No.a6fhc300

作成 2000.5

 

ナチスを支援した国際的な

パワーエリートの黒い人脈と金脈

 

~シュローダー男爵とダレス兄弟の暗躍~

 

第1章
シュローダー男爵とナチス
第2章
「ITT」とナチス
第3章
ナチスとアメリカを結ぶ資金ルートに
深く関与したダレス兄弟
第4章
スイスのOSS支局長に就任した
アレン・ダレス
第5章
CIA設立に関与した
ナチスのトップ・スパイ
第6章
「ゲーレン機関」と冷戦

追加
米CIA、ナチス・アイヒマンを
知りながら隠し通す
~米機密文書で明らかに~
おまけ
ヒストリーチャンネルで
放送された番組「CIAとナチス」

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■■第1章:シュローダー男爵とナチス


●ロスチャイルド家やハンブロー家と並び称せられるほど古くからマーチャント・バンカーとして活動してきた名門「シュローダー家」は、ドイツではハンブルクやケルンなどに、イギリスではロンドンに拠点を置き、鉄道から砂糖、ビールに至るまで大々的な商業活動を行ってきた。

当時はロスチャイルドを除けばロンドンでは1、2を争う商会として記録されているほど大きな勢力を持っていた。


●この「シュローダー家」出身のクルト・フォン・シュローダー男爵は、ロスチャイルド金融勢力の一つである「J・ヘンリー・シュローダー銀行」の創立者のひとりであった。ドイツ・ケルンには自分の銀行「J・H・シュタイン銀行」を開いていた。

※ シュローダー男爵はヒトラーに心酔し、ナチスに入党してゲシュタポの高級将校になり、私設の突撃隊員を持っていた。

 


クルト・フォン・シュローダー男爵
(1889~1966年)

ドイツ・ケルンを拠点とする裕福な銀行家で、
ヒトラーを権力の座につける上で重要な役割を担った

 

1931年12月にシュローダー男爵が中心になって、ヒトラーに定期的に寄付することを約束したドイツの著名な実業家12人をメンバーにした秘密友愛組織「フロイデンスクライスS」(またの名をケプラー・クライス)が結成された。

この組織は後にSS長官ヒムラーを主力メンバーとして迎え入れ、1934年以降は「ヒムラー友の会」と呼ばれるようになる。

※「ヒムラー友の会」は親衛隊を介して、ナチ党指導部と財界首脳が直接交流する機会を提供するとともに、シュローダー男爵の銀行に設けられた秘密口座を通じて、財界の資金を親衛隊へ流すパイプとしても機能していた。

 


SS長官ハインリヒ・ヒムラー

自らナチスに入党したシュローダー男爵は
「ヒムラー友の会」を組織して財政支援をした

 

●この「ヒムラー友の会」について、山口定氏(立命館大学名誉教授)は著書『ナチ・エリート ~第三帝国の権力構造~』(中央公論新社)の中でこう述べている。

「『ヒムラー友の会』は『ケプラーの会』を継承し発展させたものである。この会は毎月第二月曜にベルリンで行われ、親衛隊長官ヒムラーは、そのたびにメンバーの出欠を注意深くメモしていたといわれるが、フォーゲルザンクの研究によって、1939年で39名、1944年で44名のメンバーの名がほぼ確認されている。〈中略〉

このグループは、ナチ党と産業界の一部有力者たちとの『融合』の場となったと見てよい。1939年以降のメンバーの中には、ジーメンス=シュッケルトのビンゲル、ブレッシング、I・Gファルベンのビューテフィッシュ、オーストリアの銀行家フィッシュベック、フリック・コンツェルンのフリック、ドイツ銀行のフォン・ハルト、ハンブルク・アメリカ航路のヘルフェリヒ、ケプラー、ドレスデン銀行のマイヤーとラッシェ、コンメルツ銀行のラインハルト、ヴィンタースハルのロステルク、合同製鋼のシュタインブリンク、銀行家のフォン・シュローダーらがいた。

そして彼らは、親衛隊高級将校の名誉称号や親衛隊の管理下にある強制収容所からの労働力の提供と引換えに年々多額の親衛隊への寄金を行い、それが武装親衛隊の装備や、その他、ヒムラーが正規の予算からの支出をあてにできない諸事業のための資金にあてられた。(この寄付金額は1940~1944年の時期で毎年約100万ライヒスマルクであった)。」

 


『ナチ・エリート ~第三帝国の
権力構造~』山口定著(中央公論新社)

 

1933年1月30日にヒトラーが政権を獲得すると、シュローダー男爵「BIS(国際決済銀行)」のドイツ代表に指名された。

シュローダー男爵はドイツ鉄鋼王テュッセン男爵と共にナチスの財政支援を行い、シュローダー男爵の銀行「J・H・シュタイン銀行」は、のちにヒトラーの個人取引銀行になった。

 


《 ドイツ工業界からナチスへの資金の流れ 》

この相関図は広瀬隆氏が作成したもの(『赤い楯』より)
※ この図の右下に「ロスチャイルド銀行」があり 
左下にシュローダー男爵の名前が出ている

※ 上の図の左下部分の拡大図↓

 

 


●1936年にニューヨークの「J・ヘンリー・シュローダー銀行」は、ロックフェラー財閥と資本を提携し、「シュローダー・ロックフェラー商会」という名称の投資銀行を設立した。共同経営者にはシュローダー男爵と、ジョン・D・ロックフェラーの甥のエーヴリー・ロックフェラーなどが名を連ねていた。これによって、ナチス・ドイツ政府とロックフェラー財閥の絆は強くなった。

 


WASP勢力の中心に君臨しているロックフェラー一族

1936年に設立された投資銀行「シュローダー・ロックフェラー商会」
によってナチス・ドイツ政府とロックフェラー財閥の絆は強くなった

 

●そして、ヒトラーが政権を維持するために更なる資金が必要になったとき、「イングランド銀行」、すなわちロスチャイルド自ら登場してきた。

また、アメリカ・ウォール街の「ディロン・リード商会」も融資を行っていた。この「ディロン・リード商会」の創立者はC・ダグラス・ディロンで、法外な賠償金をドイツに支払うように決めたアメリカの賠償委員会委員長バーナード・バルークの右腕だった男である。

 


ユダヤ人大富豪
バーナード・バルーク

ロスチャイルド家と深いかかわりをもち、
アメリカの大統領顧問を務めた

 

ちなみにシュローダー男爵の名は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』に登場している。

この映画は、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合され、ナチスを毛嫌いするトラップ大佐が、金持ちの貴婦人との再婚よりも、子供たちの家庭教師マリア(修道女)を選んでアルプス越えをした第二次世界大戦の実話である。トラップ大佐が避けた貴婦人とは、ほかならぬシュローダー男爵夫人であった。

 


映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年制作)

 第二次世界大戦の実話に基づいて作られた映画であり、
この映画にシュローダー男爵の名が登場している

 

 


 

■■第2章:「ITT」とナチス


●ドイツのシュローダー男爵は、「ITT(国際電話電信会社)」の取締役も務めていた。

「ITT」はソスサニーズ・ベーン会長が設立した親ナチのアメリカ企業で、ベーン会長は通信網を次々に伸ばして世界中に張り巡らし、またたく間に「世界の電話王」になった。

ベーン会長はファシスト政権の国々で政治家を「ITT」の取締役にすると約束し、電話網を急速に広げ、それらの政府からも支持されたのだった。ベーン会長の帝国は1931年までに世界的な大恐慌にもかかわらず、6400万ドル以上の資産を持つ大企業に成長した。彼は「ナショナル・シティー銀行」の役員にも就任している。

 

 

1933年8月、ベーン会長はヒトラーと会見したが、ベーン会長はヒトラーとの会見を許された最初のアメリカ人実業家であった。

この会見でベーン会長は、ドイツと「ITT」の政治的な関係を第二次世界大戦が終了するまで続けると約束をした。ヒトラーも「ITT」に対して、常に助力と保護を惜しまないと約束した。

 


アドルフ・ヒトラーとソスサニーズ・ベーン会長

ベーン会長はヒトラーとの会見を許された
最初のアメリカ人実業家であった

 

シュローダー男爵とSS長官ヒムラーは、ドイツにある「ITT」の資産と製造工場を没収または押収されないように取り計らったばかりではなく、シュローダー男爵は「ドイツ帝国銀行」のエミル・プールが「ITT」の借金を支払うように手配までした。

ベーン会長はSS(ナチス親衛隊)に資金を与え、さらに友人であったナチスのナンバー2、ヘルマン・ゲーリングの重要な支援者になった、1938年、ベーン会長とシュローダー男爵は、「フォッケウルフ社」の株の28%を収得し、後にロンドンとアメリカの艦船や部隊を攻撃することになる戦闘爆撃機の改善に多大な貢献をしたのである。

 


ベーン会長の友人であった
ヘルマン・ゲーリング国家元帥

ゲーリングはドイツのみならずアメリカを
はじめとする各国財界人に幅広い人脈を持って
いたので、彼の仲介によって得られた援助は、
資金面でナチスを大きく支えていた。

 

●ベーン会長は戦争中、「ITT」ドイツを完全に自分の支配下に置いていたばかりではなく中立国であるスペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデンの「ITT」工場も管理していた。これらの国々の工場は枢軸国のために軍需品を製造し、売買もしていたのである。


真珠湾攻撃後、ドイツの陸海空軍は「ITT」と契約を結び、その結果、「ITT」は電話交換台、電話機、警報機、ブイ、空襲警報装置やレーダー装置を製造することになった。

また、イギリス軍とアメリカ軍の兵士を殺傷するために使用されている砲弾用の導火線も月間、3万本を製造することになった。この導火線は1944年までに月間、5万本も製造するようになった。

さらに、「ITT」はロンドンを空襲しているロケット弾の原材料、乾式整流器用のセレン光電池、高周波無線装置、要塞および野戦用の通信セットをドイツ軍に供給した。


●作家チャールズ・ハイアムは次のように述べている。

「この非常に戦略上の重要な資材がなかったならば、ドイツ空軍はアメリカ軍とイギリス軍の将兵を殺傷できなかっただろうし、ドイツ陸軍はアフリカ、イタリア、フランス、そしてドイツで連合軍と戦闘ができなかっただろう。また、イギリスは空爆されなかっただろうし、連合国の艦船が海上で攻撃を受けることもなかっただろう。

『ITT』とその関連企業の助けがなければ、ドイツ海軍のレーダー提督がパナマから南方の国々を猛攻撃しようと計画したときに、ドイツ側が中南米の国々にこの計画を連絡することができなかったはずである


●ベーン会長(彼は当時、米軍大佐でもあった)のこうした類の活動は裏切りというレッテルをあっさり貼られてもおかしくなかったはずである。なのに、連合軍によってフランスが解放される1944年の時点では、もう彼はアメリカのヒーローとして褒めたたえられていたのであった。

 

 


 

■■第3章:ナチスとアメリカを結ぶ資金ルートに深く関与したダレス兄弟


実は、ヒトラー政権が誕生する26日前の1933年1月4日、シュローダー男爵はケルンにある自分の豪華な大邸宅にヒトラーとパーペン元首相を招いて、重要な秘密会議を開いていた。

主要出席者はヒトラーとパーペン元首相以外に、ニューヨークの法律事務所「サリヴァン&クロムウェル」のジョン・フォスター・ダレスとアレン・ダレスのダレス兄弟で、彼らは「シュローダー銀行」を代表していた。

 


(左)フランツ・フォン・パーペン
(右)クルト・フォン・シュローダー男爵

パーペンはカトリック政党の「ドイツ中央党」の党首で、
1932年6月にドイツ首相となり、1933年1月に
ヒトラー内閣を成立させ、副首相に就任した。

 

この日、ダレス兄弟がヒトラーと会談した目的は、ヒトラーをドイツ首相に就任させるために必要な資金を確実に提供する確約を与えるためだった。こうして巨額の政治資金を得たヒトラーは、その資金力を使って選挙に勝つことができたのである。

 

ヒトラー政権が誕生する26日前に、シュローダー男爵の
大邸宅で重要な秘密会議が開かれ、アメリカ人の
ダレス兄弟は、ヒトラーが選挙に勝つための
財政支援を約束した。

 

ダレス兄弟はしばしば重要な会議に姿を現した。彼らはパリ講和会議(1919年)ではアメリカを代表していた。ダレス兄弟はヒトラーが第二次世界大戦を起こすまで、ナチス・ドイツとアメリカを結ぶ資金ルートに深く関与していたのである。

ここでダレス兄弟について簡単に紹介しよう。

 


(左)アレン・ダレス (右)ジョン・フォスター・ダレス

 

●弟アレン・ダレスは、ハーバード大学出身の法律家・弁護士出身で、1916年から外交官職にあり、1920年にベルリンのアメリカ大使館第一書記に選ばれ、第一次大戦ドイツ賠償問題など多数の軍事外交に関与。のちに長年にわたってドイツのシュローダー男爵の銀行「J・H・シュタイン銀行」の理事を務め、さらにアメリカの「スタンダード石油」の顧問弁護士も務めていた。「ITT」のベーン会長とアメリカ軍との間をとりもち、ベーン会長を背後から操っていた。戦後も「ITT」との深い関係は続いた。

兄のジョン・フォスター・ダレスも、同じくハーバード大学出身の優秀な弁護士として鳴らし、ウォール街の法律顧問を務め、「BIS(国際決済銀行)」の創立者の1人として活躍。アメリカが参戦する前はドイツの「I・G・ファルベン社」の重役陣に名を連ね、アメリカきってのドイツ通の1人であった。パリ講和会議では叔父の国務長官ロバート・ランシングの秘書官を務め、ジャネット・ポムロイ・エーヴリーとの結婚によりロックフェラー家の一員となり、ロックフェラー財団の理事長も務めた。

1936年に誕生したニューヨークの新会社「シュローダー・ロックフェラー商会」の法律顧問には、アレン・ダレスとジョン・フォスター・ダレスの兄弟が、コンビを組んで就任した。

 


BIS(国際決済銀行)

 

●興味深いことに、当時、ロンドンでイギリス情報機関が秘密作戦を駆使してアメリカのメディアを操り、「スタンダード石油」と「I・G・ファルベン社」との提携関係を暴露し始めた時、ダレス兄弟は両社を擁護する行動に出ていた。

その時の様子を研究家のロフタスとアーロンズは、次のように記している。

「イギリスの機密文書によれば、ダレス兄弟はアメリカのメディアの動きを阻止すべく、即座にイギリス情報機関に手をまわした。アメリカのメディアの口を封じたその手法が、機密文書にこう記されている。『ダレスともう1人の同僚が、I・G・ファルベン杜に関する暴露を中止するよう要請してきた。その根拠は、このまま続ければスタンダード石油などの大企業をも巻き込むことになり、ひいてはアメリカの戦争遂行能力に支障をきたす恐れがある』、というものだった。」

 


ドイツの巨大企業「I・G・ファルベン社」(1935年)

※ この会社はドイツの化学工業をほぼ独占し、ナチスに対して巨大な財政援助をした

 

 


 

■■第4章:スイスのOSS支局長に就任したアレン・ダレス


●ダレス兄弟の弟アレン・ダレスは、1942年11月に、スイスのアメリカ大使補佐官という外交上の地位を与えられ、アメリカのスパイ組織である「戦略情報局(OSS)」のベルン支局長に就任した。

彼に課せられた任務は、ナチス・ドイツ内における反ヒトラーの動きを探り、その進展具合を分析するという広範なものだった。そのため、彼は第二次世界大戦中のスイスで活動する多くのスパイ組織とパイプをつくる機会に恵まれ、スイスに彼の情報帝国が誕生することとなった。

 


アレン・ダレス

スイスのOSS支局長に就任し、
スイスに彼の情報帝国が誕生した

 

●アメリカが「戦略情報局(OSS)」のベルン支局長に軍人ではなく、ウォール街の敏腕弁護士であるアレン・ダレスをあてたことはとても意味深い、と語るのはスイス人歴史家ジャーク・ピカールである。

「これはとても重要なことである。軍人ではなく弁護士を派遣したのだから。それも頭がきれて腕の立つ弁護士である。物事の裏を見抜く目を持った男で、資金や物資が戦争を引き起こす仕組みを知り尽くしていた。スパイたちに混じって彼もゲームに参加したのである」

 


スイスの国旗

 

アレン・ダレスが弁護士時代に築いたナチス・ドイツとのコネは彼にとってきわめて有利に働いた。そんなコネの1つがドイツの「シュローダー銀行」とのパイプで、彼は開戦時までナチス・ドイツとの商取引を公然と続けていたのである。

また、アレン・ダレスは、部下の諜報員たちの多くとは異なり、ナチズムを嫌う反ファシストではなく、むしろ反ユダヤ主義に染まっており、ユダヤ人にあまり好感を持っていなかった。


●アメリカ人歴史家マーク・マスロフスキーは、アレン・ダレスについて次のように語る。

「彼は非常に自己中心的な男で、スイス(ベルン)から戦争を指揮しようと考えていた。企業弁護士としての実績は相当なもので、ドイツの実業界や法曹界の友人は数えきれないほどであった。親ナチスではないものの親ドイツで、保守派の抵抗運動にかなり肩入れしていて、無条件降伏を画策していた。ヨーロッパ各地の社会の奥深くまで潜入して情報活動を展開し、人脈を築いていたのである。終戦後に予想される冷戦時代に備えて、彼のアンテナははっきりソ連の方向に向けられていた」

 


スイスの首都ベルン

 

●ダレス兄弟によって結ばれていた「シュローダー銀行」、「BIS(国際決済銀行)」、「戦略情報局(OSS)」、「I・G・ファルベン社」の間の黒い関係は、大戦中のヨーロッパ全土に拡がっていたことになるが、このダレス兄弟とナチスとの黒い関係が、彼らの終戦後の政治活動に支障を及ぼすことはなかった。

その証拠に、アレン・ダレスは終戦時には在イタリア・ドイツ軍を降伏させる「サンライズ」作戦を指揮し、その後に5代目CIA長官に就任している。一方、ジョン・フォスター・ダレスもアメリカ国務長官に就任しているのだ。

 

 


 

■■第5章:CIA設立に関与したナチスのトップ・スパイ ─「ゲーレン機関」とCIA


■ラインハルト・ゲーレンの情報組織「ゲーレン機関」


●太平洋戦争が始まる直前、独自のスパイ組織の必要性を痛感していたアメリカのルーズベルト大統領は、1941年7月に「情報調整局(OCI)」を創設。翌年、イギリスの情報機関をモデルにして「戦略情報局(OSS)」に改組した。

第二次世界大戦の間、アメリカの情報活動の主体はこのOSSであり、OSSは全世界的な規模における戦略情報の収集・分析、および特殊活動を担当した。スタッフの総数はおよそ1万2000人だった。

 


「戦略情報局(OSS)」の創設者
ウィリアム・ドノヴァン

 

スイスのOSS支局長だったアレン・ダレスは、終戦と同時に、ラインハルト・ゲーレンと接触することで、アメリカのスパイ組織を大きく変えていくようになる。

 


(左)アレン・ダレス (右)ラインハルト・ゲーレン少将

ラインハルト・ゲーレンは、ナチス・ドイツの
陸軍参謀本部東方外国軍課長として
対ソ諜報活動の責任者であった

 

ラインハルト・ゲーレンは、ナチス・ドイツの陸軍参謀本部東方外国軍課(FHO)で課長を務め、対ソ諜報活動の責任者であった。ソ連の背後に広大なスパイ網を作り、その情報分析能力を高く評価されていた。

しかし、敗戦をいち早く察知すると、ソ連関係の重要記録(50箱ものスチールケースに詰められた)をアルプスの地中に隠匿し、ソ連軍の追及を逃れて部下とともにアメリカに降伏した。アメリカにとってゲーレンの持つ膨大な東欧共産圏の情報は、まさに宝であった。東西両陣営の対立は大戦が終わった時点で既に動かぬものとなっていたからである。

 

 

アレン・ダレスと元ナチスのゲーレンの2人は、紳士協定を結び、ナチスとアメリカの情報機関をつなぎ合わした。これによって生まれたのが情報組織「ゲーレン機関」である。

ゲーレンが持っていたナチスの対ソ連スパイ網は、ほとんどそのままの形でアメリカの情報界に移植された。


●のちにゲーレン本人は、アレン・ダレスと結んだ紳士協定の内容を明かしたが、次のようなものであったという。


【1】 我々が前にやっていたように、東側で情報を収集し続ける今の力を使って、ドイツの秘密情報組織を設けること。対共産主義防衛への我々の共通の関心がその土台となる。

【2】 このドイツ組織は、アメリカの「ために」働くのでも、アメリカの「下で」働くのでもなく、アメリカと「合同」して働くものとする。

【3】 組織は、ドイツが全面的なリーダーシップをとるものとするが、ドイツ国内に新政権が樹立するまで、アメリカからの指令を受ける。

【4】 組織は、経費とは別の融資をアメリカから受け、この見返りに、組織は機密情報すべてをアメリカに手渡す。

【5】 ドイツに新政権が樹立されるや、政府は組織を存続させるべきか否かを決定する。だが、そのときまで、組織の統制管理はアメリカの手中にある。

【6】 アメリカとドイツの利益が分かれる状況になったときには、組織はドイツの利益を優先させる。


 

■アメリカの国益にとって「ゲーレン機関」は不可欠であった


●OSSは1945年10月、平時にOSSを置く意義を認めなかったトルーマン大統領により解散したが、諜報活動はいくつかの機関に受け継がれ、これらをとりまとめる形で1947年9月、「CIA(中央情報局)」が誕生した。

初期のCIAの東ヨーロッパにおける対ソ情報は、全てゲーレンによって管理・統括されていた。ときには、ゲーレンの報告がCIAの用紙にそのままタイプし直され、トルーマン大統領の手に渡ることもあった。また、ある時期のNATOが有するソ連、東ヨーロッパ及び全ヨーロッパの情報のうち70%は、ゲーレンが提供したものだとも言われている。

このように元ナチスのゲーレンは、実力の面でも、影響力の大きさからしても、実質上CIAの設立者と呼ぶべき存在であった。

 


1947年9月に誕生したCIA(中央情報局)

元ナチスのゲーレンは、実力の面でも、
影響力の大きさからしても、実質上CIAの
設立者と呼ぶべき存在であった

 

●CIA創設当時、ゲーレンと共に活躍したハリー・ロシツケは次のように述べている。

「1946年の時点で、アメリカ情報機関がソ連について持っている資料は、ほとんど皆無に等しかった……道路や橋、工場の位置や生産能力、都市計画や空港、こういった基礎的な資料すらなかったのである。『ゲーレン機関』はCIAが基礎的な資料を入手するにあたって、主要な役割を果たしたことは事実である」


●さらに長きにわたって国務省情報調査局局長を務めたパーク・アームストロングは、「ゲーレン機関」について次のように記録している。

「アメリカの国益にとって『ゲーレン機関』は不可欠であった。ドイツ人の提供したソ連の軍事情報は、我々の方針を左右することもあった」

 


ラインハルト・ゲーレン少将

戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。

 

■CIAはナチ・スパイ集団にとっての出先機関だった


●ところで、「ゲーレン機関」は発足当初、元SSやゲシュタポのメンバーだった人間を雇い入れたり、逃亡中のナチ高官を庇護する組織「オデッサ」のメンバーをアメリカ情報機関の従業員名簿に登録し、彼らに避難所を提供していたと言われている。

たとえば「リヨンの虐殺者」と言われていた元SSのクラウス・バルビーなどもゲーレンと一緒にCIAの情報活動をしていたことがあるし、ユダヤ人の虐殺に関与したSSの情報員アルフレッド・ジックスエミール・アウグスブルクといった逃亡中のナチ戦犯を雇って、対ソ情報ネットワークを復活させたりした。

要するに戦後の初期の「ゲーレン機関」は、アメリカが引き抜いたヒトラーのエリート・スパイたちの中心的存在だったのである。

 


元SSのクラウス・バルビー

 

●「脱ナチ化推進協会」のカール・オグレスビーはこう書いている。

「実際には、ラインハルト・ゲーレンの組織『ゲーレン機関』は、誕生する前からCIAの民間的性格を実質的に先取りしていた。CIAはゲーレンのゆりかごの中に収まるべく生まれたのであって、組織でBND(ドイツ連邦情報局)に変貌したときにもこれに頼り続けた。

したがって、法の上でCIAがどのようなものであったにせよ、実際的情報収集の立場からは、常にナチ・スパイ集団の表看板であり続けたのだ。組織は、単に軍事上のものでも外国のものでも、ナチスのものでもなく、アメリカと西ヨーロッパの安全保障にのみ携わっていたのでもない。もっぱら『オデッサ』の安全保障のためのものだった」


●軍諜報史家のウィリアム・コルソン大佐も同じ見解を表明している。

「ラインハルト・ゲーレンの組織『ゲーレン機関』は、『オデッサ』のナチ党員を保護するために設けられたのだ。見事なほどうまく資金が流用されていた」

 

 


 

■■第6章:「ゲーレン機関」と冷戦 ─ 演出された東西の「冷戦」


■ソ連の脅威を組織的に誇張して冷戦を著しくエスカレートさせた「ゲーレン機関」


●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンが指摘するには、ゲーレンやその仲間である戦争犯罪者・元SS隊員らを雇い入れたこと自体が「冷戦を著しくエスカレートさせる行為」だった。

もっと重要なのは、ゲーレンの情勢報告はソ連の脅威を組織的に誇張し、ソ連の軍事的意図やアメリカ国内での共産主義破壊活動に関するアメリカ人のパラノイアを煽り立てたということである。

 


(左)クリストファー・シンプソン (右)彼の著書
『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』

戦後アメリカ情報機関は、元ナチを含めた元ナチ協力者を採用
する。深まりつつある冷戦の中で彼らの役割は…。情報公開法に
よって入手した豊富な資料を用いて、彼は1940年代後半
から50年代にかけての冷戦の裏側を描き出している。

 

●彼は次のように書いている。

「第二次世界大戦後のアメリカに雇われた元ナチと元ナチ協力者の組織で、潜在的にきわめて大きな影響力を持っていたのは『ゲーレン機関』である。ラインハルト・ゲーレンのソ連軍事力に関する分析は、独ソ戦に敗れたことで一層鍛えられ、アメリカ情報機関に広く利用された。今日でもなお重要視されている。

しかしゲーレンは1つ重大な過ちを犯した、と指摘するのは、CIAと国務省の双方に勤務したソ連問題専門家アーサー・メイシー・コックスである。ソ連がアメリカに与える脅威はあくまでも政治的であるのに、ゲーレンはあたかもそれが差し迫った軍事的問題であるかのように報告し、『国防総省と連邦議会にいた時代錯誤の冷戦主義者に取り入っていた』というのである。ゲーレンの情報や分析は『共産主義者の陰謀』という見方を外交政策において強めることになった。この見方により、ヨーロッパ大陸で起こる労働者のストライキや学生運動も、すべてクレムリンが裏で手をまわしているかのように見えたのである。」

 


「国防総省(ペンタゴン)」と「CIA(中央情報局)」

1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関
であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが
「国防総省(ペンタゴン)」で、さらに同じ「国家安全法」に基づいて
作られたのが「中央情報局(CIA)」であった

 

このようにゲーレンは情報機関の情報を操作して、ソ連をこれ以上ないというほど最悪に描き出した。ソ連のアメリカヘの脅威がゲーレンの情報活動によっていっそう険悪になり、冷戦は避けられなくなった。CIA内の協力者とともに、ゲーレンは冷戦を始め、それを維持した。

CIAが「ソ連の脅威」を発表すればするほど、アメリカ国防総省(ペンタゴン)は予算を獲得することができた。国民は国防費に多くの予算がさかれることに賛成するし、賛成せざるを得ない。その結果、国防関係の企業や兵器産業の企業は、笑いが止まらないほど膨大な収益を得ることができたのだ。さらに、アメリカの産業がいろいろな面で活気づいたといっても過言ではないだろう。

 

 

●前出の「脱ナチ化推進協会」のカール・オグレスビーは言う。

「ラインハルト・ゲーレンの情報網が我が国アメリカに提供したのは、東西関係を悪化させアメリカとソ連の軍事紛争の可能性を高めるよう特に的を絞った情報だけだった。明らかに『ゲーレン機関』は冷戦を煽っていた

 


ホワイトハウス

 

●なお、アレン・ダレスのCIA長官在任中に、「ゲーレン機関」がワシントンでその力を見せつけた事件が1つある。

1954年10月、西ドイツのアデナウアー首相が、西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟に支持を取りつけるためのデリケートな交渉の過程で、アメリカを訪問した。外交レセプションの席上、当時のアメリカ陸軍情報局長トルドー将軍は、「プーラッハの不気味なナチ一派」を信用していない、と個人的にアデナウアー首相に告げた。つまり、NATO加盟が認められる前に国内をきれいにするのが賢いやり方だと示唆したわけである。

この発言は後にマスメディアに漏れ、アレン・ダレスを激怒させた。(※ プーラッハは「ゲーレン機関」の本部があった場所のことである)。

 


(左)弟のアレン・ダレス(CIA長官)
(右)兄のジョン・フォスター・ダレス(国務長官)

 

その後の騒ぎで、縄張り意識を持った統合参謀本部がトルドー将軍を支持し、一方アレン・ダレスは、実兄で当時アメリカの国務長官であったジョン・フォスター・ダレスゲーレン擁護のためにかつぎ出した。

結局、ゲーレンは西ドイツの新しい公式情報機関「連邦情報局(BND)」の初代長官に任命され、トルドー将軍は突然、情報活動から外された。(極東の目立たない司令部への転属を命ぜられたトルドー将軍は、数年後、退役した)。

 


ラインハルト・ゲーレン(1902~1979年)

1955年に「ゲーレン機関」に基づいて西ドイツに
新しい公式情報機関「連邦情報局(BND)」が
創設され、ゲーレンは初代長官に任命された

 

●さて、以上見てきたように、CIAはナチスの遺産によって誕生したといっても過言ではない。ナチス主義者のダレス兄弟は、ヘンリー・キッシンジャーとともに「ペーパークリップ作戦」、つまり優秀なナチスの頭脳を南米や合衆国に運び出す作戦にも関与していた。

ナチス秘密結社ネットワークの中核であった黒騎士団は、現在もCIAの中枢サークルとして存続している」との情報があるが、この件については別のファイルで詳しく触れたい。

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報:米CIA、ナチス・アイヒマンを知りながら隠し通す ─ 米機密文書で明らかに

 


(左)2005年2月4日に「国家安全保障公文書館」が明らかにしたCIAの歴史資料の表紙
(右)ナチス・ドイツの情報機関の最高幹部ラインハルト・ゲーレン少将

※ 彼は戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。


この問題に興味のある方は、このファイルをご覧下さい↓

米CIA、ナチス・アイヒマンを知りながら隠し通す ─ 米機密文書で明らかに

 

 


 

■■おまけ情報:ヒストリーチャンネルで放送された番組「CIAとナチス」

 


 
 http://www.historychannel.co.jp/index.html

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ナチスとスイスの協力関係 

ナチスとアメリカ企業の協力関係 

ヒトラー暗殺未遂事件と第三帝国内の裏切り者たち 

ナチスの残党とCIAの危険な関係 

 


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