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No.a6fhc631
作成 2002.3
ドイツの独裁者として君臨したヒトラー。
彼は権力者の常として、様々な手段によってその
命を狙われた。しかし彼は一種名状しがたい“強運”
に恵まれており、誰一人としてヒトラーの排除という
目的を達成することはできなかったのである…。
●1944年7月20日、ヒトラーに反対するクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐など、国防軍の一部を中心とする反ナチス将校グループ「黒いオーケストラ」によって、大規模なヒトラー暗殺計画が決行された(7月20日事件)。
これは総統大本営、通称「狼の巣」(ヴォルフスシャンツェ)に爆弾を仕掛け、そこでヒトラーを殺すというものだった。そしてヒトラー暗殺後に「ワルキューレ作戦」を速やかに発動し、ナチ党政権に対するクーデターを強行するというものだった。
ヘニング・フォン・トレスコウ少将
※ 彼は極秘裏にヒトラーを排除して連合軍との講和を
画策していたドイツ国防軍の反ナチス将校グループ
「黒いオーケストラ」の主要メンバーであった
●しかし、この計画は未遂に終わり、事件発生後24時間以内に700人の加担者が逮捕され、シュタウフェンベルク以下200人が次々と処刑されたのであった。
※ ヒトラー暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清はドイツ降伏直前まで続き、約5000人が命を失った。
(左)ヒトラーの暗殺に失敗したトレスコウ少将
(右)クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
※ 1944年7月20日のヒトラー暗殺計画が失敗に終わると、
翌日、トレスコウ少将は前線に出て手榴弾を爆発させて自決した。
当初は暗殺計画への関与が知られていなかったため、戦死者扱いで
軍人墓地に埋葬されたが、事件への加担が明らかになると墓が
掘り起こされ、遺体は強制収容所で焼却処分された。
↑ヒトラーの暗殺未遂現場(爆破の痕が生々しい)
シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾がヒトラーの間近で爆発。
室内にいた24人全員が吹き飛ばされ、そのうち4人が爆発により死亡した。
ヒトラーが寄りかかっていた机は爆風で飛び、部屋はメチャクチャに破壊された。
しかし驚いたことに、ヒトラーは大ケガをすることなく生存していた。
※ ヒトラーは自分の生還を“神の御業(みわざ)”だと考え、
主治医に向かい「私は不滅だ!」と言ったという。
●戦後南米に逃亡した元ナチスの高官は、次のように語っている。
参考までに紹介しておきたい。
「ヒトラーは第三帝国内の裏切り者たちに随分と幻滅を感じていた。戦況が不利に展開し始めた頃、ヒトラーの直接命令によって裏切り者をマークするプロジェクトが結成されたことがあった。このプロジェクトにはヒトラーが真に信頼するSSメンバーとゲシュタポメンバーが入っていた。私もその1人だった。我々は徹底した調査を行い、その結果をリストに仕上げた。
その『ブラックリスト』にはフェーゲライン、カナリスなどの大物の名前が書き込まれていた。フェーゲラインはSSの将軍でヒトラーの義弟でもあった男だ。カナリスは諜報部のトップだった。
この他に我々はヒムラーの名前も加えた。彼がヒトラーに本当の事を報告していないことが度々あった。これではヒトラーが戦況について正しい判断ができるわけがない。一種の裏切り行為だ。
不幸にしてこの予感は適中した。敗戦が決定的になった時、ヒムラーはいろいろな手段を使って連合国側にアプローチしようとしていた。自分の身を守るため何とか敵と話し合おうとしたのだ。
SSの長官ともあろう者が情けないことだ! ドイツは負けるべくして負けたのかもしれない。
ちなみに、私個人の意見としてはヒトラーが自殺したとは考えられない。ヒトラーの性格から言って絶対に自殺志向ではないからだ。ヒトラーを知っている者なら誰しもそう思うだろう」
(左)ヘルマン・フェーゲラインSS中将
(右)ヴィルヘルム・カナリス海軍大将
(左)SS長官ハインリヒ・ヒムラー
(右)青酸カリで服毒自殺したヒムラーの死体
大戦末期、ヒトラーはヒムラーの裏切り行為を察知すると、
彼を解任し逮捕しようとした。しかしヒムラーは変装して逃亡、
その後イギリス兵に捕まると、隠し持っていた青酸カリの
カプセルを噛み砕いて服毒自殺してしまった。
●ヒトラー研究の本を出している浜田政彦氏は、著書『彼らはあまりにも知りすぎた』(三五館)の中で次のように述べている。
「第二次世界大戦当時、ファシスト・フランコ将軍下のスペインで、ナチス・ドイツに協力していたスペインのトップ・スパイ、ベラスコは、スパイ活動を通じて幾度となく奇妙な光景に遭遇した。敵味方を超えた次元では、奇妙にも両者は同じ目的(共通の利益)の下に動いていたのである。それはこの対立が茶番劇であることを意味していた……。
彼はドイツ国防軍情報部、そしてSS情報部(親衛隊情報部)の下で、MI5、MI6と激しい抗争を繰り広げたが、そこで多くの“裏”を見ている。SS情報部は国防軍情報部とは違って、『全世界に網羅した驚異的な情報網組織』を敗戦後も持っていた、とベラスコは語る。これらの狂信的なナチストらが、戦後も世界の舞台裏でヒトラーを屈服させた“だれか”と密かなる暗闘を続けているのだ。
だが一方で、“だれか”に内通する裏切り者も数多かったらしい。ベラスコに言わせるならば、ヒトラーの周囲は裏切り者で満ちており、彼はほとんど一人で絶望的な闘いをしていたというのである。〈中略〉
……にわかには信じ難い話のオンパレードだが、これらはベラスコの一人よがりではないようだ。CIA防諜担当上級幹部のレナード・マッコイは、CIAの長年のパートナーであるイギリス情報機関MI5内に、ロスチャイルドをはじめとする系列の超富豪たち“門外漢”が自由に出入りして機密情報を目にしているのを目撃して驚愕しているが、事情を知る者に言わせれば、この場合、本当の“門外漢”とはマッコイのほうである、となるのだろう……」
↑ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップ・スパイで、第三帝国が
崩壊する寸前までヒトラーとともに地下官邸で過ごしていたベラスコ
※ 彼によればヒトラーはほとんど一人で絶望的な闘いをしていたという
●また浜田政彦氏は、その後に出した『神々の軍隊』(三五館)の中でさらに詳しく次のように述べている。
「日本の場合と同じくドイツの場合も、まず中小財閥がヒトラーとナチスを援助して育て上げ、その後ナチスの勢いに目を付けた大金融資本家が、相乗りしてヒトラーを煽り、東西対立ショーの役者に仕立て上げたのである。だがヒトラーの本質を全く理解していなかった彼らは、手下であるはずのヒトラーが、力をつけたとたん、自分たちに牙を向いてきたことに愕然とした。ヒトラーの裏切りが分かったらあとは早い。皆でヒトラーを包囲してよってたかって潰すだけである。」
「……ともすると我々は国際金融資本を、一致団結した一つの集団として認識しがちだが、ヒトラーを取り巻く投資家グループを見てもわかるように、彼らは常に『誰に投資すれば一番儲かるのか?』という貨幣投資の能率を基準にして動いており、その先物投資の理論からすれば、投資先の政治信条や思想信念は二次的なものでしかないのである。早い話、儲けのためなら敵にすら投資するのだ。
“彼ら”の徹底した儲け主義の現れを象徴する一例をあげれば、次のような実例がある。ナチス・ドイツの金庫番・蔵相シャハトが、ロンドンの金融中心地シティにおいてロスチャイルド財閥をはじめとするユダヤ系銀行家たちに、ドイツ国内のユダヤ人を引き取るように取引を持ちかけたところ、この銀行家たちは一般ユダヤ人に課せられたドイツ出国税が高すぎると言って、これを値切り始めた。結局、交渉は決裂し、このために国外に脱出できなくなった数百万のユダヤ人が、強制収容所で殺される運命となったのであるが、こうした出来事は『貨幣』の前には自民族や国家の理念などどうでもいい、という彼らの本質がよく現れているように思われる。
ヨーロッパ情勢は、ナチス・ドイツに加担する金融グループと、英米の反ナチス陣営に与する金融グループの間で起きた、戦争を伴った通貨競争(マネーゲーム)の投影であった。この両者は、それぞれ敵国内に支店を持ち、平時には国際金融市場で共存していたために、これら両グループの支援と指示を受けている各国の政府は、『こちらに協力しろ!』というふうに両陣営から圧力を受け、板挟みの中で身動きできなくなってしまったのである。
2つの椅子を前に迷ってしまった各国の政府は、初期のヒトラーの行動については目をつむり、どっちつかずの傍観する姿勢をとるという、いわば2つの椅子に腰掛ける態度をとることにしたのであるが、結果としてこれが『ヒトラーの奇跡』を生むこととなったのである。かくしていい気になったヒトラーは、勝利への幻想に酔い始め、独ソ戦という無謀な“逸脱”に走っていったのである。
こうしてみると政治的な反ユダヤ主義が、いかに欺瞞に満ちたものであるのかがよくわかる。“彼ら”は親ユダヤ、反ユダヤ、などという政治・宗教・民族的な枠組みとは何の関係もない、無国籍・無定見・無機質な存在で、実体のない記号である『通貨』と同じ存在なのだ。我々が真に問題にすべきは、国境を越え、一国の国政や民族のアイデンティティを大きく飛び越して広がる、顔のないこうした“彼ら”の増殖なのである。」
(左)『神々の軍隊』浜田政彦著(三五館)
(右)『億万長者はハリウッドを殺す』
広瀬隆著(講談社)
●これに似たようなことを、ノンフィクション作家の広瀬隆氏は著書『億万長者はハリウッドを殺す』(講談社)の中で次のように述べている。(各イメージ画像とキャプションは当館が独自に追加)。
「“パール・ハーバー”から間もない頃、スイスの首都ベルンに『OSS』と呼ばれるアメリカの戦略局の諜報機関がオフィスを開き、ここに『サリヴァン=クロムウェル法律事務所』のアレン・ダレスが派遣された。この首都ベルンの近くにバーゼルの街があるが、ここはスイスとドイツとフランスの三国が接し、戦略上はピラミッドの頂点をなす重要拠点だった。
この三角基地バーゼルに『国際決済銀行(BIS)』があった。第一次世界大戦のドイツ賠償金の全てを取り仕切る、という名目で1930年にジャック・モルガンが設立させた特異な銀行である。この銀行は、銀行家の間で“バーゼル・クラブ”と呼ばれ、完全な秘密主義を守り抜く異様な社交場となっている。」
第一次世界大戦後、ドイツの賠償問題処理のために
1930年にスイスに設立された「BIS(国際決済銀行)」
しかしこの銀行はヒトラーの政権掌握以降、アメリカとイギリスの資金が
ヒトラーの金庫に流入する窓口の役目を果たすようになり、
正反対の機能を持つ銀行になった
「バーゼル・クラブの真相は、あまりに複雑であるため、読者に手際よく説明できるという自信はない。この当時のドイツとアメリカの関係は、イギリス、ベルギー、カナダ、スイス、アフリカを加えた7ヶ所にまたがる謀略が渾然一体となって、利権を追及するシンジケートに支配されていたからである。
バーゼル・クラブの総裁を務めていたトマス・マッキトリックは、モルガンが所有するニューヨークの『ファースト・ナショナル銀行』の取締役であった。バーゼル・クラブの重役陣には、ヒトラーを首相にしたナチ党員、クルト・フォン・シュローダー男爵と、『I・G・ファルベン社』の社長ヘルマン・シュミッツと、『ドイツ国立銀行』の総裁ヴァルター・フンクが名前を連ねていた。
ナチスの資金源を取りまとめたクルト・フォン・シュローダー男爵の『シュローダー銀行』は、敵国アメリカに支店を持って、ロックフェラーとアレン・ダレスに事業を任せていたばかりでなく、もうひとつの敵国イギリスの首都ロンドンにも支店を構え、『南アフリカ・アングロ・アメリカン投資会社』の取り引きを引き受けていた。
このシンジケートのメンバーは、戦争中の敵味方であるため公然と会合することが許されなかった。密談することができる唯一の場所こそ、治外法権に守られたスイスのバーゼル・クラブだったのである。」
「ベルン情報網の本部長としてスイスに派遣された(親ナチス派の)アレン・ダレスは、実は70キロ先のバーゼル・クラブに絶えず出入りしていた。彼は、この銀行(BIS)に毎日のように顔を出し、ルーズベルトとヒトラーの作戦について情報を交換していた。これは半ば戦争の情報という性格を持っていたが、今日では、ダレスがワシントンに送った情報はどれもこれも周知の事実だったことが明らかにされている。ダレスは、連合軍の情報官ではなく、シンジケートの情報係と呼ばれるべきであった。そのために彼はよく働き、戦火は日増しに大きく燃え上がり、シンジケートの金庫はみるみる膨れ上がっていった。」
スイスのOSS支局長に
就任したアレン・ダレス
彼はスイス・バーゼルの「国際決済銀行(BIS)」に
毎日のように顔を出し、情報交換していた。
(戦後、CIA長官に就任する)。
「しかし、1943年2月6日から、バーゼル・シンジケートにとって思いがけない事態が持ち上がった。イギリスとアメリカの爆撃機が、ドイツの都市に空襲を開始したのである。ここでシンジケートにとって戦争の性格が変わったことはいうまでもない。
アメリカとドイツの投機業者が仕組んだシナリオ通りには戦争は推移しなかった。いまやクルト・フォン・シュローダー男爵自身の体が危険にさらされているばかりか、『ドイツ国立銀行』、『I・G・ファルベン社』、『アダム・オペル社』、『クルップ製鋼』、『ポルシェ』といったシンジケートのドイツ同胞が爆撃されるようになっていた。ここまで火をつけてしまった以上、いずれかの政府が“参った”と宣言するまで、殺し合いを続けなければならなかった。ヒトラーとルーズベルトは、いずれも相手の絶滅を国民に約束して戦闘に踏み切っていた。」
「アレン・ダレスに関する書物によれば、ちょうどこのドイツ空爆からわずか1週間ほどあとに、ナチス親衛隊(SS)の秘密工作員2名が、シューデコッフ博士とホッヘンロー二皇太子の偽名を使ってスイスに潜入し、アレン・ダレスと会談している。
このときのアレン・ダレスが伝えた結論は、『ヒトラーに退いてもらい、ドイツ帝国を別の人間が継承する』というものだった。しかしこれはナチス親衛隊向けの、やわらかい表現である。実際にはシンジケートの意向は、もはやヒトラーを利用する時期は終わった、できる限り早く奴を抹殺し、ドイツの工業界が破滅するのを食い止めるべきだ、というものだった。
1944年5月12日には、アメリカの第8空軍機が935機ドイツ上空に現われると、この一千機近い爆撃機がドイツの中央部と東部にある重油工場を壊滅させ、ドイツ軍需産業の終わりを決定づけた。」
「アメリカの超富豪、モルガンとロックフェラーが手を組んだのは、初めからヒトラーではなかったのである。彼らはドイツの銀行家や工業家と手を組み、全員で寄ってたかってヒトラーを利用し、ファシズム旋風を巻きあげ、いまそれが行き過ぎだったと気づいた。盟友の『クルップ鉄鋼』は工場の3分の1が爆撃で破壊されていた。
このシンジケート団はファシストでなく、投機業者である。ファシストを利用する時もあれば、逆の力を利用する時もある。
だがヒトラーは、自分を神だと感じはじめていた。ムッソリーニがたちまち逮捕され、ヒトラー批判がいよいよドイツ上層部で火を噴きはじめても、ベルリン空襲のなかでヒトラーは独裁者の地位をおりなかった。1944年6月16日、ドイツがロンドンにV1ロケットを発射したとき、自分の支店をロンドンに構えていたシュローダー男爵の驚きは、いかばかりだったろう。
『あのヒトラーという奴は何も分かっていないのだ!』
ヒトラー暗殺未遂事件(7月20日事件)が起こったのは、その1ヶ月後のことである。」
ヒトラーは自らを「現代のメシア(救世主)」だと考えていた。
世界の危機を理解し、これを救うことができるのは自分しかないと
信じ込んでいた。しかし「バーゼル・シンジケート」にとって、
ヒトラーの存在は単なる戦争代理人でしかなかったという。
「ところで、ドイツの絶滅を譲らなかった(反ナチス派の急先鋒である)ルーズベルト大統領が、1945年4月12日に急死したのは、本当に病死であろうか。頭痛に襲われ、心臓病の薬を注射されたが効なく、ウォーム・スプリングで世を去った。最も重要な勝利を目前にして、このような最高指導者の地位にある人間が病死するということは、人間の精神力と生理から考えて、なかなか起こり得ない現象に思われる。その死に方は、ヤルタ会談の旅からはじまった急激な憔悴に見られるごとく、ハーディング大統領のアラスカ旅行後の急死と、きわめて似たパターンである。ドイツの無条件降伏を主張し続けたルーズベルト大統領の急死……。
ルーズベルト大統領が消えると、謎の副大統領トルーマンが昇格した。それからわずか16日後の28日、ムッソリーニがゲリラに捕らえられて銃殺される。さらにわずか2日後の30日、ヒトラーが銃弾を口の中に撃ち込んで自殺。ヒトラーの遺体がその後どこで処分されたか、誰ひとり知る者なく、今日まで深い謎に包まれている。仮にこの3人の急死が、何者かに仕組まれたものであれば……」
「この答えを知っている人物は、J・R・ディーン少将であろう。彼は、死亡2ヶ月前のルーズベルト大統領がヤルタ会談に臨んだとき、ヤルタ島に同行し、連合国の首脳会談に立ち会った。次いでトルーマン新大統領が7月17日にポツダム会談に臨んだときにも同行し、またしても首脳会談に立ち会った。この2つの最重要会談で顧問役を務め、この両会談の中間で、ルーズベルト、ムッソリーニ、ヒトラーが死亡し、ドイツが降伏した。
J・R・ディーン少将は、大戦後の東京軍事法廷の証言台に立ち、大日本帝国の軍人を弁護する雄弁をふるった。『ロシアが日本を侵略したのだ。そのロシアを日本が攻撃したのは当然の結果である』と。
枢軸国側に立つこの異様なアメリカ人の正体は、経歴が明らかではない。どこから派遣された使者か。トルーマンの支援者ジョージ・アレンがナチスに結びつき、もうひとりのエドウィン・ポーレーがダレスに結びつく事実は、スイスのバーゼル・クラブを思い起こさずにはおかない。」
以上、広瀬隆著『億万長者はハリウッドを殺す』(講談社)より
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