No.b1fha630

作成 2003.9

 

日本国内を旅行したドイツの

青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」

 

~知られざる「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話~

 

序章
ドイツからはるばるやって来た
「ヒトラー・ユーゲント」代表団
第1章
「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈1〉
~福島県会津若松市の「白虎隊」の墓参り~
第2章
「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈2〉
~同行した政府関係者たちの感想など~
第3章
「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈3〉
~神戸で親睦を深めた日独両国の青年団~

追加
「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈4〉
~岐阜県関市の「関鍛冶伝承館」の展示物~

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■■序章:ドイツからはるばるやって来た「ヒトラー・ユーゲント」代表団


●「日独防共協定」の成立から約1年半が経過した1938年8月、

ナチス・ドイツの青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日している。

 


「ヒトラー・ユーゲント」の隊旗

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の代表団はドイツの汽船「グナイゼナウ」号に乗船して、約1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着。

この時、ドイツの若者たちを一目見ようと、数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けたのである。

 


1938年8月17日、横浜に上陸した「ヒトラー・ユーゲント」一行は
横須賀線で東京に入った。そして東京駅に降り立った彼らは、
ブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。



(左)東京入りした「ヒトラー・ユーゲント」は明治神宮と靖国神社を参拝した。
(右)日本の青少年団代表100名あまりと共に富士山頂まで登った
「ヒトラー・ユーゲント」は、浅間神社で朝日を仰いだ。



(左)伊勢神宮参拝の様子。一行の参拝態度は
外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせた。
(中)ドイツ大使館でティータイムを過ごす「ヒトラー・ユーゲント」。
(右)京都から大阪入りした「ヒトラー・ユーゲント」。一行はこの後、瀬戸
内海を抜けて九州を歴訪し、最後の訪問先である神戸を訪れた。
規律正しく統制された彼らの姿は、日本の青少年の
指標として大きな影響を与えた。

 

●「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本のホテルの清潔さ、和製の自動車、日本建築、鉄橋・トンネルなどを見て、日本の急速な近代化に驚嘆した。また、忘れ物を届けてもらったり、傷のある商品を値引きしてもらったり、時間通り迎えに来たタクシーを見て、日本人の正直さに感心していた。

また、日本の各村に必ず小学校があること、また、その設備もよく、若い熱心な教師が多く、小学生も行儀がよく従順であることに好印象を抱いていた。さらに、「人の数からだけで判断すれば、100年の長期戦をしても平気だろう」と思わせるほど、平均5人という子供の多さに驚き、子供の愛らしさと子供への母性愛の強さに感動し、二毛作のできる日本の土地の肥沃さを羨望していた。

 

↑「ヒトラー・ユーゲント」の主な訪問先

約3ヶ月(89日もの長期)に渡って、北は北海道から
南は九州まで、日本各地を訪問して熱烈な大歓迎を受けた


 1938年8月16日
 横浜港より入国
 1938年8月17日
 横浜~東京(明治神宮と靖国神社参拝)
 1938年8月19日
 山中湖畔
 1938年8月20~21日
 富士登山(山頂まで登る)
 1938年8月23日
 軽井沢(近衛邸レセプション他)
 1938年8月28日
 日光中善寺湖畔(東照宮)
 1938年8月31日
 会津若松(白虎隊の墓参り)
 1938年9月3日
 青森(奥入瀬)
 1938年9月4日
 函館
 1938年9月5日
 札幌~支笏湖畔
 1938年9月10~12日
 岩手(政宗像)・秋田(竿灯祭り)
 1938年9月22日
 鎌倉(鶴岡八幡宮)
 1938年9月28日
 神宮外苑(全国青少年団連合歓迎大会)
 1938年10月2~3日
 岐阜~関町(日本刀鍛錬見学)~名古屋
 1938年10月7日
 伊勢神宮参拝
 1938年10月10日
 奈良(法隆寺見学)
 1938年10月13~17日 
 京都(清水寺、金閣寺など)
 1938年10月18日 
 大阪(大阪城見学他)
 1938年10月22日
 瀬戸内海深勝(鞆の浦など)
 1938年10月23~25日 
 別府~宮崎(鵜戸神宮参拝)
 1938年10月29~31日 
 熊本~雲仙
 1938年11月3日
 長崎(ペーロン見学)
 1938年11月4日
 福岡(博多人形・修猷館中学)
 1938年11月7日
 広島(厳島神社見学)
 1938年11月12日
 神戸(交歓会)、神戸港より出国

 

 


 

■■第1章:「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈1〉


●彼ら「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本国内を巡歴中、行く先々で日本の印象を聞かれ、そのつどコメントを残しているが、団長であるシュルツェは「日本の印象」について次のように語っている。

「現在まで多くの外国人たちはすべて大都会のある一面のみを見て日本のすべてを観察した如くに考えていたが、我らは真の日本の姿を見るには日本の片田舎をも回って親しく日本の青少年達と起居を共にしてこそ、その独特の精神に触れることができると信じた。そしてそれは我らの期待を外らせなかった。防空演習に際しての青年団の活動、岩手県六原道場での厳格なる動作、これらすべては十分日本青少年たちの優れた長所を認識せしむることができた」

「日本の神社や自然を見て、日本国民の魂は自然美より形成されていると実感した。日本の将来は、南西方に向かって一大民族的飛躍が約束されており、東亜の王冠を頂くことになる。……我が国では、民族意識の高揚によって国民の団結を図ってきた。しかし、日本では血の純血と神聖は自然に備わっている。幸福な国だと思う」

「最も我らの印象を引いたのは会津若松の『白虎隊』の墓だった。なぜならば、1920年から1933年までヒトラー総統の困苦時代に、忠勇なるヒトラー・ユーゲントの同志22名は、いずれも18歳の若さで共産党と戦い、壮烈な戦死をした追憶を持っているからである」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
ラインホルト・シュルツェ団長

 

●上のシュルツェ団長のコメントで触れられているように、「ヒトラー・ユーゲント」は「白虎隊」の墓参りをするため、1938年8月31日に福島県の会津若松市を訪れ、約1万もの群衆の大歓迎を受けている。

 


幕府への忠誠を誓いながら滅び去った会津藩の若き武士たちの自刃の様子

※ 20人の少年たちが、会津若松の城下町を一望に見渡せる飯盛山で
 自刃した(そのうち1人だけは急所を外して生き延びたという)

 

●歓迎式の後、「ヒトラー・ユーゲント」は東山温泉の旅館へ向かったが、来日以来初めて宿舎が純日本式だったので、彼らは温泉の浴槽に飛び込んだり、鯛の刺身やお吸い物などをパクついたり、浴衣姿で、日の丸行進曲や会津盆踊りに拍手を送ったり、獅子舞に興味を示したりと、楽しい夜を過ごした。

翌日、天気が悪く、飯盛山の「白虎隊」の墓参りを中止しようとの意見も出された。しかし、ユーゲント側の強い希望もあって、激しい風雨の中、白虎隊士墓の参拝をしたのであった。

 


(左)福島県会津若松市にある鶴ヶ城 (右)悲劇の少年部隊である「白虎隊」の墓

自刃した少年たちの遺骸は西軍により手をつけることを禁じられ、約3ヶ月間も放置され、
その後に村人により密かに近くの寺に運ばれ仮埋葬され、後にこの自刃地に改葬されたという。



1986年に日本テレビで放送された年末時代劇スペシャル『白虎隊』(DVD)

↑幕末に起こった「戊辰戦争」における会津藩の悲劇を描いた長時間TVドラマ

※「白虎隊」は16~17歳の武家の男子によって構成された部隊であるが、
会津藩が組織した部隊には他に「朱雀隊」(18~35歳)、「青龍隊」
(36~49歳)、「玄武隊」(50歳以上)などが存在した。

 

●この時、「ヒトラー・ユーゲント」は、白虎隊墓地広場にあるドイツの「記念碑」も拝観している。

この「記念碑」は、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが、3年前の1935年に飯盛山を訪れた時に、「白虎隊」の少年たちの心に深い感銘を受け、個人的に寄贈したものである。

そこにはドイツ語で次のような碑文が刻まれている↓

「ひとりのドイツ人が 会津の若き騎士たちへ 1935年」

 


(左)駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフ。滞日中、飯盛山を訪れて「白虎隊」の
少年たちの心に深い感銘を受ける。(中)1935年に彼が寄贈した記念碑。
(このドイツ大使の記念碑は、現在、復元されて白虎隊墓地広場にある)

 

●この「記念碑」は、戦後、GHQの手によって碑面が削られ撤去されたが、フォン・エッツドルフの強い希望により、1953年に再刻のうえ復元された。

ちなみに、この「記念碑」のそばには、1928年にイタリアのムッソリーニが元老院とローマ市民の名で贈った「記念碑」=大きな石柱が建っている。この石柱は、ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。ムッソリーニは「白虎隊」の話に感動し、日本の武士道を尊んでいたという。

※ このローマの「記念碑」の裏面には「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、戦後、GHQが削り取ってしまったと言われている。

 


白虎隊墓地広場にある「ローマ市寄贈の碑」

「白虎隊」に感動したイタリアのムッソリーニが、
1928年に元老院とローマ市民の名で寄贈したもの。
ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。

 

 


 

■■第2章:「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈2〉


●「ヒトラー・ユーゲント」の副団長であるレデッカーは、「日本の印象」について次のように語っている。

「日本の印象は余りに大きいので適当な言葉を見出せないほどである。たとえば、富士登山を行ったとき、御来迎が日本の同志諸君の顔に映るのを見て、日本精神のいかに美しいかを体得した。会津若松の『白虎隊』の勇士の墓に詣でたとき、『白虎隊』の精神が身にしみて感ぜられた。今まで多数の外国人が参詣し、有名な人が詣でたにしろ、ヒトラー・ユーゲントの如く心からその『白虎隊』の精神を理解し習得した者はかつてあるまいと確信する」

「また、各地で神社仏閣を参拝したが、日本人が敬神の念が強いのには感心した。戦傷兵士を慰問した時、日本の軍人の強さを知り、かくの如き立派な軍人を持てば日本は永久に勝利者として残ることを我々は確信した。我々は偉大なる国民の叫びを聞いている。それは『日本のため』『日本のため』というリズムである。日本国民の忠誠を国民道徳的な教訓として受け取り、ドイツ魂と日本精神が一致することを知った」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
シュルツェ団長とレデッカー副団長

 

●このように、「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本に対して強い好印象を抱いていたのである。

が、もちろん、彼らに不満がなかったわけではなかった。

彼らの不満としては、まず、「写真撮影禁止区域」が余りにも多いこと、軍部の意向で八幡製鉄所など機械工場・製作工場を見学できなかったこと、武器など軍務関係のものを見学できなかったこと、林業・牧畜や日本茶の採取・製造を見学できなかったこと、また、取材に来る新聞記者の厚顔、礼儀知らず、服装のだらしなさ、愚問の多いこと、慰安旅行のつもりで付いてくる役人など旅行随行者の多いこと、日本精神を体得させるという目的で、スケジュールに神社参拝が多く組まれていること、大臣・知事・青年指導者と農村の青年は立派であるが「健全な中間層がいない」こと、大学や高校にトーマス・マンなどナチに追われた作家やユダヤ人作家の書いたものをテキストに使用する自由主義教授が多いこと、日独文化協会やドイツ文化研究所がナチス的になっていないこと、などが挙げられている。

また、茶、香、華道の真髄は理解できなかったという。

 


近衛文麿首相と「ヒトラー・ユーゲント」

※ 招待晩餐会の食後に、彼らは共に円陣を作って歌ったり、
馬とびや駆け足などして、うちとけた中で時を過ごしたという

 

●「ヒトラー・ユーゲント」は、日本に約3ヶ月間滞在したが、彼らの行進を見るために、多くの人々が街路に溢れ出し、内外の集会場を埋め尽くし、興奮と熱狂の中で、「ヒトラー・ユーゲント」の規律のとれた動きと制服に「美的感動」を覚えた。

童心主義の詩人、北原白秋は「独逸青年団歓迎の歌」を作って、ともに歓迎することを子どもたちに訴えた。(この歌は日本ビクターよりレコードが発売されている)。


── 作詞:北原白秋/作曲:高階哲夫 ──

 

 燦たり輝く、ハーケン・クロイツ

 ようこそ遥々、西なる盟友

 いざ今見えん、朝日に迎へて

 我等ぞ東亜の青年日本

 万歳、ヒットラー・ユーゲント

 万歳、ナチス



日本を代表する詩人・歌人・
童謡作家である北原白秋
(1885~1942年)

 

●「ヒトラー・ユーゲント」に同行した政府関係者たちは、「ヒトラー・ユーゲント」の「鉄のような規律とメカニカルな動き」に感銘を受けて、彼らを今後の日本の青少年団運動のモデルにすべきであると考えるようになった。

例えば、来日当初から関東各地の旅に同行した文部省社会教官、宮本金七氏は次のように述べている。

「すくすく伸びた四肢、グッと張った胸、実に見事な体格で、登山の際の強行軍から見ても体力の点では到底わが青年の比ではないと思った。それに30人のうち眼鏡をかけた者は一人もない。偉大な体格が大戦の疲弊した環境の中に育てられたということを考える時、長期戦体制の我々が考えなければならぬ多くのものがあると思う」


●さらに別の関係者も次のように述べている。

「ヒトラー・ユーゲント代表一行に会って特に目を惹かれるのは、その集団訓練からくる整然たる姿である。指導者の命令で行われる見事なる行動、若々しさ、そしてあの元気、そこに我々は強く惹きつけられるものがある。今まで行われてきた諸々の良き青年団の事業の他に、ヒトラー・ユーゲントのような権威ある組織制度の設けられる事がこの際望ましき大きな事柄の1つであると思った」


●しかし、「ヒトラー・ユーゲント」を厳しい目で観察して、日本青年のほうが精神的に優れていると分析する関係者もいた。

代表的な一人である、外務省調査部第二課の真鍋氏はこう述べている。

「……確かに彼らは体躯も大きいし、眼鏡もかけていない。しかし彼らの体力というか肉体的抵抗力というか、この点は我が日本青年は断じて負けていないと思った。

……彼らは日本の養子制度・見合結婚が理解できないという。ドイツ人は良い血と良い血の結合からドイツ精神・道徳が生まれると信じているが、日本人は良い精神と良い精神の結合から良い血が生まれると信じている。国家を強力にするのはではなく道徳と国民精神である」

「ヒトラー・ユーゲントは良い組織を持っている、鉄の如き規律がある、これをぜひ日本も学ぶべきであるという声が多く聞かれるが、私はこの意見に反対である。ドイツ人は、悪く言えば融通の利かない鈍重な国民である。だから、組織は、規律が崩れたときのドイツは滅茶苦茶である。……だからドイツ人は自分たちに適した組織を作ったのである。彼らの指導者養成方法は、ドイツの文化・伝統に基づくものであり、そのまま日本が受け入れることは危険である」

「来訪ヒトラー・ユーゲントは良い青年たちだが、ナチス的考え方しか知らない。自分というものがない。ナチスは人間から人間らしきものを、言い換えれば、ゼーレ(魂)を奪ってしまう

日本は個人のゼーレが全体のゼーレになりうる。ナチスは全体のゼーレのために、個人のゼーレを犠牲にしなければならなかった。そこに今日、中堅のドイツ人の苦しさがある。しかし、ヒトラー・ユーゲントはその苦しさを知らずにナチスに育て上げられている。この点、ナチスの努力は凄まじいものがあった、と考えさせられた」

 

 


 

■■第3章:「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈3〉


●ところで、「ヒトラー・ユーゲント」が来日する1ヶ月前に、日本からも各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議会)の代表29名がドイツを訪問している。

 

 

●彼らは1938年7月2日にパリからケルンに入ったが、

ベルリン到着後、戦闘帽と団服、巻脚半(巻きゲートル)にリュックサックという服装が「ヒトラー・ユーゲント」に比べてあまりにも貧弱であると判断されて、在ドイツ邦人から「ヒトラー・ユーゲント」を真似た制服を新調されるというハプニングがあったという。

しかしながら彼らもドイツ各地で熱狂的な歓迎を受け、約3ヶ月の滞在中にナチス党大会の参観やヒトラーとの会見を無事に果たし、1938年9月25日にドイツを離れたのである。


●そして1938年11月12日、長い船旅でドイツから帰国したばかりの「大日本連合青年団」と、ドイツに帰国直前の「ヒトラー・ユーゲント」一行が「神戸オリエンタルホテル」で一堂に会し、「交歓会」が開催されたのであった。

 


日独両国の青年団の集合写真
(神戸オリエンタルホテルにて)

同じ年に約3ヶ月もの長い海外視察を
体験した日独両国の青年団は神戸に集合し
「交歓会」を開いて、お互いに親睦を深めた。
この会合後に「ヒトラー・ユーゲント」は
神戸港で見送られて帰路についた。

 

●このように、「ヒトラー・ユーゲント」の来日は、防共(反共産主義)の協定を結んだ両国の青年たちが、互いに締盟国を訪れて親善、交流するという意味合いがあったのである。

 


「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは1939年末には800万人に達した

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の実態(誕生から崩壊までの歴史)については、
当館作成のファイル「ドイツの少年・少女たちとヒトラー・ユーゲント」をご覧下さい。

 



 

■■追加情報:「ヒトラー・ユーゲント」の来日秘話〈4〉


●岐阜県関市にある「関鍛冶伝承館」は刃物や関係資料を展示する施設であるが、驚くことにここにはヒトラーとムッソリーニから贈られた「鉄カブト」と「陶器皿」が保管されているのである。

 


ヒトラーとムッソリーニからの贈り物

ヒトラーから贈られたのは中世ドイツの「鉄カブト」(西洋兜)と
サンバイザーのような形をした兜の一部とみられる品。ムッソリーニから
贈られたのは籐カゴのようなデザインになっている白色の「陶器皿」。
(※ ちなみに上の写真は昭和時代に関市で撮影された写真である)

 

●関市の関係者の話によれば、地元有力者らが設立した「美濃刀匠擁護会」は、「日独防共協定」が結ばれた1936年にヒトラーに刀一振りを贈呈。その後「日独伊三国同盟」が結ばれた1940年にムッソリーニにも刀一振りを贈ったという。

そしてこの日本刀のお礼として贈られてきた「返礼品」が、先に紹介した「鉄カブト」と「陶器皿」だったという。

※「陶器皿」はいつごろムッソリーニから贈られたかは不明であるが、「鉄カブト」に関してはヒトラーの直筆とみられる署名と日付が入った「お礼状」が残っているため、贈られた時期などが詳しく分かっているそうだ。

 


岐阜県関町(現・関市)の刀剣関係者たちが
ドイツ大使に日本刀を贈呈した時の様子(1936年)

※ 贈呈した日本刀は「関鍛冶伝承館」の場所に以前あった
「日本刀伝習所」(後に日本刀鍛錬塾)で鍛えられものだという

 

●また、これらの「返礼品」は、以前は市の「中央公民館」で保管・展示されていたのだが、1984年に新しく建てられた「関市産業振興センター」(現・関鍛冶伝承館)へ保管先を変更したところ、市関係者の間で「ヒトラーに関わる展示はもうやめたほうがいい」との強い異論が出たことから、倉庫行きになったという。


●この件について関市の関係者はこう語っている。

「日本刀の返礼に2人の独裁者から届いた品物は、刃物の産地・関の歴史を物語る貴重な史料だが、歴史に悪名を残した人物からのプレゼントとあって、展示したら反発も考えられると市が躊躇(ちゅうちょ)しているうちにほぼ忘れられてしまい、知る人ぞ知る存在になった。もうかれこれ20年以上も倉庫で眠っているので、今では市関係者ですら存在を知る人はわずかになってしまった」

 

この「関鍛冶伝承館」は鎌倉時代から受け継がれる
関鍛冶の技を今に伝える施設である。1階には関を代表する
兼元・兼定をはじめとする日本刀や、その製造工程・歴史に関する
様々な資料が展示されている。2階にはカスタムナイフ作家の
コレクションや、関市の刃物文化が生んだ近現代の
刃物製品がずらりと展示されている。

 

●しかし2006年に入ってから事態は大きく変わり始める。

この年の夏に市文化財審議会委員の1人が「もう戦後60年あまりが経過し、歴史の事実として返礼品の展示を再開してもいいのでは」と発言。この発言と返礼品の由来が『中日新聞』で大きく取り上げられた後、急遽「関鍛冶伝承館」でお蔵入りしていた歴史的資料の再展示が決定。同年11月から一般公開が始まったのである。

 


22年ぶりに一般公開された中世ドイツの「鉄カブト」=ヒトラーからの「返礼品」
(※ 上で紹介した昔の写真と比べると、だいぶ錆びて変色しているのが分かる)

 

●また翌12月には、これらの歴史的資料と並んで、関市に寄贈されたばかりのヒトラー・ユーゲントの「短刀」も一緒に展示されることになった。


1938年10月3日に関町(現・関市)を訪問したヒトラー・ユーゲント
たち全員に、日独友好の証しとして贈呈された短刀(刃長20cm)

 

※ この「短刀」がたどった“数奇な運命”に関しては下の記事が詳しい↓



(左)2007年1月21日『中日新聞』(右)「ヒットラー・ユーゲント来訪記念」の文字が読める短刀の中子裏側


── この記事の内容 ──

 

関の短刀帰国 数奇な運命をたどり70年

 

1938(昭和13)年10月3日。刃都・関町(現関市)の刀剣館で、日本刀鍛錬の実演に目を見張るドイツの若者たちがいた。1936年の日独防共協定締結を受け、日本各地を回っていたヒトラー・ユーゲントの団員30人。刃物産地ゾーリンゲン出身のフリッツ・ヘアウィッグさんも参加し、記念にもらった関の短刀を母国に持ち帰った。それから70年。短刀は数奇な運命をたどって関に戻り、「関鍛冶伝承館」で展示されている。


団員たちはこの日、町中心街を行進し、町民の大歓迎を受けた。当時の新聞は「ユーゲント晴れの刀都入りだ。沿道1キロ余りに1万人の人垣造る」とある。団員に贈られた短刀は、日独友好の証でもあった。

翌1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻。第二次世界大戦となり、多くの若者が戦地に駆り出されて死んでいった。ドイツ空軍の戦闘機パイロットになったヘアウィッグさんも1941年12月、空中戦で戦死した。まだ、21歳の若さだった。兄弟がなかったため、一家は断絶。遺品の短刀は甥(おい)のエルンスト・ニゲロさん(68)が受け継いだ。


普通なら、短刀はそのまま眠り続けただろう。しかし、ゾーリンゲンと関がともに刃物の街だったことから、再び世に出ることになった。

ニゲロさんは、化粧などで使う美粧用刃物の製造会社社長を務めており、関の刃物卸会社社長・井戸誠嗣さん(65)と取引を通じて対面。井戸さんに、短刀の銘を確認してもらったところ、1989年に亡くなった刀匠・中田勇さん(刀匠名・兼秀)が、24歳の時に鍛えたものと分かった。井戸さんは「関の短刀が、ドイツ人青年の遺品になっているとは思わなかった」と振り返る。

ニゲロさんは昨年11月、「家族で大切にしてきた短刀だが、故郷に返したい」と、井戸さんに連絡。短刀を受け取った井戸さんが12月、関市に寄贈した。同じ刃物産地として、海を越えて築かれた人と人との信頼関係があった。

短刀は長さ20センチで、刀身、さやともに保存状態は良い。中田勇さんの長男勝郎さん(63)=刀匠名・正直=は「とても出来がいい。若かった父の勢いを感じる」と話す。


「関鍛冶伝承館」には、関町の団体が贈った日本刀の返礼に、ヒトラーから届いた中世の兜(かぶと)も保管されている。ヘアウィッグさんの短刀は、兜の横に飾られた。

ヒトラーは、ユダヤ人虐殺などで歴史に悪名を残し、ナチスに関わるものはタブー視される。同伝承館でも昨年10月まで、ヒトラーの兜は倉庫に入れたままだったが、歴史的資料として展示に踏み切った。

ヒトラー・ユーゲントが関町を行進した時、小学生だった後藤昭夫市長(72)も歓迎の人垣にいた。無名の若者が関で手に入れ、その死後も守り抜かれた一振の短刀。後藤市長は「関のためを思って返していただき、ありがたい。ヒトラーとナチスの問題はあるにしても、ドイツの若者たちが、関を訪れた意味はあったのではないか」と話している。

 

 

●この記事が出てしばらくした後に筆者は「関鍛冶伝承館」を訪問し、これらの歴史的資料をじっくり目にすることができたが、展示期間は限られている場合があるので、これから見に行こうと思う方は事前に「関鍛冶伝承館」の方に展示の有無を確認してから訪問するとよいでしょう。

また「関鍛冶伝承館」(岐阜県関市)から車で約45分の場所(東へまっすぐ30km先)に、かの有名な「杉原千畝記念館」(岐阜県八百津町)があるので、ナチスやユダヤの歴史に興味のある方はそちらに足を運んでみるのもよいと思います(^^)


※ それにしても、ナチスとユダヤに関わりのある2つの歴史的な場所が
同じ岐阜県内に、しかもほぼ横一直線上に隣り合って存在しているのは、
歴史の偶然とはいえ何か不思議な縁を感じてしまいます…↓


 

 



── おまけリンク ──

白虎隊記念館へようこそ 
http://www.byakkokinen.com

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ヒトラーの日本観と日独交流秘話 

ヒトラーが日本に贈ったUボート秘話 

ドイツの少年・少女たちとヒトラー・ユーゲント 

 


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