ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a6fhc616
作成 1998.1
●ヒトラーにユダヤ人の血が混じっていたとの説がある。
この噂は1930年、ナチ党が一挙にドイツ第2の大政党に躍進したときに広まり始めたものであった。 ヒトラー自身もこの疑惑を抱き、その年の末、ナチ党法律局長のハンス・フランクに、自分の血統を念のために極秘に調べてくれと頼んだという。
すると、彼の父親が「私生児」であったとの事実が判明したそうだ。
(左)1933年に誕生したヒトラー政権
(右)アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)
ヒトラーは1889年にオーストリアのブラウナウで
生まれた。1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した。
●このハンス・フランクは、後にドイツ軍占領下のポーランド総督となり、ニュールンベルク国際軍事裁判で絞首刑に処せられたヒトラーの側近である。彼は死刑を待つ間に、『死に直面して』という本を著わしたが、その中で「ヒトラー=ユダヤ人」説に関して次のように書いている。
ハンス・フランク
「たぶん1930年末のある日だったと思うが、自分はヒトラーのもとに呼ばれた。ヒトラーは、彼の異母兄である若アロイスの息子ウィリアム・パトリック・ヒトラーからの手紙や新聞記事に触れつつ、『自分にはユダヤ人の血筋があるという者がいるが、調べてくれ』と依頼した。
……調べてみるとアドルフ・ヒトラーの父アロイス・ヒトラーは私生児であって、その母マリア・アンナ・シックルグルーバーは、グラーツ(ウィーン南方)でユダヤ人の疑いがあるフランケンベルガー家に家政婦として雇われていた。そしてそこで赤児を生んだ。
フランケンベルガーは当時19歳であった自分の息子のために、アロイスが14歳になるまで、マリア・アンナに養育料を支払っていた。フランケンベルガーとマリア・アンナの間には長年にわたる手紙の交換があったが、その手紙ではアロイスが養育料をもらう権利がある、ということが前提となっていた。私生児は母の姓を名乗るという法律に従って、アロイスは40歳の頃までシックルグルーバー姓を名乗っていた。」
ヒトラーの父
アロイス・ヒトラー
私生児は母の姓を名乗るという
法律に従って、彼は40歳の頃まで
シックルグルーバー姓を名乗っていた
(中年になってからシックルグルーバー姓
から呼びやすい「ヒトラー」に姓を改めた)
●このハンス・フランクの陳述は以後、多くの著書や論文のなかで紹介されている。
「世界最大の反ユダヤ主義者であるヒトラーが、じつはユダヤ人の血をもっているかもしれないという疑いを持ったとき、ヒトラーの反ユダヤ主義は狂気そのものとなった」とか、「ナチスの反ユダヤ主義政策が常軌を逸してしまった原因は、まさにこのゆえであった」という説がまことしやかに主張されている。
手塚治虫の作品『アドルフに告ぐ』も、ヒトラーが実はユダヤ人だったということを題材にしていることで知られている。
手塚治虫の『アドルフに告ぐ』は、時代に翻弄される3人のアドルフの物語である。
まだ読んでない方は、ぜひ読んでみて欲しい。間違いなく名作だと思う。
●しかし、1970年にアントン・アダルベルト・クラインという研究家が、ハンス・フランクの陳述を徹底検証したところ、ヒトラーの祖父とされているフランケンベルガーなる人物は、その人物の住所とされているグラーツ市の住民リストには載っていないことが判明した。またグラーツ市自体、1848年までユダヤ人が居住することを禁止されていた土地だということも判明した。
●このように、ヒトラーの側近ハンス・フランクによって広められた話は、かなり信憑性に欠けるものであることがわかる。
しかし、ヒトラーの父が「私生児」であることには変わりなく、ヒトラーの真の祖父をめぐって様々な謎が残されていることも事実である。(一説には、ヒトラーの父はロスチャイルド家の私生児だったと言われている)。
ヒトラーには自分を含めて6人の兄弟がいたが、
彼と妹パウラを除いた他の4人はことごとく幼児や
乳児の時に夭折(ようせつ)してしまった。早死にの
“血の系譜”に生まれたことに対する恐怖心はヒトラーの
無意識に取り憑き、生涯彼を苦しめたといわれている。
※ ちなみに、ヒトラーには腹違いの兄と姉がいた。兄の
アロイス2世は、14歳(ヒトラー7歳)の時に家出して、
以後、二度とヒトラーの家に現れなかった。姉のアンゲラは
娘ゲリの死後、エヴァ・ブラウンと対立し、1935年に
「ヒトラーの山荘」から退去。その直後に、マルティン・
ハミッチュ教授と再婚したが、アンゲラは異母弟の
ヒトラーに拒絶された恥辱で苦しんだという。
●なお、私から言わせてもらえれば、ヒトラーにユダヤ人の血が含まれていたとしても、何ら驚くことでもない。なぜならば、ナチスの幹部の中にはユダヤ人、もしくはユダヤ人の血を引くものが実際に複数いたからだ。彼らはユダヤ人の血を引きながら、あつかましくも反ユダヤ主義を唱えていたのだ。(ハイドリヒ、シュトライヒャー、ローゼンベルクなど)。
※ 彼らが迫害を加えたのは主にシオニズムに反対するユダヤ人(正統派ユダヤ教徒)たちであった。また、彼らの言う諸悪の根源であるはずの“国際的ユダヤ資本”に対しては、金を取って出国を許可し、貧しい──利用価値のない──ユダヤ人を集中的に迫害したのだ。
詳しくは下のリンク先を参照して下さい↓
(左)反シオニズムの著名な歴史研究家である
レニ・ブレンナー(ニューヨーク生まれのユダヤ人)
(右)彼の著書『Zionism in the Age of the Dictators』
※「ナチスとシオニストの協力関係」を暴き出した本書は
現在、法政大学出版局から日本語版が出版されている
●ここではその中の1人として、SS長官ヒムラーの右腕として活躍したラインハルト・ハイドリヒを取り上げてみたい。
1942年にハイドリヒはプラハでチェコ人によって暗殺されたが、かの悪名高いアイヒマンをして、「ナチ・ゲシュタポの中で、ハイドリヒ以上の冷血犬はいなかった」と言わしめるほどの冷酷無情な男であった。それを裏書きするように、ナチス・ドイツが占領したヨーロッパの国々でハイドリヒは、「ヨーロッパの死刑執行人」と呼ばれていた。
(左)ラインハルト・ハイドリヒSS大将
(右)上司のヒムラーと並んで歩くハイドリヒ
ハイドリヒは金髪碧眼、長身の美形で、SS長官ヒムラーに次ぐ
SSナンバー2だった。1941年9月にベーメン・メーレン保護領
(チェコ)の総督代理に就任すると、反体制派を次々に逮捕・処刑した。
その冷酷な性格から「プラハの虐殺者」の異名をとり、恐れられた。
●とはいえ、そうしたハイドリヒにも泣き所があった。ナチスの高官たちの間では、ハイドリヒの祖母はユダヤ人だったと噂されていたのである。後に当局が「ハイドリヒの身元を調べたら、彼はアーリアン系と証明された」と発表したが、それによって完全に疑いが晴れたわけでもなかった。
その後ハイドリヒは、噂の根拠となった祖母サラ・ハイドリヒの墓をライプツィヒに訪れた折に、引っくり返して跡形もなく破壊してしまったということである。戦後の調査によれば、サラ・ハイドリヒがユダヤ系であったことは、ほぼ確実とされている。
ハイドリヒがユダヤ人迫害に異常な熱意を示したのも、「後ろめたい自分の素性」をそういった努力をすることによって帳消しにしようとしたのだ、という見方がなされている。
── 追加情報 ──
この作品は、1942年1月20日にベルリン郊外にある
ヴァンゼー湖のほとりで開かれた「ヴァンゼー会議」の
様子を再現したものである。主役のハイドリヒを
イギリスの俳優ケネス・ブラナーが熱演。
↑この作品には興味深いことに、会議の最中にゲハルト・クロプファー博士
(ボルマン党官房長の側近)が、隣の席にいたゲシュタポ局長のミュラーに
「ハイドリヒにはユダヤの血が入っているらしい」と語るシーンがある。
※ さらに2人は、その後の休憩時間(トイレのシーン)でも
ハイドリヒの「ユダヤ人疑惑」を話題にしている。
●現在、「アムネスティ・インターナショナル」や「ヘルシンキ・ウォッチ」などの国際人権組織の顧問を務めているボリア・サックス博士は、著書『ナチスと動物』(青土社)の中で、「ヒトラー=ユダヤ人」説に触れながら次のように述べている。
「ヒトラーは自分にユダヤの血が混じっているのではないかと、いつも悩んでいた。同じことは、ハイドリヒ、シュトライヒャー、ローゼンベルクなど多くのナチス幹部にも当てはまる。
ナチスの反ユダヤには、自己確認と自己嫌悪の組み合わせとも言うべき複雑な感情が反映されていた。彼らにとって、ユダヤ人は禁じられた憧れと秘した怖れが投影された負のイメージだった。」
(左)ボリア・サックス博士
(右)彼の著書『ナチスと動物』(青土社)
●また、上智大学名誉教授の品田豊治氏は『第三帝国の神殿にて』(中央公論新社)の中で、ナチスの幹部たちについて次のように述べている。
※ これは「ヒトラー=ユダヤ人」説とはあまり関係ないが、興味深い指摘なので参考までに紹介しておきたい↓
「そのころのドイツの笑い話の一つに、『純粋なアーリア人とは何でしょう?』『それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前はローゼンベルクという──』というのがあった。
ところが事実は、ヒトラーは黒髪であったし、ゲッベルスは背が低く、ゲーリングは肥満型、ローゼンベルクは典型的なユダヤ人の名前であった。ナチ党の主張と現実との遊離を皮肉ったのである。
不思議にもナチ党の幹部には外国生まれ、外国育ちのドイツ人が多かった。ヒトラーはオーストリア生まれ、へスはエジプト生まれ、農林大臣のダレはアルゼンチン生まれ、ローゼンベルクはリトアニア生まれであった。
外国生まれのドイツ人に共通するように、彼らは故国の姿を理想化していたのであり、幻想としての大ドイツとドイツ人の生活感情の間に常に深い対立があったのも事実である。戦局の見通しが悪化すると、こうしたドイツ的感情が表面に表われてきて、もろくも国全体がばらばらになっていったのである。」
左から、ヨーゼフ・ゲッベルス、ヘルマン・ゲーリング、アルフレート・
ローゼンベルク、ルドルフ・ヘス、ワルター・ダレ
■おまけ情報:ユダヤ人と仲良く暮らしていた青年時代のヒトラー
●青年時代のヒトラーが接した人は、意外にもユダヤ人の方が多かった。
若年で、しかも経済力のあまりない「画家ヒトラー」には、ユダヤ人の画商はなくてはならない存在だったのである。
その中から幾人かを紹介しておきたい↓
◆ヤコブ・アルテンベルク ……ガリチア出身のユダヤ人で、当時(1910年)35歳。
下町のウィードナー本通りなどに画商兼額縁商の店を開いていた。
ヒトラーは画商ハーニッシュと別れた後、このユダヤ人の画商に
自分の絵を買い取ってもらった。
◆サミュエル・モルゲンシュテルン ……ブダペスト出身のユダヤ人で、ガラス工芸職人兼額縁商。
当時(1911年)36歳。ヒトラーが最も信頼をおいた絵の買い取り人だった。
◆ヨーゼフ・ノイマン ……ウィーンの南方にあるワイン畑で有名なフェスラウ出身のユダヤ人。
本職は銅加工業だが、現実は雑貨の行商をしており、1910年の
1月から7月までヒトラーと同じ男子アパートに住んでいた。
彼はヒトラーが貧しくコートを持っていないことに気付き、
凍え死んでは大変とヒトラーにコートを与えた。また、
ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。
◆ジークフリート・レフナー ……モラヴィア地方出身のユダヤ人で、ヒトラーの住む男子アパートに入居。
ヒトラーより17歳年上で、ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。
●このようにヒトラーは、収入の必要があれば絵を描き、それをユダヤ人の画商に売って生活の資にしていたのである。後のヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できない話である。
青年期のヒトラーに詳しい津田塾大学名誉教授の藤村瞬一氏は、次のように述べている。
「ヒトラーはウィーンで、いわゆる『反ユダヤ主義』に染まったわけではない。ヒトラーのウィーン時代の生活にはユダヤ人の存在が欠かせず、後年どうしてあのような極端なユダヤ人憎悪に走ったのか、何が彼をそのように変質させたのか、究明しなければならない問題が残る」
ヒトラーの友人が描いた
青年時代のヒトラーの肖像画
■関連記事(リンク集)
◆ヒトラーの妻はユダヤ系だった? 英テレビ番組でDNA分析
https://www.afpbb.com/articles/-/3011852
◆ヒトラーの祖先、ユダヤ人の可能性も - DNA検査で発覚
http://jp.ibtimes.com/article/biznews/100825/59574.html
◆ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった……写真競売に
https://www.bbc.com/japanese/46204022
── 当館作成の関連ファイル ──
◆青年時代のヒトラーの歩み ~「芸術家」から「政治家」の道へ転進~
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