No.a6fhe200

作成 1998.8

 

イギリスのユダヤ人

 

~英国ユダヤ人社会の歴史~

 

第1章
ユダヤ人のディアスポラ(離散)
第2章
中世イギリスの反ユダヤ政策
(ユダヤ人の追放)
第3章
イギリスのユダヤ人社会の発展
第4章
イギリスのユダヤ人
マーカス・サミュエルの成功物語
第5章
浮かんで消えた「英ユ同祖論」

追加1
ブレア英新政権誕生の陰に
「ユダヤ人コミュニティ」の存在
追加2
『ユダヤ人とイギリス帝国』の紹介

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■■第1章:ユダヤ人のディアスポラ(離散)


●紀元66年、ユダヤの地の統治者の暴虐をきっかけに熱心党(ゼロテ党)というユダヤ人レジスタンスグループがローマの守備隊を襲い、ユダヤ人とローマ軍は本格的な戦い(ユダヤ独立戦争)を開始した。ユダヤ属州のほとんどのユダヤ人は武装蜂起し、ユダヤ人の独立を試みたのである。

しかしネロ皇帝が初動させたローマ軍は、圧倒的軍事力によってユダヤ人の大反乱を制圧(紀元68年)し、ウェスパシアヌス帝の息子ティトゥス将軍はエルサレムの「ソロモン第二神殿」を完全に破壊した。この破壊跡の一部は、現在「嘆きの壁」と呼ばれるユダヤ人の礼拝場になっている。

この戦争のユダヤ人犠牲者数は60万人とも100万人ともいわれている。

 


エルサレム旧市街の神殿の丘に位置する「嘆きの壁」

壁の全長は約60mで高さは約21m。壁の石の隙間には、
ユダヤ教徒の祈りの言葉が書かれた紙切れがぎっしり詰まっており、
夜になると夜露がたまり、壁に生えたヒソプの草を伝って滴り落ちる。
それが数々の迫害や苦難を受けて涙を流すユダヤ人のようでもある
ことから、「嘆きの壁」と呼ばれるようになったという。

 

●さらに紀元73年、967名のユダヤ人が7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、8000ものローマ帝国軍が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害して果てた。

そして紀元132年に、ユダヤ人による最後の反乱「バル・コクバの乱」が鎮圧されると、それをもってユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名した。(これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったもので、現代まで続くパレスチナの名前はここに由来している)。

これを機にパレスチナを去って外国に移り住むユダヤ人が急増した。これは「ディアスポラ(ユダヤ人の離散)」と呼ばれ、ユダヤ人は祖国を失い流浪の民となったのである。

 


ローマの大軍に囲まれたユダヤ反乱軍967名が、
2人の老婆と5人の子供を残して集団自殺したマサダの砦

 

●しかし、その全てがスファラディ系ユダヤ人たちとなるわけではない。スファラディ系ユダヤ人とは、スペインに移り、のちにそこから追放されてアラブ諸国に住んだ人々のことである。

 


離散ユダヤ人の状況(紀元100~300年)

 

●ディアスポラの後、ユダヤ人の中には、スペイン以外の地に定着した人々もいる。特にそのユダヤ国家の崩壊のなか、自分たちがユダヤの根幹を守らなければならないと考えた者たちがいた。それが当時のユダヤ教保守派(パリサイ派)や律法学者、すなわちユダヤの指導者たちであった。

彼らの中枢は、エルサレムを後にして、まずエジプトのアレキサンドリアに移り、そしてアレキサンドリアから小アジア、さらにイラクのバグダッド(バビロニア)へと移動していった。『タルムード』が編纂されたのはこの頃である。


●『旧約聖書』を補完するものとしての『タルムード』の発生史は、すなわちユダヤ教の発展史である。離散時代のユダヤ社会はかつての神殿祭祀ではなく、「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」のラビ(ユダヤ教指導者)による『旧約聖書』や『タルムード』の研究解釈に切り替わった。このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。



●11世紀に「イスラム東方世界」が分裂すると、それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロニアの「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」本部は陥落してしまった。そのため、彼らの中枢はヴェニスに移動した。

ヴェニスではあたかも治外法権であるかのように、これらオリジナルなオリエンタル・ユダヤ人たちは自由に貿易に携わることができた。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していったのである。

 


ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、
地中海貿易最大の港町へと発展していった

 

●そして、オランダがいわゆる無敵艦隊などを持つようになり、大航海時代が到来すると、オリジナルなユダヤ人たちのコミュニティの中心はオランダ(アムステルダム)に移った。1598年に北ヨーロッパ最初のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)がアムステルダムに建設されたが、このシナゴーグは、建設者ヤコブ・ティラドにちなんで「ヤコブの家」と名付けられた。

そして、オランダがイギリスに敗れることによって、ユダヤ人たちのコミュニティの中心はイギリスへと移っていったのである(後述)。

※ アムステルダムのユダヤ人は、当時のアムステルダム全人口15万人のうち、わずか1%強に過ぎなかったが、アムステルダム・ユダヤ人共同体は経済的・文化的な繁栄を築いていた。



●ちなみに、ユダヤ商人は紀元前数百年の昔から、中央アジア、メソポタミア、トルキスタン、サマルカンド、チベット、インドなどに多数居住しており、東洋にも中国・漢の全盛時代に、すでに入り込んでいる。

そして6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の教会を持つに至っていた。唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺されたといわれている。

逆に、元朝はユダヤ人を厚遇した。フビライの宮廷には、ヴェニスの商人、マルコ・ポーロが長年逗留していた。13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。

※ マルコ・ポーロはユダヤ人だったとの説があるが、真偽のほどは定かではない。

 


マルコ・ポーロ
(1254~1324年)

 

●この「開封(かいほう)」は中国で最も歴史が古い都市の一つであり、850年前の北宋時代に首都になった(当時100万人の国際都市だった)。

 


(左)中国の河南省の都市・開封の位置 (右)開封のユダヤ人家族(1910年)


開封の中国風シナゴーグ(ユダヤ教会堂)



開封のユダヤ人たち(1924年)

 

●この「開封のユダヤ人社会」に興味のある方は、当館作成の
ファイル「インドと中国のユダヤ人」をご覧下さい。

簡単にまとめておきました。

 

 


 

■■第2章:中世イギリスの反ユダヤ政策(ユダヤ人の追放)


●中世ヨーロッパ社会、すなわちキリスト教社会においては、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していたため、ユダヤ人の職業は制限されていた。1078年にローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令すると、全ての職業組合からユダヤ人が締め出される事態となった。

キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていったのである。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。

 


イエス・キリストの磔刑像

 

イギリスにいたユダヤ人は、もっぱら商業と金貸し業に従事した。当時はキリスト教徒は利子をとることが禁じられていたことから、キリスト教社会では金貸し業はユダヤ人が独占的に行っていた。イギリスでユダヤ人がカネを貸した相手は主として貴族と国王であった。

しかし、こうしたユダヤ人の繁栄とその繁栄達成の手段はイギリス人の妬みと反感を募らた



●1114年、ユダヤ人がイギリス人の少年を“儀式殺人”の対象にしたというあらぬ噂がたち、暴徒がユダヤ人居住区を襲った。

1189年には、リチャード獅子王の戴冠式にあたり、突如ユダヤ人の迫害が起き、大半のユダヤ人の家は焼かれ、多くのユダヤ人が殺された。ユダヤ人の財産は王のものとされた。王の代理人のみが8万マルクを費やして、ユダヤ人を救った。


●1217年には、イギリスのユダヤ人は全員胸に「黄色いバッジ」を付けることが義務づけられた。そして、1255年には、2度目の「少年儀式殺人事件」(もちろん噂に過ぎない)が起こり、反ユダヤ人暴徒の激高をおさめるため、当局はユダヤ人100名を処刑した。


1269年、政府はユダヤ人が土地を所有することを禁じ、さらにユダヤ人による遺産相続を禁じ、相続財産は王室が没収することとした。

そして1290年、エドワード1世は、イギリス国内からユダヤ人全員を追放した。この時、1万6000人のユダヤ人がイギリスを離れ、フランスなどへ逃れたのである。

 


エドワード1世
(1239~1307年)

彼はイギリス国内から
ユダヤ人全員を追放した

 

●イギリスにおけるユダヤ人不在期間は、それから約370年の長きに及ぶことになる……。



●ところで、イギリスが誇る天才劇作家シェークスピアは、16世紀末に数多くの優れた戯曲を書き遺したが、彼の作品『ヴェニスの商人』に登場する金貸しシャイロックは、当時のユダヤ人に対する排斥差別意識をあらわしたものとして広く知られている。

 


↑ゲットー(ユダヤ人集団隔離居住地区)

キリスト教社会においてユダヤ人は「主イエス
を殺害した民族」という偏見から、抑圧対象とされた。
「ゲットー」は16世紀にベネチアに初めて設置されたもので、
教皇パウルス4世がユダヤ人たちにゲットーへの居住を強制すると
またたくまに世界各地へと広まり、その後、約300年間も存続した。

※ 各地のゲットーは、2つ以上の門を設けることが禁止され、高い塀で
囲まれ、門の扉は外から閉ざされた上、施錠され、鍵はキリスト教徒の
門衛が保管していた。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や
学校などが設置され、ユダヤ人の高い教育水準とユダヤ教文化が
保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は
完全に制度化してしまったのである。



イギリスが誇る天才劇作家
ウィリアム・シェークスピア
(1564~1616年)

右の『ヴェニスの商人』は1597年頃に書かれた
戯曲である。シェイクスピアの作品のなかでは「喜劇」
のカテゴリーに入っているが、驚くほどユダヤ人を差別
している表現が多く、「反ユダヤ感情」を煽る内容に
なっている。しかし、当時の芝居ではこういう
ユダヤ人に対する扱いは自然だった。

── 追加情報 ──


↑キリスト教徒によってゲットー内で隔離生活を送り、
ユダヤ人を示す「赤い帽子」をかぶる金貸し業者の
シャイロック(映画『ヴェニスの商人』より)

 

 


 

■■第3章:イギリスのユダヤ人社会の発展


●1642年に「清教徒革命」(ピューリタン革命)が起きると、1655年にオランダのアムステルダムのユダヤ教のラビ(メナセ・ベン・イスラエルら)が、イギリスのオリバー・クロムウェルの政府に、ユダヤ人のイギリス復帰の嘆願書を提出し、イギリス政府の黙認の下にユダヤ人がイギリスに再渡来し始めた。

※ このユダヤ人の渡来は、1290年に追放されて以来の画期的な出来事であった。これ以降、ユダヤ人は急速にイギリスで地歩を築いていった。

 


メナセ・ベン・イスラエル
(1604~1657年)

アムステルダムのユダヤ人学者で、メシアの到来と
イスラエルの苦難からの解放を待ち望む熱心なルリア派の
カバラ主義者だった。1655年にピューリタニズムの支援者
であるオリバー・クロムウェルの招待を受けて、イギリスに渡る。
当時のピューリタンは、千年王国が1656年に到来し、その前提
としてユダヤ人のキリスト教への改宗があると信じていたので、彼の
メシアニズムは、ユダヤ人のイギリス帰還に扉を開けるものであった。

ちなみに、天才画家のレンブラントは、アムステルダムのユダヤ人地区
に何年間も住んでおり、しばしば作品中にユダヤ人、そして聖書の中の
ユダヤを描いたが、メナセ・ベン・イスラエルと深い交流があった。

 

●1689年、アムステルダムのユダヤ人は、国王ジェームズ2世に敵対する反乱を財政的に支援した。このアムステルダムのユダヤ金融家の主たる者、ソロモン・メディナは、オレンジ公ウィリアムと共にイギリスにやって来た。

そして、ウィリアム3世治下の1698年に、ユダヤ教の礼拝が議会によって公認された。


●しかし、ユダヤ人は地所など不動産所有権はなく、借地についても拘束を受け、また商業上の差別待遇も受けた。

例えば、ロンドン市内における小売業は禁止された。ただし、ロンドン市域外や地方においては、営業証の取得が必要ではあったが、零細な営業を妨げられることはなかった。イギリス船の所有および共有権も認められず、1660年の航海条令によって植民地貿易からも排除されていた。通商上の支店は許されたが、その場合にも外国人税が必要で、例えば特別な港湾手数料、物品への特別関税などの負担は、イギリス商人の2倍に達したという。



18世紀に入ると、イギリスに居住するユダヤ人の数は激増した。

東欧からのアシュケナジムが加わり、それにジブラルタルからの貧困なスファラディムの流入があったことなどによる。彼らの一部は保身のためキリスト教に改宗し、マラノ・ユダヤ人と呼ばれたが、家庭では堅くユダヤ教の儀式を守っていた。

こうして、最初期は一般には目立たない小グループであったユダヤ人が、無視しがたい一つの少数民族に成長したのである。


●18世紀に増大したユダヤ人口の多くは、文字通りの難民であり、先住地の言語、習慣や宗教儀式など、食物や衣服に至るまでの生活パターンを濃厚に携えていた。イギリスに定住、自活するための見通しや準備の余裕もなく、飢餓を逃れ、慈善にすがることを目的としていた。


●1753年5月、「ユダヤ人帰化法」が、思いがけぬほど容易に議会を通過し、国王ジョージ2世の裁可を得て正式に議会制定法として成立した。これは、グレート・ブリテンまたはアイルランドに3年間居住したユダヤ人は、忠誠を誓うことによってサクラメントに応じることなく、個別的に議会に帰化の請願を行うことが出来るというものであった。


1833年には、初めてユダヤ人の法廷弁護士と州長官が生まれた。1841年には、初めてユダヤ人のイギリス貴族(男爵)が出現。

1856年には、イギリスにユダヤ大学が創立され、1858年には、ユダヤ人が一般のイギリス人と完全に平等扱いされるようになった。そして同年についに初めてユダヤ人の下院議員(ライオネル・ロスチャイルド)が誕生した。

1885年にはナサニエル・ロスチャイルドが「男爵」に叙せられて貴族院入りした。

※ ロスチャイルドはイギリスから出たのではなく、ドイツのフランクフルトから出発した。その支店はロンドン、パリ、ナポリ、そしてウィーンへと広がっていった。彼らのネットワークは、こうしてヨーロッパ全土に広がっていったのである。

 


獅子と一角獣が描かれている
ロスチャイルド家の紋章

 

1874年には、子供の時にユダヤ教から英国教に改宗していた「ユダヤ人」べンジャミン・ディズレーリが、イギリスの首相に就任した。

ディズレーリ首相は7つの海を制し、日の沈む所なしと誇ったイギリスの植民地政策を確立した。(このディズレーリ内閣の時代に、英国王がインド国王も兼ねることにしたのである)。

 


ベンジャミン・ディズレーリ
(1804~1881年)

イギリスのヴィクトリア朝の
政治家。小説家としても活躍。

彼はユダヤ人であったが、子供の時に
ユダヤ教から英国教に改宗した。

 

●ちなみに、ディズレーリが選挙戦に出馬した時、彼の出自(ユダヤ)は潮笑の的となった。彼が有権者を前に演説を行ったある時には、「シャイロック」「古着」といった罵声が発せられた。

しかし、議会で論戦の相手が自分に対して「ユダヤ人」と言った時、ディズレーリは

「そうだ。私はユダヤ人だ。議員殿の祖先が名も知れぬ島の野蛮な土人だった頃、私の祖先はソロモン王の神殿の司祭だったのだ!」

と切り返したというエピソードが残されている。



●1909年には歴としたユダヤ人から最初の閣僚が出ている。

そして、1917年には「バルフォア宣言」が発せられ、後にユダヤ人国家がパレスチナに創設される根拠となった。

 


ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド(左)と
イギリス外相アーサー・バルフォア。右の画像はバルフォアが
ライオネル・ロスチャイルド宛に出した手紙=
「バルフォア宣言」(1917年)

 

●第二次世界大戦前のインド総督は、ユダヤ人のリーディング卿(サー・D・ルーフュス・アイザークス)であった。

イギリスは、インドからさらに中国に侵略の魔手を伸ばし、「アヘン戦争」と「太平天国の乱」を手がかりに、香港と上海を占領して中国植民地化に乗り出していくのである。

 


中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン
(1792~1864年)

彼はアヘン密売で莫大な
富を築き「アヘン王」と呼ばれた。

上海の「サッスーン財閥」は、彼の死後、
アルバート・サッスーン、次いでエドワード・
サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。



(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)

上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果として
イギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。
繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。

※ 右の画像は1930年頃の上海の風景であるが、あたかも当時の
アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚えて
しまう。これらの建築物は「サッスーン財閥」に代表される
ユダヤ資本によって建てられたものである。

 

●「アヘン戦争」の実態については、当館作成のファイル
「アヘン戦争の舞台裏 ~アヘン王サッスーンの暗躍~」をご覧下さい。

 

 


 

■■第4章:イギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルの成功物語


●19世紀のイギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていたユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。

子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。

 

 

●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。

そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。


この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。

彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。

 

 

●彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。

彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。

そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。

当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた

 


貝がらの作品

ロンドンでは、これは大変
珍しがられ、飛ぶように売れた

 

●やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。

そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。

この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。

 


マーカス・サミュエル
(1853~1927年)

日本の海岸で拾った貝がらの
商売で大成功をおさめた

 

●サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。

輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。



●ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。

貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。

これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた


●当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。

そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。

この商売もまた非常に成功した。



●石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。

そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした

そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。

※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった(「ミュレックス」は「アッキ貝」の意)。


●彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。

彼自身、このことについては、次のように書き残している。

「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」

 


マーカス・サミュエル

1892年に石油業界に参入した彼は、
世界で初めてのタンカー船を生み出した。
当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主
となり、世界初の「タンカー王」になった。

 

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。

そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

 


勲一等旭日大綬章

1894年に「日清戦争」が勃発すると、
サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、
兵器や、軍需物質を供給して助けた。

 

●ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。

サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。

というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。

 

1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、
本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」
を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」と
イギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

※ このイギリス・オランダの2社の
合併を推進したのはイギリスの
 ロスチャイルド財閥だった。

ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、
イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。

現在、シェルグループの
企業は145の国に広がり、全体で
 12万人以上の従業員がいる。

 

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。

※ ちなみに2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と林公使夫人が乗った。

 


明治期の外交官、政治家
林董(はやし ただす)

駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。

※「日英同盟」は1902年1月30日に結ばれた日本とイギリス
との間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使と
アーサー・ラウズダウン英外務大臣により調印された。

「日英同盟」は戦前日本にとって最高の同盟関係だった
といえる。この同盟関係を守りきれなかったことが
戦前日本の犯した最大の失敗だと思われる。


 

●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。

「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない」


●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に74歳で生涯を閉じた。


※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。

 

 


 

■■第5章:浮かんで消えた「英ユ同祖論」


●一般に日本人とユダヤ人の祖先が同じであるという説は「日ユ同祖論」として知られているが、その他にも様々なバリエーションがあって、イギリス人とユダヤ人が同じ祖先だったとする「英ユ同祖論」、韓国人とユダヤ人が同じ祖先だったとする「韓ユ同祖論」などなども存在している。

この章では、「英ユ同祖論」の実態について簡単に紹介したい。



●イギリス人の祖先が失われたイスラエル10支族だとする説の支持者を「ブリテンのイスラエルびと」と呼ぶが、こういった「英ユ同祖論」が明確に形成されたのは、近代以降のことに属する。しかし、これにまつわるヘブライ伝承はかなり古くからイギリスに存在していた。


●例えば、「アリマタヤのヨセフ伝承」。彼は処刑されたイエスの体をピラトから引き取り、亜麻布に包んで埋葬したとされる人物であるが、12世紀の歴史家マームズベリのウィリアムによれば、ヨセフはガリア(中欧)を経由して「アヴァロンの島」に到来し、最初のキリスト教会を設立したのだという。

さらにそれからほどなくして、文人ウォルター・マップが、ヨセフはイエスの血の入った「聖杯」をブリテンに運んできて、グラストンベリに埋めたと書き記している。

この一連のヘブライ伝承が、イギリスの起源神話とも呼べる「アーサー王伝説」と関連していることは注目に値する。

 


「聖杯」は「アーサー王伝説」の中で、
騎士たちが探し求める聖遺物である。
「聖杯」はヨーロッパ精神史の隠れた
核であるといわれている。

 

ところで、既に6世紀に、イギリス最初の歴史家とされるギルダスが、ブリテン人を「神のイスラエルびと」と呼んでいたそうだが、「英ユ同祖論」の元祖的存在は18世紀の人リチャード・ブラザーズであるとされている。

彼は「失われた10支族」が欧州に散らばっていると考えたばかりでなく、自らをダビデの直系の子孫であり、ユダヤ人の王、世界の支配者であると信じ、しまいには時の国王ジョージ3世に王位譲渡の要求を行うまでに至った。

イギリス政府は、フランス革命の勃発やジャコバン主義者などの過激派に神経をとがらせていたこともあって、彼を1795年に逮捕し、精神病院に収容してしまった。

しかし、熱狂的な信奉者たちは1824年のブラザーズの死後も存続し、後にブラザーズは「ブリテンのイスラエルびと」の名誉を与えられることになる。


ブラザーズはヨーロッパの諸国民も「失われた10支族」の子孫であると主張していたのが特徴的であったが、「イギリス国民こそ真の末裔である」と主張し始めたのは、ヴィクトリア朝に活躍したエドワード・ハインなる人物である。

彼は著書『イギリス国民と失われたイスラエル10支族の47の同一点』(1874年)などを通して、イギリス政府はパレスチナに植民すべきこと、イギリス国民はイスラエル2支族と再び合体して、キリストの再臨を実現すべきことなどを精力的に説いたのである。このため、彼は「英ユ同祖論」の真の樹立者と目されている。


●彼とその信奉者&後継者たちの構築した理論によれば、南ユダ王国最後の王ゼデキヤの娘は、預言者エレミヤに伴われて、アイルランドへと逃亡、一方、既にアイルランドには12支族のひとつダン族がたどり着いており、その王子にゼデキヤの娘は嫁いだのであるという。

彼らヘブライ人はアイルランドからスコットランド、イングランドへと移動し、スチュワート王家などはこの血統から発しており、つまるところは、イギリス王室は欧州最古の王室、血をダビデ王にまでさかのぼることができるという。


●イギリスでかなりの数の信奉者を集めることに成功した後、ハインはアメリカに目を向ける。彼の理論に従えば、アメリカ人もまたマナセ族の子孫に他ならない。

彼は1884年にニューヨークに上陸し、都合3年間をアメリカで過ごしたが、彼の“教義”は予想したほどには広まらず、最後には一文なしでイギリスに戻る羽目に陥った。彼が息を引き取るのは、それから3年後のことである。

 

 

しかし、彼の死後も「英ユ同祖論」は衰えることはなく、イギリス本土のみならず植民地にも勢力を拡張。1919年には、イギリス王室のメンバーの後援も得て「ブリテン=イスラエル世界連盟」なるものが成立した。

しかし、第二次世界大戦終結とともに、大英帝国の覇権時代が終焉し、イギリス政府がパレスチナ支配から手を引くと、急速に支持者を失っていったようだ。

一応、この「ブリテン=イスラエル世界連盟」は現在も存在している(本部はバッキンガム宮殿のすぐそばにある)。しかし、「英ユ同祖論」支持者が現在どのくらいいるのかは定かではない。



●ちなみに現在、イギリスのユダヤ人人口は40万人を数え、その3分の2がロンドンに住んでいる。そしてユダヤ人は常にイギリスの下院で40名以上の勢力を維持している。

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報:トニー・ブレア首相


●1997年のイギリス総選挙で、トニー・ブレアが「労働党」を地滑り的勝利に導き、新首相になった。

 


トニー・ブレア

1997年5月に
イギリスの新首相になる

 

日本で幅広い読者を持つ国際政治経済情報誌『フォーサイト』(新潮社)は、
このブレア勝利の背景について、興味深い記事を載せていた。

参考までに紹介しておきたい↓


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ブレア英新政権誕生の陰に「ユダヤ人コミュニティ」の存在


「イギリスの総選挙で労働党が18年ぶりに政権を奪回したが、その背景にイギリス内のユダヤ人コミュニティ組織が資金面などで強力にバックアップしたことが指摘されている。

アメリカのユダヤ人ロビー同様、イギリスでもユダヤ人組織が影響力を増しているものとして注目されている。

ユダヤ系イギリス人勢力は40万人規模で、マスコミのほか、科学技術、芸術界などで隠然たる影響力を誇る。保守党政権もこうしたユダヤ人勢力に配慮して、2月にワイツマン大統領を招くなどイスラエルとは良好な関係を保っていた。

しかし、イスラエルが中東和平政策で孤立の度合を強めるにしたがって、ユダヤ人コミュニティはこの問題で比較的中立の立場をとっているメージャー政権に対して不満を持つようになっていた。そのため、今回の総選挙であからさまにブレア側を推したという。

労働党の資金集めをしたのがロンドンのユダヤ系企業であり、その結果、ユダヤ人勢力から多額の献金が集まった。

パレスチナ自治政府のアラファト議長はブレア新政権に対し、和平プロセスの危機を救うよう期待を表明しているが、イギリスがイスラエル寄りの政策を強める可能性もささやかれている。」


以上、国際政治経済情報誌『フォーサイト』(新潮社)より

 

 


 

■■追加情報 2:『ユダヤ人とイギリス帝国』の紹介

 


『ユダヤ人とイギリス帝国』
度会好一著(岩波書店)


── この本の内容 ──


パレスチナ問題は、今日もなお世界の火種であり続けている。

本書は1917年の「バルフォア宣言」から、1947年の「パレスチナ分割案」の成立まで、イスラエル国家成立の基本線を引いた政治的かつ人間的な葛藤のドラマを描き出している。

帝国主義者とシオニスト、福音主義者と原理主義者……彼らのメンタリティは、「反ユダヤ主義とシオニズム」「植民地主義と宗教的心性」など、背反し合う糸によって編み上げられた複雑な織物であった。本書はそれぞれの個性に担われ、ニュアンスを異にするイデオロギーの引き起こす摩擦を描き、パレスチナ問題の歴史過程を立体的に浮かび上がらせている。

そして、宗教的心情とパワーポリティックスの狭間に揺れるユダヤ人問題の歴史は、解決に向かうために何がいま優先されねばならないかを語っている。


■目次

◎プロローグ:ピューリタンの千年王国論とユダヤ人像の転換

◎第1章:ユダヤ人はパレスチナに復帰する ─ 復帰論の系譜

◎第2章:19世紀パレスチナのユダヤ人とイギリス帝国

◎第3章:シオニストとイギリス帝国の共犯 ─ シオニズムとイギリス帝国〈1〉

◎第4章:バルフォア宣言とその前夜 ─ シオニズムとイギリス帝国〈2〉

◎第5章:ジャボティンスキー、ユダヤ人部隊、イギリスの友情 ─ シオニズムとイギリス帝国〈3〉

◎エピローグ:征服されたパレスチナ ─ ユダヤ人多数派国家の出現

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

「ユダヤ人の知恵」を取り込むことに成功したイギリスとアメリカ 

 


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