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作成 2005.12

 

青年ヒトラーの人生


〜 「芸術家」から「政治家」の道へ転進 〜

 

 

第1章
ヒトラーの少年時代
第2章
ウィーンでの謎の修行時代
第3章
ヒトラーの唯一の親友
アウグスト・クビツェク
第4章
青年ヒトラーとユダヤ人
第5章
ミュンヘン時代のヒトラー
第6章
「政治家」への道を驀進したヒトラー

おまけ
映画『アドルフの画集』
おまけ
ヒトラーが描いた絵(リンク集)

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■■■第1章:ヒトラーの少年時代


■■極めて裕福な家庭で育てられていたヒトラー少年


●ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで誕生した。

(このドイツとオーストリアの国境にある町は、数多くの霊能力者を生みだす“霊媒地方”として古くから知られていた。たとえば1930年代に、その心霊実験で、物体の空中浮揚などを演じて心霊研究家を驚かせたシュナイダー兄弟が、この土地の出身だった。しかも、ヒトラーはこの兄弟の兄、ウィリーと同じ乳母の手で育てられている)。

 

 
赤ん坊時代のヒトラー

 




ヒトラーには自分を含めて6人の兄弟がいたが、
彼と妹パウラを除いた他の4人は、ことごとく幼児や
乳児の時に夭折(ようせつ)してしまった。「早死に」の
“血の系譜”に生まれたことに対するヒトラーの恐怖心は
彼の無意識に取り憑き、生涯彼を苦しめたといわれている。

ちなみに、ヒトラーには腹違いの兄と姉がいた。兄の
アロイス2世は、14歳(ヒトラー7歳)のときに家出し、以後
二度とヒトラーの家に現れなかった。姉のアンゲラは、娘ゲリの
死後、エヴァ・ブラウンと対立し、1935年に「ヒトラーの山荘」から
退去。その直後に、マルティン・ハミッチュ教授と再婚したが、
アンゲラは異母弟に“拒絶”された恥辱で苦しんだという。

 

●ヒトラーの父アロイスは、通説によれば、下級官吏としてのみじめで不遇な生活におしひしがれて、怒りっぽい、不平不満のかたまりとなり、飲んだくれで、妻や子供をなぐる暴君となっていた。彼の妻クララは貧乏と夫の暴力のためにヒステリーとなり、「白髪頭のおしゃべり女」となってしまった、とよく言われるが、実際はそうではなかったようである。

父アロイスは税関の上級事務官として当時の小学校校長よりも高い俸給をもらっており、退職後も勤務時代の本俸をそのまま恩給としてもらうことができたという。飲んだくれではなく、蓄財にたけ、家計は豊かで、リンツ市近郊の町に広大な庭園のついた立派な高級住宅を購入している。

ヒトラーの家が貧しく暗い家庭生活を送ったとの通説は、この家屋と土地を見ただけで覆される。何しろ当時3850グルデンの価値があったのである。明治30年頃の日本円にスライドすると、3500円程度に相当するといわれる。米価が1石あたり8円88銭、もりそば1杯が1銭2厘という時代だ。こうした数字から推定しても、ヒトラー家は地方名士として上流階級に属していたことが判る。

 

 
ヒトラーの父アロイスと母クララ
(ヒトラーの顔は母親似である)

 

●また、父アロイスは、オーストリア・ハンガリー帝国のドイツ民族系官吏として、ドイツ民族主義者ではあったが、自由な思想の持ち主で、幼いヒトラーに極右思想をつぎ込んだ形跡などなかったそうだ。 ヒトラーの母クララは47歳で死ぬまで白髪などなく、もとよりヒステリーではなく、穏やかな愛情に満ちた主婦だったようだ。

このように、 ヒトラーは極めて裕福な家庭で育てられたのであった。ヒトラーは幼い頃から両親に非常に可愛がられ、6歳で読み書きを学んだ。村の学校ではオール5の優等生であり、ベネディクト派修道院の少年合唱隊のメンバーであった。

※ ヒトラーは「村始まって以来の神童」と言われるほど頭が良く、利発で、村の子供たちのリーダー的存在だったといわれている。

 


小学校時代のヒトラー

 

●ヒトラーは16歳の時にドナウ河畔の町リンツの国立実科学校に進んだが、彼の伝記作家の多くは、これ以後のヒトラーを“落ちこぼれ”として描く傾向にある。落第を繰り返し、受験にも2度も失敗するからだ。

いずれにせよ、彼はリンツの町で、美術館やオペラやロウ人形館に通い、親しい友人と深夜の町や野原をさまよい歩くという、勝手気ままな暮らしを送った。

 


国立実科学校時代のヒトラー

 

●当時、彼とよく行動を共にしたヒトラーの唯一の親友アウグスト・クビツェクによると、その深夜の彷徨のさなか、ヒトラーはよく、突然の陶酔状態におちいったという。

たとえば1月の寒さにさらされた丘の上で、ヒトラーは急に“ほとんど不吉といってもよいほどの表情”を浮かべ、“熱にうなされたような目”をし、耳ざわりなしわがれ声で話しはじめた。彼はまるで見知らぬ人間になってしまい、“いつの日か、彼にゆだねられる特殊な運命”について、火山が噴火するような勢いで演説したという。こうした幻視体験は、家にいるときも起きたようだ。

ヒトラーの妹パウラは、「兄はしょっちゅう母と私に向かって、とうとうと歴史と政治の講義をしました」と回想している。

 

  
ヒトラーの妹パウラ・ヒトラー (右)は晩年のパウラ。生涯孤独だった。

パウラは地味で内向的な性格だった。1936年、
アドルフ・ヒトラーは突然彼女にヒトラー姓を放棄させ、
「ヴォルフ」という姓を使わせた。これは彼女にとって大きな
ショックだったという。以後パウラは、「陰の妹」として人知れず
静かに暮らすようになり、生涯独身を通した。戦後、1960年に
心臓の衰弱により死去。現在墓碑には「パウラ・ヒトラー」
とある(唯一のアドルフの近親者として)。

 


■■最愛の母クララの死


●ヒトラー17歳の1907年1月のことである。ヒトラーの母クララは胸に激しい痛みを覚え、エードゥアルト・ブロッホ博士の診察にかかった。このブロッホ博士は、ユダヤ人の名医で、リンツの人々から「貧者の医師」と呼ばれて愛されていた。

母クララを診察したブロッホ博士の診断は絶望的なものだった。クララは末期状態の乳ガンで、もはや一か八かで手術する以外に奇跡は見込めなかった。このブロッホ博士の“宣告”を聞いたヒトラーは、顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 


ユダヤ人の名医
エードゥアルト・ブロッホ博士

 

●クララはリンツの修道女会病院で手術を受けたが、手術によって体力がほとんどなくなってしまった。

ヒトラーは必死に母クララを看病し続けたが、状況はもはや絶望的だった。

クララは同年12月21日未明、クリスマスツリーの灯りの下で息を引き取った。

 

 
最愛の母クララは1907年12月に、47歳の
若さで亡くなった。この時、ヒトラーは18歳だった。

 

●ブロッホ博士は、クララの亡き骸の傍らで泣き崩れるヒトラーの姿に釘付けとなった。

それはこれまでに見たこともない、絶対的な悲しみの涙だったという。

「私は40年近くも医者をやってきたが、あの時のアドルフ・ヒトラーほど悲しみに打ちひしがれた青年の姿を見たことがない」、こうブロッホ博士は回想している。

 

 
『世界の歴史 〈14〉 第二次世界大戦と独裁者ヒトラー』(学研・1994年)

「うっうっうっうっ…(泣)。母さんっ……! はやすぎるよ…。
大芸術家になった…ぼくを…、見てほしかったのに……」

↑長澤和俊氏(早稲田大学教授)が監修したこの「学研まんが」でも、母の死が
ヒトラー青年にとって大きなショックであったことが明確に描かれている(参考までに)

 

●ブロッホ博士は計77回クララの往診をして、そのうち47回は治療を行ったが、このブロッホ博士に対し、ヒトラー青年は涙をふきながら頭を下げて、こう述べたという。

「先生に対する感謝の念を私は一生忘れないでしょう……」

ブロッホ博士はのちに、ヒトラーがこの約束を守ったことを知った。
博士は合衆国へ亡命したのちにアメリカの雑誌『コリアーズ』に、こう書いた。

「1938年のオーストリア併合の際、ヒトラーはリンツのナチ党員たちを前にして私を『高貴なユダヤ人』と呼んでいた。ヒトラーは私の出国の手続きが整うまで、リンツでは唯一のユダヤ人として私をゲシュタポの保護下に置いた……私の知る限りでは、全ドイツあるいは全オーストリア中のいかなるユダヤ人にも与えられなかったような特典が私には与えられた。」

 

 


 

■■■第2章:ウィーンでの謎の修行時代


■■芸術家を目指していた青年ヒトラー


●1908年、ヒトラーは造形美術大学に入学するべくウィーンに出る。が、2回の受験に失敗し、やがて用意した資金も底をつき、浮浪者として路上をうろつくようになる。それは孤独と荒廃と虚無への道だった──と、これは公認の伝記の見解だ。

ところが最近の研究で、当時のヒトラーはきわめて裕福な18歳の若者だったことが判明した。父の遺産からの年金だけでも月に83クローネ(新任の教師の月給が5年間66クローネの時代である)。そのうえ彼は、亡くなったばかりの母の遺産5000クローネを受け取っていたのである。

 


ヒトラーの友人が描いた
青年時代のヒトラーの肖像画

ヒトラーと同じ年に不合格になった
受験者には、のちに優れた画家になり、
ほかならぬ美術大学の教授として迎えられた
 ロビン・クリスティアン・アンデルセンがいた。

また、ヒトラーとほぼ同世代のオーストリアの画家
エゴン・シーレは、1906年にヒトラーと同じ美術大学を
受験し合格していた。しかし彼は美術大学の教育方針
とあわず、仲間とともに退学(1909年)、その後
1918年に当時流行していたスペイン風邪に
かかり28歳の若さで病死している。

 

●そんな大金を懐に、ヒトラーは5年半ウィーンの街に姿をひそめる。

彼はそこで自分で描いた絵を売る仕事を始めた。絵は風景画を中心としたが、注文に応じては商業ポスターも描いたようである。

 


オーストリアの首都ウィーン

 

●ヒトラーは1908年から1914年の間だけで、およそ2000枚もの絵を描いた。

彼の画風は古典的な写実調だった。当時の美術界は抽象画の隆盛期にさしかかっており、ウィーンもそれに傾いていた。彼がウィーン造形美術大学の入学試験に不合格だった理由は、技術が拙劣だったことではなく、流行から外れていたのが大きな要因だったとみるむきもある。

こうした影響からか、権力を得てからのヒトラーはひたすら古典主義芸術を擁護し、他の画風を認めようとしなかった。ドイツの芸術は新古典主義一色になり、わけのわからない抽象的なものは「退廃美術」として排されたのだった。

 


──芸術家を目指していたヒトラーが描いた絵──


  

  

  

ヒトラーは「青年時代」の1908年から1914年の
間だけで、およそ2000枚もの絵を描いた

※ 彼の画風は古典的な写実調だった

 


■■“神秘修行”に熱中していた青年ヒトラー


●なお、“浮浪者伝説”に彩られたこの時代について、彼自身は後年も多くを語ろうとしない。果たしてこの時期、単に絵を描いて売るだけの生活を送っていたのであろうか。それとも、絵を描く以外に何か特殊な作業に着手していたのではないか?

ヒトラーの人生にとって、この時期は「芸術家」から「政治家」へと大きく方向転換していく重要な時期である。


●イギリスの歴史家トレヴァー・レブンズクロフトは、この5年半に関して、ヒトラーは“呪師”としての修行を積んでいたと述べている。

ヒトラーはこの時期、ウィーンの街で神秘領域の書物を専門に扱う古書店の主人、エルンスト・プレッシュと知り合っているが、そのプレッシュ自身、神秘主義者であり、メキシコで古代アステカ人やマヤ人の祭儀魔術の研究も積んでいたとみられている。

彼はヒトラーの資質を見抜き、彼に精神統御や内面的鍛錬の修行をさせたという。目的をひたすら目指す集中力、思考を事物のように操る想像力、感情の激しい抑制、根源的欲望の制御などの修行を経たのち、秘蔵していたマヤの麻薬ペヨーテを使って、彼を神秘の領域に導いたという。

(※ 古代アステカ人やマヤ人は、ぺヨーテを使用して、宇宙の深淵と彼らの心を交流させていたといわれている。自分の無意識を宇宙の普遍的無意識へと導くことによって、その語りかける声を聞き取れる能力を目覚めさせていたそうだ)。


●またこの時期のヒトラーの公立図書館での読書傾向を、研究者はリストアップしている。

古代ローマ、東方の宗教、ヨガ、神秘主義、催眠術、占星術……聖書はとうにすみずみまで読みこなしていた。そこに、リグ・ヴェーダ、ウパニシャッドなど古代アーリア人の聖典が、ゾロアスター教の教典ゼンド・アヴェスタ、エジプトの死者の書が加わるという。

オックスフォード大学の歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーは、ヒトラーがこの当時読んでいた書籍として、歴史と宗教に関する書物以外に、地理学と工学、芸術史と建築学、さらには軍事科学の天才として定評のあるカール・フォン・クラウゼヴィッツの著書などを挙げている。

また、哲学書としてはショーペンハウアーの著作を挙げている。

※ ヒトラーの秘書によれば、ヒトラーはショーペンハウアーの著作について、どの本のどのページに何が書いてあるか熟知していたという。

 


オックスフォード大学の歴史家
 ヒュー・トレヴァー=ローパー

 

 


 

■■■第3章:ヒトラーの唯一の親友 ─ アウグスト・クビツェク


■■アウグスト・クビツェクの証言


●先に触れたように、ヒトラーには若き日、たった一人だけ心を許しあった親友がいた。

その名はアウグスト・クビツェクという。

家具商の息子で、1905年にリンツのオペラ劇場で初めて知り合い、ウィーンで離ればなれになるまでの3年間を共に親密に交際した。

 


アウグスト・クビツェク
(1888〜1956年)

オーストリアのリンツで生まれた。
ヒトラーより1歳年上で、1905年から
1908年まで、ヒトラーの唯一の友として
過ごした。2人の友情はリンツで始まり、
その後ウィーンで共同生活までした。

 

●クビツェクは、当時のヒトラーについて次のように語っている。

「アドルフ(ヒトラー)は鼻筋が通っており、すっきりした顔立ちでした。額、鼻、口はわりと平凡ですが、には他の部分とは際立った特徴がありました。何と表現してよいかわかりませんが、アドルフほど顔の中でが際立っている人間を見たことがありません。母親と同じ明るい目でした。

しかし、何かこわばったような、貫くような眼光は母親以上で、圧倒的と言えました。そしてさらに力強く、表現力のあるでした。特にアドルフが話すとき、このは変化に富み、ぞっとするほどでした。低くよく響く彼の声さえも、に比べれば大したことはありません。アドルフは実際、で話していたのです。口を閉じていても、彼が何を言いたいか、私にはわかりました。

彼が初めて私の家に来たとき、私は彼を母に紹介しましたが、その晩、母は寝る前に言いました。

『おまえの友達はなんてをしているのでしょう!』

今でもよく覚えていますが、そのときの母の言葉には、賞賛よりも驚嘆がこもっていました。

『少年時代のヒトラーの非凡性は、どこに顕著に表れていましたか?』とたまに質問されることがありますが、私はいつもこう答えています。

『目に!』

もちろん、彼の弁舌の才も際立っていました。私は彼の弁舌を喜んで傾聴していました。彼の弁舌はとても洗練されていました。

〈中略〉

疑いなく、アドルフには少年の頃から弁舌の才がありました。彼自身にもそれがわかっており、好んで長広舌をふるっていました。」



●またクビツェクは、当時のヒトラーについて次のように語っている。

「アドルフはいつも本に囲まれていました。本のないアドルフを思い出すことはできません。

アドルフの読書法は興味深いものでした。彼にとって一番重要なのは、目次や概要節なのです。それからようやく読み始めるのですが、それも最初から順番どおりに読むのではなく、いきなり核心部分を読むのです。そしてこの方法で得た知識は、彼の中でちゃんと整理され、しかるべき記憶場所に格納されるのです。その知識は、まるで読んだばかりのように、正確に記憶され、使うときがくるまで待機しています。もう彼の頭の中に記憶場所は残っていないのではないか、と私は何度か思いました。しかし、宮廷図書館から持ち帰った知識は、全部ちゃんと頭の中に入っていました。

大量の知識を得ることによって、彼の記憶力はますます冴え、いつも宿題に苦しんでいた私から見れば、それはまさに奇跡でした。彼の脳内には、宮廷図書館がまるごと入っているようでした

〈中略〉

彼は膨大な数の本を読み、得た知識を優れた記憶力のおかげでしっかりと自分のものにしました。彼の知識は他の20代の若者の水準をはるかに越えていました

ウィーン時代のアドルフから、私は次のような印象を受けました。つまり、彼は自分のまわりに山と積んだ本から何か特定の事柄、たとえば活動の基礎や指針を探し求めようとしたのではなく、その反対に、無意識のうちにかもしれませんが、すでに自分の中に活動の基礎や指針として存在するものを本によって再確認しようとしたのです。したがって、『ドイツ英雄伝説』を除けば、彼にとって読書とは啓発というよりも、自己確認の意味合いの方が強かったのです。

ウィーンで彼は数え切れないほどの問題に取り組み、私もそれらに付き合わされましたが、よく彼は議論の後に何かの本を取り出して、勝ち誇ったようにこう言いました。『それ見ろ、この本の著者も僕と同じ考えだ!』と。」



●ところで、クビツェクによると、ヒトラーは朝が苦手な「夜型人間」だったという。

クビツェクは次のように語っている。

「アドルフの『夜話』は習慣になっていたので、私はベッドに入っても眠りませんでした。彼は興奮しながら部屋の中をあちこち歩き回り、まるで私が一介の貧しい音楽学生ではなく、ドイツ民族の存亡を握っている権力者でもあるかのように、私に向かって情熱的に話しかけるのです。

さらに忘れられない思い出があります。

ある夜、アドルフは恍惚となりながら演説をしました。ドイツ民族が受けている苦しみ、目前に迫る不幸、恐怖と危険に満ちた未来について。彼の目には明らかに涙が浮かんでいました。やがて彼の話は、この時代に対する告発から希望に満ちた夢へと移りました。全ドイツ人の帝国の建設について話し、この帝国によって『移住民族』(彼はドナウ帝国の他の民族をこう呼んでいました)に思い知らせてやるというのです。

話があまりに広がりすぎると、ときどき私は眠り込んでしまいました。するとすぐに私を揺り起こし、こう叫ぶのです。

『僕の話をもう聞く気がないのか? それなら寝ているがいい。民族的良心のない連中と同じように!』

それで私はがんばって上体を起こし、無理してでも目を開けます。そのうち、アドルフはもう少しやさしい方法で夜話をするようになりました。夢物語を語る代わりに、私が興味をもちそうな問題について話すようになったのです。」



●さらにクビツェクは、ヒトラーについて次のように語っている。

「アドルフは虚栄心ではないにせよ、自己演出について特別な感覚を持っていました。弁舌の才と併せると、疑いなく彼には偉大な俳優の才能があり、彼もそれをよく心得ていました。

なぜ彼はこのすばらしい能力を活かしてウィーンで活躍しないのだろうか、と私はよく自問しました。

しかし後になってやっと理解しました。定職に就くことは彼にとって論外だったのです。『パンのための仕事』に落ち着く欲求が彼には全くありませんでした。

感じの良い外面と、適切な話振り、正しい態度を保ちながら、極貧生活を営むという矛盾

ウィーンで彼に出会った人々はこの矛盾が理解できず、彼を高慢な奴かうぬぼれ屋と見なしたことでしょう。彼はそのどちらでもありません。彼は普通の市民的基準には当てはまらないのです。アドルフは文字通りの『空腹な芸術家』だったのです。

もちろん、機会さえあれば、喜んで食べたでしょうが、ウィーン時代の彼はいつも必要な食費に事欠いていました。たとえ食費が手に入ったとしても、劇場のチケットのために惜しげもなく食事を犠牲にしていました。

他人が『生活の楽しみ』と呼ぶものを、彼は全く知りませんでした。タバコも酒もやらず、言ってみれば、ウィーンではパンと牛乳だけで暮らしていたようなものです。」

 

■■突然の別れ


●ところで、ヒトラーとクビツェクの2人は、ウィーンで共同生活を送っていたが、1908年夏、ヒトラーはクビツェクの前から忽然と姿を消した

この後、ヒトラーは親友クビツェクには内緒のまま、駅を挟んで反対側の、うらぶれた地域へ移動し、家賃がもっと安い「独身男子寮」で暮らすようになったのである。


●クビツェクは、この時のヒトラーとの「突然の別れ」について、次のように語っている。

「私たちの友情は、アドルフによって突然打ち切られ、あまり美しくない終了を迎えました。

それでも時が経つにつれ、私はあの別れを良いほうにとりました」

「アドルフは大都市の闇に姿をくらましました。この後は彼自身もほとんど明かさず、信頼できる証人もいない年月になります。彼の人生で最もつらいこの時期については、一つのことだけが確実に言えます。つまり、彼にはもう友がいませんでした。

今になって、私は彼の行動が理解できるようになりました。彼は自分の貧乏を恥じており、もう友達が欲しくなかったのです。彼は一人で自分の道を進み、運命が課したものを背負うつもりでした。それは孤独、荒涼、虚無に通じる道でした。大都市の真ん中にいる人ほど孤独なものはない、と私も彼と別れてから思うようになりました」

 

 


 

■■■第4章:青年ヒトラーとユダヤ人


■■ユダヤ人と仲良く生活していたヒトラー


●ウィーン時代のヒトラーが接した人は、意外にもユダヤ人の方が多かった。

若年で、しかも経済力のあまりない「画家ヒトラー」には、ユダヤ人の画商はなくてはならない存在だった。

その中から幾人かを紹介しておきたい。


◆ヤコブ・アルテンベルク ……

ガリチア出身のユダヤ人で、当時(1910年)35歳。
下町のウィードナー本通りなどに画商兼額縁商の店を開いていた。
ヒトラーは画商ハーニッシュと別れた後、このユダヤ人の画商に
自分の絵を買い取ってもらった。


◆サミュエル・モルゲンシュテルン ……

ブダペスト出身のユダヤ人で、ガラス工芸職人兼額縁商。
当時(1911年)36歳。ヒトラーが最も信頼をおいた絵の買い取り人だった。


◆ヨーゼフ・ノイマン ……

ウィーンの南方にあるワイン畑で有名なフェスラウ出身のユダヤ人。
本職は銅加工業だが、現実は雑貨の行商をしており、1910年の
1月から7月までヒトラーと同じ男子アパートに住んでいた。
ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。


◆ジークフリート・レフナー ……

モラヴィア地方出身のユダヤ人で、ヒトラーの住む男子アパートに入居。
ヒトラーより17歳年上で、ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。

 

●このように、ヒトラーは、収入の必要があれば絵を描き、それをユダヤ人の画商に売って生活の資にしていたのである。後のヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できない話である。

青年期のヒトラーに詳しい津田塾大学名誉教授の藤村瞬一氏は、次のように述べている。

「ヒトラーはウィーンで、いわゆる『反ユダヤ主義』に染まったわけではない。ヒトラーのウィーン時代の生活にはユダヤ人の存在が欠かせず、後年どうしてあのような極端なユダヤ人憎悪に走ったのか、何が彼をそのように変質させたのか、究明しなければならない問題が残る」

 

 


 

■■■第5章:ミュンヘン時代のヒトラー


■■ミュンヘンに移住したヒトラー


●ウィーン時代の「独身男子寮」でのヒトラーは、禁欲的で、仕事が怠惰なのを除けば、酒・タバコ・ギャンブルの一切をやらず、模範的な人間の典型だった。もちろん、ヒトラーには「女」はいなかった。


●1913年、ハプスブルク家が支配するオーストリアに嫌気がさしたヒトラーはウィーンを離れ、ゲルマン精神の故郷であるドイツの南の中心地、ミュンヘン「オーストリア国籍」のまま引っ越した。

※ ヒトラーが正式に「ドイツ国籍」を取得するのは1932年になってからである。念のため。

 


オーストリア=ハンガリー帝国の国旗

オーストリア=ハンガリー帝国(1867〜1918年)は、
 ハプスブルク家が統治した中東欧の多民族連邦国家である。

※ 1913年にヒトラーは、この帝国が支配するウィーンを離れ、
 ドイツ南部の都市ミュンヘン(バイエルン州の州都)へ移住した。
この当時のミュンヘンは「芸術の都市」であり、「ミュンヘン
分離派」や「青騎士」などの芸術活動が見られた。

 


■■周囲の人たちを驚かせたヒトラーの禁欲生活


●絵で稼いだ資金によって、もはや悲惨な生活を送る必要がなくなったヒトラーは、ポップと名乗る洋服仕立て屋に間借りすることができたが、家主のポップ夫妻はヒトラーの変わった生活ぶりに驚いた。

ヒトラーは毎日昼頃に起きては、一人で部屋にこもると、「恐ろしく真面目な顔」をしながら分厚くて難しそうな本をむさぼり読んだり、絵を描いていた。そして外に出てもレジャーを楽しむこともなく、カフェでケーキをぱくぱくと食べながら手当たり次第いろいろな新聞を読みふけるだけだった。

“仕事”が終わって夕時に帰ってくると、ヒトラーの夕食はいつもパンとソーセージだけで、若者たちと酒を飲んだり、女の子とうつつを抜かしたりすることもなかった。


●ポップ夫妻は、ヒトラーの禁欲ぶりに、ある種の感銘を受けた。

もっとも、禁欲、倹約がすぎるからといって、ヒトラーは貧しいわけでもなかった。彼と同年代の銀行員の平均月収が70マルクだったのに対して、ヒトラーは月平均100マルクを稼いでいたのだから、独身の身にとっては十分すぎる収入である。


●下宿に一人こもり、まるで苦行僧のように黙々と思索にふけるヒトラー。

下宿の大家、ポップ夫妻は、この頃のヒトラーが、部屋で大量の戦史や戦記、戦争論を読み漁っていたことを記憶しているが、この「時代に背を向けた男」の行動は、ポップ夫妻を大いに不思議がらせた。

ポップ夫人はある時、ヒトラーの心中を計りかねて思わずこう質問してしまった。

「いったいあなたは、なんでそんな生活を送るのですか?」

ヒトラーは答えた。

「ポップの奥さん、人間の一生で何が役に立ち、何が役に立たないかなんてことは、誰にも分かりませんよ……」


●ミュンヘン時代のヒトラーを知るヨーゼフ・グライナーも、ポップ夫人と同じ心境からヒトラーにこう質問した。

「いったい君は将来どんな仕事をするつもりなんだい?」

ヒトラーは答えた。

「そのうちきっと戦争が起こる。そうなったら、職があろうとなかろうと、違いはあるまい……」



●ヒトラー研究の本を出している浜田政彦氏は、この時期のヒトラーについて次のように指摘している。

「……このように、ヒトラーは『時代』の暗雲の背後に、人々を突き動かす、形容しがたい何かを感じ取っていたようである。彼は来たる破局が自分の勝利への闘いの第一幕となるであろうことを確信し、その準備に余念がなかったのである」

 

■■第一次世界大戦の勃発


●1914年1月、ヒトラーはオーストリア軍の徴兵を忌避した罪で当局に逮捕され、オーストリア総領事館まで連行された。

しかし、検査を受けたところ栄養失調で不合格となり兵役を免除された。


●そしてその半年後、1914年6月28日に「サラエボ事件」が起き、7月にドイツ帝国が宣戦布告をすると

ヒトラーは大喜びしてドイツ軍に志願した。

 


ドイツ帝国の国旗

この帝国は「神聖ローマ帝国」の次の
統一ドイツ国家という意味で「第二帝国」とも
呼ばれる。1871年から1918年まで続いた。


  


第1章で紹介した『世界の歴史 〈14〉 第二次世界大戦と独裁者ヒトラー』(学研・1994年)から抜粋

 
  ◆ヒトラー: 「サラエボでオーストリア皇太子が暗殺…」

  「オーストリアがセルビアに宣戦か! とうぜん同盟国のドイツも参戦した。やったーっ」

  ◆ポップ夫人: 「ヒトラーさんは、戦争や兵隊ぎらいじゃなかったの?」

  ◆ヒトラー: 「いえいえ、オーストリアの軍隊に入りたくなかっただけですよーっ」

  ◆ポップ夫人: 「それはまたどうして?」

  ◆ヒトラー: 「ぼくは、オーストリアのハプスブルク王朝のために、死ぬのはイヤなんですっ」  

  「下宿のおばさん、ドイツのためならば、ヒトラーの命を捧げます! ドイツばんざいっ」
 



1914年8月1日、ミュンヘンの「オデオン広場」で第一次世界大戦の
開戦のニュースに歓喜の声をあげるヒトラーの有名な写真↑

※ 大群衆の中にヒトラーの顔がはっきりと写っている。これを撮影した
 ハインリヒ・ホフマンは、後にヒトラーの専属カメラマンとなる。

 

 


 

■■■第6章:「政治家」への道を驀進(ばくしん)したヒトラー


■■第一次世界大戦後のヒトラー


●1908年夏、ウィーンでヒトラーと別れた後のクビツェクは、音楽家(指揮者)の道を進み、

1914年にバイオリニストと結婚。3人の子をもうけた。


●一方、ヒトラーは先に述べたように、1914年に始まった第一次世界大戦でドイツ軍「志願兵」として入隊

この第一次世界大戦で、彼は4年間に40回以上の戦闘に参加。伍長としては異例の「一級鉄十字章」を受章するなど、6回もの表彰を受けた(具体的には「一級鉄十字章」 「二級鉄十字章」 「連隊賞状」 「黒色戦傷章」 「剣付き功三級鉄十字章」=2回受章)。

 

 
(左)第一次世界大戦の時のヒトラー(中央の人物)
(右)ヒトラーが受章した「一級鉄十字章」

※ 第一次世界大戦当時の「一級鉄十字章」は、
約30万個乱発されたとされる第二次世界大戦の
「一級鉄十字章」とは異なり、その数も少なく、士官
以外の一般の兵士にはめったに授与される
ことのない価値のある勲章であった。

 

●しかし、第一次世界大戦でドイツ帝国は打ち負かされ、皇帝ヴィルヘルム2世は追放され、権力は強奪された。

革命後、ドイツに「ワイマール共和国」が誕生した。

 

 
(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859〜1941年)
(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗

彼はドイツの軍事力を過信し、無謀な戦争
へと突入させた。結果、皇帝の座を維持できなく
なり、ドイツは「帝国」から「共和国」へと移行する。
(第一次世界大戦後、彼は退位してオランダへ亡命した)。

※ ヴィルヘルム2世の母親はイギリスのヴィクトリア女王の娘だった。
そのため彼は生涯、イギリスには好意的だった。しかし、その旺盛な
海軍力増強姿勢はイギリスの警戒心を刺激し、イギリスをフランス陣営
に追いやることになった。ちなみに、彼の立派な口ひげ(端がピンと
はね上がった口ひげ)は「カイザー(皇帝)ひげ」と呼ばれた。

彼は科学技術の進歩に大きな関心を持ち、学術団体
「カイザー・ヴィルヘルム協会」を設立して
科学者を援助したことでも知られる。

 

●第一次世界大戦の終了後、ヒトラーは軍の命令

南ドイツの半秘密結社的団体「トゥーレ協会」の政治サークルに潜入する。

軍のスパイ役として派遣されたのだが、そこでたちまち頭角を現し、やがて党首に選ばれる。

「政治家ヒトラー」の時代の始まりである。

 


ヒトラーを中心に集まった
誕生間もない頃の「ナチ党」のメンバー

第一次世界大戦でのドイツの敗北に対して
ヒトラーは慟哭し、そのショックからヒトラーは以後、
「政治家」としての道を歩む決意をすることになった。

 

●ヒトラーは「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」、すなわち「ナチ党」を率いて、

入党14年後には合法的に政権を獲得してしまうのである(1933年1月30日)。

 


アドルフ・ヒトラー
(1889〜1945年)

1933年1月30日、
43歳の若さでドイツ首相に選ばれた。

建築家志望だった彼は「新都市計画」に熱意を
注いだ。ナチスの「新都市計画」は、ヒトラー自身の発案に
より着手され、ヒトラー自身によって推進された一大事業であった。
総統令が出され、ベルリン、ニュルンベルク、ハンブルク、ミュンヘン、
リンツは「総統都市」として改造が優先された。特にリンツは
パリに劣らぬ“芸術の都”に、ベルリンは世界に誇れる
“政治の中心地”となすべく力が注がれた。
(リンツは「ヒトラロポリス」と改名
 される予定だった)。

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。


新都市計画の模型に見入るヒトラー

 
(左)ヒトラーが描いた“新ベルリン”の「凱旋門」。(右)はそれを模型化したもの。

ヒトラーはウィーンでの修行時代に、ヨーロッパ中の著名な建物の1つ1つの
歴史を調べ、秘密の通路に至るまで、その構造を詳しく研究していた。
パリに入った時、ヒトラーはオペラ座を訪れ、その階段を登りながら
踊り場の壁を指して、「ここにサロンがあったはずだ」と言った。
フランス側のガイドはそのような話は聞いたことがなく、
過去の資料を調べてみると、その小部屋は壁で
ふさいでしまったと書かれていたという。

  

ヒトラーは、ナチスの軍需大臣で建築家でもあったシュペーアの協力で、
ベルリンを大帝国の首都にふさわしい超大型の建築物の林立する夢の都市
に造り変える構想(世界首都ゲルマニア計画)を立てていた。“新ベルリン”
の中央には幅122m、長さ約5kmの巨大な南北軸の大通りを造り、
南の端には「総統宮殿」と大理石の巨大な「凱旋門」(大きさは
パリの凱旋門の15倍もあった)が建つことになっていた。

  

ヒトラーはこの壮大な「世界首都ゲルマニア計画」に
強い思い入れがあり、実現をベルリン陥落の
迫る最期の時まで気にかけていた。

 
↑ちなみにこれは模型ではなく、実際に作られたナチスの建築物(独特の雰囲気が漂っている)

 


■■クビツェクとの友情再燃 ─ 30年ぶりの再会


●その後、ヒトラーは、一通の手紙からクビツェクとの友情を再燃させた。

1938年4月9日、オーストリアのリンツに滞在していたヒトラーはクビツェクと再会

ヒトラーは彼の手をとり、30年ぶりに会うことができて嬉しいと語った。

「クビツェク、きみは本当にあの頃のままだ。きみがどこにいても、私ならすぐに見分けられただろう。きみは何も変わっていない。ただ年をとっただけだ!」

 


ベルクホーフでくつろぐヒトラー

ヒトラーとクビツェクは1938年4月9日、
思い出の町リンツで30年ぶりに再会した

 

●さらにヒトラーは次のように語った。

「クビツェク、きみには3人も子供がいるが、私には家族がいない。一人ぼっちだ。だが、きみの子供たちの面倒をみてやりたい。

私はきみの子供たちの教育に関して代父の役割を引き受けよう。才能のある若者に私たちと同じ人生を歩ませたくない。ウィーンでの私たちがどれほどひどかったか、きみならよくわかっているだろう。きみと別れてから、私は最悪な日々を送った。若い才能が困窮のために破滅するようなことがもうあってはならないのだ。私が個人的に力になれることがあれば、援助しよう。他ならぬ、クビツェク、きみの息子たちのことでもあるしな!」


●ヒトラーはこの言葉通り、本当にクビツェクの3人の息子がリンツの「ブルックナー音楽院」で学ぶことができるように学費を出し、さらに息子のルドルフのデザインした作品をミュンヘンの美大教授が鑑定するように仕向けてあげたのである。

クビツェクは語る。

「ほんの軽い握手だけの会見と思っていたら、私たちは一時間以上も話し込んでいました」


●翌年の夏、クビツェクはヒトラーにバイロイトの「ワーグナー祭」に招待され、大感激している。

「バイロイト巡礼は、私の生涯で最高の喜びでした。一生の間、私が夢見ることすら叶わないだろうと思っていたことが、実現されたのです。そのときの喜びは、とても言い表すことができません。バイロイトへ巡礼して、そこで偉大なる巨匠ワーグナーの楽劇を体験することこそ、昔からの私の最高の芸術的な憧れでした。しかし私の質素な経済状況では、そのような旅行は考えることもできませんでした。そういうこともあって、出発の数日前から私は熱っぽくなり、嬉しくて夜もほとんど眠れませんでした」

 

 
バイエルン州北東部のバイロイト市にある「ワーグナー祝祭劇場」

ワーグナー自ら音響効果を考えて設計した劇場である。
音響効果を重視して、いまもエアコンなしである。

 

●翌年もヒトラーはクビツェクと会い、公務を中断してまで楽しく語り合った。

クビツェクとの交流は、激務に追われる政治家ヒトラーに息抜きの場を提供した。

しかし、第二次世界大戦の激化によって二人の関係は途切れてしまい、そのまま終戦を迎えた。

 

 
ヒトラーが宝にしていた「一級鉄十字章」

ヒトラーは第一次世界大戦で授けられた
この勲章を大変名誉と考えていた。彼が終生誇りを
持って着用した勲章はこの「一級鉄十字章」のみであった。
(通常それは彼の左胸のポケット付近につけられていた)。

※ 豪華な服装を身にまとい、その胸間を数多くの勲章で飾り
立てていた国家元帥ゲーリングと比べ、ヒトラーはその
服装および着用する勲章に関しとても控えめで
質素であったことで知られている。

 


■■その後のクビツェク


●戦後、米軍に「ヒトラーの旧友」だったということだけで、クビツェクは身柄を拘束されたが、

その時の出来事について、次のようなエピソードが残されている。


米軍の将校はクビツェクに聞いた。

「君はヒトラーの友人だったのだね?」

「はい」

「君はヒトラーに会うとき、二人きりだったのかね?」

「ええ」

「親衛隊とか、護衛兵とかはいなかった?」

「はい」

「では君は…その気になればヒトラーを殺せたわけだ…」

「まあ…殺す気になれば、可能だったでしょうね…」

「では、どうして殺さなかったんだ!」

きょとんとした顔で、クビツェクは答えた。

「だって……親友ですから…」



●クビツェクは米軍による16ヶ月間の抑留に耐え、1947年4月に釈放された。

その後、クビツェクは若き日のヒトラーとの交際について回想録をまとめ、この本は1953年に出版された。

 

 
若き日のヒトラーとの交際に
ついて回想録をまとめるクビツェク

 

●この回想録『我が青春の友 アドルフ・ヒトラー』は、

現在、ヒトラー研究のための貴重なドキュメントとして高く評価されている。この回想録によって、ヒトラーの知られざる青春の日々が手に取るように白日の下にさらけ出されることになったのである。

※ この回想録が発表されたとき、旧来のヒトラー像をくつがえすとして、全世界のメディアは騒然となったという。


●「もしもクビツェクが偶然若きヒトラーと出会っていなかったとしたら、独裁者ヒトラーの青春の軌跡は、おそらく誰の目にも触れられることなく、永遠にそのまま歴史の片隅に葬り去られてしまっていたに違いないだろう」ともいわれている。


●クビツェクは、この回想録の出版の3年後(1956年)に、68歳で亡くなった。

 

 
(左)オーストリアのブラウナウに残るヒトラーが生まれたアパート。父の仕事の
関係で引っ越しが多かったため、このアパートでヒトラーが暮らしたのはたった3年だった。
(右)このアパートの前に置かれている石碑。「平和、自由そして民主主義のために
数百万人が二度とファシズムを生み出さないよう警告する」と書かれてある。

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: 映画『アドルフの画集』


●ハンガリー、カナダ、イギリスの合作映画『アドルフの画集』──。

この映画は、第一次世界大戦に破れて疲弊し混乱していたドイツ・ミュンヘンが舞台で、陸軍に所属しながら画家として成功を目指す若き日のアドルフ・ヒトラー(ノア・テイラー)と、架空のユダヤ人画商マックス・ロスマン(ジョン・キューザック)との友情を描いた人間ドラマである。

 

 
映画『アドルフの画集』(2002年制作)

原題: MAX(マックス)
制作国: ハンガリー/カナダ/イギリス
監督: メノ・メイエス

 

※ 以下、ネタバレ注意。


●この映画のヒトラーはいつも暗い顔をしており、アルコールもタバコも女も拒むナイーブで神経質な性格で、職探しに失敗して貧乏生活に苦しむ平凡な青年である。

最初は「反ユダヤ主義は嫌いだ」と言っていたが、反ユダヤ主義の陸軍の上官に持ち前の弁舌を買われ、街頭で反ユダヤ思想の演説(=アルバイト)を始める。


●そんなヒトラーに、ユダヤ人画商マックスは絵画の道を歩ませようと尽力する。

しかしヒトラーは絵画で自分の気持ちをうまく表現することができず、苦悶の日々を送る。

そして画家として大成する前に、自分の説いた「反ユダヤ思想」に世間の人々が賛同し始め、物語は悲しい結末に向かっていく……。

 


この映画に登場するヒトラー
(ノア・テイラー)

 

●この映画でヒトラーを演じた俳優(ノア・テイラー)は、インタビューの中で率直にこう述べている。

「ヒトラーがアーティストになっていれば、世界は救われていたのに!」


●歴史に「イフ(if)」は禁物だが、この俳優が述べるように、「もしもヒトラーが画家として成功していたら…」と考えさせる映画である。

ちなみに、ユダヤ人画商マックスを演じた俳優(ジョン・キューザック)は、インタビューの中でこう述べている。

“怪物”は型通りに表現されがちだ。悪は悪として描いたほうが簡単だからね。

この作品が怖いのは、悪としてのヒトラーではなく、あくまでも〈人間〉としての彼を描く点である」



●さて参考までに、この映画の中に登場した「印象的なセリフ」(主にヒトラーとマックスの会話)を

幾つかピックアップしておきたい↓


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■その1:(この映画の前半)

◎ヒトラー:「僕の演説を聞いてくれて光栄だ。〈中略〉 僕の演説どう思った?」

◎マックス:演説に注ぎ込むだけのエネルギーを、もし芸術にも注いだら、いい画家になれるだろう」

◎ヒトラー:「…………(沈黙)」


 
ヒトラーとユダヤ人画商マックス(右)


■その2:
(この映画の前半)

◎マックス:「君は反ユダヤ主義なのか?」

◎ヒトラー:「その逆だよ。君らを尊敬している」

◎マックス:「本当に?」

◎ヒトラー:「ああ、とても知的な人々だ。みんな頭がいいし、人種の純血をしっかり守っている」

◎マックス:「純血?」

◎ヒトラー:「君たちの人種のだ。君たちユダヤ人の秘密はその純血にある。我々の最強のライバルだぞ」

〈中略〉

◎マックス:「……純血の秘密とやらを教えてくれ。昔から言われている血液学とか優生学とか、

あんなのはデタラメだ。忘れてしまえ、科学的じゃないし芸術の障害になる。

なぜ軍のためにあんなくだらない演説をしている?」

◎ヒトラー:「なぜって、仕方ないんだよ

◎マックス:「仕方ないって何が?」

◎ヒトラー:軍の手当てのお陰で生活できる」

◎マックス:「じゃあ、適当にしゃべってるだけなんだな」

◎ヒトラー:「あんな講和条約、君だって不満だろ?」

◎マックス:「ああ、最悪の講和だ。でも、だからって俺は残った左腕で戦う気はない。務めはもう果たした」


※注: この「講和条約」とは、「ヴェルサイユ講和条約」のことを指す。
ユダヤ人のマックスは「ドイツ兵」として第一次世界大戦に参戦し、片腕を失っていた。

参考までに、第一次世界大戦で10万人のユダヤ人が「ドイツ兵」として戦い、
そのうち4万人が志願兵だった。第一次世界大戦でドイツは200万人が命を失った。


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■その3:
(この映画の前半)

反ユダヤ主義の陸軍講師リーバー・フェルト少佐の言葉(講演会にて)。

「諸君、こんばんは。ぜひ君らの知識を試したい。

ユダヤ人はユダヤ人と交わる。なぜかな?

その理由は民族の純血を保つためだ。

彼らが純血を保つように、我々も民族の純血を保てば、この世界の本当の姿が見えてくるぞ。

我らの偉大な祖先アーリア人宇宙空間からやって来た。寒さと熾烈な戦いで鍛えられて、アーリア人は神聖なる戦士となった。

ところが、アーリア人は豊かな国から来た優しく浅黒い肌をした女に誘惑されたのだ。こうしてアーリア人の血は汚され、たくましさも失い、やがてアーリア人はユダヤ人の奴隷にされた」

聖杯の騎士よ。そうだ、諸君は聖杯の騎士である。

民族の純血を守れば、我々は力を取り戻し、再び超人として世界を支配する!」

※ ここで聴衆から大きな拍手が起こる。


 
(左)「反ユダヤ思想」を熱心に説く陸軍講師(少佐)
(右)彼の話に耳を傾ける復員兵たち(ヒトラー含む)


■その4:
(この映画の中盤)

◎ヒトラー:「最近、降霊術の会に通っている」

◎マックス:「そうか、面白そうだな」

◎ヒトラー:「まあね、ためになるよ。なぜ古きゲルマンの神々イスラエルの若き神に倒されたか分かって面白い」


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■その5:(この映画の後半)

◎ヒトラー:「やあ、マックス。今の僕の演説をどう思う?」

◎マックス:「なんとも言いようがない…」

◎ヒトラー:「あれこそ新しいアートだぞ。〈中略〉 政治こそが新しいアートだ!!


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★関連リンク


『アドルフの画集』の映像=予告編ムービー(WMP) 2分11秒
http://meta.yahoo-streaming.jp/cgi-bin/yahoo/movies.asx?cid=20040916004it0000movie300k

『アドルフの画集』のメノ・メイエス監督のインタビュー記事
http://www.walkerplus.com/movie/report/report903.html

この映画のカスタマーレビュー >> 『アドルフの画集』

 

 


 

■■おまけ情報 2: ヒトラーが描いた絵(リンク集)


●下のリンク先に、ヒトラーが描いた絵が大量に展示されています↓

※ 丁寧に描かれた完成度の高い絵もあれば、デッサンのおかしな中途半端な絵もあります。


BRANGOLF галерея
http://www.thepaganfront.com/brangolf/gallery/gallgermpaintah.htm

Snyder's Treasures -- ORIGINAL Adolf Hitler Artworks
http://www.snyderstreasures.net/pages/hartworks.htm


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↓追加 (ヒトラーが描いた絵を、約2分の映像にまとめたもの)。参考までに。

Paintings by Adolf Hitler
http://www.youtube.com/watch?v=loHEhCf9h34

 

 


 

アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔

 


 


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