフダン・フメリニツキー(1595~1657年)

「フメリニツキーの乱」を起こして多くのユダヤ人を虐殺した

 

●フメリニツキーは、ロシア史においてはコサックと農民の反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ共同体を破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺はガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、ベラルーシ、さらにウクライナ南東部にも及んだ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は崩壊的危機に立たされた。


●さらに、1734年から1736年にかけても、ウクライナにおいて「ハイダマキ」という名称の集団がユダヤ人虐殺を行った。このハイダマキ運動においては、フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行っていたのである。

 

■「ポグロム」はウクライナ南部(黒海北岸)で始まった


●ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──黒海北岸の都市オデッサで発生した。

オデッサは1794年に創設された多民族都市であり、ギリシア人、ユダヤ人などが多数存在し、ロシア・ユダヤ文化の中心地であった。市の3分の1がユダヤ人だった。後にオデッサからはロシア革命の指導者の1人トロツキーや、シオニズム運動の理論的指導者となるジャボチンスキー、散文作家バーベリなど著名なユダヤ人が輩出した。

 


ジャボチンスキー

 

●1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」という煽動がなされた。

そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、興味深いことに、ほぼ全てのポグロムがウクライナ南部の定住地域──かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。

※ ポグロム加害者はウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、被害者はユダヤ町人と商人であり、こちらも下層民が多かった。

 


(左)1881年に暗殺されたアレクサンドル2世 (右)皇帝を暗殺した
 テロリストグループの一員だったユダヤ人女性ゲシア・ゲルフマン

※ アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世は
ツァーリズムの強化をめざし、反体制派の徹底した弾圧に
乗り出した。また、暗殺をユダヤ人の犯行であると
決めつけ、厳しい反ユダヤ政策を施行した。


↑1881~1884年のポグロムの発生状況

※ 黒海北岸で集中的に発生している

 

●なお、有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者であるシャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としているが、これは帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語である。この作品には、ユダヤ人を迫害するウクライナ人の暴動ぶりが描かれているのである。

 


『屋根の上のバイオリン弾き』

 

●また、1809年ウクライナ生まれの小説家、ニコライ・ゴーゴリの名作『タラス・ブーリバ』には、当時ウクライナの主人公だったコサックたちが、なにかといえばユダヤ人を虐殺していた姿が描かれている。それをまたウクライナ人のニコライ・ゴーゴリが、いかにも楽しげに書いている。

 


ウクライナ生まれの小説家
ニコライ・ゴーゴリ

 

●例えば、次のような場面では、コサックの会話の中に搾取者としてのユダヤ人への敵意が表現されている。

「今でも教会もみな、ユダヤ人どもに抵当に押さえられているんだ。それで前もってユダヤ人に借金を返さんことには、礼拝式のミサも行うことができない有様なんじゃ。」

「なんだと! ユダヤ人どもがキリストの教会堂を抵当に差し押さえたとな!──忌まわしい邪宗門どものために、ロシアの大地の上でこんな苦難がまかり通っているんだと!──そうだ。そんな真似はさせておかんぞ、断じてなるものか!」(『ゴーゴリ全集』第2巻)

この会話の後、ウクライナ・コサックたちはユダヤ人を手当たりしだいに川に投げ込んだのである。


●このように、かつてハザール王国があった領域に住んでいたユダヤ人たちは、その地に住むウクライナ人によって、とんでもない迫害に遭遇したのである。

 

↑1903~1906年の主なポグロム発生地

※ 依然として黒海北岸で集中的に発生している



ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

 

■反ユダヤ政策の「5月法」成立


●1881年のポグロム後、内相イグナチエフは皇帝アレクサンドル3世に、ポグロムの原因をユダヤ人の商業、工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であるとし、ユダヤ人の“有害な”活動を阻止する必要があることを報告した。これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。

この結果として翌1882年5月3日に、種々の反ユダヤ法が成立した。

 


第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位1881~94年)

 

●「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法の内容は以下の通りである。


◎町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する

◎町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止

◎ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止


●これらはいずれもロシア人地方商人階級の要求を満たすものであり、特に定住地域の15県において実施された。1887年には、1882年以前から村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止された。


●帝政ロシアにおけるユダヤ人政策は、この「5月法」にその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には、差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。



●なお、ロシアの支配機構の内部には、人道的ないしは経済戦略的な理由から、反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において重要な経済的要素たり得ることを理解していた。そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、国際的な枠組みにおいて──外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、不利益が生じることを恐れていた。

重責を負っていた大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテが、ロシア皇帝アレクサンドル3世と行った対話は、この関連で示唆に富んでいる。

アレクサンドル3世は大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテに、ユダヤ人に好感をもっているかどうか訊ねた。これに対してセルゲイ・ヴィッテは、「ユダヤ人を全員黒海で溺死させることが可能でしょうか?」と問い返し、言葉を続けて「もしそれができないとすれば、ユダヤ人は『生きていて』もよいとせざるをえません。それはとりもなおさず、ユダヤ人に結局、ほかの全臣民と同様の権利を承認することを意味するものです」と答えた。

しかし、本質的な改善は実施され得なかった。


●この時代のロシア帝国のユダヤ人について、ロシア史に詳しいある研究家は次のような指摘をしている。

「かつて静かだったユダヤ人制限居住地域(定住地域)は、相次ぐポグロムの影響で、革命活動の温床となり『地下活動』が広がっていった。

モージス・リッシンによれば、1901~3年に政治的理由でロシアで投獄された7791人のうち、2269人はユダヤ人であった。1903年3月から1904年11月までに政治的違反のかどで有罪判決を受けた者の54%はユダヤ人であった。そのような判決を受けた女性の64%はユダヤ人女性であった」

 

 


 

■■第4章:ロシア・ユダヤ人社会に“3つの動き”が生じる


■3つの動き


●1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。


●1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。ユダヤ人は、エルサレム陥落以後、全世界に「離散の民」として移り住んだが、これほど短期間における大規模な移住は、かつて例を見ない。しかも彼らは組織もなく自発的にロシアを去ったのである。

 

1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、
ロシアを離れて他国(主にアメリカ)へと移住した


大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ

 

●2つめの動きは、革命への積極的参加である。ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。

ロシアの革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。

革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた(後述)。

 

ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、
革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の
唯一の解決だとして、革命運動に参加した

 

●3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。

 


(左)聖地エルサレム=シオン(Zion)の丘 (右)エルサレム旧市街

シオニズム運動とは一般的に「ユダヤ人がその故地“シオン(Zion)の丘”に
帰還して国家を再建する運動」と解されている。ここでいう“シオンの丘”とは、かつて
ソロモン神殿があった聖地エルサレムを中心にしたパレスチナの土地を意味している。

 

●まず1881年に、黒海北岸都市オデッサのユダヤ人医師レオン・ピンスケルが、オデッサ・ポグロムに遭遇したショックをもとに『自力解放』という本をドイツ語で出版し、ユダヤ人は自分たちの国を作って隷属状態から解放されるべきだと主張した。そして彼は、パレスチナにユダヤ人の植民化を推し進めるインテリや学生たちの「ヒバト・ツィオン」に加わり指導的役割を演じたのであった。

 


ユダヤ人医師レオン・ピンスケル

※ 彼は医者らしく「反ユダヤ主義は
“不治の病”であるので、シオニズムこそが
唯一の“処方箋”である」と説いた

 

●1882年にはユダヤの学生組織ビールー派によって「ビールー運動」が開始された。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせである。ビールー運動は、またたく間にロシアのユダヤ人青年の間に広まった。1884年には秘密警察を避けて、国境を越えたドイツ領内の町カトヴィッツで第1回の全国大会を開いた。

その後、十数年間に約1万人のユダヤ青年がパレスチナへ渡り、約40ヶ所の地点に定着した。これがいわゆるシオニストの“第一波移民”である。

 


イスラエル建国前にパレスチナに入植したユダヤ人
(「キブツ」と呼ばれるユダヤ人の集団農場の様子)

※ パレスチナのユダヤ人入植地は1900年には22であったが、
1918年には47まで増えた。1909年には「キブツ」と呼ばれる
ユダヤ人の集団農場が作り始められ、ユダヤ人の町「テルアビブ」ができた。

 

●このパレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、1904年から1914年までの10年間に、約4万人の東欧ユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。

 

イスラエルの旗は1891年にシオニズム運動の
運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン
(リトアニア出身)が考案したものである

 

●このように、一般には、ハンガリー生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルが“近代シオニズムの父”とされているが、帝政ロシアにおいてすでにシオニズム運動は生まれていたのである。

 


(左)テオドール・ヘルツル
(右)彼の著作『ユダヤ人国家』

“近代シオニズムの父”と呼ばれる彼は
1897年に「第1回シオニスト会議」を
開催して「世界シオニスト機構」を設立した

 

 


 

■■第5章:ユダヤ人が深く関与した「ロシア革命」の舞台裏〈1〉


■ロシア革命直前


●1897年の国勢調査によれば、ロシア帝国内には520万人のユダヤ人が生活しており、人口の約4%を占めていた。このうち、ユダヤ人「定住地域」には490万人、人口の11.5%が住んでおり、この地域の範囲内でポーランド王国に限れば、130万人、人口の14%が住んでいた。田舎に居住している者はユダヤ人の13.5%、都市に居住している者は86.5%であった。

商業、銀行・クレジット業を一方に、手工業、工業、運輸業をもう一方に置く、この2大業務領域には、この時代、ほぼ同じくらい多くのユダヤ人が従事しており、それぞれ40%強を占めていた。世紀のはじめにはまだ手工業が群を抜いていたが、こうして商業が次第にユダヤ人の最も重要な収益源となっていった。自由業の占める割合は増加を続けていたが、大勢からすれば取るに足らないものだった。また、農業やその他の業種で働ける機会は、ますます少なくなっていった。

 


第14代ロシア皇帝ニコライ2世
(最後のロマノフ王朝一家)

※ 皇后の前に皇太子アレクセイ、皇帝の 
右に四女アナスタシア。夫妻の後ろ左から、
三女マリア、次女タチアーナ、長女オリガ。

 

●第一次世界大戦中に、ロシア帝国の反ユダヤ政策であった「定住地域」は廃止された。けれども、これはユダヤ人の不都合を慮ってのことではなく、ユダヤ人が敵と通じることを恐れたためであった。ユダヤ人が居住していた地域の大部分は、作戦行動の中心を成していた。数十万の住民が、軍事行動や略奪や徴発を恐れて避難した。

ポーランド国民民主党やロシア軍の参謀本部の反ユダヤ主義のグループは、公になった個別の事例を一般化して、ユダヤ人がドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国のためにスパイ活動を行っているとの非難を煽り立てた。その結果、さまざまな場所でポグロムが発生した。


●帝政ロシアの軍事機関は「定住地域」のうち、戦争が展開していない地域のユダヤ人をも、次第に追放するようになった。そうした地域の情勢がいかんともしがたくなったとき、政府は1915年8月に「定住地域」を廃止し、ユダヤ人にロシア帝国のどこに居住してもかまわないという許可を与えた。

追放や流刑に際しては、またしても暴力行為が決まって起こった。一部ユダヤ人は敵の占領地域、つまり前線へ追いやられた。のちにふたたび故郷の土地へ帰還することのできた者は、自分の住まいが既に非ユダヤ人によって占拠されているという状況にしばしば直面した。

 

■ロシア革命の成功とユダヤ人


●ロシアを離れて海外(主にアメリカ)へ移住を開始したユダヤ人とは別に、ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したが、1917年2月から3月にかけて革命が成功したことで、一切の制限にようやく終止策が打たれた。

ユダヤ人はロシアの平等な権利を有する市民となった。

 


ボルシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンは
1917年11月7日に新政府の樹立に成功した

 

●前章でも触れたが、ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。

 


南ウクライナ生まれのユダヤ人
レオン・トロツキー(本名ブロンシュタイン)

※ 10代の頃より革命運動に従事し、最初の逮捕と亡命後、
第一次ロシア革命で指導的役割を果たす。後にレーニンの右腕となり、
レーニン率いる暴力革命派(ボルシェヴィキ)と共闘、「赤軍」の創設者および
指揮官として活躍する。1924年にレーニンが死去すると、スターリンが
台頭しトロツキーと対立。政治力に長けたスターリンが勝利すると、
トロツキーは追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。

 

●革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。妻がユダヤ人か貴族か大金持ちか少数民族。該当しないのはカリーニンとルイコフくらいだった。

政治局員クラスでは以下の人物が挙げられる。

ジノビエフ(ユダヤ人)
カーメネフ(ユダヤ人)
ブハーリン(ロシア人、妻がユダヤ人)
スヴェルドロフ(ユダヤ人)
クイブイシェフ(ウクライナ人、秘書がユダヤ人)
ヴォロダルスキー(ユダヤ人)
ウリツキー(ユダヤ人)
ルイコフ(ロシア人)
カリーニン(ロシア人)
ソコリニコフ(ユダヤ人)
ラデック(ユダヤ人)

 


ロシア革命当時、ヨーロッパで出された
11人の共産党指導者たち

 

●1920年にイギリスで発行された『ユニティ・オブ・ロシア』は、ロシア革命で政権を握った中枢や政治組織の中に、いかに多くのユダヤ人たちがいたかということを伝えている。実に85%がユダヤ人である。また、イギリスの新聞『モーニング・ポスト』紙がロシア革命直後に掲載した革命の中心メンバーの一覧表によると、50人中44人までがユダヤ人である。

この時期にはさらに、ユダヤ人によって創立された労働運動の母体であるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟「ブント」、また、ユダヤ人社会主義労働者党、社会民主主義労働党などの、ユダヤ人による社会主義、民主主義諸政党も盛んに活動していた。

 


↑1920年2月8日付のロンドンの『イラストレイテッド・サンデー・ヘラルド』紙に
掲載された「シオニズム 対 ボルシェヴィズム:ユダヤ人の魂のための闘争」という社説

驚くべきことにこの記事を書いたのは、かの有名なチャーチル(後のイギリス首相)である。
古くからユダヤ人の知り合いを多く持ち、親ユダヤ主義者であったチャーチル(シオニズム運動に
感銘を受けてイギリス政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家である)は、この記事の中で
ロシア革命におけるユダヤ人の役割について言及し、「共産主義は文明の転覆のための世界的な
革命的陰謀であり、この陰謀は無神論的国際ユダヤ人によって導かれた」と書いている。



イギリスのウィンストン・チャーチル首相

 

 


 

■■第6章:ユダヤ人が深く関与した「ロシア革命」の舞台裏〈2〉


■初代ソ連最高指導者レーニン


●一般にレーニンはユダヤ人ではないとされるが、祖母はそうだとされ、妻のクルースプカヤはユダヤ人であった。ユダヤ人ジノビエフはレーニンの腹心中の腹心となり、レーニンの原稿を代筆するまでになっていた。

※ ちなみにレーニンは、1918年7月4日に「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布し、同年、赤軍に対して次のような演説を行っている。

「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」

 


ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤノフ)

 

■スターリンのユダヤ人疑惑について


●レーニンを継いだスターリンはユダヤ人ではなくグルジア人だとされるが、スターリンはユダヤ人だったという根強い説がある。

その根拠の1つとして、彼の本名が挙げられる。彼の本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシビリだったが、「ジュガシビリ」とは「ジュウ(ユダヤ)の子孫」という意味で、彼はそれを嫌って、スターリン(鋼鉄の人)というあだ名を本当の名にしてしまったというのだ。

 


第2代ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン

※「スターリン」という名は偽名(あだ名)であるが、
「鋼鉄の人」を意味する「スターリン」を名乗ったのは、背が低く
心身ともに軟弱だった自分の弱さを隠すためであったとも言われている

 

●また、スターリン自身、身辺に多くのユダヤ人を抱えていたことも挙げられる。

スターリンの長男ヤーコフの妻もユダヤ人だったし、娘スヴェトラーナの恋人も夫も共にユダヤ人で(3人目の夫もユダヤ人だった)、自分自身の妻は側近のモロトフの妻(ユダヤ人)と親友だったし、ユダヤの血の流れている孫たちにも囲まれていたのである。その上、彼の侍医たちはユダヤ人ばかりであった。

 


(左)側近のモロトフとスターリン (右)スターリンの娘スヴェトラーナ

※ スターリンの娘スヴェトラーナは22歳も年上のユダヤ人の 
映画監督に恋をし、大学2年生の時にユダヤ人と学生結婚した。
3度目の結婚相手はスターリンの片腕といわれたユダヤ人
ラーザリ・カガノビッチ(後述)の息子だった。

 

●とりあえずここでは、スターリンがユダヤ人であったかどうかという問題は保留にしておきたい。

スターリンがユダヤ人であってもなくても、そもそも共産主義を唱えたカール・マルクス本人がユダヤ人であったし、ユダヤ人と共産主義の関係は想像以上に深い。

しかし、スターリンについても言えそうだが、カール・マルクスもユダヤ人でありながら、ユダヤ的なものを極度に忌み嫌った人間であった。自分がユダヤであることを欲しなかった1人であった。

マルクスにとって「ユダイズム」とは、駆引商売と同義であった。そこでは金の力が唯一絶対であって、市場と貨幣の思想が社会の中の人間的な絆にとってかわり、そのために「我々の社会は細分化され、非人間的になっていった」とし、その責任はユダヤ人にある、と考えたのである。マルクスにとっては、「ユダイズム」を排除するのが人間らしい社会的結合を取り戻すための条件であるかのように思われたのである。彼の語調は最もラジカルな反ユダヤ主義者達と似ていたから、反ユダヤ主義者から見れば、格好の宣伝の言葉として利用されたのであった。

 


ドイツ・プロイセン王国出身の
ユダヤ人カール・マルクス
(1818~1883年)

※ 産業革命後の資本主義経済を分析し、
フリードリヒ・エンゲルスとともに
「共産主義」を打ち立てた

 

●ちなみに、かの有名なジークムント・フロイトも、生涯自分がユダヤ人であることを誇りとしていたが、近親憎悪というか、生活スタイルや信条は徹底して「脱ユダヤ化」を図ろうとしていたことが知られている。

例えば、フロイトは文科学校(ギムナジウム)在学時代、自分の名前である「ジギスムント」という、コテコテのユダヤ人名を嫌悪し、この田舎風の名から、ゲルマン民族の英雄、ジークフリートの父である勇士「ジークムント」の名に改名した。「ジギスムント」と「ジークムント」──。わずか数字の違いだが、この違いは決定的だった。前者は反ユダヤ主義の嵐の中、徹底的な差別を呼び起こすのに対し、後者の名は“ゲルマンの勇士”なのだ。

フロイトは様々なジレンマを抱えながら、自分を育んでくれた民族的、文化的、精神的風土が、逆に「伝統」という重い鎖となって自分を縛ろうとしていることに嫌悪していたのである。

 


ジークムント・フロイト

※「精神分析学」を創始した
オーストリア生まれのユダヤ人

 

■ロシア革命は「ユダヤ人の解放運動」だった


●さて、話をロシア革命に戻そう。

ロシア革命以後、ユダヤ人は公職、教育機関での役職、企業の管理部門、その他重要なポストに昇進した。しかし、これは彼らの敵対者の憎悪を呼び起こし、コミュニストはユダヤ人だ(ないしはユダヤ人はコミュニストだ)というスローガンを助長することになった。

こうしたユダヤ人は「同化ユダヤ人」であった。彼らには社会主義の思想、世界革命、階級闘争が、ユダヤ民族の国家民族の問題や宗教の問題より重要なものであると思われたからである。同化以外の者たちは、社会的昇進のために己れを社会に組み入れていた。とはいえ、大半のユダヤ人は同化には消極的であった。


●ちなみに、親ユダヤ主義者であったアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は、1919年に「ロシア革命」を「ユダヤ人が指導した革命」と言っていたが、ロシア革命は単なる「ユダヤの陰謀」ではない。「ユダヤ人の解放運動」だったのである。そういう側面が強かったのである。これは否定できない事実である。

 


第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン

 

●参考までに、アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。

「1917年初め、アメリカに移民した東欧ユダヤ人は、ロシアで起こった2月革命の報に歓喜した。憎むべきツァーリズムの崩壊とボルシェヴィキの権力掌握までの時期、ニューヨークのユダヤ人社会は、市内における社会党選挙戦とあいまって、政治的熱狂に沸き立った。社会主義者たちはボルシェヴィキの10月革命を歓迎した。ジョン・リードが『世界を揺るがした10日間』でロシア革命の実際を伝え、革命的友愛の感情が左翼の心をとらえた。ヒルキットさえも1921年の著書『マルクスからレーニンへ』の中で、民主主義と両立できるものとして『プロレタリア独裁』を支持した」

「ユダヤ人の間にはロシアに帰って新社会の建設に参加しようという運動が起こった。1917年から1920年にかけて2万人以上のユダヤ人がアメリカを離れた。しかし圧倒的多数はアメリカにとどまった。200万の東欧ユダヤ人は既にアメリカに根をおろしていたからである」

「東欧ユダヤ人にとってニューヨークは『約束の都市』であり、アメリカは『約束の土地』であった。1881年にロシアで起きたアレクサンドル2世の暗殺の余波としての東欧ユダヤ人の大移住の開始から、第二次世界大戦へのアメリカの参戦の頃までの時期は60年間である。この間に東欧系ユダヤ移民の世代は巨大な変化を体験した。彼らは『東欧ユダヤ人』から『東欧系ユダヤ移民』となり、最後に『ユダヤ系アメリカ人』となったのである」

 

 


 

■■第7章:ロシア革命後のソ連のユダヤ人


■スターリンによる大粛清


●ロシア革命以後しばらくの間、国内のユダヤ人は法的な面ではかつてなかったほどうまくいっていた。ユダヤ人は都市住民の8%、商人の20%、手工業者の40%を占めるようになっていた。

しかし、スターリンの権力体制への移行にともない、情勢はふたたび急変した。個人企業家は全面的に禁止された。多数のユダヤ人が階級の敵であると宣告された。彼らは選挙権を失い、高等教育を受ける権利や医療を受ける権利、食料切符を受ける権利を失った。


●共産党内部のユダヤ人支部は1930年にことごとく廃止された。党指導部での権力抗争のなかで、スターリンとその支持者とは、ボルシェヴィキの中から着々とユダヤ的要素を除去し、意図的に反ユダヤ主義のスローガンを掲げた。彼らの敵のなかには一部ユダヤ人がいたから、奴らは労働者階級とはなんら共有するもののない、小市民的ユダヤ人インテリだと言われたのである。

比較的高位の公職についているユダヤ人や、新経済政策の時期に蓄財した投機家や利得者のなかに混じっていた多くのユダヤ人に対して、底流として存在していた人びとの不信感が利用された。スターリニズムのテロ、すなわち1930年代の「粛清」の犠牲となって倒れたユダヤ人も数え切れなかった。特に芸術や学問の分野からは多くの犠牲者が出た。

 

■スターリンが重用したユダヤ人幹部


●スターリンによる大粛清は、古参のボルシェヴィキの追放・抹殺であったが、それは、もう一方では、好ましくないユダヤ人幹部の排除であった。スターリン政権は宿敵トロツキーなどの現実離れのしたユダヤ人革命家に取ってかわった、より保守的なユダヤ人の集まりであった。

この同化ユダヤ人によって支配されていたスターリン政権は反シオニズムであった。

 


スターリン政権の外交を担当した
マクシム・リトヴィノフ(ユダヤ人)と
ヴャチェスラフ・モロトフ(妻がユダヤ人)

※ 1930年にスターリンによって外相に任命された
リトヴィノフ(本名フィンケルシュタイン)は、前任者が
遂行してきた善隣外交と革命の輸出という二元外交から、ソ連と
資本主義諸国との平和的共存に方針を転換した。この方針の転換は
レーニン亡き後、「世界革命論」を主張する宿敵トロツキーに対して、
「一国社会主義論」を主張したスターリンからの指示によるものであった。

その後、1939年にナチス・ドイツとの融和のためにヒトラーの歓心を
買おうと企図したスターリンによって、ユダヤ人であったリトヴィノフは
解任され、モロトフ(本名スクリャービン)が任命された。モロトフは
すぐさま「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」を
締結して世界を驚愕させた。(しかし1953年のスターリンの
死後、彼はフルシチョフ路線に反対したため、1956年に
 外相を解任され失脚し、1961年に除名された)。



↑独ソ両国にとっての「共同草刈り場」となったポーランド(1939年)

※ 共産主義を標榜するスターリンと反共のヒトラー、この本来結びつくはずのない両者は
1939年8月突如として「独ソ不可侵条約」を締結して世界を驚かせた。この条約によって、
ドイツはソ連の中立を確保したため、安心してポーランドに侵攻することができるようになった。
(締結からわずか1週間後の9月1日、ドイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した)。

今日、その責任はすべて一方的にポーランドへ侵攻したヒトラーにありとされている。しかし、
ドイツ軍がポーランドに突入したとき、宣戦布告のないままスターリンの軍隊もポーランドに
入ってきたのである。しかもドイツ軍によってワルシャワが完全に破壊されてしまうまで
スターリンの軍隊は一歩も動かずに静観していたのだ。いわばポーランドは、
独ソ両国にとっての「共同草刈り場」となったのである。

 

●スターリンが重用したユダヤ人幹部の中で、最も大きな政治力を持っていたのはスターリンの大親友だったラーザリ・カガノビッチである。

彼はスターリンが死ぬまでソ連共産党政治局員としての職務を果たし、重工業担当委員として、ドネツ炭田の開発やソ連初の地下鉄システムの建設にその手腕を発揮した(モスクワの地下鉄には1955年まで彼の名前が冠されていた)。1938年には副首相に就任し、第二次世界大戦中はスターリンの国防委員会のメンバーとして活躍した。

しかしスターリンの死後、かつての子分・フルシチョフと対立して政府と党の役職から追放され、1957年にウラル地方のセメント工場長に左遷されたのであった。

 


スターリンの片腕といわれた
ラーザリ・カガノビッチ(ユダヤ人)

※ ウクライナのキエフ近郊のユダヤ人家庭の出身で、
スターリンの腹心として経済政策の多くを監督した。頑強な
無神論者として知られ、ロシア正教の「救世主ハリストス大聖堂」の
爆破をはじめ、数多くのキリスト教会や歴史的建造物の破壊活動を主導し、
ウクライナにおいては悪名高い人為的大飢饉「ホロドモール」を引き起こした
責任者としても知られる。また、1930年代後半のスターリンの「大粛清」に
おいても中心的な役割を果たし、180を超える粛清リストに個人的に署名して
数万人を死に追いやったとされる。彼はスターリンの命令を実行する上で、
その冷酷無比ゆえに「鉄のラーザリ」というあだ名で呼ばれていた。

 

■スターリンとイスラエルの関係


●革命後のソ連は、少数民族の平等を宣言し、ユダヤ人も平等な権利と機会が保障されてはいたが、ユダヤ教は他の信仰とともに反宗教闘争の対象となり、ユダヤ人国家の建設をめざす「シオニズム運動」はブルジョア思想として排斥されることになった。

また、市民の間に染み込んでいたユダヤ人に対する根強い反感や偏見は、革命によっても一掃されはしなかった。

 


「イスラエル共和国」の独立宣言(1948年)

 

●スターリンとイスラエルの関係について、東京大学教授の鶴木眞氏は著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。

「イスラエル建国からほぼ25年の間イスラエルを支配したのは労働党を中心とした『社会主義』を標榜する政党の連合であった。だからスターリンは、建国当初のイスラエルに対して大きな期待を抱いていた。

第二次世界大戦が終了した時点での中近東は、イギリスやフランスやアメリカの影響がきわめて大きく、したがって社会主義を標榜し、ロシア系のユダヤ人が主流を占めていたイスラエルの出現は、スターリンをして社会主義の橋頭堡をこの地域に築くうえで期待できるものと感じさせた。スターリンは、第一次中東戦争に際してイスラエル支持に回ったばかりでなく、イスラエル国家の承認を世界に先駆けて行ったのであった。

しかし、その後イスラエルがアメリカ陣営に、主として経済援助を引き出す必要からくみするにいたり、反イスラエル=反シオニズムの厳しい態度をとったのである。」

 


(左)『真実のイスラエル』鶴木眞著(同友館)
(右)イスラエル(パレスチナ地方)の地図

 

 


 

■■第8章:スターリンによるウクライナ人大虐殺「ホロドモール」


■「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていたウクライナで起きた悲劇


●革命後のソ連政府は、農民をうまくコントロールするために農民を集団化したが、この農場集団化政策に対して最も頑強に抵抗したのがウクライナ人であった。


●スターリンはウクライナの民族主義者、インテリ、集団化政策の反対者、そして彼の権力にとって脅威であると見放した者は誰でも抹殺した。

豊かな土壌に恵まれたウクライナではあるが、課せられた収穫高の達成は困難で、さらに当局による厳しい食糧調達に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者達の溜まり場であるとして目をつけられていた。

真っ先に教育のある地方エリートが攻撃目標となり、何百人もの作家や学者たちが告白を強要され、監獄や収容所へ送られた。独立ウクライナ教会の関係者も同様に弾圧の対象となった。

 


ソ連のヨシフ・スターリン(1879~1953年)

 

●当局の政策を批判したかどで100万人のウクライナ人が粛清され、1000万人がシベリアのタイガでの森林伐採、極寒地での白海運河建設の為に連れ去られたという。

※ スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食糧調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられた。男子は白海運河建設へ、女子はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされたのであった。

 

■人為的大飢饉による「ホロドモール」と呼ばれる大虐殺の始まり


●さらに恐ろしいことに、スターリン政権は彼らを完全屈服させるために、1932年から1933年にかけて、ウクライナに人為的大飢饉を起こすという大掛かりな作戦を実行。ウクライナ国境を封鎖し、農民から家畜、収穫物、穀物、その他の食糧を取り上げてしまったのだ。

 


大飢饉につながる政策を主導した腹心の
ラーザリ・カガノビッチ(前出)とスターリン


(左)ウクライナ北東部のハリコフで栄養失調で痩せた少女
(中)草さえ生えなくなった土地で飢えで亡くなった女性の死体
(右)階段の途中で力尽きて倒れ込んでしまった若い女性(生死は不明)


栄養失調に陥った子供たちは満足な医療も受けられないまま息を引き取っていった

 

●こうして世界史上最大規模の悲劇=ホロドモールの悲劇が引き起こされたのである。

※「ホロドモール」とはウクライナ語で「飢饉(ホロド)」で「苦死(モール)」させることを意味する。オスマン帝国のアルメニア人虐殺(犠牲者は100万人以上)や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコースト(犠牲者は600万人)などと並んで、20世紀最大の悲劇の1つとされている。

 


ウクライナでホロドモールの悲劇が起きた地域(1932~33年)

※ 黒く塗られたエリアが最も悲惨な飢饉が起きた場所である



(左)亡命中のウクライナ人によって発行されたリーフレット
(右)ホロドモールを伝える『シカゴ・アメリカン』の記事


※ 追記:

●2006年11月、ついにウクライナ議会がこの事件を「旧ソ連によるウクライナ人に対するジェノサイド」と認定した。ホロドモールについてはこの本がかなり詳しいのでオススメです↓

 


『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 ─ スターリンの農業集団化と飢饉テロ』

ロバート・コンクエスト著(恵雅堂出版)

※ 上の帯より⇒「餓死者700万人以上、1933年の
ヨーロッパの穀倉地帯 ウクライナを襲った20世紀最大の悲劇

ヒトラーのホロコーストを上回るスターリンのウクライナ農民大虐殺──
中国、カンボジア、北朝鮮へと続く飢饉テロの原型──の全貌を初めて世界に
 知らしめ、 ソ連崩壊を加速させたロバート・コンクエストの歴史的名著初邦訳!」



(左)首都キエフのミハイリフスカ広場に建てられたホロドモール慰霊碑
(右)ウクライナのアーティストが制作したホロドモールのポスター

 

※ この大虐殺についてもっと詳しく知りたい方は、当館作成のファイル
「スターリンによるウクライナ人大虐殺「ホロドモール」の悲劇」をご覧下さい。

 

 


 

■■第9章:第二次世界大戦後のソ連のユダヤ人


■ヒトラー化していったスターリン


●第二次世界大戦後のスターリン体制最後の数年間(1948~1953年)は、ユダヤ人にとって暗黒期であった。この時期に生じた反ユダヤ的事件は以下の通りである。


◎秘密警察によるS・ミカエルの暗殺。ミカエルはユダヤ国立劇場の演出家ならびにユダヤ反ファシスト委員会の議長を勤めていた。

◎1930年代及び大戦中に設立された全てのユダヤ人文化協会・団体の廃止。

◎1949年からのソビエト新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言。特にユダヤ人の世界市民的な面が攻撃された。すなわち「母国をもたない根なし草」、反逆分子、など。西側陣営に対する教育の要素が強い。

◎ユダヤ反ファシスト委員会の廃止。ユダヤ人作家、芸術家などが逮捕もしくは殺された。

◎クリミア事件。スランスキー裁判。いずれもユダヤ人が罰せられた。「ドレフュス事件」に匹敵する。

◎ユダヤ人医師陰謀事件。スターリンの権力闘争に利用された事件。事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。

◎ユダヤ人とイスラエル、アメリカとをソ連の共通の敵とする大衆宣伝開始。

 

 

●最近の研究によって、スターリンもまたヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の「最終的解決」を図ろうとしていたことが明るみに出ている。つまり、スターリンはユダヤ人たちの集団流刑の計画を立てていたのである。ロシア文学の大家トルストイの子孫である歴史学者ニコライ・トルストイは、その著『スターリン』(読売新聞社)の中で次のように述べている。

「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行われた。そしてとどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。ロシアのユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に放逐されるはずであった。スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は妨げられたのである。」

 


(左)歴史学者のニコライ・トルストイ
(右)彼の著書『スターリン』(読売新聞社)

※ 彼は文豪レフ・トルストイを生んだロシア貴族の名門
トルストイ伯爵家の直系の子孫で、現在はロシアとイギリス
 の二重国籍を有し、英王室文学協会の会員として活動している。

 

■フルシチョフによるスターリン批判


●1953年にスターリンが亡くなると、1956年2月の第20回党大会において、フルシチョフはいわゆるスターリン批判を開始する。しかしその際、スターリンの行った反ユダヤ政策については全く触れなかった。

※ フルシチョフの反ユダヤ政策はスターリンほど強いものではなかったが、ユダヤ人を「経済的犯罪者」(資本家)として描き、スターリン同様の大衆宣伝を行った。この宣伝は1961年から1964年まで保安警察によって行われた。

この時期には、シオニズムとイスラエル共和国とを告発するだけでなく、ユダヤ教そのものをも歴史的にも文化的にも有害な宗教として告発する本、パンフレットも現われた。これらの印刷物には、しばしば露骨な反ユダヤ的漫画が描かれていた。

 


若い頃からウクライナとの縁が深かった
第4代ソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ

※ 彼はウクライナ国境近くの貧しい農家に生まれ、ウクライナの
共産党第一書記を経て党中央執行委員になる。独ソ戦の始まりとともに
ウクライナ防衛にあたり、1953年のスターリンの死後、第一書記に就任。

1956年の党大会ではスターリンを批判して、内外に大きな衝撃を与えた。
1958年からは首相を兼任して、いわゆる米ソ冷戦の緩和に努力したが、
中ソ問題の解決や農業政策の指導に失敗し、1964年に失脚した。
(ちなみに彼の妻ニーナはウクライナ西部の出身だった)。

 

■ユダヤ人を差別し続けたソ連


●結局、ソ連は第二次世界大戦後、ユダヤ人を差別し続けた。

スターリン時代から1990年代初頭のソ連崩壊にいたるまで、ソ連の上級官僚に任命されたユダヤ人は皆無に近い。教育でも就職でも、ユダヤ人は常に差別されてきた。第5代ソ連最高指導者ブレジネフの時代(1964~82年)からユダヤ人にもたらされた恩恵といえば、ただ1つ、出国の機会だった。

 


(左)ソ連からの出国を求めるロシア系ユダヤ人
(右)イスラエルにおけるロシア系ユダヤ人の入植地

1989年1月のソ連の国勢調査によれば、ユダヤ人の人口は
145万人であったが、7万人が年末までに出国移住し、そのうちの
6万人がアメリカへ移住した。1990年から1993年の間に58万人の
ユダヤ人がソ連を去り、その80%はイスラエルへ移住した。これは1993年
までに旧ソ連のユダヤ人のなんと45%が出国移住したことを意味している。

 

●『赤の広場』などの著書で知られる旧ソ連生まれのユダヤ人エフ・ニエズナンスキーは、1986年に日本の雑誌『中央公論社』の対談で、ソ連の「ユダヤ人問題」について次のように語っている。(ちなみに彼は、モスクワ大学を出て25年間にわたり司法界で活躍したが、1977年に旧西ドイツに亡命した人物である)。

「ロシア革命の時には、ユダヤ人はかなり多くの人たちが功績を立てたので、スターリン独裁が確立されるまでは政治の世界でも活躍の場を持っていた。1930年代には党の地方委員会にもユダヤ人がいたことがある。ところがスターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題はちょっと特別な社会の病理現象といった感じで受け止められるようになってきて、結局、スターリン時代の後は政治の檜舞台からユダヤ人は一掃されたと言ってよい」


●また、大阪市立大学名誉教授の平井友義氏は、スターリンの反ユダヤ政策について次のように述べている。

「スターリンの『外国人嫌い』はよく知られているが、戦争中は連合国との協力のために、それは抑えられていた。しかし、戦争が終わり戦時同盟が敵対関係に変わると、スターリンはやがて『コスモポリタニズム』や『外国への跪拝(きはい)』に反対する徹底的なキャンペーンを組織するようになった。その標的は国内のユダヤ人であった。スターリンは戦後の国民生活の辛苦、経済的困難の責任を転嫁すべき『敵』を必要としていた。

スターリンの孤独と不安と猜疑心は、ついにユダヤ人に対する『大粛清』という狂気すれすれのシナリオに行き着くのである。これが1953年1月に党機関紙『プラウダ』で発表された『クレムリン医師団陰謀事件』の背景であった。ユダヤ人医師たちが中心となって、ソ連指導者の毒殺を計画したというのである。

こうしてソ連のユダヤ人をシベリアや中央アジアに強制移住させる計画が実行に移されそうになったまさにその時、3月5日、スターリンは病死した。ソ連は重苦しく垂れこめていたスターリン主義の暗雲を、やっとくぐり抜けることができた。しかし、ソ連国民を待つ前途は決して平坦ではなかった」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:ウクライナのユダヤ人に関する情報


■旧ソ連における反ユダヤ政策について


●帝京大学教授の高山正之氏は『週刊新潮』(2005年7月28日号)の連載「変見自在」の中で、アメリカで会ったウクライナ系ユダヤ人のタクシー運転手との会話の内容を紹介している。

興味深い内容なので参考までに載せておきたい↓


……この運転手に聞きたかったのは、旧ソ連でのユダヤ人の生活だ。

森繁の『屋根の上のバイオリン弾き』にあるように、ロシアはユダヤ人集落を襲い掠奪を欲しいままにするポグロム(ユダヤ人迫害)の本場だ。

彼も子供時代、キエフでそれを体験し、身内を殺されているが、「ロシア人よりグルジア人のスターリンの方がもっと陰険でひどかった」と言う。

「身分証明書は氏名、生年月日などが4行で書かれるが、我々のには5行目があった。ユダヤ人と書かれていた」

 


旧ソ連時代のユダヤ人の身分証明書

※ 5行目にロシア語でユダヤ人(еврей)と記されている

 

そしてある日、自宅から追い出され、他の「5行目」の人々と一緒にカザフの街に送られた。

カザフからは逆にその地のタタール人がロシアの各地に送り出された。

「タタール人を分散させて彼らの結束力を奪う。それでも武装蜂起すれば、最初にやられるのが我々5行目たち。ソ連のための人間の盾というわけだ」

スターリンの残忍さ、人でなしぶりが実によく分かる話だった。


ウクライナ系ユダヤ人は語る「日本人には申し訳ないことをした」より

 

●ちなみに前出の旧ソ連生まれのユダヤ人エフ・ニエズナンスキーによれば、「ソ連政府はユダヤ人をウクライナ人と結婚させる同化政策を取って、ユダヤ人がソ連社会に溶け込んでいくようにすることを考えていた」という。

 

■ロシアおよびウクライナに住むユダヤ人のアイデンティティに関する調査で判明したこと


●1992年にロシアおよびウクライナで行われたユダヤ人のアイデンティティに関する調査によると、ユダヤ教を信仰することがすなわち「ユダヤ人である」と回答した者は、わずか3%しかいなかったという。

ユダヤ性を構成するどのような要素がロシアとウクライナのユダヤ人にとって重要かを明らかにすることを求めると、回答者は誇りと帰属意識、知識よりもむしろ情緒に焦点を向け、信仰とか知識はユダヤ人であることにとっては重要だとは考えられていなかったという。

 


(左)ウクライナのユダヤ人女性 (右)ウクライナの国旗

 

●このように、回答者のおよそ半分は自分自身のユダヤ性を「誇りにしている」、ユダヤ性を「隠さず擁護している」、それにホロコーストは「忘れない」といった項目を選択したが、ほとんど誰ひとりとして、ユダヤ人にとって不可欠な要素が「宗教上の決まり──安息日あるいは食事の決まりを守る、シナゴーグに参加するあるいは男の子に割礼を施す──を遵守すること」であると信じてはいなかったそうだ。

多くの人はユダヤ人であるためにはユダヤ教を信仰しなければならないという考えを拒否していたという。ロシアのあるユダヤ人回答者はこう言ったという。

「ユダヤ教は知るべきですね。でも信仰する必要はありません」


●かなり多くの人にとっては、ユダヤ人であることの唯一の必要十分条件は、自分自身をユダヤ人であると感じること、あるいは「自分の精神にユダヤ人を感じる」ことであるという。血縁や宗教などに基づくユダヤ人の定義は必要ないという。

ウクライナのある年老いた女性はきっぱりとこう言ったという。

「ユダヤ人であれば誰だって自分がユダヤ人であることを知っていますよ。ただそれだけです」


●また、何人かのウクライナのユダヤ人にとって、「ウクライナではユダヤ人であることは追放された人間」だという。あるユダヤ人回答者は、ユダヤ人であることは「生涯、犯してもいない罪のために罰の重い重荷を背負うことである」と信じていたそうだ。

また、ある人は次のように言ったという。

「ユダヤ人であるということは、ユダヤ人性が永遠に存在するために苦しむ、迫害され、追われ、また殴られる集団に属していることである。私はそのひとりであることを誇りにしています」

 

■ウクライナのユダヤ人に関するさらなる情報


●ユダヤ学の第一人者として知られるユダヤ人ツヴィ・ギテルマンは、ウクライナのユダヤ人について次のように述べている。

「ウクライナは300年間におよぶ反ユダヤ主義とポグロムに結び付けられた。

反ユダヤ主義とポグロムとは、1648年のフメリニツキーの乱と1734年のハイダマキの暴動に始まり、1880年代、1905~6年、1918~21年のロシア内戦、1939~41年の西ウクライナにおけるユダヤ人攻撃、それにウクライナ人のナチスに対する大規模な協力にいたるまで続いた」

 


ドイツ軍を解放者として歓迎するウクライナ人たち(1941年)

※ 古くからウクライナ人とユダヤ人の間には常に社会的緊張関係が生じていた。
ウクライナ人が抱く反ユダヤ的感情は、他のヨーロッパ諸国に負けないほど激しかった。
第二次世界大戦中のウクライナで繰り広げられたユダヤ人迫害の実態については、
当館作成のファイル「ソ連・東欧諸国でのユダヤ人虐殺」をご覧下さい。

 

●さらに彼はこう述べている。

「『寄留者』意識が強いユダヤ人は、ロシアよりもウクライナに多いようである。ロシアのユダヤ人は主流文化に完全に組み込まれているが、ウクライナのユダヤ人は、政治的に認められていないロシア語をウクライナのロシア人と共有している。

ロシアのユダヤ人は最近まで政治および経済で非常に傑出していたが、ウクライナのユダヤ人は実質的に政府の権力の座には存在していなかった。また、経済面でもそれほど目立っていなかった。ロシアのユダヤ人は自分の国の政治にウクライナのユダヤ人に比べて遥かに関わっている」


●ところで、ある歴史研究家がソ連崩壊後にドイツ・ボン近郊のウクライナから出てきたロシア人たちが多く住んでいる場所へ行き、その中の長老格の人物に次のような質問をしたという。

「旧ソ連の人びと、中でもロシア人やウクライナ人は、国内にいるユダヤ人が聖書の言っているユダヤ人ではなく、元はハザールという民族だということを知っているのか?」

すると彼はただちに次のように回答したという。

「彼らは皆そのことをよく知っています。聖書のユダヤ人というのはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫(セム系)であり、神の選びの民ということになるが、旧ソ連のユダヤ人は何の関係もない人たちです。あなたの言うように彼らはハザール人であって、今から千年前中央アジアにいた人たちのことです。それもヴォルガ川のカスピ海に注ぐ河口付近の町、アストラハン(イティル)がその中心地でした。ご存じと思いますが、カスピ海はかつてハザールの海と呼ばれていたのです」

 


↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域

※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は
5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれる


↑上はアダムからノアの3番目の息子ヤペテ(コーカソイド)の子孫までの血統図であるが、
ヤペテの子孫に「アシュケナジー(アシュケナズ)」という民族名が含まれていることが分かる。
このように「アシュケナジー」という呼称はもともとは『旧約聖書』にルーツがあり、「ハザール」
という呼称はアシュケナジーの弟にあたるトガルマの7番目の息子の名前が由来となっているのだ。
※ ちなみにコーカソイドとは世界三大人種の一つで「コーカサス出自の人種」という意味である。



↑アシュケナジー系ユダヤ人と
スファラディ系ユダヤ人の移動地図

※ 2つの異なるユダヤ人の詳細はココをクリック

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ハザール王国史(年表) 

ハザール王国とユダヤ人の関係について 

元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌 

スターリンによるウクライナ人大虐殺「ホロドモール」の悲劇 

イスラエルは東欧系ユダヤ人の「ガリチア人」が支配している 

ユダヤ人のアメリカ移住史 ~ユダヤ移民の5つの波~ 

ソ連・東欧諸国でのユダヤ人虐殺 

 


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