ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a6fhb400
作成 1998.1
序章 |
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第1章 |
教皇ピウス12世
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第2章 |
ナチスとバチカンの間に結ばれた
「政教条約」 |
第3章 |
第二次世界大戦の勃発と
ソ連侵攻 |
第4章 |
バチカンでは「反共主義」が
反ナチス・反ファシズムより優先された |
第5章 |
戦後、ナチスの海外逃亡を助けた
バチカン組織 |
追加1 |
映画『アーメン』について
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追加2 |
『ローマ教皇とナチス』について
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追加3 |
『世界の「宗教と戦争」講座』より抜粋
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■■序章:はじめに
●1933年、ヒトラーが政権を取ったとき、意外にも国際的に高い評価が下されていた。
「ヒトラーの成功はボルシェヴィズムに対する防衛の強化である」(イギリス『デイリー・メール』)
「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」(ローマ教皇ピウス11世)
「結局、ヒトラーの善意は保証できる」(アメリカ『ニューヨーク・タイムズ』)
米誌『タイム』の表紙を
飾ったアドルフ・ヒトラー
※ アメリカの有名な雑誌『タイム』は、
1923年に創刊したアメリカ初の週刊誌であり、
世界初の「ニュース雑誌」として知られているが、
この雑誌が毎年決定する「パーソン・オブ・ザ・イヤー」
の第12回目の受賞者はヒトラーであった(1938年)
●こうした評価の裏には、当然理由があった。ヒトラー政権の誕生を国際的にも認知し、陰から後押ししたのがバチカンであり、またヒトラー政権は米英仏の世界体制の中で、「反共主義」でソ連を敵とすることが期待されていたからだ。
カトリック教会の総本山バチカン市国
■■第1章:教皇ピウス12世
●キリスト教会は「ユダヤ人がイエス・キリストを殺害した」として、「神殺し」の汚名をユダヤ人に着せてきた。そしてキリスト教誕生以来、ユダヤ人はキリスト教徒からの激しい迫害にさらされてきた。
中世ヨーロッパでのゲットー(ユダヤ人集団隔離居住地区)、異端審問、強制改宗など過去のユダヤ人迫害の元となった反ユダヤ感情は、カトリック教会などキリスト教会によるところが大きいとされる。そしてそれは、大量の犠牲者を出したナチス・ドイツのホロコーストに対して、バチカンが積極的な反対行動を取らず、当時の教皇ピウス12世が「ホロコーストに目をつぶった」ことへの反発というかたちで尾を引いている。
●元検事総長代理で正統派ラビ(ユダヤ教指導者)のナフム・ラコーバー師は「ただ『するな』それを言うだけでよかった。それだけで数十万、恐らく数百万のユダヤ人が死を免れただろう」と、ピウス12世の責任を追及する。
このピウス12世の対応によりホロコーストの犠牲者が増えたと多くのユダヤ人は考えている。
ホロコーストを黙殺したとして
非難されている教皇ピウス12世
※「ヒトラーの教皇」とまで言われている
●つい最近、バチカンは、カトリック教会がナチスドイツによるホロコーストからユダヤ人を救えなかったことを遺憾とする文書を発表した。
「われわれは忘れない、ホロコーストへの反省」と題された文書は、過去の反ユダヤ主義に対する謝罪を含んでいたものの、当時のローマ教皇ピウス12世を擁護した部分もあり、イスラエルのユダヤ教徒指導者からは反発の声が上がった。
■■第2章:ナチスとバチカンの間に結ばれた「政教条約」
●全世界に10億人という信者を持つローマ・カトリックの総本山バチカン──。
バチカンとヒトラーが結びついた要因は複数ある。
まず1つは、ともにキリスト教世界が抱き続けた反ユダヤ主義を共有していたという点が挙げられる。ヒトラーが唱えた反ユダヤ主義というものは、ナチスの専売特許ではないし、突然ヨーロッパに吹き荒れたものでもない。反ユダヤ主義はキリスト教界が作り出した2000年来の西欧文明のシンボルであった。
↑ゲットー(ユダヤ人集団隔離居住地区)
キリスト教社会においてユダヤ人は「主イエス
を殺害した民族」という偏見から、抑圧対象とされた。
「ゲットー」は16世紀にベネチアに初めて設置されたもので、
教皇パウルス4世がユダヤ人たちにゲットーへの居住を強制すると
またたくまに世界各地へと広まり、その後、約300年間も存続した。
※ 各地のゲットーは、2つ以上の門を設けることが禁止され、高い塀で
囲まれ、門の扉は外から閉ざされた上、施錠され、鍵はキリスト教徒の
門衛が保管していた。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や
学校などが設置され、ユダヤ人の高い教育水準とユダヤ教文化が
保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は
完全に制度化してしまったのである。
イギリスが誇る天才劇作家
ウィリアム・シェークスピア
(1564~1616年)
右の『ヴェニスの商人』は1597年頃に書かれた
戯曲である。シェイクスピアの作品のなかでは「喜劇」
のカテゴリーに入っているが、驚くほどユダヤ人を差別
している表現が多く、「反ユダヤ感情」を煽る内容に
なっている。しかし、当時の芝居ではこういう
ユダヤ人に対する扱いは自然だった。
── 追加情報 ──
↑キリスト教徒によってゲットー内で隔離生活を送り、
ユダヤ人を示す「赤い帽子」をかぶる金貸し業者の
シャイロック(映画『ヴェニスの商人』より)
●先にも触れたが、一般にキリスト教会はユダヤ人に対し、「主イエスを裏切り、永遠に国家を持てずにさまようように罰せられた民族の運命に、宗教的理由からいっても同情するのは筋違いだ」とし、バチカンもプロテスタントも反ユダヤ的であった。
キリスト教という宗教的な厚い土壌があったからこそ、ヒトラーの反ユダヤ主義は、枯れ野に火を放ったように爆発的に広がり、根づいていったのである。
(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗
●しかし、カトリック教会(バチカン)は最初からナチスを支持していたわけではなかった。当時、両者はお互い一定の距離を保ちながら牽制しあっていたのも事実である。
1918年から1932年までの間、ヒトラーが政権を取るまで、カトリック政党の「ドイツ中央党」は、全ての内閣で重きをなしていた。当時のドイツのカトリック教徒は人口の約3分の1を占めており、ドイツの司教たちは、信者たちに「ドイツ中央党」を選ぶようにすすめ、ドイツ・カトリック司教団の司教たちは党の役職についていた。
まだこの頃は、弱小であった「ナチ党」ではあるが、「ドイツ中央党」のライバルにあたるので、この時のドイツ・カトリック司教団は、ナチ党員にはカトリック教会の秘蹟を授けてはならないと決定するなど、反ナチス的であったのだ。
●しかし、1931年にローマで出された回勅『クワドラジェシモ・アンノ』で説かれた職能団体の有機体国家思想がドイツに大きな影響を与えていた。このナチスばりの国家論に感銘を受けたのはカトリック教徒で、1932年6月に首相になったフランツ・フォン・パーペンだった。
これを機にカトリックとナチズムは接近し始め、1933年1月にヒトラーが首相になった背景には、このパーペンの助けがあったとされる。そして2ヶ月後の3月に、バチカンの教皇ピウス11世は枢機卿会議で、ヒトラー政権を認める見解を表明。同じ日に、ドイツのカトック政党「ドイツ中央党」は、悪名高い「授権法法案」に賛成し、ワイマール憲法は無力化。そして数日後、ドイツ・カトリック司教団は、それまでナチスのメンバーになることをカトリック教徒に禁じていた指示を撤回したのであった。
フランツ・フォン・パーペン
カトリック政党の「ドイツ中央党」の党首で、
1932年6月にドイツ首相となる。1933年1月に
ヒトラー内閣を成立させ、副首相に就任した。
●こうして、カトリック教徒という最大の支持層を獲得したナチスは、労働組合禁止(5月)、社会民主党の活動禁止(6月)、ナチスを除く全政党の解散(6月)、新政党禁止令(7月)と驚くべきスピードで独裁を完成させる。
さらにこの年の7月20日、ナチスとバチカンの間に歴史的な「政教条約(コンコルダート)」が結ばれた。これにより、ナチスは国内のカトリック教徒を弾圧しないことを保証し、カトリック教会側は、聖職者と宗教を政治と分離することに同意。そしてバチカンは、ナチス政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちにナチス政権に忠誠を誓うことを命じたのである。
ヒトラーにとってバチカンとの間で「政教条約」を結ぶことは、国際的にもナチスの評価を高める政治的な大成功となったのである。
カトリック教会の聖職者に挨拶するヒトラー(1933年)
●条約成立2日後の7月22日、ヒトラーはナチ党宛の書簡において、次のように述べている。
「バチカンが新しいドイツ(ナチ体制)と条約を結ぶということは、カトリック教会による国家社会主義国家(ナチ政権)の承認を意味する。この条約によって、ナチズムが反宗教的であるという主張がまさに偽りであることが全世界の前に明らかになったのである」
■■第3章:第二次世界大戦の勃発とソ連侵攻
●このように、ヒトラー政権の誕生を国際的にも認知し、陰から後押ししたのはバチカンであった。
バチカンは、国際社会の中でナチ政権を公認した最初の国家となった。
●しかし、ヒトラーはバチカンとの間で結ばれた「政教条約」をいい加減にしか守らなかった。
1936年のベルリン・オリンピックの年になると、カトリック教会の青年運動・労働運動を禁止してしまったのである。さらに党のイデオロギー面での責任者アルフレート・ローゼンベルクの指揮のもとに、本格的なカトリック教徒狩りが始まった。
アルフレート・ローゼンベルク
彼は初期の頃からヒトラーの傍らにあって
思想的影響を与え、側近として重きをなした
●このナチスの動きに対して教皇ピウス11世は、1937年に2つの重大な回勅を相次いで出した。
1つは『ディヴィニ・レデムプトリス』(天主たる贖い主)で、これは無神論共産主義に対する有罪宣告である。そしてもう1つが、『ミット・ブレンダー・ゾルゲ』(身を焼かれる憂いをもって)である。
後者は、ドイツにおけるカトリック教会の悲惨な状況を述べ、ナチスを“新興異教”として非難するものであった。とくに人種・民族・国家の神聖化は最もひどい異端への退行であるとし、さらにゲルマン民族主義的、ドイツ風キリスト教の信仰表象はすべてが野蛮な邪説であると断定したのである。
ナチスドイツはこの回勅に対し、弾圧を強めて応じた。回勅を印刷したドイツ国内の印刷所は没収され、聖職者および修道士はつぎつぎに裁判にかけられ、高位の聖職者は強制収容所に投げこまれたのである。
(左)ナチス・ドイツの旗 (右)バチカン市国の旗
●しかし、ヒトラーとバチカンの対立は、第二次世界大戦が始まるとともに中断された。
1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、教皇ピウス12世はこれを全面的に支持はしないものの「キリスト教文化の基盤をまもる高潔で勇気ある行為」と論評した(バチカンの教皇は1939年3月にピウス11世から12世に代わっていた)。
ドイツのカトリック教会ではこの侵略を「ヨーロッパ十字軍」として支持するものまで現われたのであった。
1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)
※ 教皇ピウス12世はバルバロッサ作戦を全面的に支持はしないものの
「キリスト教文化の基盤をまもる高潔で勇気ある行為」と論評した
●ところで、エヴァ・ブラウン(自殺直前にヒトラーと結婚)は、1942年冬に書いた日記に、次のような興味深い記述を残している。この日記の内容から、ヒトラーやナチ幹部たちがバチカンの問題について、それぞれ個人的にどのように考えていたかが分かる。
簡単に紹介しておきたい。
エヴァ・ブラウン
「あの人(ヒトラー)は、あのときはまさに烈火のごとく怒った。
あれはローゼンベルク(1941年に東方占領地域相)相手にカトリック教会の問題について話していたときだった。
ローゼンベルクが『カトリック教会の聖職者たちを牢獄に送り、ローマ教皇を幽閉すべきではないでしょうか?』と進言したとたん、あの人は『おまえは教皇の座を狙っているのか!』と言って、突然怒りだした。何の前触れもなかった。本当に激しかった。
『おまえのような男が東方地域を担当するから、経済が悪化するのだ。おまえは敗戦から何を学んだのだ!』と叱りつけた。
ローゼンベルクは青ざめていた。一言も発しなかった。
あの人の怒りはおさまらなかった。
『ゲーリングはバチカンヘの爆撃を言い出し、おまえは教皇の逮捕を言い出す。なんとも役に立たない連中ばかりそろっている!』とののしった。
ローゼンベルクが『総統…』と言って口をはさもうとすると、あの人は『いま必要なことは教会を排撃することではなく、争わずして従わせることだ。今後、教会の問題はヒムラー(SS長官)に任せる。聖職者を監視下におき、必要とあらば監禁する。あるいは利用する』と言った。
あの人の怒りは、本当に激しい怒りだった。」(エヴァ・ブラウンの日記/1942年冬)
左から、ヒトラー、ローゼンベルク、ゲーリング、ヒムラー
●また、ヒトラーはソ連とボルシェヴィズムをひどく嫌っており、死の直前まで次のように述べていたという。
「イギリスはドイツを攻撃しドイツの破滅をはかっている。自分はボルシェヴィズムの最後の防衛壁である。もし自分がいなかったら、誰がボルシェヴィズムの脅威を防ぎ、ヨーロッパの文化を守ることができるのか? イギリスは必ず後悔するだろう!」
※ ヒトラーは「ロシア革命」を「ユダヤ・ボルシェヴィキ」による革命だとみなしていた。
■■第4章:バチカンでは「反共主義」が反ナチス・反ファシズムより優先された
●キリスト教を公然と迫害し、宗教を抹殺しようとする共産主義──。
この共産主義との闘い(反共主義)。これが反ユダヤ主義に次いでバチカンとヒトラーが結びついた第2の要因である。
バチカンでは「反共主義」が、反ナチス・反ファシズムより優先されたのである。
教皇ピウス12世
●序章でも触れたが、ヒトラーが政権を取ったとき、意外にも国際的に高い評価が下されていた。その理由はヒトラー政権は米英仏の世界体制の中で、「反共主義」でソ連を敵とすることが期待されていたからである。
●もっともバチカンがナチスに近づいたのは、ナチス支配地域下のカトリック聖職者がユダヤ人と同じ運命にみまわれるのを憂慮したからだ、という弁解も成り立つ。バチカン自体が破壊される恐れも十分にあった。
しかし権謀術数の府の最高の権威者ということを考えれば、教皇は“ナチス新興異教”よりも、「無神論共産主義」のほうが遥かに危険で有罪だとみなしていたにちがいない。
ソ連のヨシフ・スターリン
※ ローマ教皇が最後までヨーロッパ最大の
危険とみていたのは、“ナチス新興異教”よりも
ソ連の「無神論共産主義」だったと思われる
●このことに関して、教会史に詳しいK・V・アーレティンは、著書『カトリシズム・教皇と近代世界』の中で次のように語っている。
「教皇はナチスのユダヤ人迫害に抗議しても意味がなかったし、むしろそれによってドイツのカトリック教徒をさらに苦しい立場に追いやると考えていた。外交官出身の教皇は、そのような抗議によって教皇庁の中立性が失われることも恐れていた。
保守的な教皇ピウス11世が、最後までヨーロッパ最大の危険とみていたのはソ連の共産主義であり、外交交渉による西欧での和平の確立によって東欧が共産主義化しないようにできると考えていた。したがって彼はナチス・ドイツとの外交関係が断絶されないように全力を尽くしたのである。」
◆
●もちろん、第二次世界大戦中、カトリック教徒全員がナチスに無批判だったわけではなかった。ユダヤ人を救助したカトリック聖職者は多くいた。彼らの必死の救助活動のおかげで助かったユダヤ人はいっぱいいる。
が、しかしバチカンの上級幹部は公然とナチスを非難することはなかったのである。
『ユダヤ教民族史』の筆者S・エティンガーは「カトリック教会と大虐殺」について次のように語っている。
「指導者の一部を含み、諸国の修道院において、カトリック聖職者は相当数の人々がユダヤ人を救助した。一般的にいってこの分野におけるナチスの政策に抵抗した人々は、カトリック教会の下級聖職者に集中しており、救助活動は個人的であった。これと対照的に上級聖職者は沈黙を守り、このレベルにおいてユダヤ人全体のために介入しようという試みはほとんどなされなかった。教皇庁の態度はよく知らされている。すなわちこの時期を通じてユダヤ人壊滅に対して、教皇庁は何の反応も示さなかった。」
◆
●ちなみにヒトラーは、ナチス・ドイツ軍によるソ侵攻作戦のことを「バルバロッサ作戦」と名付けていたが、第3回十字軍を率いた神聖ローマ皇帝バルバロッサ(フリードリヒ1世)の姿に、ヒトラーは共産主義という「異教徒」に対する自分の姿を重ねあわせていたのであろうか。
(左)シュヴァーベン公フリードリヒ1世
(通称フリードリヒ・バルバロッサ/赤ひげ王)
(右)1941年にドイツで作られた反共産主義のポスター
■■第5章:戦後、ナチスの海外逃亡を助けたバチカン組織
●このバチカンとナチスの関係は戦後もひそかに続いていた。戦犯ナチスの逃亡をバチカン組織が助け、アメリカや南米に送った。
これを「教皇庁の抜け穴」という。
ナチスの南米亡命のルートは、16世紀に結成されたカトリック組織「イエズス会」が切り拓いたものだった。大航海時代、スペイン軍とともにインディアス(新世界=アメリカ大陸)にたどり着いたイエズス会士たちは、教化・洗脳による勢力浸透を実行し、原住民たちとともにキリスト教信仰を実践するためにコミューンを次々と建設していった。それはさながらキリスト教的ユートピア──神の王国を現前化する、壮大な社会実験であった。
アロイス・フーダル司教
ナチの逃亡者やクロアチアの
逃亡者たちを積極的に支援した
●ナチスの幹部の1人は、カトリック教会宣教師ファン・ヘルナンデス名義のパスポートで南米に逃れたことが確認されている。パラグアイはいわばナチスの“落人部落”として知られるが、それはカトリック教会が特異な営為──「レドゥクシオン(原住民教化集落)」建設をパラグアイで進めたことによっている。
また当時のアルゼンチンのペロン政権は、ナチス支持を公式に表明していたため、ナチスの逃亡先として南米が選ばれたのはごく自然の成り行きだった。
アルゼンチンの独裁者だったペロン(右から2人目)と
ドイツの科学者たち。ペロンはヒトラーの崇拝者であり、
ナチ残党の南米での受け入れに果たした役割は大きかった。
●1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、ナチ残党とその協力者がバチカン教皇庁の活動から除外されていないことが示唆されている。
「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。カトリック信徒であることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ」
「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチであれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、現時点の教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行っている」
◆
●イギリス『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員であるウキ・ゴーニは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。
「のちに教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ他多くの枢機卿が、その影響力を行使してナチ残党の逃亡支援に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。〈中略〉フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父が、パスポートの申請に署名した。
こうしたことが明白に証明されているからには、教皇ピウス12世が完全に知っていたかどうかなどという問題は、とるにたらないものであるばかりか、馬鹿馬鹿しいほど無邪気である」
◆
●また、大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、著書『復讐者たち ─ ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』(早川書房)の中で、次のように述べている。
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』(早川書房)
「バイエルンおよびイタリアの赤十字の職員の一部はナチの不法越境に手を貸したが、それ以上に驚くべき事実は、“カリタス”などの宗教団体に所属する者や、フランシスコ会やイエズス会などがナチ逃亡を支援したことである。ナチスは抜けめなく僧侶たちの慈愛の精神に訴え、教皇ピウス12世が選出されて以来勢力を拡張したバチカンの“ドイツ派閥”とナチ党の間には常に最良の関係が保たれていた。この“ドイツ派閥”の指導者の一人が大司教アロイス・フーダルだった。〈中略〉
1947年から1953年の間、“バチカン救援ライン”もしくは“修道院ルート”が、ドイツから海外の逃亡場所へ脱出するルートの中で、最も安全、かつ、最もよく組織されたルートだった。」
─ 完 ─
■■追加情報:映画『アーメン』について
●ユダヤ人迫害を世界に向け告発しようとしたナチス将校、クルト・ゲルシュタイン。迫害の事実を知りつつ沈黙を続けたバチカン。2つの史実を交差させた映画『アーメン』が、2002年に作られ、欧州で共感と反感の渦を巻き起こした。
赤い十字架と、ナチスの象徴であるカギ十字が重なり合う──。
この映画の内容を端的に表わした宣伝ポスターは、映画自体と共に大きな論議を巻き起こした。フランスの原理主義的なカトリック団体は、一時ポスターの張り出しを禁止する請求を裁判所に対して行ったほどだ。
映画『アーメン』(2002年制作/仏・独・ルーマニア・米)
この作品はもともと1963年にドイツ人劇作家の
ロルフ・ホーホフートが上演した舞台劇「神の代理人」が
原作で、上演後にいろいろな物議を醸し出した問題作である。
※ 物語の主人公は、ナチス親衛隊(SS)の将校だった
クルト・ゲルシュタインという実在の人物である。
●この映画を作ったのは、ギリシア生まれのフランス人映画監督コスタ・ガヴラスである。
彼は、チリの独裁政権をテーマにした『ミッシング』(1982年)でカンヌ映画祭のパルムドールを受賞するなど、「社会派」の巨匠として知られる。
コスタ・ガヴラス監督
カンヌ映画祭のパルムドールを受賞するなど、
「社会派」の巨匠として知られる
●ガヴラス監督は、映画『アーメン』について次のように語っている。
「ホロコーストに対するバチカンの『沈黙と無関心』は、すでに歴史的に証明された事実である。ただ、私が描きたかったのは、現代社会でもそうした『沈黙と無関心』が蔓延しているということであり、映画での教皇(ピウス12世)の沈黙は、そのメタファー(隠喩)に過ぎない」
「バチカンは戦後、ナチス戦犯の逃亡を助けた。映画にはそれも反映させている」
●この映画は、「第10回フランス映画祭 横浜2002」において、上映された長編17作品中、最も長く大きな拍手を浴びた。
終演後、来日したガヴラス監督と集まった約千人の観客との質疑応答は、深夜まで続いた。(残念ながら、この映画の日本での本格的な公開は未定という)。
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※ さらに追加情報:
日本ではずっと劇場未公開だった映画『アーメン』が、ついにDVDとなって発売されました。
邦題は『ホロコースト ─ アドルフ・ヒトラーの洗礼』。
興味のある方はぜひご覧下さい。
『ホロコースト
─ アドルフ・ヒトラーの洗礼』
(原題=『アーメン』)
■■追加情報 2:『ローマ教皇とナチス』について
●ドイツ・ユダヤ人問題の専門家である大澤武男氏が、『ローマ教皇とナチス』(文藝春秋)という本を出した。教皇ピウス12世の素顔や当時の世界情勢について詳しく紹介されているので、興味のある方は一読されるとよいでしょう。
── この本の内容 ──
地上におけるキリストの代理者、使徒の頭ペトロの後継者として、全世界のカトリック教徒から崇敬を集めるローマ教皇。だが第二次世界大戦中、モラルの体現者ともいうべき教皇は、ナチスのユダヤ人迫害を知りながら止めようとはしなかった。当時の教皇ピウス12世は、なぜ“沈黙”してしまったのか。その理由を、彼の人生だけでなく、ヨーロッパ文化の基層にまで遡って探る。
■■追加情報 3:『世界の「宗教と戦争」講座』より抜粋
●「逆説の日本史」シリーズで有名な作家の井沢元彦氏は、著書『世界の「宗教と戦争」講座』(徳間書店)の中で、ホロコーストとバチカンについて次のような説明(解説)をしている。
少し長くなるが、参考までに抜粋しておきたい。
「日本人の多くはホロコーストを戦争犯罪だと誤解しています。
確かに、ナチス・ドイツが軍事的な征服を繰り返すことによって、ホロコーストの被害領域が広がったことは間違いありません。有名な『アンネの日記』に象徴されるようなことも、ナチス・ドイツが軍事的領域を広げたからこそ起こった悲劇です。
ですがホロコーストがドイツで始まったのは、戦時下ではありません。つまり、ホロコーストは戦時のどさくさに紛れて行われたことではなく、平時の選挙において政権を取得した政党が、ドイツ国民の支持のもとに始めた政策だったのです。ここにホロコーストの本当の恐ろしさがあります。〈中略〉
当時、ホロコーストがかくも広がってしまった理由の一つに、実はカトリック教会がこれを傍観したという事実があります。
もちろん『傍観』という言葉は使っていませんが、カトリック教会の大本山であるバチカンは2000年の3月に初めて、ホロコーストの際にそれを傍観したのは間違いであったと公式に認めました。しかし、それでもユダヤ民族に対する謝罪の言葉はありませんでした。
カトリック教会はホロコーストを傍観したことは認めましたが、それに対する謝罪はしない。謝罪はできないのです。なぜなら、カトリック教会がユダヤ人に対して謝罪をするとなると、また別の問題を生み出すことになってしまうからです。
キリスト教の教典である『聖書』には、キリストを殺したのはユダヤ人だと書いてあります。さらにユダヤ人はその報いを受けるとまで書いてあるのに、『ごめんなさい』と謝ってしまうということは、『聖書』に書いてあることが道義的に間違っているのだと、キリスト教の本元が認めたことになってしまう。だから謝罪はできないのです。そのため『極めて遺憾に思う』みたいな言い方でコメントするしかないというわけです。〈中略〉
……こうした『聖書』の記述を信じるキリスト教徒の立場からすると、ユダヤ人というのはイエス様を死に追いやったとんでもない人々だということになるのです。日本人の私などは、イエスが神なら死なないのだからいいじゃないかとチャチャを入れたくなるのですが、キリスト教徒にはユダヤ人はイエス様を十字架に追いやった悪いやつであるという思いが染みついているのです。
そうすると、これこそ悪魔のささやきというのでしょうが、ヒトラーという男がユダヤ人撲滅を唱えてとんでもないことをやっているらしいということを聞いても、積極的にユダヤ人を助けようとしなかった。これは実際問題として、そういうことがあったということは確認されています。だからローマ教皇も、それは人道的にまずかったということは認めたわけです。
つまり、ホロコーストが猖獗(しょうけつ)を極めた理由には、本来ならそれを人道的な立場から阻止すべきカトリック教会が傍観してしまったということがあったのです。
そして、なぜ傍観してしまったのかといえば、そもそも西欧世界に、ユダヤ民族はイエスを殺した民族であるという差別意識が、厳然として存在していたからなのです。
◆
このことを表す典型的な例に、イギリスの文豪ウィリアム・シェークスピアの書いた『ヴェニスの商人』という作品があります。〈中略〉この作品に登場するユダヤ人シャイロックは、確かに嫌なやつであるのですが、ではなぜシャイロックは金貸しなのでしょうか。それは、彼が金貸し以外の職業に就けなかったからです。これはあくまでも当時の感覚なのですが、この作品の時代においては、金貸しなどの金融業はまともな商売(職業)ではないと見なされていました。ユダヤ人は国籍を持っていなかったために、こうした分野に進出するしかなかったのです。〈中略〉
……(この作品の中で)ユダヤ教徒にキリスト教徒になれと言うということは、ユダヤ人をやめろと言っているのと同じことなのです。ある意味でこれほど厳しい条件はありません。ユダヤ教徒にとっては、死刑より厳しい判決といってもいいでしょう。
こういうことを、ウィリアム・シェークスピアほどの文豪ですら平気で書いている。もちろん、シェークスピアは差別に鈍感な人ではありません。鈍感どころか四大悲劇の『オセロ』は、いまでいえば白人の黒人に対する差別の物語です。これほど尖鋭なセンスを持っていたシェークスピアですら、ユダヤ人に対しては、これほど厳しい態度をとっていたのです。その時代の状況は推して知るべしでしょう。
このような差別的状況の中で、ユダヤ民族は国を持たないがゆえに、むしろ民族国家を超えようとするようになります。たとえば共産主義。これはカール・マルクスによってもたらされたものですが、共産主義の根本には、ユダヤ教の考え方があるといわれています。それは今の世の中は間違っていて、何か新しいこと、これを彼らは『革命』と呼んでいますが、革命が起こることによってより立派な社会に変わっていくという考え方です。これはユダヤ教の考え方にほかなりません。
また、ユダヤ民族は国籍というものをあまり重要視しませんので、ジャーナリズム、法律、芸能といった国際的に活躍するジャンルにおける力は、大変大きなものがあります。アメリカの映画界およびマスコミはユダヤ人の影響力が強いと言われていますが、事実、ハリウッド映画は反ユダヤ的なものはありません。そうしたグローバルなネットワークを持って、ユダヤ人が世界各国で活躍している一方で、20世紀になり、ようやく彼らの悲願ともいえるイスラエル建国が成し遂げられたために、イスラエル在住のユダヤ人は、ガリガリの領土主義者になってしまいました。〈中略〉
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……いわゆる共産主義者とキリスト教徒の対立、これは旧ソ連とアメリカ、ヨーロッパとの対決といったほうがいいかもしれませんが、そういうものは実はいまもあるのです。共産主義あるいはマルクス主義を嫌がる、毛嫌いをする、あるいははっきりいって憎悪する、ということがあるのです。
共産主義と『無神論』はセットになっているということ、そこが日本人がまず最初に理解しなければいけない点です。無神論とは、神様などというものはこの世にいないという考え方です。あらゆる超自然的存在の、否定といってもいいでしょう。共産主義、マルクス主義の基本理念は唯物論になっているわけです。
共産主義が必ずしもマルクス主義とは限らないのですが、一番流行している、成功しているのがマルクス主義です。そのマルクス主義は、無神論であるということをよくよく認識してください。神を信じてその教えを説く者にとって、無神論者というのは許すべからざる最大の敵なのです。キリスト教徒から見て、仏教やイスラム教の信者であるというのはまだ許されるのです。そういうのは、まだ神を信じる心があるからです。ところが無神論者というのは神を信じる心もない恐ろしい人間、一言でいうと人でなしであり悪魔である、そういうふうに見えるわけです。
どうしてそうなるかはあとで詳しく説明するとして、では逆に共産主義者の立場からはキリスト教徒はどういうふうに見えるかというと、彼らからすれば神はもともと存在しないのですから、それに対してお祈りを捧げたり、それを信じたりしていることは、ありもしない幻想に惑わされている馬鹿である、ということになります。〈中略〉
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……ポーランドという国があります。この国に対して西欧諸国は非常に多くの援助をしたのです。自主管理労組〈連帯〉のワレサ議長に、ノーベル賞をあげたりもしました。
なぜこういうことをしたかというと、ポーランドは、世界中でも敬虔なカトリック国だったからです。
それを第二次大戦後、スターリンがソ連圏に組み込んだのです。すると、ソ連圏というのは無神論圏ですから、ポーランドでも公式に宗教が禁止され、大弾圧がなされました。そうして、ちょうど江戸時代の日本を思い浮かべてもらえればわかるのですが、国全体が隠れキリシタンになってしまいました。
西側諸国から見れば、ポーランドは敬虔なカトリック教徒で自分たちの仲間だったものが、共産主義者に捕まって、改宗、洗脳されようとしている。助けてあげなくてはいけない。
それに対して、カトリックのほう、いわゆるバチカンでも動きがありました。
ソ連のポーランド弾圧が厳しくなった頃に、バチカンは敢えてポーランド人から教皇を選んだのです。
それが教皇ヨハネ・パウロ2世です。ポーランドというのは小国ですから、これは史上初めてのことでした。
この意味はおわかりだと思いますが、ポーランドは、バチカン対無神論者・ソ連の係争の地となったのです。その宗教戦争にバチカンは勝ったわけです。」
以上、井沢元彦著『世界の「宗教と戦争」講座』(徳間書店)より
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