No.b1fha770

作成 2012.6

 

ナチス・ドイツの航空機〈番外編〉

 

~ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)の名機&迷機~

 

あまり有名ではないマイナーな試作機・計画機を中心に紹介します

 
第1章
世界初の実用ジェット戦闘機
「Me262 シュヴァルベ」
第2章
革新的な全翼機&デルタ翼機
第3章
世界初のロケット戦闘機
「Me163 コメート」
第4章
垂直発進するロケット迎撃機
「Ba349 ナッター」
第5章
幻のVTOL(垂直離着陸)機〈1〉
第6章
幻のVTOL(垂直離着陸)機〈2〉
第7章
先進的なヘリコプター(回転翼機)〈1〉
第8章
先進的なヘリコプター(回転翼機)〈2〉

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■■第1章:世界初の実用ジェット戦闘機「Me262 シュヴァルベ」


●第二次大戦中、世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」──。

 


(左)世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」。
時速800キロ以上のスピードとその上昇能力によって、当時のどんな航空機
より遥かに優れていた(連合国側の主力戦闘機より150キロ以上も速かった)。
(右)主翼下面に装着された小型ロケット弾「R4M」(片側12発ずつ計24発)。
発射後、一定時間後に爆発を起こすので、直撃しなくても周囲に被害を与える
ことが可能だった(遠距離から大型爆撃機をやすやすと撃墜できた)。

 

この先進的な戦闘機が敗戦までの約1ヶ月間使用し、大きな戦果を収めたのが「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた小型ロケット弾「R4M」である。

※ この「R4M」は元々、ヒトラーの「空での戦い自体は第一次世界大戦の時代と同様、機銃で互いに撃ち合う方法から全く進歩がない!」との意見がきっかけとなって開発されたと言われている。

 


「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた「R4M」の弾幕↑
※『ドイツのジェット/ロケット機』野原茂著(光人社)より

ランチャーを介して両主翼下に装備された計24発の「R4M」は
それぞれ微妙に角度を変えて取り付けられており、一斉発射した後、
目標全体を包み込むようにして撃墜できる画期的な兵器だった。

「R4M」の最大射程は1.5kmで、一説では敗戦までに
約1万2000発が製造されて、約2500発が
実戦で使用されたといわれている。


※「R4M」は「R」がドイツ語でロケット弾を意味し、「4」は
総重量4kgを、「M」はドイツ語で炸薬(炸裂)弾頭を意味している。
「R4M」は直径55ミリの空対空用の通常弾頭と、対戦車用の大型の弾頭の
2種類の弾頭が使用可能だった。「R4M」の本体は簡単な金属製の管で、
発射後に尾部の折り畳み式フィン(合計8枚)が瞬時に開いて弾道を
安定させて、毎秒530mの速度で目標めがけて突進した。

一斉発射の際は、隣のフィン同士が接触しないよう
 0.07秒ずらして連続的に発射された。



(左)ドイツ空軍のアドルフ・ガーランド中将
(右)『第44戦闘団 ザ・ガランド・サーカス』

ドイツ空軍のエースパイロットだったガーランド中将が
率いた最後の精鋭部隊「第44戦闘団」の「Me262」が
敗戦までに記録した約50機の撃墜戦果の大半は、この
「R4M」によるものだったといわれている。

 

●元アメリカ陸軍少将レスリー・サイモンは、著書『第三帝国の秘密兵器』の中で、ドイツが開発していたロケット兵器、ジェット戦闘機、超音速爆撃機などについて詳細に述べているが、特に彼が感心したのは、この空対空ロケット弾「R4M」であった。

戦争終結1ヶ月前に、ジェット戦闘機「Me262」に付けられたこの「R4M」は、その破壊力の凄さをまざまざと見せつけた。連合国側はわずか1ヶ月のうちに、「R4M」によって撃墜された爆撃機の数を500機としている。


●レスリー・サイモンは次のように書いている。

「6機のMe262が、空飛ぶ要塞と呼ばれて迎撃困難な戦略爆撃機B-17Eを14機撃墜した。

もし空対空ロケット弾R4Mがあと数ヶ月使われていたらどのような結果になっていたか、考えるだけでも恐ろしい……」

 


メッサーシュミット「Me262 シュヴァルベ」(1/48スケールモデル)

後退角を備えた主翼や両翼下のエンジンポッドなど先進のスタイルをタミヤ
ならではの精密なパーツ構成でモデル化。機首に装備された30ミリ機関砲4門
(点検パネルは開閉選択式)も精密に再現され、主翼下面の空対空ロケット弾「R4M」
と胴体下面の21センチ空対空ロケット弾「W.Gr21」2門も付属している。
※ 愛称のシュヴァルベ(Schwalbe)はドイツ語で「ツバメ」の意味である。

 

 


 

■■第2章:革新的な全翼機&デルタ翼機


●第二次大戦中、ナチス・ドイツでは変わった形の航空機が多数開発されていた。

例えば、ザック「AS-6」と呼ばれる円形翼のプロペラ機(レシプロエンジン機)が試作されていた。

 


↑第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ占領下のプラハで試作された円形翼機「AS-6」

その特異な形状から「空飛ぶビール・コースター」と呼ばれていたという。しかし
 飛行テストに一度も成功しないまま、連合軍の空襲で破壊されてしまった。

 

●またホルテン「Ho229」と呼ばれる尾翼のない無尾翼ジェット機(全翼機)も開発中だった。

 


↑第二次世界大戦末期の1944年、空軍士官ホルテン兄弟によって
設計・開発された無尾翼ジェット機(全翼機)「Ho229」

ナチス・ドイツの敗戦で実戦には間に合わなかったが、現在の
アメリカ空軍のステルス「B-2爆撃機」の先駆といえる



ホルテン「Ho229」(1/32スケールモデル)

航空機の胴体と尾翼を無くした全翼機は機体重量、空気抵抗の軽減
により高速での作戦行動が可能で、当時としては非常に先進的な機体だった。
また塗料には炭素粉を使用するなど、世界初のレーダーステルス機でもあった。
ドイツの敗戦により試作段階で終わったが、一番完成度が高かった「Ho229」
の試作3号機はアメリカ軍に接収され、アメリカ国内で徹底的な調査を受けた。
(現在は「アメリカ国立航空宇宙博物館」の倉庫に保管されているという)。



↑ナチスが開発しようとしていた世界初の
超音速ジェット爆撃機であるホルテン「H.XVIII」

6つのジェット・エンジンをつけたこの大型の全翼機は
マッハ0.75で飛行し、8000ポンドの爆弾を積み込んで
アメリカとソ連を爆撃する予定であった。1945年4月に
製作が開始されたが、完成前に戦争が終わってしまった。
まさにナチス・ドイツ版の「B-2爆撃機」である。

 

●さらにナチス・ドイツには「空飛ぶ円盤」ならぬ「空飛ぶ三角形」とも呼べる革新的な「デルタ翼機」も存在した。

「リピッシュ社」の創立者、アレクサンダー・リピッシュ博士が開発していた航空機で、デルタ翼(三角翼)の効果を試すために作られた実験機「DM1」は、大戦末期に滑空テストが行われ、好評価を得ていた。

続いて実験2号機の「DM2」の設計が進められたが、敗戦で打ち切られてしまったという。

 


アレクサンダー・リピッシュ博士が開発していた革新的な航空機(デルタ翼機)

コックピットは分厚い垂直尾翼の先端に設けられていた。この機体は、
戦後、アメリカの「デルタ翼機」の開発に大きな影響を与えた。



(左)デルタ翼機「DM1」(右)小型模型を手にするリピッシュ博士

リピッシュ博士が大戦中に開発していたデルタ翼機「DM1」は
戦後、アメリカへ輸送されて「風洞実験」などによる徹底的な
調査を受けたが、「全米航空諮問委員会(NACA)」
は「デルタ翼」が基本的に高速の航空機に適した
形態であることを確認したという。

 

 


 

■■第3章:世界初のロケット戦闘機「Me163 コメート」


●リピッシュ博士は、世界初のロケット戦闘機「Me163 コメート」の産みの親でもある。

このロケット戦闘機は、液体燃料ロケットを動力とし、時速960キロの高速と、大口径30ミリ機関砲の一撃で敵爆撃機を撃墜できた。

驚くべきはその上昇力であり、連合軍の高々度爆撃機が侵入してくる高度1万mまでたった3分ちょっとで到達できたのである。(当時のドイツ空軍の主力戦闘機「Fw190」では、この高度まで上昇するのに15分以上もかかった)。

 


リピッシュ博士が設計した世界初のロケット戦闘機「Me163 コメート」

機体は印象的な無尾翼機だが、燃料を少しでも多く積むために引き込み式の主脚は
採用されず、離陸時は飛行と同時に機体から切り離す投下車輪を用い、着陸時は機体
下面に収納された金属製のスキッド(ソリ)を引き出してランディングを行った。
しかし操縦は非常に困難で、着陸に失敗して爆発炎上するものも多く出た。



(左)「Me163」の側面図 (右)1/32スケールモデル

「Me163」は独特な機体形状と、飛行時に煙の尾をひく
様子から「コメート」(ドイツ語で彗星の意)の愛称を付けられた。
「Me163」のロケットエンジンの燃料は、非常に爆発性と腐食性が高く、
もしエンジンから燃料が漏れれば一瞬で爆発、もしくはパイロットを溶かして
しまう恐れがあった(この危険な燃料はコックピットから薄いアルミの壁1枚を
隔てて1.5トンも積み込まれていた)。また、エンジン故障による不時着や
墜落も続発した。こうした悪夢のような状況に対し、テストパイロット
たちは「Me163」を「恐怖の彗星」と称したという。

 

この「Me163」のロケット燃料は約8分で燃え尽きてしまい、この間に機体は驚異的な加速と上昇力で一気に高空の敵爆撃機を迎撃し、数分間の戦闘を終えた後は滑空状態で基地へ帰投するという、航空機というよりはロケットエンジンを装備したグライダーとでもいうべき乗り物であった。

 

 ※『第二次世界大戦 奇想天外兵器』渓由葵夫著(新紀元社)より

 

連合軍のパイロットは、初めて「Me163」を目にした時、一様に驚き、蒼ざめたという。従来のプロペラ機(レシプロエンジン機)とは全く次元の異なるスピードで襲いかかり、たちまち僚機を血祭りに上げたからだ。

しかし、航続時間が非常に短かったため、連合軍の爆撃機の編隊が「Me163」の基地付近を避けて飛行するようになると、迎撃のしようがなくなり、その戦果は極めて少なかったと言われている。

また、一度迎撃に失敗すると再上昇はできず、着陸態勢に入ると回避行動もとれなかったため、燃料を使い果たした後の無動力状態の「Me163」は敵機の格好の餌食になったという。

※「Me163」は1945年2月に空襲で生産工場が破壊されるまで、約300機前後が生産されたが、戦闘による喪失は全体のわずか5%に過ぎず、80%は離着陸時の事故、15%は飛行中に遷音速に達して操縦不能に陥ったものであった。

 


(左)ドイツ空軍のヴォルフガング・シュペーテ少佐
(右)第16実験飛行隊の指揮官を務めた彼自身が書き記した
『ドイツのロケット彗星 — Me163実験飛行隊 コックピットの真実』

第二次世界大戦中に99機の敵機を葬り去ったシュペーテ少佐は、ドイツ空軍を
代表する撃墜王の一人である。1942年4月に戦闘機総監アドルフ・ガーランドの
命令で、「Me163」による「第16実験飛行隊」を新設。この極秘部隊の指揮官に
任命された彼は、「Me163」を実戦配備可能な戦闘機に仕上げるため、テスト飛行
を何度となく繰り返し、不具合箇所を見つけては改修を施すといった作業を続けた。



(左)トラクターに牽引される第16実験飛行隊所属の「Me163」
(右)ロケットエンジン特有の煙の尾をひきながらペーネミュンデ
 基地上空を驚異的な速さでテスト飛行する「Me163」



(左)某アニメ作品の主人公もビックリの“赤い彗星”カラーである
 第16実験飛行隊所属のシュペーテ少佐機 (右)1/32スケールモデル

「Me163」が初めて実戦に参加したのは1944年5月の口イナ工場上空の
防衛戦で、このときシュペーテ少佐は、第一次世界大戦の撃墜王で「レッドバロン」と
呼ばれたリヒトホーフェンの愛機を模した真紅の機体で出撃している。しかしこの機体の
色は彼自身の意思とは関係なく、部下たちが彼の武運を祈って勝手に塗装したもので、
当の本人は塗料分の重量増加を嫌って、ひどく立腹したと伝えられている。

 

●この「Me163」の後継機として開発されたのが「Me263」である。

燃料搭載量の増大や新型エンジンの装備で航続時間延長を図った発展型(最終生産型)で、試作機が1機作られテストを受けたが、量産機が作られる前に敗戦となった。

 


(左)ロケット戦闘機「Me263」(別名「Ju248」)
(右)「Me163」より1つ増えた機体後部のロケットエンジンノズル



(左)「Me263」の側面図 (右)1/72スケールモデル

「Me163」の欠点である航続時間の短さと、不便なスキッド(ソリ)式
降着装置の改良を主眼に作られた発展型(最終生産型)である。胴体は再設計し直して
2m延長され、降着装置は引き込み式3車輪となり、コックピットも完全与圧式に変更された。

「メッサーシュミット社」が「Me262」の生産に忙殺されたため、一時開発は「ユンカース社」
で行われたが、空軍当局の命令で「メッサーシュミット社」に戻された。テスト飛行では15分の
航続時間が確認され、量産も命じられたが、量産機が生産される前に第二次大戦は終結した。
(戦後、ソ連のミコヤンとグレビッチによリ開発されたロケット戦闘機の基礎となった)。

 

 


 

■■第4章:垂直発進するロケット迎撃機「Ba349 ナッター」


●大戦末期のドイツは、連合軍の戦略爆撃機によって空軍基地を次々に失い、最後はアウトバーンを滑走路代わりに使用するという状況にまで追い込まれていた。そのため、長い滑走路を必要としない短距離離陸機や垂直離陸可能な戦闘機(迎撃機)の開発が急務となっていた。


このような情勢の中、「コストをかけず、簡単に製造が可能で、しかも敵に対し多大なダメージを与えること」を目標に開発されたのが、垂直発進するロケット迎撃機「Ba349 ナッター」である。

設計したのは「フィーゼラー社」の技術部長であったエーリッヒ・バッヘム博士だった。

 


(左)垂直発進するロケット迎撃機「Ba349 ナッター」
(中)垂直に立てられた発射台に据え付けられた試作機
(右)この機体の設計者エーリッヒ・バッヘム博士

 

この常識外れの航空機は極力簡素化された小型ロケット機で、降着装置は付いておらず、武装は機首のミサイルポッドに搭載された空対空ロケット弾のみだった。ロケット弾は正確な照準は不要で、敵機群に向かって散弾銃のように一斉に発射して離脱可能なため、熟練したパイロットは必要なく、手軽に戦力が増強できると考えられた。

※ この「Ba349」は、ほとんど訓練を受けていない者にも操縦できるように単純な構造になっており、物資不足でも量産可能とするため貴重な金属部品は最低限に抑えられ、木材が多用されていた。

 

↑ロケット迎撃機「Ba349」の透視図と上面図 

操縦席のすぐ後ろに燃料タンク、その後ろにロケットエンジンが
配置されていた。機体の大部分は木製で、クギやニカワで木材が手軽に
継ぎ合わされていた(主翼などは大工でも製造可能な程度の精度だった)が、
6Gの加速荷重に耐えられる設計だった。しかし、実際には資材と熟練労働者が
欠乏していたために原料の質が悪く、兵器としての耐久度も弱い粗末なものだった。
(特に機体の製作にあたって、低級な安い木材と粗悪な金属材料が使用されたという)。



(左)戦後、アメリカへ輸送されて調査された「Ba349」(機首の透明カバーが外され、
束になって装填されたロケット弾が見える)(中)正面から見た機首のロケット弾
発射ポッド(24個の6角穴が配列されている)(右)1/144スケールモデル
※ 愛称のナッター(Natter)はドイツ語で「毒ヘビ」の意味である

機首に装備された武装は24発の「Hs297」73ミリロケット弾
(元は地上配備の地対空兵器)、または33発の「R4M」55ミリロケット弾で、
これを一斉発射して、強力な爆発力により敵爆撃機を粉砕する。また状況によっては
機体を敵機にぶつけ、パイロットが直前に脱出する攻撃方法も考えられていた。
(コックピットのパイロットは防弾ガラスと装甲板により防護されていた)。



(左)発射台に据え付けられた「Ba349」に乗り込むテストパイロット
(右)発射台からロケット噴射で打ち上げられた直後の「Ba349」

「Ba349」の胴体後部に装備した4本の補助固体ロケットブースターは、
発射後10秒間作動した後に切り離され、その後は胴体内の液体ロケットエンジンに
点火して加速上昇した。打ち上げテスト用の発射台は鉄筋製だが、実戦投入後は丸太を利用
した簡単なもの、あるいは移動トレーラー兼用の発射台などを使うことを想定していたという。

※ この「ロケット迎撃機」は敵爆撃機が近づいた際、垂直の発射台から打ち上げられ、地上から
レーダーで自動誘導されながら毎秒185mの速度で急上昇する。敵爆撃機が視界に入ったら、
パイロットはすぐさま手動操縦に切り替えてロケット弾を一斉に発射して攻撃する(攻撃に
要する時間はわずか2分だった)。その後、滑空しながら降下し、パイロットは機体から
パラシュートで脱出、分離したロケットエンジンを含む機体後部もパラシュートで
無事に回収(再利用)され、他は使い捨てという思い切った運用法だった。

 

「Ba349」の粗末で小さすぎる主翼は、翼というよりは安定翼で、”飛行”というには程遠い代物だった。そのため「Ba349」は迎撃機というよりは「有人ロケット」というべき兵器だったが、防空範囲のあまりの狭さから、別名「有人対空砲」とも呼ばれていた。

 

 ※『第二次世界大戦 奇想天外兵器』渓由葵夫著(新紀元社)より

 

この一撃離脱の半使い捨て兵器は、SS(ナチス親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーの命令で設立された「バッヘム社」の工場で極秘に開発された。開発費はSSの予算から出て、パイロットはSS隊員から訓練されることになっていた。

1944年10月に初号機が完成し、同年12月に無人発射に成功。翌年3月には有人発射テストを行ったが、失敗してパイロットは死亡した。それでもヒムラーの命令で開発は継続され、敗戦までに数十機が完成し、少数が配備された。(最終的にSSに150機、空軍に50機が配備される予定だった)。

だが出撃寸前に連合軍の手により押さえられ、同時に工場も占拠されてしまい、実戦に参加することはなかったと言われている(諸説あり)。

 


(左)SS長官ハインリヒ・ヒムラー
(右)イギリス軍に接収された「Ba349」

この兵器の開発は超スピードで行われ、設計完了
から2ヶ月で生産開始、3ヶ月で飛行テストが行われた。

※「Ba349」はあまりにも特殊な運用形態だったため、
空軍内部でも反対意見が多かったが、ヒムラーは当初から
この兵器に大きな関心を示していて、敗戦直前まで
この兵器の開発計画を強力に推し進めた。

 

ところで、ドイツの秘密兵器に詳しいアメリカの科学者ブライアン・フォードによれば、終戦期に「Ba349」を日本に売るという極秘計画があり、日本はドイツの許可を得て「Ba349」を製作しようとしていたとのこと。

 


(左)ブライアン・フォード
(右)彼の著書『ドイツ秘密兵器』



↑ちなみにこれは、もし「Ba349」の
量産が実現し、各国で部隊配備されていたら…の
“WHAT-IF” バージョン(1/72スケールモデル)

 

※ これに似たような話は「Me163」「Me262」にもあったが、こちらの極秘計画は実際に実行され、日本版の最新鋭戦闘機(秋水と橘花)が作られたことは広く知られている↓

 


(左)日本初のロケット戦闘機「秋水」(右)1/48スケールモデル
(三菱航空機(現三菱重工業)が開発・製造した)



(左)日本初のジェット戦闘機「橘花」(右)1/48スケールモデル
(エンジンは海軍航空技術廠、機体は中島飛行機が開発・製造した)

※ ドイツから供与された「Me163」と「Me262」の設計資料は、
ごくごく限られたものであった上、独自に設計しなければならない部分も多く、
当然、各種装備品や武装などは日本の国産品を使っていた。したがって「秋水」と
「橘花」の2つの日本版戦闘機は単なるコピーではなく、ドイツのオリジナル戦闘機
とは異なる部分が多かったのである。(「秋水」と「橘花」はB-29迎撃の切り
 札として大きな期待を寄せられたが、実戦に参加することなく終戦を迎えた)。

 

 


 

■■第5章:幻のVTOL(垂直離着陸)機〈1〉


●ところで同じ時期、連合軍の戦略爆撃機によりドイツ本土が連日空襲を受ける中、

「ハインケル社」は滑走路が不要のVTOL(垂直離着陸)機を独自に研究し、「ヴェスぺ」「ラーチェ」(レルヒェ)と呼ばれる2種類のVTOL機の設計を行っていた。

これらは強力な30ミリ機関砲2門を装備し、連合軍の大型爆撃機に対する迎撃を主任務としていた。

 


(左)VTOL(垂直離着陸)機 ハインケル「ヴェスぺ」(右)1/72スケールモデル

この機体は全長6.2mのVTOL機で、胴体中央に6翅プロペラのダクテッドファンを配置、
ファン周囲の円環を逆ガル型の主翼と垂直安定板で支えるような形式が採られていた。尾部に装着
した尾輪付きの尾翼はY字型に配置され、着陸時の降着装置も兼ねていた。エンジンはハインケル製
S21ターボプロップ(2000馬力)を搭載し、エンジンの排気を利用してさらに高速が出せる
とされていた。ちなみにヴェスペ(Wespe)はドイツ語で「スズメバチ」の意味である。



(左)上と同じ時期に設計されたハインケル「ラーチェ」(右)1/33スケールモデル(紙模型)

この機体は「ヴェスぺ」の姉妹機で、パイロットは「ヴェスぺ」と同様に機首先端部に伏臥位(腹ばい)
の姿勢で搭乗する仕様だった。機体のサイズは「ヴェスぺ」よりひと回り大きい全長9.4mで、胴体中央に
レシプロエンジン(2000馬力)を向かい合わせに2基配置し、前後のエンジン出力により速度を調整する
という方式が採られていた。また各々のエンジンに装着された3翅プロペラ2基を互いに反対方向に回転させ、
ジャイロ効果で安定性を高めていた。この機体は「ハインケル社」の高名なジークフリート・ギュンターの
グループが手がけたもので、「軽戦闘機」「重戦闘機」「地上襲撃機」と3タイプの機体を製作する
予定だったという。ちなみにラーチェ(Lerche)はドイツ語で「ヒバリ」の意味である。

 

●これらのVTOL機は、狭い空き地などを利用して垂直に離陸し、空中で水平飛行に移り敵機を迎撃するという異色の飛行コンセプトだった。森の中や谷あいなど、離着陸の場所を選ぶことなく飛び出せる神出鬼没の迎撃機で、重要拠点防衛のための待ち伏せ攻撃も可能だった。

また、作戦行動に従事しない時は、回転翼を外して大型トラックや牽引台車にのせて簡単に移動可能で、敵に発射場を悟られないという意味では、大戦末期のドイツの国情に合った“一発逆転兵器”であった。

 


(左)「ヴェスぺ」と「ラーチェ」の比較図 (右)離陸から着陸までの飛行イメージ図

このVTOL(垂直離着陸)機は、地上では「テールシッター」と呼ばれる尾部を下にして
垂直に立った状態で駐機し、離陸時はエンジンのパワーで垂直に上昇し、水平飛行に移行する。
帰還時は姿勢を制御して、尾翼から垂直に着陸するという構想だった。しかし、着陸の際は
後方視界がほとんどないため、地面までの距離が分かりにくいという欠点があった。

 

 


 

■■第6章:幻のVTOL(垂直離着陸)機〈2〉


前章で紹介した「ハインケル社」のVTOL機はペーパープランで終わってしまったが、ライバルだった「フォッケウルフ社」も似たようなコンセプトのVTOL機を研究しており、「トリープフリューゲル」と呼ばれる機体の設計を行っていた。

この機体の名前は「回転式駆動翼」という意味で、胴体を軸として回転する3枚の主翼の先端にラムジェット・エンジンを装着し、ラムジェットの力で主翼にプロペラの役目をさせてしまおうという大胆な発想で設計されていた。

 


(左)フォッケウルフ「トリープフリューゲル」(右)1/48スケールモデル

この機体は全長9.15mのVTOL機で、胴体側にエンジンを配置しないことによって
トルクリアクション対策が不要という独創的な方式を採用していた。パイロットは機首先端の
コックピットに搭乗(着座)し、コックピットの左右には20ミリ機関砲と30ミリ機関砲が各々
2門ずつ装備されていた。降着装置は尾翼端と胴体尾端にそれぞれ開閉式の成型カバーが付いた車輪が
装着された5点式だった。燃料は回転翼が回ることによって生じる遠心力により、回転翼内を通って
翼の先端まで供給される仕組みだった(燃料は石油不足のため粉末石炭を予定していた)。計画
では一定の速度に達すると水平飛行に移行するが、その場合、どのような方法で揚力を維持
する仕組みだったのか不明であり、ラムジェット・エンジンも実用化には程遠かった。

 

●「フォッケウルフ社」は、この斬新な機体で最高時速1000キロを狙っていたが、この機体は「フォッケウルフ社」の完全オリジナルではなく、元々はドイツのオットー・ムンク博士が1938年に発明(特許を申請)した「コレオプター」のアイデアを、航空力学の権威であるクルト・タンク博士が実機に応用したものだった。

※「トリープフリューゲル」の設計は、1944年の段階でほぼ完了していたが、結局「ハインケル社」のVTOL機と同様に、計画だけで実機は製作されずに終了している。

 


(左)「フォッケウルフ社」の主任技師だったクルト・タンク博士
(右)フォッケウルフ「Ta183 フッケバイン」(1/48スケールモデル)

このタンク博士は1931年から1945年まで、ドイツの「フォッケウルフ社」の
設計部門を指揮し、「Fw190」をはじめ、第二次大戦における重要な航空機を設計した。
※ 右のフォッケウルフ「Ta183」は、博士が大戦中に開発していたジェット戦闘機で、
実戦には間に合わなかったが「T字尾翼」を採用するなど先進的な設計で、戦後の
ソ連軍戦闘機「MiG15」に大きな影響を与えたことで知られている。

 

●なお、「フォッケウルフ社」が計画していたVTOL機には、下のような円盤型も存在していた。

 

円盤型の機体の中央部には大きな穴が開いていて、そこに巨大な
プロペラが2基あり、各々逆方向に反転することにより回転トルクを相殺。
浮揚後は、機体下面のルーバーで姿勢制御しながら機体後方に設置された2基の
ジェットノズルからのアフターバーナーにより前進力を得る設計になっていた。
※ 右端の画像は戦後(1950年代中頃)にハインリヒ・フォッケ博士が
ブレーメン工場で製作した1/10スケールの風洞モデルである。

 

●ちなみに、「トリープフリューゲル」の設計資料を押収したアメリカは、戦後これらのデータを参考にコンベア「XFY-1 ポゴ」と、ロッキード「XFV-1 サーモン」というテールシッター型のVTOL実験機を製作し、それぞれ1950年代半ばに初飛行を成功させている。

※ しかし、垂直上昇から水平飛行への転換などに難があり計画は破棄されてしまった。

 


(左)コンベア「XFY-1 ポゴ」(1954年に初飛行)
(右)ロッキード「XFV-1 サーモン」(1955年に初飛行)

 

●戦後のフランスでも国営の「スネクマ社」が「C450 コレオプテール」という名称のVTOL実験機を製作し、1959年に初飛行を成功させているが、こちらもその後のトラブルで計画は中止になっている。

 


(左)スネクマ「C450 コレオプテール」(中)正面図 (右)1/48スケールモデル

※ 結局、これらの実験機は不採用になったが、その後のVTOL開発に大きな功績を残した

 

 


 

■■第7章:先進的なヘリコプター(回転翼機)〈1〉


●現在、広く利用されているヘリコプターは、垂直に離着陸する点ではVTOL(垂直離着陸)機の一種ともみなせるが、巡航状態がまったく異なるのでVTOL機として扱わないのが普通になっている。

このヘリコプターの試みが始まったのは20世紀の初めで、1907年にフランスのポール・コルニュが20秒間(高さ30センチ)の有人飛行に成功していたが、最初に実用化への第一歩を踏み出したのは、ドイツのハインリヒ・フォッケ博士である。

 


(左)「フォッケウルフ社」の設立者の1人であるハインリヒ・フォッケ博士
(右)世界初の実用ヘリコプターであるフォッケウルフ「Fw61」の三面図

 

●1932年から回転翼機の開発に着手していたフォッケ博士は、ナチス政権下のドイツでフォッケウルフ「Fw61」を開発。このヘリコプターは1936年に世界で初めて自由飛行に成功した。

 


(左)1936年に世界初の完全なる回転翼飛行に成功したフォッケウルフ「Fw61」
(右)飛行の様子を見に来たヒトラーと会話するハインリヒ・フォッケ博士

この機体は練習機であるフォッケウルフ「Fw44」の胴体を流用して
作られたサイド・バイ・サイド・ローター形式のヘリコプターである。機首に
搭載した1基のエンジンが、左右の直径7mのローター2基を駆動する仕組みで
(機首に付いているプロペラはエンジン冷却用のもので推進用ではない)、この機体は
航続時間1時間20分、航続距離230km、最高時速122キロを記録した。
※「Fw61」はあくまでも試験機でしかなく2機しか生産されなかった。



(左)1937年にヘリコプターとしての初のオートローテーション着陸に成功した「Fw61」
(中)ベルリンの運動競技場でハンナ・ライチュが成功させた「Fw61」の屋内飛行の様子
(右)彼女が書いた本『私は大空に生きる ~鉄十字章に輝く女性パイロットの手記~』

ヒトラーお気に入りのテストパイロットだったハンナ・ライチュは、女性初の
ジェット戦闘機、ロケット戦闘機、ヘリコプターの搭乗者として知られている。彼女の
卓抜した飛行技能は、ナチ党の格好の宣伝(プロパガンダ)に利用された。1944年には
ヒトラーよりドイツ人女性唯一の「一級鉄十字章」を受章。戦後は高度飛行記録を含む数々の
女性世界記録を塗り替え、「第1回世界ヘリコプター大会」の女性部門で1位に輝いた。

 

●その後、フォッケ博士はヘリコプター製作のために創設した新会社「フォッケ・アハゲリス社」にて、フォッケウルフ「Fw61」の拡大版である大型ヘリコプター「Fa223 ドラッヘ」を開発している。

 


(左)フォッケ・アハゲリス「Fa223 ドラッヘ」(右)1/48スケールモデル

フォッケウルフ「Fw61」を6人乗りに拡大した機体で、第二次大戦中に登場した最大の
ヘリコプターである。また、世界で最初に量産されたヘリコプターでもある。1939年末に
ルフトハンザ航空向けのヘリコプターとして試作機「Fa226」が完成。これが成功していれば
世界初の民間ヘリコプターとなったが、第二次大戦のために軍用機に変身する事となり、その軍用型
が「Fa223」の名で作られた。1940年に初飛行に成功し、小型車両を懸吊輸送できるほどの
大馬力を有していたが、連合軍の爆撃による工場の大破などから生産作業は遅滞し、完成したのは
10~20機ほどで、輸送、救難などにほんの少し使用されただけだった。戦後この機体を接収
したイギリス軍が性能評価のためにイギリス本土への飛行を行い、これがヘリコプターによる
世界初のドーバー海峡横断飛行となった。また、戦後のアメリカでもこの機体は徹底的に
テストされ、高い評価を得ている。特にこの機体のローターシステムは戦後のソ連の
大型ヘリ開発に多大な影響を与えたと言われている。なお、フランスでは戦後に
「シュド・ウエスト社」がフォッケ博士の助力を得て、「Fa223」の
発展型である「SE-3000」を製造している。ちなみに愛称の
ドラッヘ(Drache)はドイツ語で「竜」の意味である。

 

 


 

■■第8章:先進的なヘリコプター(回転翼機)〈2〉


●前章で紹介したフォッケ博士のヘリコプター以外にも、ナチス・ドイツでは様々なタイプの先進的なヘリコプターが研究開発され、世界の一歩先を行っていた。

 


(左)フレットナー「FL282 コリブリ」(右)1/35スケールモデル

「フレットナー社」の設立者アントン・フレットナー博士によって、1939年に
開発され、世界で最初に実戦投入された交差反転式ローターヘリコプターである。
1941年に初飛行して、「Fw61」より優れた飛行性能を示したが、徹底的な
軽量化のせいで運動性は多少損なわれた。1943年までに24機が生産され、
そのうちの20機がドイツ海軍により、地中海とエーゲ海での船団護衛任務
のため使用された。運用実績は極めて良好で、海軍は「フレットナー社」
と「BMW社」で1000機の量産を行うよう発注したが、連合軍の
爆撃により工場が破壊され、量産機完成は実現することなく
終わった。ちなみに愛称のコリブリ(Kolibri)は
ドイツ語で「ハチドリ」の意味である。



(左)ドブルホフ「WNF342」(右)1/48スケールモデル

「ウィーナー・ノイシュタット社」のフリードリッヒ・フォン・ドブルホフ博士が開発した
ヘリコプターで、チップジェット(翼端噴流)方式としては1943年に世界初の飛行に成功
した。離着時にはエンジンによって空気圧縮器を駆動し、圧縮空気と燃料を混合したガスを
ローター先端に導いた後、点火してローターを回転させ、浮揚後は推進式プロペラ駆動に
切り替えて、ローターはフリ一回転とする方式だった。小型艦船や潜水艦用の観測
(偵察)機として開発され、試作機が4機完成した時点で敗戦となった。



上の機体の回転翼の先端に装備された噴射口

※ ドイツでは戦前からヘリコプターの研究・試作が行われていて、
この分野でも世界をリードしていた。ドイツが敗北した時に、残存していた
「Fa223」と「FL282」は連合国の航空関係者にとって大きな関心をひき、
実機や設計資料などの没収後、これらを本国に持ち運んでヘリコプター開発の
貴重なベース資料とした。その意味で今日のヘリコプターの目覚ましい
発展は「ドイツの技術遺産」を抜きにして語れないだろう。

 

●また、ナチス・ドイツでは下のような一風変わったヘリコプターも開発されていた。

 

↑オーストリアの技術者パウル・バウムゲートルが1941年に開発した
「ヘリオフライ」という名の背負い式ヘリコプターである。8馬力の小型
エンジンに2翔ローターが取り付けてあり、これを背負うことよって
人間1人を浮揚させる、いわゆるワンマン・ヘリコプターだった。
ドイツ空軍のテストを受けた後、16馬力のエンジンを搭載
した改良型である「ヘリオフライIII」が作られた。

 

─ 完 ─

 



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