No.a6fha200

作成 1998.1

 

魔女狩りと異端審問の歴史

 

第1章
“世界の片田舎”としての
ヨーロッパ暗黒時代
第2章
約300年間も吹き荒れた
魔女狩りの狂気
第3章
知識階級によって
作りだされた“魔女”
第4章
「異端審問制度」による異端派迫害から
「魔女狩り」への移行
第5章
『魔女の鉄槌』の刊行が
魔女狩りに拍車をかけた
第6章
単なる噂や密告、自白が
証拠とされた魔女裁判
第7章
悪夢に終止符を打った
アメリカの「セイラムの魔女裁判」

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■■第1章:“世界の片田舎”としてのヨーロッパ暗黒時代


●1490年代は、ヨーロッパ人にとって画期的な時期であった。イタリアン・ルネサンスが最高潮に達し、一方では、1492年以後、コロンブスなどがカリブ海の島々を発見し、新大陸への道が切り開かれたからである。

一般に、1492年から1520年代までは「大航海の時期」だといわれている。そして、この時期から輝かしいヨーロッパの時代が始まり、近代が開幕したといわれている。と同時に、この頃から世界は連動し、一体化し始めたといわれる。


●しかし残念ながら、これは誤りである。ヨーロッパは、長年(18世紀の半ばに至るまで)“世界の片田舎”の存在として、歴史の主要舞台に登場することができなかった。アメリカにいたっては、建国自体が18世紀の末である。ある種のロマンをもって語られがちなヨーロッパの中世と近世は、じつは戦争と飢餓と疫病に苦しめられ、オスマン・トルコという外部勢力の侵入におびえつづけていた時代であった。


●また、17世紀にはヨーロッパが一時衰退し、16~17世紀はイスラム勢力が最高潮に達していた時代であった。まず第一に、オスマン・トルコが西アジア、ヨーロッパ、アフリカで領土を拡大し、栄えていたのであった。そして第二に、そのすぐ東では、シーア派のサファヴィー朝が今日のイラン領を中心に繁栄を誇っていたのであった。そして第三にムガール帝国が、今日のインド、パキスタン、バングラデッシュを支配し、さらにアフガンにまたがって大いなる発展をしていたのであった。この3つのイスラムの大国が、東半球の中央部にあって栄えていたのである。


●ヨーロッパの17世紀というものは、ペスト大流行の世紀であり、農業生産が減少し、商業が不振に陥ってしまい、ヨーロッパ人にとってはみじめな時代であった。「われらをペストと飢餓と戦争から救いたまえ」という祈りの言葉は、17世紀の合言葉として、全ヨーロッパにこだましていたのである。だから、17世紀前後は、ヨーロッパの時代どころか、まさにヨーロッパの暗黒の時代であった。

学校でヨーロッパ中心史観で育った日本人の多くは、「でも、新大陸の発見から世界史は画期的な段階へ入った」とか、「これより世界の一体化が急速に進展した」と主張したいかもしれない。しかし、17世紀の新大陸は、人口がわずかに数百万人であった(当時の旧大陸の人口は約6億で、その100分の1にも達していない)。また衰退中のヨーロッパとのあいだに細々とした交通があったが、世界的にみればきわめて限定的なもので、17世紀には、ヨーロッパも新大陸も、世界の主要舞台から遠かったのである。


●17世紀後期から、長年続いたイスラム勢力が傾斜しはじめるが、イスラム勢力は急速には下降しなかったし、一方、次の18世紀にはいると、大清帝国が世界一の帝国となっていく。17世紀どころか、18世紀に入っても、ヨーロッパの時代はすぐには到来しなかった、と見るほうが正しいであろう。

1750年代に、当時のヨーロッパ第一の文化人とみなされていたヴォルテールは、
「地上に起こったことによって教訓を得ようとするならば、まず西洋があらゆるものをそれに負っており、かつすべての芸術の揺籃である東洋に目を向けなければならない」と記述している。

ヴォルテールは有名な中国文明崇拝者であり、当時のヨーロッパ最高の文化人であった。彼が著述したものは、すぐにヨーロッパ各国に翻訳され、各国の知識人が争って読んでいたのである。このことからも、1750年代は、まだまだ本格的なヨーロッパの時代でないことがうかがい知れるであろう。18世紀はフランス人にとって、“シナ・マニア”の世紀であり、18世紀末まで、フランス人は中国文明にコンプレックスを抱いていたのである。


●では、ヨーロッパの時代はいつから始まるのだろうか。確かにルネサンスと大航海は、世界の変化のきざしであり、ヨーロッパの歴史が新しい段階へ入ったことを意味するが、それが直ちに西洋の時代の始まりを意味するものではなかった。十字軍の遠征によって、文化の香り高いイスラム世界をかいま見、後の大航海期を経て広大な世界が存在することを知った当時のヨーロッパの人々の中に形成されていったのは、イスラム・東洋世界に対するはかり知れぬコンプレックスと、その裏返しとしての知的向上心であった。

11世紀末、イベリア半島(スペイン)のイスラムの都市トレドを占領したヨーロッパ人たちは、この地の図書館を通じ、貪欲にイスラムの学問を吸収し始めた。さらには古代ギリシアのアリストテレスをはじめとする哲学、自然科学の遺産も、アラビア語からラテン語に翻訳され、逆輸入されるようになった。このようなイスラムからの学習を背景に花開いたのが、15世紀から16世紀にかけての「ルネサンス」であったのだ。


●このように、ヨーロッパは、長年“世界の片田舎”の存在として、歴史の主要舞台に登場することができなかった。西洋の時代が本格的に歴史の主要舞台に登場し始めたのは、18世紀末あたりからといえるのだ。

このような時代背景を頭に入れておけば、次の章から具体的に説明する「魔女狩り」という恐怖時代が、ヨーロッパにおいて約300年間も続いていたという、にわかに信じられない事実を認識するのに、多少困難ではなくなるだろう。

 

 


 

■■第2章:約300年間も吹き荒れた魔女狩りの狂気


●今からたった数百年前、ケプラーが惑星運動の法則を発見し、イタリアで華やかなルネサンスの文化が花開いていた時代、人間の理性がついに勝利をおさめたかに見えたその時代に、一方では誰もが「魔女」の実在を信じ、そして魔女だという嫌疑にかけられた男女が、次々と業火に焼かれていったのである。
それはキリスト教会にとっては神の力を示す場であり、また民衆にとっては不安の多い時代にあって、格好のうっぷんのはけ口となるショーであった。

このヨーロッパ中に狂気のごとく吹き荒れた「魔女狩り」の嵐は、1600年代を中心にして約300年間も続き、その中で命を落としていった男女は、30万とも300万ともいわれている。


●当時発行されたある魔女論には以下のように記され、その頃の様子を垣間見せてくれる。

「近くの国を見わたしただけでも、全ての国があの忌まわしい魔女の悲惨な害毒に感染しているのがわかります。ドイツでは魔女を焼く火刑柱を立てるのにほとんど忙殺されている有り様です。ロレーヌを旅する者は、魔女を縛り付ける刑架を幾千ともなく目にするでしょう。魔女の処刑が日常のこととなっている地域はたくさんあります。……どんな地方にも幾千幾万もの魔女が庭虫のように地上にはびこりつつあるのです。……私は全ての魔女をひと束に集めて、ただ一つの火で一度に全部を焼き殺せたらと思うのです」
(アンリ・ボゲ『魔女論』1602年)


●悪魔と結託し、あらゆる害をなすという魔女への恐怖は伝染病のごとく広がり、魔女には考えられ得る限りの残酷な行為がなされた。上の文書を見てもわかるように、魔女を焼く火の煙がのぼらない日はなく、また魔女が発見されない日もなかった。

だが、魔女として殺されていったほとんどの人々は、名もなく貧しい女たちであった。それを地位も名誉もある人々が魔女の汚名を着せ、そして憎悪をむき出しにしたまま、処刑してきたのだ。

(念のために書いておくが、魔女として殺された人間の中には男性も含まれていた。元来、魔女=ウィッチという言葉には男女の区別はない。これについては後述する)。

 

 


 

■■第3章:知識階級によって作りだされた“魔女”


●ヨーロッパを席巻した恐るべき魔女狩りの嵐。聖職者、官僚、政治家たちの理性を吹き飛ばし、何万もの無実の人々を焼き殺したこの集団的な狂気の原因はなんだったのだろうか。

その背景のひとつとして、社会不安をあげることができる。西ヨーロッパの中世末期から近世にかけて、人々はかつてない社会の変動を体験していた。そして、多くの異端運動が始まることによって教会の権威は揺らいでいき、またヨーロッパの人口の3割近くを失ったペストの流行、さらに、極度のインフレ、宗教改革運動と、打ち続く不幸に巻き込まれて、民衆の心理的不安と緊張は頂点に達していた。そして、その鬱積した不満と緊張のはけ口として選ばれたスケープゴートが“魔女”に他ならなかったのである。

魔女はその力によって嵐を呼ぶことができる。また男を性的に不能にし、畑の作物を枯らし、牛のミルクを出なくすることもできた。また赤ん坊を殺し、その肉を食らい、悪魔に生け賛として捧げる。つまり、あらゆるこの世の不幸がすべて魔女の責任に帰され、人々は本気で魔女を狩りだそうとしたのであった。


●だが、魔女狩りを扇動したのは無学な民衆ではなかった。こともあろうに一流の知識人、学識者がこぞって魔女の存在を信じ、そしてこの世の魔女を最後のひとりまで焼き尽くそうと熱情をたぎらせていたのである。魔術や妖術の存在への信仰は古今東西に見られる。しかし、ヨーロッパの知識人たちが信じた魔女のイメージはあまりにも特殊なものであった。それは、悪魔への服従、キリスト教の否定ということを前提にしているのだ。


●たとえば「魔女狩り」のマニュアルとして、絶対的な権威をもっていた『魔女の鉄槌』という文書には、明確に次のような定義が見られる。

「魔女は悪魔と契約を結び、その代償として悪魔の魔力を与えられ、超自然的なこと(嵐を呼びよせる、雨を降らせる、畑の作物を枯らす、呪いをかけるなど)ができる者」


●その定義のなかには女だけではなく、男も含まれていた。元来、魔女=ウィッチという言葉には男女の区別はないのだ(もっとも魔女として殺されたのは圧倒的に女性が多かったが)。だが、このテーゼは最初から明確なことだが、キリスト教の絶対性を前提にして成り立つもの。なぜなら、悪魔とはキリスト教の枠内における存在であり、それに従う魔女も、結局はキリスト教的な発想の産物でしかない。

当時、次々に出版された魔女論を見ると、魔女の行動や特徴の詳細がこれでもかといわんばかりに描写されているが、そのほとんどがキリスト教の儀式の一種のパロディのようなものである。つまり、魔女のイメージは当時の知識階級によって創造されたものなのである。


●もっとも、魔法を使う者、あるいはそう信じられた女たちは、ギリシアにもエジプトにも、またローマにも存在した。

ローマ時代にはすでに魔術を使って他人に害をなすことは禁じられていた。しかし、魔女はただ魔女であるという理由だけで、問答無用に処刑されることはなかったのである。この当時の魔女裁判は、宗教的な理由というよりも、単なる窃盗や殺人といった刑事事件として扱われていたのだ。中世ヨーロッパの魔女狩りの時代のように、組織的・狂信的に魔女が恐れられ、迫害されたことは一度としてなかったのである。魔女狩りが起きるまで、比較的平穏な魔女の時代は、1300年ごろまで続いていた。

例えば、9世紀、フランク王国のシャルル大帝は「魔女をむやみに焚き殺すことは殺人罪に相当する」と布告した。同じ頃フランスはリヨンの大司教アゴバールは、魔女の嫌疑を受けた人々をリンチより救ったという記録が残っている。また、1080年、教皇グレゴリウス7世は「暴風雨や災厄を魔女のせいだとするのは全く悪い習慣である」とデンマークのハーラル王に書き送っている。

さらに初期の裁判例では、イングランドで飛行する魔女が目撃されて逮捕されたが、その後、無罪放免になっている。その理由は「だれにも迷惑をかけていないから。空を飛ぶこと自体は、法律では禁じられていない」というものであった。


●それが、1300年、つまり14世紀に入るや、魔女は即、死刑の有無をいわせぬ判決が下るようになる。魔女に対する厳しい批判は、16世紀の神学者ジョージ・ギフォードの次の言葉に集約されている。

「魔女は死刑にすべきである。殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したがゆえに」

一体、いつからこのような変化が訪れたのだろうか。それを知るためには、「異端審問制度」の成立という魔女狩りの前史から語らねばならない。

 

 


 

■■第4章:「異端審問制度」による異端派迫害から「魔女狩り」への移行


●13世紀、全ヨーロッパはローマ教皇を君主とし、教皇庁を政府とする世界国家として統一されていた。カトリック教会はかつて西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマンの蛮族すらも教化し、教会の威光ははるか東方にまで及ぼうとしていたのだ。

しかし、広がりすぎた権力は常にその内部に腐敗を生むものである。聖職者の堕落は次第に目に余るものとなっていった。僧侶が愛人を持ち、霊の救済は売買され、ザンゲ室は連れ込み宿同然に、尼僧院は淫売宿になっていった。

こうした堕落に耐えられなくなって反抗ののろしをあげたのが、教会や聖職者に金銭を吸い上げられた豪商や、リベラルな思想を持つ貴族たちであった。教会大改革の火の手は、まず当時のヨーロッパにおいて最高の文化水準を誇る南フランスからあがった


●この頃、ユダヤ人が公職についたり、自由な集会がもてたのはヨーロッパでも南フランスのみであった。南仏ラングドッグ地方には改革派の人々が最も多く結集し、彼らは「カタリ派(別名アルビジョワ派)」と呼ばれた。

1198年に即位した教皇インノケンティウス3世は、この「カタリ派」の徹底的潰滅を命じた。カタリ派遺滅の命を受けたのが第4回十字軍に参加した騎士たちであったため、この討伐軍は「アルビジョワ十字軍」とよばれた。彼らは約40年にもわたって討伐を続け、南仏ラングドック地方の大勢の市民を殺した。カタリ派だけでなく南フランスの大半の人々も犠牲となり、アルビジョワ十字軍は老若男女の区別なく100万人もの一般市民を虐殺したのである。


●さらにこの頃、ヨーロッパにはそれまでの形骸化した教会に対して、異議を唱える宗教集団が乱立していた。神秘主義的なカルトが活発な活動をし始めたのである。こうした動きに、カトリック教会も黙ってはいなかった。教皇は修道会を結成し、カトリック内部の改革・粛清を急ぐ一方で、外部の異端弾圧に全力を注ぎはじめたのである。(ローマ教会より見た場合、教会を否定するキリスト教諸派は全てが異端となる)。

1229年に即位した教皇グレゴリウス9世は、異端者を恒久的に撲滅しつづける組織の必要性を痛感し、1233年、異端派迫害のプロ組織「異端審問官」を制度化した。これは、異端の疑いのある人間を裁判にかけ、ときには軍事的な力をもって制圧するという強硬な制度である。

さらに歴代教皇の中でも最も狂気じみていたヨハネス22世は、1318年、異端者と魔女を同一視し、全ての宗派の異端審問官に対して「いつでも、どこでも裁判を行い、判決する権利を与える」と言明した。さらにあるゆる魔女は異端者として処分し、財産を没収するよう命じた。


●異端審問官たちは、その食欲さと変質的な性的興奮とをもって、異端者、魔女、ユダヤ人、あるいは珍しい病気に冒された人々を不当に捕らえ、拷問を加え、焼き殺し、全財産を没収して私腹を肥やしていった。

ある異端審問官は、正統か異端か疑わしい者がいたときに、どのようにしたらいいのかという問いに、こう答えている。

「みんな殺せ! なぜなら、その判別はあの世で神がなしたもうからだ!」と。


このように、絶大な権力を誇る教皇の直接管轄にある異端審問組織には、拷問も含めてその目的のためとあらば、ほとんど全てのことが許された。それは、もはや殺戮活動とも呼べるほどの残虐な行為であった。


●ヨーロッパ中に整備された徹底的な異端審問の制度。それが魔女狩り時代の到来を招き寄せたのである。こうして、正統的なキリスト教を否定する者=異端者という連想から、いつしか異端的行為と魔女のイメージが重なり合うようになっていった。そして、魔女であることは最大の異端であり、救い難い罪と見なされるまでになる。

異端審問の対象は、意識的にカトリックに異を唱える宗教者から始まり、やがて本人にもまったく身に覚えのない“魔女”容疑者に移っていった。殺戮は無制限に行われ、暗黒の時代の幕が切って落とされたのである。

 

 


 

■■第5章:『魔女の鉄槌』の刊行が魔女狩りに拍車をかけた


●15世紀に入ると、魔女狩りは一気にその勢いを強める。その決定打になったのが『魔女の鉄槌』の刊行である。これは、ドミニコ会の異端審問官、ヤーコプ・シュプレンゲルとハインリヒ・インスティトリス(別名クレーマー)の2人が、時の教皇インノケンティウス8世の認可を得て、1485年に出版した魔女裁判のマニュアルである。

発刊されるとまたたく間にベストセラーになった(ドイツで16版、フランスで11版など)。この書は、「およそ人間が綴った本のなかで、これほどの苦痛を生みだしたものはない」といわれるほどの弊害をヨーロッパ全土に及ぼしたのである。

魔女の特徴から発見法、拷問の仕方にいたるまで、事細かに指示された膨大なこの書(ドイツ語版はペーパーバックで1000ページ近い分量もある)は、「魔女は生かしておいてはならない」という聖書の一節をよりどころに、徹底的な魔女攻撃を行った、3部構成からなる書物である。


●第1部は、魔女が実在し、しかもそれが恐るべき異端であることの神学的論証。第2部は、魔女たちがどのように魔術を用いて、人々に危害を加えてくるかという内容。そして第3部には、魔女裁判の方法について書かれている。

その内容の中には、たとえば被告人はすべての衣服をはぎとられ、魔術の道具を隠していないかを徹底的に探られる。そして自白を求められ、被告人が自白しそうになければ、縄で縛って拷問にかける準備をせよ、というような具体的なものまでが含まれていた。
 

●この『魔女の鉄槌』が登場したことによって「魔女とは異端の中でも最も極悪であり、悪魔的な異端であるため、それを撲滅しなければならない」という、法的・神学的根拠が成立したのだった。

また、このころ処刑されたヨーロッパ中の魔女が、皆似たような自白を行っているのは、ほとんどがこの書をよりどころにして魔女裁判が行われたという理由によるものである。だが、魔女たちの自白が似ているというこの事実が、逆にますます魔女に対する妄想を深めていき、恐怖の時代が300年もの長きにわたって続いていったことの原因の一端となったのは、実に皮肉なことである。

人々は戦慄したに違いない。どの魔女もサバトや空中飛行を認めているからには、やはり魔女は実在しているのだと……。当時の最新のメディアである印刷術によって、『魔女の鉄槌』自身がありもしない魔女への恐怖と、人々の妄想をますます広げていったのである。

 

 


 

■■第6章:単なる噂や密告、自白が証拠とされた魔女裁判


●カトリックの異端審問の延長として始まった魔女裁判であるが、しかし、その内容は文字どおり暗黒裁判であった。どのような残忍な拷問も、どのような非道な手続きも、魔女裁判では認められていた。

信じがたいことだが、誰それが魔女だという噂が立てば、それだけで当時は有力な証拠として扱われた。また審問官は熱心に密告を推奨した。魔女である可能性を持つ人間がいるのに、それを黙認していることはそれだけで、間接的な異端とされた。密告や証言は、たとえそれが幼児、子供のものでも採用された。イギリスのある魔女裁判では、6歳から9歳までの幼い子供たちの証言が、証拠として採用されていた。

こうして世間の噂、密告などによって逮捕された容疑者たちは、その後自白を迫られることになる。魔術を使った物的証拠をあげることはほとんどできないために、自白こそが魔女であることの最大の証拠として採用されたからである。


●例えば、16世紀半ばのスペインで、エルヴィラという女性が拷問にかけられたときの会話が記録として残っている。それによれば、

──エルヴィラは両腕を縛られ、締め付けられていた。響く悲鳴。その中で尋問は続く。

「裁判官様、何を言ったらいいのか教えてください。……私がどんなことをしたのか、私には全く身に覚えがありません。分からないのです……」

「カトリックに背くことをしたであろう、おまえがしたことを詳しく言え」と裁判官。

「何を申し上げてよいのか……。ああ、許してください。そうです。いたしました。なんでもいたしました。ですから、縄を緩めてください……でないと、腕が折れてしまいます……お願い……」

こうしたことが、日常茶飯事に行われていたのだ。そして、魔女と決まった者は例外なく処刑された。『魔女の鉄槌』には、たとえ魔女が罪を認めて悔悟しても、処刑すべしと書かれている。しかもその多くは生きながらの火あぶりという、これ以上ないほどの残酷な扱いを受けたのであった。


●また、魔女狩り最盛期には、魔女の発見を商売にする「魔女発見業者」も登場した。悪名高いイギリスのマシュー・ホプキンズは、イギリスを中心に魔女を大量に告発し、魔女告発1件ごに4ポンドから26ポンドの金を得ていた。労働者の平均日当がわずか6ペンスの時代にだ。

このように恐怖と金銭的利益が相まって、魔女狩りの嵐はますます激しくなっていったのである。

 

 


 

■■第7章:悪夢に終止符を打ったアメリカの「セイラムの魔女裁判」


●魔女の忌まわしい歴史は、17世紀末になってようやくその幕を閉じようとしていた。人々の間に少しずつであったが、理性がよみがえり、魔女に対する妄想から脱却しようとしていたのである。しかし、嵐は過ぎ去ったわけではなく、暗黒の歴史の上でその最後の炎が燃え上がったのは、皮肉なことに自由の国アメリカにおいてであった。


●なお、魔女狩りはなにもカトリック教会の専売特許ではない。この章で述べる「セイラムの魔女裁判」事件は、プロテスタント側が無実な人々を迫害した事件である。

また、この事件で中心的な役割を果たした人物は、知事であり名士であったコットン・メイザーという男だが、彼はアメリカから選ばれた最初のロンドン王立学会会員でもあった。このような、近代的思考を持つ科学者として国際的に認められた人物が、アメリカ版の魔女狩りの牽引車であったのは、まことに皮肉というほかはない。


●1692年のある日、現在のマサチューセッツ州のセイラムで、9歳と11歳の2人の少女が神経症的な症状を示した。そのきっかけは実にたわいのない占い遊びだったという。 彼らの家で使われていた黒人奴隷の女性が、寝物語に聞かせたブードゥー教の占いや魔法の世界に魅了されていた子供たちは、コックリさんに似た占いを試したのである。

感受性の強い子供が占いゲームに深入りした場合、まれに精神が不安定になることは珍しくない。少女たちの目はそのうちに虚ろになり、奇妙な振る舞いをするようになった。驚いた娘の父サミュエル・パリスは、子供たちの異変は魔女の呪いのせいだと信じた。やがて、わずか9歳の少女の証言に基づいて魔女狩りが始められ、ヨーロッパと同じような残酷な尋問が展開されることとなったのである。


●知事であり名士であったコットン・メイザーの強力な後押しも受けて、魔女狩りは次々に展開される。共犯者を語らせるというヨーロッパ式のやり方も導入されたため、3人の被告から始まった魔女裁判は、わずか半年ほどの間に200名の容疑者を数えるまでになった。そして、そのうち30名が死刑を宣告された。19名が絞首刑となり、1名が圧死、2名が獄死した。逃げたのが1名で、妊娠のため死刑延期になって助かったのが2名。そして死刑宣告を受けたものの、後に自白して助かったのが5名だった。


●だが、セイラムの魔女裁判がヨーロッパのそれと大きく異なっていたのは、世論の側が横暴で理不尽な魔女裁判を大いに批判するようになったことだった。

メイザーの父親本人もこう言っている。
「ひとりの無実の者を殺すくらいなら、10人の魔女を取り逃がすほうがましだ」と。

ようやく、正気を取り戻した裁判官たちは自分たちの誤りを認めて、全ての判決を破棄した。
「われわれが不当に傷つけた人々に許しを乞い、二度とこのようなことを起こさないことを全世界に言明する」

これがアメリカの最後の、しかし最悪の魔女裁判であった。


●しかし、この「セイラムの魔女裁判」によって、世界からすぐさま魔女狩りが消えたわけではなかった。近代的な合理主義の台頭もあいまって徐々に魔女狩りの狂気は萎縮していったのだが、スペイン、スイス、イタリア、ポーランドなどでは、もう時代が19世紀に入ろうとしている時期まで魔女狩りが行われていたのであった……。

以下は、ヨーロッパ諸国の「最後の魔女裁判記録」である。

1717年 イギリス
1722年 スコットランド
1745年 フランス
1775年 ドイツ
1781年 スペイン
1782年 スイス
1791年 イタリア
1793年 ポーランド


こうして、30万人とも300万人ともいわれる魔女狩りの犠牲者が、やっとその数を増やすことがなくなったとき、教会の権威が失墜する時代がやってきたのであった。ちなみに、異端裁判所は1903年まで設立されていた。

 

─ 完 ─

 


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