No.b1fha511

作成 2012.6

 

ヒトラーが日本に贈ったUボート秘話

 

~日独間で秘密裏に進められた潜水艦による輸送作戦の実態~

 

第1章
日本がドイツに派遣した潜水艦
第2章
ドイツが日本に派遣したUボート
第3章
日本に来たUボートと
ドイツ人乗組員たちのその後の運命
第4章
ドイツが日本に派遣した
2隻目のUボート
第5章
ドイツが日本に派遣した
3隻目と4隻目のUボート

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■■第1章:日本がドイツに派遣した潜水艦(遣独潜水艦)


●第二次世界大戦中、「日独伊三国軍事同盟」に基づき、遠く離れた日本とドイツの間で海軍の要人や技術者、機密資料や重要物資の輸送作戦が行われた。

当初は「特設巡洋艦」や「長距離飛行機」を使ったが、連合国側の激しい攻撃を受けて戦況が悪化したため、互いの得意分野であった「潜水艦」が頼みの綱となった。しかし、連合国の封鎖下にある海域での航海は困難を極めた。

 


(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。(右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●日本がドイツに派遣した潜水艦(遣独潜水艦)は以下の5隻である。

この中でドイツに到着したのは3隻で(他の1隻はインド洋でドイツ潜水艦と連絡に成功)、往復に成功したのは「伊8号」の1隻のみだった。


◆1隻目=「伊30号」:復路(シンガポール付近)で味方の機雷に触れて沈没(1942年10月)

◆2隻目=「伊8号」 :往復に成功(1943年6月1日~12月21日)

◆3隻目=「伊34号」:往路(マレー半島のペナン入港直前)で撃沈(1943年11月)

◆4隻目=「伊29号」:復路(フィリピン付近)で撃沈(1944年7月)

◆5隻目=「伊52号」:往路(大西洋)で撃沈(1944年6月)

 

 


 

■■第2章:ドイツが日本に派遣したUボート(遣日潜水艦)


●1943年にナチス・ドイツ政府は技術交流の一環として、最新鋭の長距離航洋型潜水艦(Uボート)を2隻日本海軍に無償で譲渡することを決定したが、これはドイツ海軍部内の人々、あるいは専門家の強い反対を押し切ったヒトラーの英断によって実現したのだった。

※「Uボート」はドイツ語の潜水艦の略だが、英語ではドイツ海軍の潜水艦を指している。1945年の終戦までにドイツ海軍が日本に派遣したUボート(遣日潜水艦)は合計4隻だった(後述)。

 


↑ヒトラーが日本海軍に譲渡したUボート(9C型)

このUボートは日独共通の戦場であるインド洋に勝利をもたらす
ために贈られたものだが、ヒトラーは日本海軍が同タイプの潜水鑑を
量産し、連合国の通商線を破壊することに期待をかけていたのである。
(元々このUボートは「有償」で日本海軍に提供するという話だったが、
ヒトラーの鶴の一声により「無償譲渡」が決定した。ドイツ海軍が
強く反対したが結局はヒトラーに押し切られる形となった)。

 

●日本海軍に寄贈されたUボートは、日本の大型潜水艦とは比較にならないコンパクトなサイズであったが、その性能や装備は日本の技術者たちに、これをモデルとしての建造を遂に断念させたほど高度のものであった。

例えば鋼板の堅さからして、日本で使われていたものの2倍もの硬度を持っていたため、爆雷攻撃に対しても絶対に強いものであった。しかしながら、鋼鉄は硬度が高くなると溶接技術が極めて難しくなる。この技術が日本では不十分だった。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●そこでこれもヒトラーからの好意として、日本に寄贈された1隻目のUボート「U-511」には、軍事技術博士のハンス・シュミットをはじめとする電気溶接の専門技師3名が乗艦していたのである。

※ このU-511は、26歳の若手艦長であるフリッツ・シュネーヴィント大尉とドイツ海軍精鋭の水兵たち(約50名)によって操艦されていたが、艦には2名の日本人(野村直邦海軍中将と付き添いの軍医)も便乗していた。

 


(左)26歳の若手艦長フリッツ・シュネーヴィント大尉
(中)ドイツ駐在武官の野村直邦海軍中将(後の海軍大臣)
(右)野村中将が書いた本『潜艦U-511号の運命 —
秘録・日独伊協同作戦』(読売新聞社)

※ 野村中将はマラッカ海峡のペナン港で先に下船して
空路で帰国したが、この時ドイツ本国から
「鉄十字勲章」を贈呈されている。


U-511は1943年5月10日にヨーロッパを出航後、アフリカの 
南端・喜望峰を経由して、90日間・約3万kmとなる航海を経て、
広島の呉港に到着(8月7日)。翌9月に日本海軍の所属となり、
「呂号第500潜水艦」(通称「呂500」)と命名された。
※ この潜水艦には防振・防音技術や溶接技術など当時の
日本にはない技術がいっぱい詰まっていた。

 

●1943年8月、U-511に便乗して無事日本に上陸したシュミット博士らドイツ人技術者たちは、その全知識を傾けて日本海軍との協力を誓ったのであった。

しかし、精密機械を載せた後続(2隻目)の同系艦「U-1224」が大西洋で不幸にも撃沈されてしまったので、日本で同タイプの潜水艦を量産する計画は夢と消えてしまったのである。

 


ドイツから無事に引き渡されて「呂500」と命名されたU-511
(ブリッジ部分に日の丸の旗と「ロ500」の文字が見られる)

 

●だが、日本の技術者たちはこの最新鋭潜水艦を軍事研究の対象に据え、防振・防音技術やブロック工法の技術、電気溶接の技術をシュミット博士らから学ぶなどして、当時のドイツの軍事技術を積極的に取り込むことに成功。

この時の研究データは、新造高速潜水艦「伊201型」(潜高大型)と「波201型」(潜高小型)の建造に役立てられたのだった。

 

 


 

■■第3章:日本に来たUボートとドイツ人乗組員たちのその後の運命


●無事にUボートを日本に送り届けたドイツ人乗組員たちは、しばらく日本に滞在して余暇を楽しんだり、潜水学校で教鞭を振るって「呂500」の操艦を日本の生徒に教えたりした。

 


(左)Uボートに乗ってドイツからはるばるやって来たドイツ人乗組員たち
(右)日本兵の案内で呉近郊の商店街を見物するドイツ人乗組員たち



大分の別府温泉めぐりを楽しむドイツ人乗組員たち



江田島の海水浴場で日本兵と腕相撲や騎馬戦などに興じ、
日独の交流を深めあうドイツ人乗組員たち

※「呂500」は高い性能を有していながらも、実戦に投入される
ことはなく、潜水学校付属の「練習艦」としてドイツ潜水艦の
実用性能の調査と潜水学校の生徒の養成に利用された。

 

●26歳の若手艦長フリッツ・シュネーヴィント大尉は、東京で盛大な歓待を受けた後、新たにU-183の新艦長となり、元U-511乗組員とともにインド洋方面に転戦した。

だが、ドイツ敗戦間際の1945年4月23日にジャワ海でアメリカの潜水艦に撃沈され、帰らぬ人となった。

※ ドイツ敗戦時に生き残っていたドイツ人乗組員は約半数の26名だったという。

 


フリッツ・シュネーヴィント大尉

 

●広島の潜水学校付属の「練習艦」として呉港にいた「呂500」は、1945年5月に日本海側の「舞鶴鎮守府部隊」に編入され、ソ連の対日参戦に伴い樺太方面へ出撃することとなったが、若狭湾に面する舞鶴港で出撃待機中に終戦を迎えた(1945年8月15日)。

しかし、日本の敗北を速やかに受け入れることのできなかった「呂500」の日本人乗組員たちは、「このまま終戦となっては幾多の戦死者が浮かばれない」と考え、終戦から3日後の8月18日に、他の潜水艦とともにソ連のウラジオストクに向けて独断で出撃した。

だが、艦隊司令部や参謀の強い説得を受け、泣く泣く引き返したと言われている。


●その後、「呂500」は連合軍に引き渡され、翌年の1946年4月にアメリカ軍の手によって舞鶴港外(若狭湾沖)にて海没処分されたのだった。

 


戦後、アメリカ軍が撮影した若狭湾沖に停泊中の「呂500」(右端)

※ 日本に多くの技術を伝えた「呂500」は連合軍の命令により
1946年4月30日、この海域で海没処分された…。

 

 


 

■■第4章:ドイツが日本に派遣した2隻目のUボート


●第二次世界大戦中、ドイツ海軍が日本に派遣したUボート(遣日潜水艦)はU-511とU-1224、U-864、U-234の合計4隻(最初の2隻は無償譲渡)で、無事に到着したのは上で紹介した1隻目のU-511(通称「呂500」)のみだった。

 

 

●2隻目のU-1224は、1隻目のU-511(9C型)をさらに改良した9C40型(1943年10月20日竣工)で、出航前にキール軍港にて日本海軍への譲渡式が行われ、「呂号第501潜水艦」(通称「呂501」)と命名された。

 


↑ヒトラーが日本海軍に譲渡したUボート(9C型)

9C型は航続距離向上を図った長距離航洋型Uボートで、
1941年から1942年までに54隻が建造された。このうちの
1隻であるU-511は「ドイッチェ・ヴェルフト社」によって1941年
12月8日竣工した。2隻目のU-1224は、9C型をさらに改良した
9C40型で、9C型より艦体を10cm拡大し、バラスト・タンク
も大型化され、さらに9C型よりも6t多い214tの燃料を
搭載して航続距離の増加を図ったUボートだった。

 

●この「呂501」は乗田貞敏艦長ら日本人乗組員(約50名)による操艦で、1944年3月にドイツから出航したが、大西洋でアメリカ軍に撃沈されて全員戦死してしまった。

※「呂501」の日本人乗組員は、第1章で触れた遣独潜水艦「伊8号」(U-511とすれ違うように1943年6月に呉港を出港)によりドイツに派遣された日本海軍の回航員で、現地で半年近く操艦訓練を受けた後にU-1224に乗り込んでいたのだった。


●なお同艦には海軍の優秀な技術者4名が便乗し、ドイツの最新鋭ロケット戦闘機「Me163」とジェット戦闘機「Me262」の設計図とサンプルなども積み込まれていたが、「呂501」と共に大西洋に消えてしまったのだった。

 


(左)日本初のロケット戦闘機「秋水」(右)1/48スケールモデル
(三菱航空機(現三菱重工業)が開発・製造した)



(左)日本初のジェット戦闘機「橘花」(右)1/48スケールモデル
(エンジンは海軍航空技術廠、機体は中島飛行機が開発・製造した)

※ ドイツが開発した戦闘機「Me163」と「Me262」の設計図は、
「呂501」に続いてヨーロッパを出航していた遣独潜水艦「伊29号」にも
積み込まれており、同艦に便乗していた技術将校(巌谷英一海軍技術中佐)が
シンガポールで下船して空路で帰国する際、機転を利かせて資料の一部を日本に
持ち運んでいた(この後「伊29号」は日本本土に向かう途中、米潜水艦の雷撃を
受けて沈没した)。このわずかな資料をもとに、日本の技術者たちが苦心して作り
上げたのが日本版戦闘機「秋水」と「橘花」だった。これらはB-29迎撃の切り
札として大きな期待を寄せられたが、実戦に参加することなく終戦を迎えた。

※ ちなみにドイツから供与された最新鋭戦闘機の資料は、ごくごく限られた
ものであった上、独自に設計しなければならない部分も多く、当然、各種
装備品や武装などは日本の国産品を使っていた。したがって「秋水」と
「橘花」の2つの日本版戦闘機は単なるコピーではなく、ドイツの
オリジナル戦闘機とは異なる部分が多かったのである。

 

 


 

■■第5章:ドイツが日本に派遣した3隻目と4隻目のUボート


●3隻目のUボート(遣日潜水艦)であるU-864は、大量の水銀や軍事機密情報などを積んで日本へ向かう途中の1945年2月、ノルウェー沖でイギリス軍に撃沈されてしまった。

この話は映画化されているので、まだ観てない方はご覧になって下さい↓

 


映画『U-864 ─ 日本を
目指したUボート』

 

●4隻目のU-234は、核兵器用のウランなどを積んで1945年3月に出航したが、日本へ向かう途中でドイツが無条件降伏したため、任務を中止してアメリカ軍に降伏している。

※ 同艦に便乗していた日本人技術者2人は、捕虜になることを潔しとせず、降伏直前に艦内で毒を仰いで自決した。この話も映画化されている↓(劇場未公開映画だったが1993年にNHKが放映)

 


(左)映画『ラストUボート』
(右)『深海からの声』富永孝子著(新評論)

 

─ 完 ─

 



── 当館作成の関連ファイル ──

日本国内を旅行したドイツの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」 

 


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