No.a6fha100

作成 1998.1

 

十字軍の暗黒史

 

 

第1章
十字軍遠征の政治的真相とは
第2章
異教徒に寛大だったイスラム世界
第3章
十字軍によるユダヤ人迫害の実態
第4章
「アルビジョワ十字軍」による
カタリ派大虐殺
第5章
「テンプル騎士団」の栄光と
壮絶な結末
第6章
終末思想に突き動かされた
「民衆十字軍」の狂気

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■■第1章:十字軍遠征の政治的真相とは


●宗教に起因する戦争は多数ある。宗教をめぐっての争いは絶えなかった。しかし、そのほとんどがヨーロッパ周辺で起き、しかもキリスト教をめぐってのものであったことを歴史は示している。大別すれば、一つは異教(徒)を弾圧・排除するための戦争であり、もう一つは「権力装置」としてのキリスト教(教会)に対する、いわば反乱の戦いである。

ユダヤ教の成立とほぼ同時期に出現した仏教、ヒンズー教、あるいは紀元7世紀に登場するイスラム教などの生成・発展の過程にも、この種の争いが皆無であったとはいえないが、その独善性、排他性の激しさにおいて、キリスト教のそれは言語を絶するものである。



●キリスト教による異教徒弾圧として、もっとも有名なのは、合計8回にわたって繰り返された十字軍の遠征だろう。この十字軍の遠征は約200年間続き、犠牲者は何百万人とは言わないまでも相当な数にのぼった。

第1回十字軍が組織されたのは1096年だが、「聖地エルサレム奪回」を掲げた彼らの“蛮行”ぶりはすさまじかった。エルサレムを陥れるや否や、イスラム兵士はもちろんのこと、老若男女を無差別に殺害したのである。しかも、それは「神の名において」なされたのである。

フランク王国(のちのフランス)の年代記者であるラウールは、第1回十字軍遠征の様子を、次のように記している。

「マアッラ(地中海に近い今日のシリア領)で、我らが同志たちは、大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった。」


●このような惨事の記憶はアラブ(イスラム)の人びとのあいだに口伝えによって広められ、ヨーロッパに対する消しがたいマイナスイメージを定着させてしまった。当時、まだ幼かったアラブの年代記者、ウサーマ・イブン・ムンキズは、後日、次のように記している。

「フランク王国に通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。ヨーロッパの人間たちは、勇気と、戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性で優れているのと同様である。」


●一方、第1回十字軍遠征に従軍したフランスのある聖職者は、次のように記している。

「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長いあいだ冒涜をほしいままにしていたアラブの人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう“神の裁き”は正しく、賞賛すべきである。」



●ところで、十字軍の遠征は、当時、勢力を拡大しつつあったセルジュク・トルコによるパレスチナの占領、および聖地エルサレム巡礼を行なうキリスト教徒への迫害に対する、解放をめざした「正義の戦い」というのが通説とされてきた。しかし、これこそキリスト教的世界観のみに偏した、「独善的」な歴史観といわねばならない。

地中海を囲むこの地域は、神聖ローマ帝国を中心とする西ヨーロッパ、そして東ヨーロッパのビザンチン帝国、およびイスラムの三大文化圏がひしめく接点であった。このなかで8世紀以降、窮地に立たされたのがビザンチン帝国であった。東からは新興のイスラム勢力(セルジュク・トルコ)によって脅かされ、いっぽう11世紀になると、農業生産力を基盤に、西ヨーロッパが力を蓄えて膨張してきたからである。しかも1054年以降は、「正統と異端」をめぐって東西のキリスト教教会が分裂(ビザンチン帝国にギリシア正教が成立)し、西ヨーロッパとの不和は深まっていた。

このような情勢のなか、ビザンチン帝国の救国を図らんと一計を案じたのが、時の皇帝アレクシオス1世であった。パレスチナにおけるセルジュク・トルコ(イスラム教徒)によるキリスト教徒迫害を、大々的に誇張してローマ教皇ウルバヌス2世に報告し、“異教徒制圧”のための援軍を要請したのである。教会の再合同=西ヨーロッパとの和解が交換条件であった。


●東方の情勢に疎かったローマ教皇ウルバヌス2世は、援軍要請をまともに受け取った。そして、「東方のキリスト教徒に対する救援と聖地の解放は、全ヨーロッパのキリスト教徒の至上の義務である」と呼びかけ、十字軍を組織したのである。同時に、ウルバヌス2世を動かした背景には、東側からの交換条件という魅力があった。この機会に、東方のキリスト教に対する優位を確立し、自らの勢力を拡大しようという野望である。すなわち十字軍は、東西ヨーロッパ指導者の政治的野心による合作であった。キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、その「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられたのである。

第一に、十字軍遠征当時(11世紀末)のパレスチナ地方においては、ビザンチン帝国皇帝がローマ教皇に報告したような、イスラム教徒によるキリスト教徒迫害という事実はなかった。イスラム教の寛容政策が行きわたっていたからである。イスラム側にとって第1回十字軍の遠征は、まさに不意討ちであった。もっとも、十字軍側の勝利はこの第1次遠征のみであり、1291年まで続くのちの8回にわたる戦いはイスラム側の勝利に終始した。

(なお、1221年に純真なるキリスト教徒による「子ども十字軍」を組織したという悲劇的なエピソードがある)

 

 


 

■■第2章:異教徒に寛大だったイスラム世界


●イスラムは「聖戦=ジハード」によって勢力圏を拡大した、とよく言われる。そして、そのとき引用されるのが「左手にコーラン、右手に剣」という言葉である。「イスラム教に帰依するか、さもなくば皆殺し」という、イスラム教徒の容赦のない征服者的態度を意味するが、実はこれはキリスト教徒による「異教徒排除」のための宣伝からきたものであり、真実ではない。

たしかに、7世紀の前半からイスラム世界は拡大し、東はインドネシアから西はイベリア半島、さらには西アフリカに至る広大な地域を支配下に収めた。しかも、その繁栄は17世紀まで、約1000年も続いたのである。その過程では、幾多の戦争が繰り返され、多民族への圧迫も加えられた。また、権力争いにつきものの内部対立や分裂も不可避であった。イスラム世界とひとことでいっても、それを構成するのは、もとより単一民族ではなく、中世に主流を占めたのは、好戦的といわれる多数の騎馬民族であった。そして、多民族が並存しえたところにイスラム世界の特徴がある。


●イスラム教徒自身は、ジハードを次のように定義している。

「イスラムは平和主義をモットーとするが、それは無条件な平和主義ではなく、また無抵抗主義でもない。邪悪、不正に対しては抵抗を要請し、義務づけている積極的な平和主義である。人間性の尊厳、人権の擁護、社会秩序の維持のための実力を用いることの正当性について、コーランは次のように述べている。『神は戦いを仕向けられた者たちに、戦闘を許したまう。それは彼等が害悪を被ったからである。まことに神は彼らを力強く助けたまう』」(イスラミック・センター・ジャパン協会発行『ジハード』より)。


●イスラム世界の拡大は、イスラムの教義である「コーラン」の教えに基づいたものであった。征服地の異教徒は、まずイスラムに帰依することを勧められた。しかし、それは「コーランか、さもなくば剣か」という強制的なものではなかった。イスラム教への帰依を拒否しても、ただちに殺害されることはなく、ジスヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を納めるならば、生命はもちろん、信仰や財産も保証されたのである。異教徒(ユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教など)であっても、事情は同じであった。むしろ、それら異教徒は「聖典の民」と呼ばれ、とくに寛大な扱いを受けた。それだからこそ、イスラム世界は1000年以上の安定を築き、そのなかから、宗教を超越した文化が生まれ育ったのである。

とかくイスラム世界の拡大と繁栄に関しては、「ジハード」という宗教戦争が原動力であったと強調されるが、実情は政治的・経済的動機による領土の拡大であり、イスラム教という宗教は、その“補助手段”として機能したのである。すなわち領土の拡大に伴う異民族、諸宗教とのあつれきをやわらげ、多層の人々が共存できるような体制づくりである。「平等と寛容」を基本とするイスラム教の精神は、このような背景から育まれていった。

 

 


 

■■第3章:十字軍によるユダヤ人迫害の実態


●十字軍は、「十字架のために聖地パレスチナを異教徒から奪回せよ」という掛け声で始められたわけだが、その征伐されるべき「異教徒」はイスラム教徒だけではなく、ユダヤ人も含まれていた。

例えば、第1回十字軍は、聖地エルサレムを占領して「ラテン王国」を建設した時(1098年)、同地に残っていたユダヤ人をことごとくシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に閉じ込め、それに火をかけて焼き殺した。


●また、それより前、第1回十字軍が誕生したばかりの1096年に、早くもラインラントでユダヤ人迫害が起こっている。ひどい暴力行為を行なったのはドイツ人集団だった。ドイツにおいて生まれた十字軍参加者は、その装備や資金ともに、遠路聖地へ向かうには全くもって不充分であった。そこで彼らは東方へ赴く前に、ライン河沿いの町にある豊かなユダヤ人コミュニティー(ゲマインデ)を次々と襲い、略奪と殺戮を重ね、異教徒征伐をすると同時に、資金、物資の調達をしたのである。


●このユダヤ人迫害が単に通りすがりの爆発的なものではなく、はっきりと意図的に行なわれたものであることは、次のことからわかる。つまり、十字軍兵士は元来東方へ向かうべくライン河に沿って東南の方向、すなわち河の上流へ向かって進むべきところ、逆に北の方向、ライン河の下流へ向かって進撃しながらユダヤ人コミュニティーを襲撃しているのである。

その最初の犠牲となったのが、ライン中流域の町シュパイエル(1096年5月3日)であり、次いで北方、下流へ向かってヴォルムス(同年5月18日と25日)、マインツ(同年5月28日)、ケルン(同年7月8日)、ノイス(同年7月14日、ジュッセルドルフに隣接した町)などの順で、略奪と殺戮が行なわれている。

その際、即刻洗礼を受けてキリスト教へ改宗しないユダヤ人は、女、子供の見さかいなく虐殺されたり、焼かれたりした。ユダヤ人たちはドイツ皇帝や司教の保護の名のもとに抵抗を試みたが、多勢に無勢でなすすべもなく、多くのユダヤ人は自分の家に火を放ち、財産もろとも焼身自殺をしたのだ。


●こうして第1回十字軍を契機に、ライン河で開始されたドイツでのユダヤ人迫害は、20世紀のヒトラー政権による大規模なユダヤ人迫害に至る序幕となったのである。それに引き続く第2回、第3回十字軍下での迫害をはじめ、政治危機や社会不安、人災、天災、凶作、ペストなどを契機とした民衆の激昂、極度の不満や怒り、宗教的狂信、偏見、誤解などによりユダヤ人は繰返し迫害される破目となった。


●当時(十字軍時代)、こんな噂も飛び交った。ユダヤ人はキリスト教徒の子供をさらって人食い儀式の生け贄にするらしい、ユダヤ人はキリスト教の秘蹟を真似して神聖を汚している、と。それは、かつてローマ人が嫌われ者のキリスト教徒に対して使った手口だった。そして、将来キリスト教徒が魔女に対して、またプロテスタントがカトリックに対して使うことになる手口でもあった。ユダヤ人を虐殺し、彼らのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)やゲットーを破壊することは、キリスト教徒の正義の証しとみなされ日常茶飯事となった。

また、ユダヤ人迫害には別のメリットがあった。ユダヤ人は金融業の大部分を営んでいたため、ユダヤ人を迫害することは、借金を帳消しにする便利な方法でもあった。負債のある王たちは宗教問題をネタに、貸主のユダヤ人の財産を没収し、彼らを領地から追放したのだ。

なお、ヒトラー以前に、ドイツ史上最大のユダヤ人迫害が行なわれたのは、中世最大のペストが流行した時期(1348年前後)である。このとき、ペストが流行していない地域のユダヤ人も迫害された。


●このように、キリスト教徒によるユダヤ人迫害は、十字軍を契機として、十字軍と連動する形で著しく強化されたのである。もし十字軍運動が起きなかったら、ユダヤ人迫害はこれほどまで酷くならずに済んだかもしれない。

 

 


 

■■第4章:「アルビジョワ十字軍」によるカタリ派大虐殺


●キリスト教はローマヘの進出前後から「異端派」との戦いを余儀なくされてきた。迫害が外部からの破壊であるとすると、異端は福音にひびを入れる内部的な歪みを生みだす力であった。その動きはすでに2世紀に見られたのである。

異端を代表するものは、「グノーシス主義」「マルキオンの教え」「モンタノス主義」の3つであったといわれる。更に「マニ教」が加わる場合がある。


●マニ教は、始祖マニ(216頃〜277年)によってゾロアスター教の強い影響下に生まれたものであるが、グノーシスのひとつの完成した形でもある。マニ教はグノーシスと並んで二元論的宇宙観を主張したため、「神」一元論を強力に推進する正統キリスト教側から徹底的に排除された。

グノーシスとマニ教は発祥以降、中世期にいたるまで無数に浮かんでは消える異端群の、教義的な一大底流となって作用し続けた。そして、ブルガリアに発生した「ボゴミール派」異端の流れを受けついで、11世紀イタリアで「アルビ派」が生まれた。その後その教えは北上し、南フランスのトゥルーズに達するとともに爆発的な普及が始まった。

こうして体制キリスト教からみると中世の最強にして“最悪”の異端「カタリ派」が誕生したのである。なお、カタリ派の影響下にあった南フランスの地は、都市アルビと提携したことから「アルビジョワ派」と呼ばれることがある。また、「カタリ派」は西欧の二元論異端の総称として用いられることもある。



●1198年にローマ教皇の座に就いたインノケンティウス3世は異端カタリ派の進出に心を傷めていた。ラングドック地方を本拠地にするこの異端は日を追って勢力を拡大してゆきつつあった。もともと南フランス地方、とりわけラングドックは地域の独自性を主張し、パリ地方と張り合ってきた土地柄である。

ラングドッグは政治も文化も北部とは異なり、差別意識のない地域だった。ギリシア人、フェニキア人、ユダヤ人、イスラム教徒が仲良く暮らしていたのだ。ユダヤ人は迫害されるどころか、領主から経営顧問をまかされたり、司教になる者までいた。階級の違いもほとんどない。農奴のような屈辱的階級もない。町は自由そのもの。法律はローマ法。教養あふれる民衆。活発な文化と商業。ヨーロッパで最も栄えた地域。それがラングドックだったのだ。


●カタリ主義にはマニ教(ペルシアのマニ教とは直接の関係はないがマニ的二元論が入っていた)だけでなく、諸宗教の要素が入り交じっていた。イスラム教神秘主義(スーフィズム)やユダヤ教神秘思想(カバラ主義)との密接な関係を示す証拠も残っている。女性の司祭もいて、女司祭は最も重要な儀礼「救慰礼」(コンソラメントウム)さえも取り仕切ることができた。カタリ派は自然のさまざまな色や音に神の存在を感じていたらしく、吟遊詩人(トルバドゥール)とも共通する部分があった。

彼らは上流階級や近所のカトリック教徒に愛されていた。ローマ教会が攻め込んできたときも、隣人を売るような真似はできないと言って死を選んだカトリック教徒が大勢いた。カタリ派の人気が広がると、教会は彼らにお決まりの罪を着せた。カタリ派は十字架と秘蹟を冒涜している、人食いの儀式をしている、キリストの存在を否定している、乱交の儀式をしている、といったぐあいだ。


●だが、カトリックの聖ベルナールは、カタリ派びいきというわけではないが、彼らについてこう述べている。

「彼らを問い詰めても、キリスト教徒以上の答えは返ってこない。彼らの会話に非難されるべき点はない。口にしたことは実行する。道徳面はといえば、誰かをだますわけでもなく、誰かを虐げるわけでもなく、誰かに暴力をふるうわけでもない。断食のせいで青白い顔をし、まじめに働き、つつましく暮らしているのだ。」

また、当時のカタリ派の人々についてフェルナン・ニールは次のように記している。

「彼らには誰もが最高の敬意を表わした。帰依者は善信者に行きあうと、その前で三度膝をかがめた。かがめるごとに『祝福を』と言い(中略)、善信者のほうでは、『祝福を』と言われる都度、『神様がお前を祝福なさるように』と答えた」



●カタリ派流行の背後には度重なる十字軍の派遣による人身の荒廃と疲弊、堕落した聖職者たちへの反発の思いがあった。カタリ派の人々は非常に敬虔であった。“カタリ”とは「清浄な者」を意味するギリシア語であった。彼らは自然には「光」が含まれていると信じていたので菜食に徹し、少食であるうえ度々断食すら行なった。不戦主義を守り拷問に耐え忍び、そして死んだ。

性の戒律は厳しく、「完徳者(パルフエ)」と呼ばれる救いの定まった人々はセックスはおろか異性の肌に触れることすら禁じられ、年3回に及ぶ長期の断食を実行していた。そして「完徳者」のみが肉体を去ったのち天上の霊と再結合し、救済されるのである。それ以外の人々は死後、別な身体や動物身体をまとって生まれかわり、この転生は「完徳者」になるまで繰り返される。そして遠い未来に、すべての人は「完徳者」となり救われると信じていたのである。

カタリ派の醜聞が流れても、彼らの人気は衰えなかったし、寛容と独立の風潮が消えることもなかった。ヴィラルボの町では、教会法で厳罰に処されるのを承知で、破門された異端者を司教に選んだほどだった。


●1139年、教会はカタリ派とその支持者を糾弾するために公会議を招集した。1179年、教皇アレクサンデル3世はこう宣言した。教会の敵に立ち向かう十字軍の兵士になれば、2年間、どんな罪を犯しても免罪にし、死に行く者には永遠の救済が約束される、と。この呼びかけは、教会の内乱に市民軍を要請するという先例となったものの、人気のあるカタリ派が相手では十分な兵力が集まらなかった。

教皇インノケンティウス3世はラングドック地方に次々と高位の聖職者を使節として送りこみ、各領主の説得の任に当たらせた。しかし、この策の結末は悲惨であった。シトー会の修道院長ピエール・ド・カステルノーは巧みにアメとムチを使いわけて、数々の成果をあげていた。だが、1208年、彼はレモン6世の側近であると見られる人物によって殺害されたのであった。


●教皇使節殺害の報を受けたインノケンティウス3世は2日間、一言もしゃべらなかったという。そして……、彼は異端討伐の命を下したのであった。

1208年、インノケンティウス3世はこう呼びかけた。十字軍の兵士となった者には、免罪と永遠の救済を約束するだけでなく、異端者とその支持者の土地と財産を与える。こうして、悪名高き「アルビジョワ十字軍」のカタリ派大虐殺が始まったのだ。


●1209年、結集された十字軍は多数の異端者を擁していると目されたベジェの町を急襲した。十字軍がベジェの町に攻め入ったとき、どうやってカトリックとカタリ派を見分ければいいのかという質問に、指揮官の教皇特使アルノーはこう答えた。

「全部殺してしまえ。見分けるのは神だから!」

この言葉で十字軍はカトリックのマドレーヌ教会の境内に逃げ込んだ市民7000人を殺し、虐殺に次ぐ虐殺を続けた。子供とて容赦はなかった。ある歴史家はこう書いている。「死体でさえ辱めの対象となった。女は最悪の屈辱を受けたのである」と。

無差別の虐殺と略奪、そして放たれた火によって町は火の海の惨状を呈し、2日間燃えつづけた。犠牲者の数は3万とも10万ともいわれる。意気あがる十字軍はカルカッソンヌヘと進撃し、再び虐殺が繰り返された……。



●かくて、生まれかわりを信じ、「完徳者」となって天へと“帰還”することだけを目的として、清純に質素に生きたカタリ派の信仰は風前の灯になったのであった。そして、その最後の抵抗の砦となったのはピレネー山脈の麓のモンセギュールの山城であった。

モンセギュールは異教との縁が非常に深い土地柄で、近くにはケルト時代にさかのぼるドルイド教の神殿があり、霊のパワースポットとして知られていた。ワーグナーのオペラ『パルジファル』に登場する「聖杯の城・モンセルバート」は、このモンセギュールの山城がモデルになっている。


●1243年5月から1244年の3月にかけて、カトリック教会とフランス王家の連合による十字軍はこのモンセギュールの山城を包囲して最後の攻撃を加えた。周囲が絶壁となって切れ落ちているモンセギュール峰(1206m)の狭い山頂部にある城の攻略は困難を極めたが、夜となく昼となく投石器によって投げ込まれる石は、カタリ派信徒たちの頭を砕き、身体を潰した。この山城では200人のカタリ派が虐殺された。

運良く脱出に成功した信徒たちには執拗な追跡の手が伸び、捕らえられた信徒は異端審問所に送られ厳しい尋問を受け、生きながらにして火あぶりの刑に処せられたのであった。カルカッソンヌには今も当時の拷問器具が展示されているという。



●以上のように、「アルビジョワ十字軍」は約40年にもわたって討伐を続け、カタリ派だけでなく南フランスの大半の人々も犠牲となり、100万人もの一般市民が虐殺されたのであった。「アルビジョワ十字軍」によって徹底的に破壊された南フランスは、わずかな人口、がれきの山、崩壊した経済を背負い、北部に併合されてしまった。

なお、この「カタリ派大虐殺事件」は、今日では当該国であるフランスにおいてあまり語られることはない。その理由として、征伐の後にカトリック教会の教権が確立されたこと、および、フランスの領土が拡大したというメリットがあるからだといわれる。

 

 


 

■■第5章:「テンプル騎士団」の栄光と壮絶な結末


●ローマ教会が嫌ったのは異端派やユダヤ人だけでない。力をもつ者は誰でも餌食となった。十字軍活動をバックに成長した中世の軍事修道会「テンプル騎士団」への弾圧はその好例である。

テンプル騎士団は、聖地エルサレムに参詣に行く巡礼者を保護するため、第1回十字軍の後、ユーグ・ド・パイアンほか8名のフランスの騎士たちによって、創設されたものであった。その本部がはじめ、聖地エルサレムのソロモン神殿跡といわれる宮殿に置かれていたので、“テンプル”騎士団と呼ばれるようになったのである。グノーシス主義やカバラ主義、イスラム教神秘主義(スーフィズム)をヨーロッパに持ち帰ったのは彼らだと言われている。


●この十字軍の護衛として結成されたテンプル騎士団は、どんどん入団者を増やし、ヨーロッパと聖地エルサレムをつなぐ「巡礼領域」において一大勢力に発展。中でもテンプル騎士団は地中海の制海権を独占し、独自の船舶を保有し、中東へ兵員を輸送するばかりか、巡礼者も金を取って輸送し、その帰途には香料、没薬、シルクなど中東の物産を積載して、ヨーロッパ諸国に寄港し、中東貿易で莫大な富を得た。また金融では手形割引のほか、ユダヤ人高利貸の金利(年20%)の半分の10%で貸し付けたため、キリスト教徒の信用を得ていたといわれる。

1162年1月、ローマ教皇アレクサンドル3世は多額の寄進と引き換えに、テンプル騎士団に特権を与える勅許を発行した。テンプル騎士団は教皇庁に納めるべき収入の十分の一の税を免除され、逆に彼らが領民から同額を年貢として徴収する権利を認められた。そのうえ、テンプル騎士団が独自に神父と墓地を所有する特権を与えられた。


●このようにテンプル騎士団は巡礼者の守護に力を注ぐばかりでなく、東方諸国との交易に熱心であり、莫大な富を築き、各国にその本部を置くようになった。特にフランスでは、各地に修道院と城を兼ねた1万の拠点を持ち、広大な領土を擁し、騎士たちは事業を行なって、国王にさえ金を貸していた。いわば、フランス国内に別の国があるようなものであった。フランスの財務だけでなく、バチカンの財務も担当するようになった。

こうしてテンプル騎士団は、13世紀の初期には、ヨーロッパ最大の国際金融銀行兼貿易商社に成長したのである。



●ローマ教会と国王たちは、しだいに強まる彼らの政治力に脅威を感じ、キリスト教徒らしからぬ態度に疑問を抱き、巨万の富に嫉妬を覚えた。フランス王フィリップ4世は、テンプル騎士団からのたび重なる負債で、首が回らなくなり、破産の危機に瀕していた。彼は、傀儡教皇クレメンス5世に強く働きかけて、この騎士団を滅ぼそうと考えた。こうして、恐ろしい迫害が始まるのである。


●1307年10月7日午前3時、フィリップ4世の手勢は、テンプル騎士団のパリ本部「タンプル塔」に滞在する騎士団長の寝込みを急襲し、城内の全騎士団員5000人を逮捕した。この逮捕は、テンプル騎士団は教皇以外のあらゆる世俗の権力の埒外におかれるという140年前の教皇アレクサンドル3世の約束を頭から踏みにじったものであったが、フランス人の教皇クレメンス5世はフランス王に何の抗議もしないどころか、黙認した。それどころか、教皇クレメンス5世はフィリップ4世と行動をともにして、翌月に西ヨーロッパ諸国の諸王に、国内の騎士団員は全て逮捕せよとの勅令を発したのである。

逮捕したテンプル騎士団への裁きはすべて、フィリップ4世の宰相として絶大な権力を持っていたドミニコ会の大法官ギヨーム・ド・ノガレに委ねられた。この異端審問官は残忍な宗教裁判を主宰し、拷問によって、望むがままの自白を引き出した。

そして、信じられないような噂が町を駆け巡った。教会がユダヤ人に使ったあの手口だ。テンプル騎士の団員は入団の儀式で神やキリストや聖母をののしり、十字架につばを叶いて足で踏みつけ、小便をひっかけるらしい、というのだ。


●裁判は5年続いた。その間、54人の騎士が捕らえられ、身体に幾本となく楔を打ち込まれ、自白を強制させられたあげく、火刑に処せられて死んだ。やがて王の強請に負けた教皇クレメンス5世の教書により、当時1万5400の騎士、その他多数の団員および平信徒を擁していた騎士団は、全面的に解散を命ぜられた。

このどさくさを利用して、フランス王はテンプル騎士団の会計帳簿類を押収すると焼却してしまい、莫大な借金を踏み倒してしまった。テンプル騎士団の莫大な財産は、丸ごとフランス国家に没収されてしまったのである。

こうしてテンプル騎士団は公式には、1311年のヴィエンヌ公会議において解散させられたのであった。



●1314年3月、最後まで残されていたテンプル騎士団長ジャック・ド・モレーら大幹部に対する判決が宣告された。終身禁錮刑だった。そして、同日、王宮の庭園に面するセーヌ河の中にある小さな島に火刑台が2基立てられた。

たきぎに火がつけられるまで、ジャック・ド・モレーは呆然と見守っている大群衆を前に声をからして無罪を叫び続けた。そして、「俺とともにローマ教皇もフランス王も地獄に連れていってやる!」と呪った。この呪いの言葉を聞いて、教皇クレメンス5世は青ざめて卒倒。そして翌月の4月に急死。フランス王フィリップ4世もその年の11月に急死したのであった。世間ではジャック・ド・モレーの呪いによるものだとささやかれた。


●なお、このジャック・ド・モレーの呪いには後日談がある。ジャック・ド・モレーが処刑されてから480年後の1793年1月、フランス王ルイ16世の頭上にギロチンの刃が落下した。その瞬間、「ジャック・ド・モレーは復讐を果たした!」という叫びが群集の中からおきたという。

また、ジャック・ド・モレーが処刑される前夜、彼は腹心の騎士ラルメニウスを後継騎士団長に指名し、「今後は地下にもぐって、秘密結社としてフランス王国打倒の非合法破壊活動に専念せよ」と命じていたとも言われている。このことから、テンプル騎士団の残党が、後に誕生する「フリーメーソン」と連携して、積極的にフランス革命を推進させたとの憶測が生み出されている。(フリーメーソンのルーツをテンプル騎士団に結びつけて考えている研究家は少なくない)。


●1808年、ナポレオン皇帝治下のパリで、「テンプル騎士団最後の団長ジャック・ド・モレーの火刑500年祭」(実際は494年目) が行なわれた。また1824年にも、王政復古政府のもとで同趣旨の式典が行なわれ、テンプル騎士団の名誉回復が宣せられたという。その後、ジャック・ド・モレーの名を冠した「モレー騎士団」が結成されて、今日に及んでいるという。

 

 


 

■■第6章:終末思想に突き動かされた「民衆十字軍」の狂気


●「終末思想」はキリスト教の特徴の一つである。そして、聖書の『ヨハネの黙示録』で描かれた救済を早期に実現しようとする運動を「千年王国運動」と呼ぶ。

救済は千年王国と新エルサレムの降臨という2段階で訪れ、そのうち千年王国で復活が許されるのは殉教者である、と黙示録のヨハネは語る。そこで、熱烈な「千年王国主義者」は、信仰のために命を落として千年王国で復活の恩恵にあずかり、主イエスとともに神の王国を統治したいと切望するようになった。


●十字軍運動そのものは、ローマ教皇ウルバヌス2世の政治的野心から発しており、当初は聖地エルサレム奪回という意図は希薄だった。しかし「千年王国主義者」たちにとって、十字軍運動とは、まさに、悪魔の支配下にあるイスラム勢力を滅ぼし、聖地を奪回して千年王国を実現する「聖戦」であった。

熱烈な「千年王国主義者」たちは、騎士による正規の十字軍とは別に、民間の十字軍=「民衆十字軍」を組織した。この「民衆十字軍」は、たいてい“自称メシア(偽メシア)”を中心に組織され、メンバーのほとんどは貧民で、その内容はといえば今日のカルトと大差がなかった。



●11世紀末に活動したアミアンのペテロは、「キリストが十字軍を組織するよう命じた手紙を所持している」と唱えて「民衆十字軍」を組織し、メンバーを率いて聖地エルサレムヘと向かった。このペテロと同じような「民衆十字軍」は各地で誕生し、「タルフ」と呼ばれた。タルフの群れはボロ布をまとい、通過していく先々で略奪し、敵を殺し尽くし、女性を強姦した。ときには敵の死骸を食うこともあった。

12世紀のブルターニュでは、エオンという“自称メシア”を中心に「民衆十字軍」が組織された。エオンは「世界の支配権は神と自分にある」と言い、「自分こそ生ける者と死せる者を裁き、この世を業火で焼き清めるために来た者」と唱えた。彼らの生計は暴力と略奪で立てられ、たびたび教会などを襲った。

同じく12世紀にアントワープに現れたタンケルムという“自称メシア”も、自らをキリストに擬し、唯一の救済者であることを力説した。信者はタンケルムを盲信し、彼の入浴後の水をキリストの血である聖餐のブドウ酒に等しいものとみなして飲んだりしていた。



●13世紀半ばには、ヤコブと称する背教の修道士が「聖母マリアから手紙を手渡された」と唱えた。その手紙には、聖地解放のためには堕落した騎士ではなく羊飼いを呼び集めねばならないと記されていたという。そしてヤコブがピカルディー地方で十字軍勧誘の演説を始めると、数日のうちに数千人におよぶ民衆がこれに呼応して参集した。彼らの中核をなしていたのは羊飼いや豚飼いであり、そこから「羊飼いの十字軍」という名称が生まれ、参加者たちは「牧童連」と呼ばれた。

牧童連は飼育していた羊や豚を放り出し、例の聖母マリアの神秘的な来訪を図柄にした旗のもとに集った。また、これに泥棒や売春婦といった無頼の徒も加わっていたことが知られている。彼らはいずれも羊飼いの服装をしており、集団は隊別に編成されて武装したため、次第に軍隊の様相を呈していった。そして、聖職者を攻撃しつつ各地で略奪を繰り返すようになった。

この「羊飼いの十字軍」は教会との対立を先鋭化させつつ、アミアン、ルーアン、パリなどを経てブリュージュに至ったが、街で彼らは無法者と断ぜられ、ヤコブは市民たちによって惨殺された。牧童連の多くも逮捕されて絞首台の露と消えた。



●このように、各地で様々な「民衆十字軍」が活動していたのだが、すでに終末が目の前まで来ていると信じていた彼らの目には、あらゆる最も直接的な敵はイスラム教徒だった。そしてそれ以上に敵視されたのはユダヤ人だった。通常、悪魔は「ユダヤ人の父」と呼ばれ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)が黒魔術の巣窟と固く信じられるようになったのも、この時代である。

第3章でも触れたが、十字軍の期間中に欧州各地で行なわれたユダヤ人虐殺は、目をそむけたくなるほど陰惨を極めている。1つの町のユダヤ人が、老若男女の別なく根こそぎに虐殺され、略奪しつくされたケースは枚挙にいとまがない。そうした行動を押し止めようとしたのは教会や地方政治家などの有力者だったが、その場合には、彼らも反キリストの手先と見なされて血まつりにあげられた。そこには宗教的熱狂に煽られた狂気しかなかった。



●以上、キリスト教十字軍の闇の歴史を長々と紹介してきたが、十字軍に代表されるような、「キリスト教徒による“世界救済”のための運動」は、悲惨な結果を多く残した。一方的な独善と偏見のもと、多くの破壊と暴力を生み、多くの無駄な血が流された。

十字軍運動と、『ヨハネの黙示録』をベースにした「千年王国運動」は、決して至福千年の神の王国を招くための平和運動ではなかった。その根底には、権力者による政治的野心、被抑圧者による現世否定の暴力革命思想や、刹那的な破壊衝動、無意識的な死の衝動が控えていた。また、清貧なキリスト教徒こそ選民であるとする思想もからみ、以後も、さまざまな宗教運動となって世界史を動かしていくことになる。(現在もこの問題は続いている)。

 

─ 完 ─

 


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