No.b1fha650

作成 2001.5

 

ナチス・ドイツの「超兵器」

 

~多種多様な秘密兵器を開発していたナチス第三帝国~

 

時代を先取る革新的な兵器から、計画倒れに
終わった珍兵器まで、様々な情報を集めてみました

 
第1章
報復兵器「Vシリーズ」〈1〉
第2章
報復兵器「Vシリーズ」〈2〉
第3章
超巨大な80センチ列車砲
第4章
28センチ列車砲と
60センチ自走臼砲
第5章
ロケット兵器(誘導弾)〈1〉
第6章
ロケット兵器(誘導弾)〈2〉
第7章
Uボート(潜水艦)の特殊兵器
第8章
「大型ロケット計画」と幻に終わった
「アメリカ本土爆撃計画」
第9章
奇妙で風変わりな兵器
第10章
「殺人光線」の謎

追加
幻に終わった「巨大戦車」の開発

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■■第1章:報復兵器「Vシリーズ」〈1〉


●第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの科学技術力は圧倒的だった。

当時、軍需大臣に昇進していたアルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「1944年の段階では、ジェット戦闘機Me262だけが奇跡の兵器ではなかった。リモコンで飛ぶ爆弾、ジェット機よりも速いロケット戦闘機、熱線により敵機に命中するロケット弾、ジグザグコースで逃げていく船の音を探知し追跡・命中させる魚雷を我々は持っていた。地対空ロケットの開発も終わっていた。リピッシュ博士は、無尾翼の原理によって設計された戦闘機を開発していた。それは当時の飛行機製造の標準を遥かに超えたものであった。」

 


アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●アメリカもイギリスも、通信とレーダーを除くほとんどすべての戦争関連技術においてドイツの技術が連合国のそれを上回っているという認識を持っていた。

武器技術におけるドイツ側の優越は、V2ロケットがイギリスに落とされるようになっていよいよ明らかになっていった。

イギリス人をどん底に叩き込んだV2ロケットは、約1トンの爆薬を弾頭につけ、マッハ4の超音速で飛び、自動制御装置で誘導されるミサイル兵器で、当時の世界にはこれに対する防御手段は全くなかった。

※ このV2の本来の名称は「A4」であったが、ナチの幹部は「A4」を勝手にV2と命名した。「V」はドイツ語の「報復兵器=Vergeltungswaffe」の頭文字である。

 


ナチス・ドイツが開発したV2ロケット(別名「A4」)

敗戦までに約6000発が生産され、3000発以上が実戦で発射された



(左)V2ロケットは野戦兵器として開発され、
「移動用トレーラー」から発射することも可能だった。
(右)射程を延ばすため後退翼を付けた「A4」=「A4b(A9)」

 

●このV2号より先にイギリス(ロンドン)を襲ったのは、同じ報復兵器であるV1号だった。

V1号は小型機の背中後部に筒状のエンジンを載せたもので、パルス・ジェットという特殊なエンジンだった。非誘導の単なる簡易飛行弾(半木製)で、安価で量産可能だった。

V1号は凄まじい騒音を発して飛ぶので、「バズ・ボム」とも呼ばれたが、落下する際は騒音は停止し、誘導装置も外れて、地上のどこに落ちてくるか分からず、市民に与える恐怖感を増大させた。しかし、スピードが時速600キロと遅く、対空砲や戦闘機でも迎撃可能だったため、多数のV1号は撃墜されたり機能不全で墜落が続出した。

V2号の開発は陸軍が担当したが、V1号空軍が開発した。V1号は現在の「巡航ミサイル」の先駆である。

 



背中後部に筒状のエンジンを載せた報復兵器V1号

この報復兵器V1号は簡素な無人機で、当時は「飛行爆弾」と呼ばれたが、現在の
巡航ミサイルの元祖である。凄まじい騒音を発して飛ぶので「バズ・ボム」とも呼ばれた。
機体は「フィーゼラー社」で製作され、ドイツ空軍の制式名は「フィーゼラーFi103」だった。

 

 


 

■■第2章:報復兵器「Vシリーズ」〈2〉


●これらの報復兵器の他に、連続発火で砲弾を加速させる「ムカデ砲」(高圧ポンプ砲)もあったが、この長距離ロケット砲は報復兵器V3号と呼ばれていた。

このV3号は、全長150mという非常に長い砲身に数mごとに枝が付いていて、ちょうど魚の骨のような格好をしていた。これらの枝のパイプ(薬室)には、それぞれ爆薬が詰めてあり、ロケット弾が発射されると、次々に爆発して弾丸のスピードをつけていくという仕掛けであった。この増速装置により、発射初速は毎秒1500mというものすごいスピードが出た。

まさに“スーパーガン”である。

 


V3号の名で知られる長距離ロケット砲「ホッホドルックプンペ」
(別名は「タウゼントフスラー(ムカデ)砲」)

↑ロケット弾が通過していく直後に、個々の
薬室(2個1組)に電気点火されるよう設計されていた。

ロケット弾には小さな翼が装着してあり、弾道の安定性が考慮
されていた。ヒトラーはこの射程150kmに達する高圧砲に大きな
期待を寄せ、ドイツ軍の占領下のフランスに「秘密基地」を築き、
ロンドン砲撃による“報復”を果たそうとしたのである。



「ヒラースレーベン実験場」に設置されたV3号の実験高圧砲

※「ヒラースレーベン実験場」はドイツ国内に作られた陸軍の広大な
兵器実験場である(敷地の全長=32km)。ここでV3号の考案者である
「シュタールベルケ社」のコンダー博士の指導のもと、極秘にV3号の射撃テスト
が行われた。ちなみにV3号の側部薬室の取り付け角度は、砲身と垂直
になったものもあり、いくつかのバリエーションが存在した。

 

V3号実戦配備場所については、1943年夏、ヒトラーの特別命令により極秘調査が行われた結果、占領下のフランスの英仏海峡沿いのブローニュとカレーの中間地点にある「ミモイエークの丘」一帯が選ばれた。

同地はロンドンの中心部まで152キロの地点である。

そして西基地・東基地の2つからなる巨大な地下発射場の建設が「プラン51」という秘匿名のもと、軍事施設建設を専門とする「トート機関」の手により開始された。

 


V3号の「地下発射基地」の位置と射程範囲

占領下のフランス北西部の「ミモイエークの丘」に建設された
V3号の発射基地は、ロンドンまでを射程に収めていたのである



V3号の「地下発射基地」の見取り図

V3号の高圧砲は傾斜角55度で斜面(砲床にあたる)に固定
されており、5門を1セットとして10基、計50門の建設が行われた。

「ミモイエークの丘」の頂上の開口部周囲には厚さ5.5mもあるコンクリートの
巨大な掩蓋(えんがい)が設置され、砲口部は「開閉扉」で巧妙に隠されていた。
基地内には通路(トンネル)が縦横に走り、弾火薬運搬用の「軽便鉄道線」が
敷かれるなど、非常に大規模な秘密の「地下発射基地」だったのである。

※ 第二次世界大戦中、ドイツ軍はここに5000名以上の技術者と、
熟練鉱夫を含む430名の鉱業専門家、さらに多数の労働者と
数千トンの鋼鉄および特殊資材を投入していたという。

※『歴史群像アーカイブ Vol.1』(学研)より

 

●この「地下発射基地」の完成度は、あと3ヶ月ほどで稼働可能となる状態だった。

しかし、この大規模工事はフランスのレジスタンス組織からイギリスへ通報され、イギリス空軍によって爆撃・破壊されてしまった。

結局、V3号はロンドンに向けて火を噴くことなく、工事部隊は全ての記録を焼却してドイツ本国撤退していったのである。

 


V3号の「地下発射基地」の砲口部

この基地の砲口部は「開閉扉」で隠され、
発射時以外は露出しないように設計されていた

 

●当時、イギリス軍の調査委員会によって作成されたV3号に関する報告書を読んだチャーチル首相は、「V1号V2号に気を取られ、このようなロンドンに対する未知の攻撃計画があったことは危険極まりないことである」と述べて、V3号の発射場の徹底的な破壊を命令した。

こうして「ミモイエークの丘」にあった「地下発射基地」はイギリス工兵隊の手により二度にわたって爆破されたのである。

 


イギリスのウィンストン・チャーチル首相

ヒトラーの報復兵器V3号の存在は、チャーチル首相の胆を冷やした

 

●もしV3号が爆撃・破壊されず、フルに稼働していたら、ロンドン手痛い打撃を受けていたといわれている。

戦後、イギリスではV3号の攻撃力について次のように分析されている。

「理論上、V3号の高圧砲は10分ごとに一斉射撃を行うが、1500発を発射するのに10時間もかかり、1万5000発では100時間を必要とする。V3号一発の威力V2ロケットに劣っており、V3号の破壊力では、ヒトラーが期待したロンドンの大規模破壊はできなかったと推定される。

しかし、V3号砲撃照準精度高く、ロンドンのバッキンガム宮殿、議会、官邸など重要施設を個別に狙うことが可能であり、それを考慮すればV2ロケットよりも厄介で危険な兵器になったであろう」

 

 


 

■■第3章:超巨大な80センチ列車砲


●第一次世界大戦でのドイツ軍の「パリ砲」は有名だが、第二次世界大戦中にドイツ軍は、パリ砲を超える列車砲を開発した。

史上最大の火砲「ドーラ砲」である。

この「ドーラ砲」は超巨大な列車砲で、ドラム缶大の砲弾をぶっ放したが、この超巨大砲を使うには、少将以下、1420名の兵士が必要だった。

※ 防衛・整備などの支援には、さらに4000名以上の兵士と技術者が必要とされ、砲の移動は専用のディーゼル機関車2両を使用し、長距離の移動の際には分解されて運ばれた。その巨大さゆえに運用には多大な時間がかかり、実際の砲撃に先立つ整地、レールの敷設、砲の移動、組み立てなどに数週間を要したという。

 


1000トン以上の重さの超巨大な列車砲「ドーラ」。口径80センチの巨砲で、
連合軍は「ビッグ・ベルタ」と呼んだ。砲身の長さは27mもあり、
最大射程距離は約50kmに達した。



「ドーラ砲」の砲弾は他と比較しても圧倒的にでかい

 

●この怪物のような列車砲は、1942年6月、クリミア半島のセヴァストポリ要塞攻囲戦に用いられ、直径80センチの巨弾は、地下30mに設けられていた弾火薬庫まで貫徹して大爆発を起こし、ソ連軍を降伏させた。


●ちなみに「ドーラ」という名称は、2両造られた「80センチ列車砲」の2号車に付けられた愛称であり、主任設計者エーリヒ・ミューラーの妻の名前ドーラに由来する。なぜ本人ではなく妻の名前になったのかというと、エーリヒ・ミューラー本人曰く「うちの女房の怒鳴り声と同じくらいの轟音が出るから」とのこと。

※ この2号車よりも1年早く製造された1号車の愛称は、「クルップ社」のグスタフ・クルップ会長の名を取って「グスタフ」と呼ばれていた。また、計画では3号車も製造される予定だったが、未完成で終わっている。

 


80センチ列車砲「ドーラ」(1/72スケールモデル)

 

●この80センチ列車砲の他にも、28センチ列車砲や、自走砲としては破格の大口径砲を装備した60センチ自走臼砲「カール」など、ケタ外れの巨砲を揃えてドイツ軍は第二次世界大戦を戦ったのだった(次章で詳しく紹介)。

 


(左)28センチ列車砲「レオポルド」(1/72スケールモデル)
(右)60センチ自走臼砲「カール」(1/72スケールモデル)

※ 臼砲(きゅうほう)とは、砲弾を大仰角(上向きに大きな角度)で発射し、
山なりの弾道で砲弾を浴びせる大砲の一種である(弾の速度が遅いので、射程を
かせぐために砲身に大きな角度をつけて撃つ必要があった)。臼砲は大砲の中でも古い
歴史をもち、攻城砲として城郭や要塞など防御の高い施設などの破壊に用いられた。
しかし第二次世界大戦後は、航空機が発達し、またミサイルなどの兵器が主流
となったため、臼砲は価値を失い、使用されることはなくなった。

 

 


 

■■第4章:28センチ列車砲と60センチ自走臼砲


●第二次世界大戦でドイツ軍ほど列車砲を多数運用し、実戦で使用した国はなかった。小は15センチから大は80センチまで、フランスからの鹵獲車両を含めると合計90両近くを使用していた。

その中でも28センチ列車砲(別名「クルップK5」)は最も多く生産された列車砲で、第二次世界大戦中で最も優秀な列車砲の1つと評価されている。

 


28センチ列車砲 2両セット(1/144スケールモデル)

※ この列車砲はパリ砲やドーラ砲などを製造した「クルップ社」に
よって開発され、1934年から1945年までに25両が生産された

 

●1944年の連合軍のアンツィオ上陸作戦では、「レオポルド」「ロベルト」と命名された2両がイタリアに配備され、連合軍が築いた橋頭堡を数発の砲撃で壊滅状態に追い込み、連合軍を震撼させた。2両の列車砲は普段はトンネルの中に隠されていて、砲撃する時だけ出てくるため、偵察や空爆によって対処することが難しく、連合軍の手を焼かせた。

アメリカ軍兵士たちは「アンツィオ・アニー」(「アニー」は射撃の名手の意味)または「アンツィオ・エクスプレス」と呼んで、その砲撃を恐れたという。

しかし戦局の悪化によって補給が途絶え、線路が破壊されたことで撤退不能となった28センチ列車砲は、自爆放棄された状態で連合軍に発見された。その後、捕獲回収された2両の列車砲はアメリカ国内に輸送され、2両を組み合わせて復元された1両が「レオポルド」として現在も「アメリカ陸軍兵器博物館」に展示されている。



●ところで、前章で紹介した60センチ自走臼砲「カール」という名称は、開発に携わったカール・ベッカー将軍の名前に由来するが、将軍自身もこの巨砲のようにずんぐりした体型だったことから名付けられたという。

「カール」は前述のセヴァストポリ要塞攻囲戦にて、80センチ列車砲とともに用いられて恐るべき破壊力を発揮した。また1944年のワルシャワ蜂起の際にも実戦投入された。

 


カール・ベッカー将軍

「陸軍兵器局」の研究部長としてロケット兵器
の開発や、60センチ自走臼砲の開発に携わった。
フンボルト大学の軍事学名誉教授(工学博士)であり、
「ペーネミュンデ陸軍実験場」の設立者の一人でもある。
1938年に「陸軍兵器局」の局長に就任。1940年
に弾薬供給不足の責任を問われて、自殺してしまう。
(ベッカー将軍の葬儀は国葬として営まれた)。

 

この60センチ自走臼砲「カール」は、車両本体に砲弾を収納するスペースがないので、運用時にはクレーンを装備した「弾薬運搬車」から砲弾の供給を受けて射撃を行った。また「カール」の運用には指揮官と砲員18名、正副操縦手2名の計21名が付き、専用の「弾薬運搬車」数両が随伴した。

※ 長距離を移動する場合(貨車輸送時)は、専用の鋼製懸架アングルで2両の貨車の間に吊り下げられ、砲撃位置で降ろされた後、短距離を自走した。

 


(左)60センチ自走臼砲(きゅうほう)「カール」の1号車
(右)「4号戦車」をベースに改造された「4号弾薬運搬車」


巨大な砲弾を高角度で打ち出す「臼砲」と呼ばれる大砲
(右端の画像は、砲身内に施された螺旋状の溝=ライフリング)

砲身は最大70度の仰角を取ることができた(旋回角は左右4度)。
臼砲としては極端に短い砲身を使用したため、最大射程は約4.3kmと
極めて短かったが、重量約2トンの砲弾は厚さ2.5mのコンクリート壁を
貫通できる威力があったという(発射速度は1時間に6発であった)。
後に射程を延長した長砲身の砲口径54センチの臼砲が登場した。
(2種類の砲身は同じ車体で必要に応じて交換可能だった)。


車両重量が120トンを越えるため、時速10キロ程度でしか移動ができず、
運用と操作がかなり厄介な兵器であったが、独ソ戦の「セヴァストポリの戦い」
においてその威力を発揮した。試作型と量産型の計7両が製造され、それぞれに
「バンドル」「ヴォータン」「オーディン」「トール」「ロキ」「ツィウ」
「フェンリル」という「北欧神話」に基づく愛称が付けられた。
転輪は当初8輪だったものが3号車からは11輪へと
増やされるなど、改良も続けられた。

 

 


 

■■第5章:ロケット兵器(誘導弾)〈1〉


●ナチス・ドイツではV2ロケットをもとに、多数のロケット兵器(“ミサイル”は戦後の英米の呼称)が設計された。

これらのロケット兵器のために各種の誘導装置が研究され、その中には進歩した音響誘導とか、赤外線反応装置なども含まれていた。

 


(左)ナチスが開発した弾道追跡用のパラボラアンテナ
(右)無線を利用したナチスのミサイル・システムの図

 

「ヘンシェルHs293」は、空対地(艦)の誘導弾(グライダー爆弾)で、遠隔操縦によって1943年8月、イギリス海軍のスループ艦「イーグレット」を一瞬にして撃沈して最初の戦果をあげた。

※ ちなみに翌月(1943年9月)、イタリア海軍の誇る最新鋭艦「ローマ」をたった一発で沈めたのは、対艦船用誘導弾「フリッツX」である。念のため。

 


空対地(艦)の誘導弾「ヘンシェルHs293」

無線操縦装置が装備され、母機の誘導員が尾翼の炎を見ながら
目視で無線操縦によりターゲットへ突入するように誘導した。
「フリッツX」とともに最も使用された誘導弾だった。

 

●この「ヘンシェルHs293」の設計から発展したのが、「ヘンシェルHs117シュメッターリンク」という飛行機型の地対空ロケット誘導弾(ミサイル)である。

発射速度増加のため4つのブースター・ロケットがついていたが、この兵器は実戦には使用されなかった。

 


地対空ミサイル「ヘンシェルHs117シュメッターリンク」

4つのブースター・ロケットがついており、約150発が製造された。
全長約4m。時速828キロで飛翔し、目標までは無線誘導された。
実戦には使用されなかったが、各種の実験に供された。

 

「ライントホターR1」は2段式の地対空ミサイルで、方向のコントロールはレーダー・ステーションから無線で遠隔操縦された。

 


2段式の地対空ミサイル「ライントホターR1」

「ラインメタル社」が1942年末から開発を行った固体燃料のミサイル。
全長10.3mの胴体に100キロの炸薬を搭載し、2段階のブースターの
燃焼によってマッハ5まで加速。広く使用された88ミリ高射砲の
砲架を利用して発射台が作られ、無線で遠隔操縦された。

 

●また、「ヘンシェルHs298」というミサイルは空対空ミサイルで、戦闘機のコントロール・システムによって無線誘導されるミサイルだったが、実戦で使用される前に戦争が終わってしまった。

 


無線誘導の空対空ミサイル「ヘンシェルHs298」

このミサイルは母機から発射された後、目標まで無線誘導された。
飛行中の姿勢制御は「ジャイロ」によって行われ、目標に接近
すると「Kakadu」と呼ばれる電磁波式の接近信管が作動
して搭載した炸薬が爆発するようになっていた。

 

「ヴァッサーファル」あるいは「C2」と呼ばれたミサイルは地対空ミサイルで、あらゆる点でV2ロケットを小型にしたものだったが、胴体の中央部にも4枚の安定板をつけていた。

このミサイルは赤外線誘導装置を持ち、完全な自動誘導システムのものだった。

このミサイルは、戦後のアメリカの「ナイキ・エージャックス」をすら性能的に凌いでいて、第二次大戦中、このミサイルの存在はナチスのミサイル・シリーズの中で最高機密にされていたという。

 



V2ロケットの縮小版のような地対空ミサイル「ヴァッサーファル」

赤外線誘導装置を持ち、完全な自動誘導システムのものだった。
実戦では使用されなかったが、1945年2月26日までに全部で
50発が生産され、35発が実験用に発射されたという。


(左)「ヴァッサーファル」の誘導原理 (右)ビーム・ライダー誘導方式 

ナチスが開発した地対空ミサイルのうち「ヴァッサーファル」は、戦後の
ミサイル誘導方式の原型ともいえるものを採用していたが、このミサイルの
ために考案された誘導システムには、現用のビーム・ライダー誘導方式
の原型ともいえる「Kruck」と呼ばれる方式もあったという。

※『大図解・ドイツ軍兵器&戦闘マニュアル』
 坂本明著(グリーンアロー出版社)より

 

 


 

■■第6章:ロケット兵器(誘導弾)〈2〉


●ナチス・ドイツではミサイルの先端に「TVカメラ」を搭載して、カメラ映像によって攻撃目標を映し出す実験も行われていた。

※ この実験は1943年秋、バルト海南岸のシュタガードで行われ成功している。この「テレビジョン誘導装置」を付けたミサイルはその後改良を重ね量産されたが、母機となる航空機不足のため、実戦では使用されることはなかった。

 

ナチスは1935年3月に、世界最初の一般向けの定時テレビ放送を始めて
おり、ナチスのテレビ技術はかなりのレベルまで達していた。その技術を
ミサイルの「眼」に応用したのが左の小型装置(TVカメラ)である。

右はその「TVカメラ」を先端部分に搭載したミサイルで、発射後に
送られる映像を見ながら母機のコントローラーで無線誘導した。
実験には成功していたが、実戦で使用されることはなかった。

 

●ところで、世界初の実用ジェット戦闘機「Me262」の主力兵装として開発されたのが、マックス・クラマー博士考案の空対空ミサイル「ルールシュタール X-4」である。

動力は小型の液体ロケット・エンジンで、4枚の安定翼と操縦翼を持ち、2本のケーブルで誘導するという先進的な兵器だった。

敗戦までに約1300発が製造されたが、ロケット・エンジンの生産が空襲で途絶したことなどから、一度も実戦では用いられなかった。

 


有線誘導の空対空ミサイル
「ルールシュタール X-4」

この先進的なミサイルは、1943年に開発が
開始された。最高時速1120キロで飛び、発射母機
からの有線誘導により標的をとらえることが可能だった。
約1300発が製造されたが、実戦では使用されなかった。
(ジェット戦闘機「Me262」の主力兵装になる予定だった)。

 

●この「X-4」の代わりに、ジェット戦闘機「Me262」が敗戦までの約1ヶ月間使用し、大きな戦果を収めたのが「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた小型ロケット弾「R4M」である。

※ この「R4M」は元々、ヒトラーの「空での戦い自体は第一次世界大戦の時代と同様、機銃で互いに撃ち合う方法から全く進歩がない!」との意見がきっかけとなって開発されたと言われている。

 


(左)世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」。
時速800キロ以上のスピードとその上昇能力によって、当時のどんな航空機
より遥かに優れていた(連合国側の主力戦闘機より150キロ以上も速かった)。
(右)主翼下面に装着された小型ロケット弾「R4M」(片側12発ずつ計24発)。
発射後、一定時間後に爆発を起こすので、直撃しなくても周囲に被害を与える
ことが可能だった(遠距離から大型爆撃機をやすやすと撃墜できた)。


「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた「R4M」の弾幕↑
※『ドイツのジェット/ロケット機』野原茂著(光人社)より

ランチャーを介して両主翼下に装備された計24発の「R4M」は
それぞれ微妙に角度を変えて取り付けられており、一斉発射した後、
目標全体を包み込むようにして撃墜できる画期的な兵器だった。

「R4M」の最大射程は1.5kmで、一説では敗戦までに
約1万2000発が製造されて、約2500発が
実戦で使用されたといわれている。


※「R4M」は「R」がドイツ語でロケット弾を意味し、「4」は
総重量4kgを、「M」はドイツ語で炸薬(炸裂)弾頭を意味している。
「R4M」は直径55ミリの空対空用の通常弾頭と、対戦車用の大型の弾頭の
2種類の弾頭が使用可能だった。「R4M」の本体は簡単な金属製の管で、
発射後に尾部の折り畳み式フィン(合計8枚)が瞬時に開いて弾道を
安定させて、毎秒530mの速度で目標めがけて突進した。

一斉発射の際は、隣のフィン同士が接触しないよう
 0.07秒ずらして連続的に発射された。



(左)ドイツ空軍のアドルフ・ガーランド中将
(右)『第44戦闘団 ザ・ガランド・サーカス』

ドイツ空軍のエースパイロットだったガーランド中将が
率いた最後の精鋭部隊「第44戦闘団」の「Me262」が
敗戦までに記録した約50機の撃墜戦果の大半は、この
「R4M」によるものだったといわれている。

 

●元アメリカ陸軍少将レスリー・サイモンは、著書『第三帝国の秘密兵器』の中で、ドイツが開発していたロケット兵器、ジェット戦闘機、超音速爆撃機などについて詳細に述べているが、特に彼が感心したのは、この空対空ロケット弾「R4M」であった。

戦争終結1ヶ月前に、ジェット戦闘機「Me262」に付けられたこの「R4M」は、その破壊力の凄さをまざまざと見せつけた。連合国側はわずか1ヶ月のうちに、「R4M」によって撃墜された爆撃機の数を500機としている。

レスリー・サイモンは次のように書いている。

「6機のMe262が、空飛ぶ要塞と呼ばれて迎撃困難な戦略爆撃機B-17Eを14機撃墜した。

もし空対空ロケット弾R4Mがあと数ヶ月使われていたらどのような結果になっていたか、考えるだけでも恐ろしい……」

 


メッサーシュミット「Me262 シュヴァルベ」(1/48スケールモデル)

後退角を備えた主翼や両翼下のエンジンポッドなど先進のスタイルをタミヤ
ならではの精密なパーツ構成でモデル化。機首に装備された30ミリ機関砲4門
(点検パネルは開閉選択式)も精密に再現され、主翼下面の空対空ロケット弾「R4M」
と胴体下面の21センチ空対空ロケット弾「W.Gr21」2門も付属している。
※ 愛称のシュヴァルベ(Schwalbe)はドイツ語で「ツバメ」の意味である。

 

 


 

■■第7章:Uボート(潜水艦)の特殊兵器


●ナチス・ドイツは「ロケット魚雷」や、エンジン音を追尾して敵艦に命中する「ホーミング魚雷」の開発もしていた。また、潜航中のUボート(潜水艦)から「ロケット弾」を打ち出し、沿岸を奇襲攻撃するアイデアもテストされていた。

※「Uボート」はドイツ語の潜水艦の略だが、英語ではドイツ海軍所属の潜水艦を指している。

 


ジグザグに進む探索誘導魚雷。
のちに様々なタイプの音響誘導魚雷が生まれた。



ドイツ軍は水中のUボートからロケット弾を打ち出す実験に成功していた。
右の画像はペーネミュンデ沖の深度12mから発射されたロケット弾である。

 

●また、「ウルセル計画」というのがあったが、これは追跡してくる護衛艦に対してUボートから誘導弾を発射する計画であった。

さらに、「Uボート・V2計画」というのもあった。これはV2ロケットを防水格納筒(コンテナ)に入れてUボートで牽引し、沿岸から都市を攻撃するという計画であった。(この計画は、のちにV2ロケットによるニューヨーク攻撃計画へ発展していった)。

 


(左)Uボートと曳航式V2ロケット発射装置 (右)発射装置の拡大断面図 

V2ロケット(全長約14m)を納めた防水格納筒(コンテナ)は全長約35mで、
内部には発射台、推進剤・酸化剤タンク、制御室、コンテナ起動用のバラスト・タンク
などが用意され、曳航中は内部に2名ないし3名の発射要員が搭乗する設計になっていた。
半没式のコンテナは海に浮かぶ構造で、コンテナ自体には移動用の動力装置は一切なかった。

V2ロケットを発射する際には、まずコンテナのバラスト・タンクに注水して垂直に起動し、
コンテナ先端のノーズ・コーンを開き、V2ロケット本体に推進剤と酸化剤を注入して、
その後に自動操縦装置や誘導装置の調整を行う必要があった(全ての準備が整った後、
母艦から遠隔操作でV2ロケットを発射できる仕組みだった)。1944年末に
ナチス・ドイツ軍は潜水艦で曳航できるこのコンテナを3基製造したが、
実戦で使用される前に、戦争が終わってしまった。

 

●ちなみに、Uボートは多くの最新装備をもっていたが、中でも戦後、連合国側を驚かせたのは「シュノーケル」である。

これはUボートが潜航中にディーゼル・エンジンを動かすための空気を取り入れる装置だが、アイデアも装置そのものも全く単純なものだった。

※「シュノーケル」はドイツの発明品ではなかったが、完全に実用化したのはドイツ海軍である。

当時、潜水艦の最大の欠点は、たびたび浮上して空気を取り入れなければ、エンジンを動かせないことだった。だが、この「シュノーケル」のおかげで、潜水艦は初めて海上に浮上することなく長時間航行を続けることができるようなり、基地を全て海上封鎖されたあとも、ナチスの潜水艦は連合軍に探知されることなく自由に出入できたのである。

※「シュノーケル」の詳細な設計図は、ドイツ海軍から日本海軍に譲渡されていたが、日本海軍の選りすぐった優秀技術者をして、とても頭が痛くなるといって匙(さじ)を投げさせたほど、実にこみいった設計であったそうだ。

 


左の画像はUボートに付けられた「シュノーケル」。中央左の球状の
ものがボール・バルブ。これによりUボートはレーダーに探知
される危険なしにバッテリーを充電することができた。

 

●また、驚くべきことに、ドイツ海軍は「ステルス技術」も開発していた。

最新型の「シュノーケル」の頭部は、連合軍のレーダー波探知を防ぐために、「タルンマッテ」と呼ばれる「レーダー波吸収剤」でコーティングされていたのである。

この「ステルス素材」は合成ゴムと酸化鉄粉の化合物で、最新型だったASVMkIII型レーダーに対して最も効果を発揮するように設計されており、90%の電波を吸収すると考えられていたという。

 


「レーダー波吸収剤」でコーティングされた
Uボート21型(エレクトロ・ボート)の
「シュノーケル」の頭部(伸縮式)

 

 


 

■■第8章:「大型ロケット計画」と幻に終わった「アメリカ本土爆撃計画」


●大戦中、天才ロケット工学者のフォン・ブラウン博士らペーネミュンデの一党が、「A4(V2)」の実用化を経て最終的に到達したのが「A9/A10」の構想であった。

これは「A4」にほんの少し改造を施した上で(A9)、これをいっそう巨大な液燃ブースター・ロケット(A10)に載せた2段式とし、射程はなんと5000kmという当時としては法外な超長射程の誘導弾を実現しようというものであった。

 


左から「A4(V2)」「A4b(A9)」「A9/A10」(2段式)

※ もし「A9/A10」(2段式)が完成していたら、ドイツ
からアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった

 

この重さ100トンの「A9/A10」(通称「ニューヨーカー」)は、その発想において世界初のICBM(大陸間弾道弾)構想と称することができる。またロケット弾の複数段化という発想も世界で初めてである。

この大型ロケットは完成する前にドイツが降伏したので使われなかったが、もし完成していたらドイツからアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった。

※ これとは別に、「A11」というさらに強力なエンジンで「A9」をより遠距離に飛ばすという3段ロケット「A9/A10/A11」構想もあったという。

また「A4」が無人ロケットであったのに対し、「A9」は有人飛行を前提としたロケットであったという。

 


(左)パイロット搭乗の「A9」ロケットの想像図
(右)ヴェルナー・フォン・ブラウン博士

天才ロケット工学者のフォン・ブラウン博士は
1912年にドイツ東部の裕福な貴族の家に生まれ、
1930年にベルリン工科大学に入学。19歳の時に
全長2mのロケットを高度1600mまで打ち上げ、
世界記録を作る。1938年に「ナチ党」に入党。
大戦中はヒトラーのためにV2ロケットの
製作を指揮した。元SS少佐。



大戦中に撮影されたフォン・ブラウン博士とナチスの幹部たち


1937年にドイツ陸軍のロケット研究班は、手狭になったクンマースドルフ実験場と
ボルクム島の発射場から、両方の機能が併設された新しい総合的な研究施設へと移転した。
それは、バルト海のポメラニア湾に面したウーゼドム島西端の「ペーネミュンデ」に所在した。
このペーネミュンデのロケット研究施設には、ドイツ空軍のV1飛行爆弾の研究班と試験発射場も
置かれ、働く科学者や技術者の数も、1943年には2000名をかなり上回るほどだったという。

1943年8月にイギリス軍による大規模な空襲があり、約730名の科学者や技術者が殺害された。
この空襲以降、ナチス・ドイツ軍はV1、V2の研究開発と生産のための施設をノルトハウゼンや
ブリーヘローデ(生産施設)、ガルミッシュ=パルテンキルヘン(研究・設計全般)、コッヘル
(風洞設備)などに分散させた。その後、V1は1944年6月13日に、またV2は同年
9月8日に、それぞれ最初の一発をイギリス本土に射ち込むことに成功している。

 

●この「大型ロケット計画」と並行して「ゼンガー計画」というものがあった。

これはロケット推進による「宇宙空間爆撃機」の開発計画で、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。

この「宇宙空間爆撃機」は、全長3キロのモノレールを専用のロケット式加速装置を用いマッハ1.5まで加速し、そこから宇宙を目指す。そして大気圏外に出たのち、大気との摩擦を利用してスキップしながら飛行距離を伸ばし、途中でアメリカ本土に爆弾を投下し、ドイツ本国に帰還するという計画であった。

もちろんこの計画は構想のままで終わったが大戦後、この資料を入手した米ソ両国はこの計画に大変な興味を持ったと言われている。

※ ちなみに1988年に、ドイツ宇宙開発機関は「宇宙往還機」の研究を開始したが、ゼンガー博士の研究にちなみ、機体は「ゼンガー2」と呼ばれた。

 


(左)ロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士
 (右)彼が考案した「宇宙空間爆撃機(宇宙往還機)」


↑宇宙空間爆撃機「ゼンガー」の発射法 

全長28m、全幅15m、鋭い翼端を持つ直線翼に今日の
リフティング・ボディともいうべき形態を持つ機体は、全長3キロの
モノレール上を滑走し、一気にマッハ1.5まで加速して大気圏へ向け
発射される。機体は加速を増やすために使われる補助ロケット・
エンジンが取り付けられたカタパルトの上に載せられる。



パイロットが着ている宇宙服のようなものは、ナチスが
高高度飛行用に開発した気密服である

 

 


 

■■第9章:奇妙で風変わりな兵器


●戦時下のドイツで開発された兵器の中で、極秘にされていたものの中に、奇妙で風変わりなものが幾つか含まれていた。


●例えば、人工的に「つむじ風」を作り出して、相手を攻撃する大砲があった。この大砲は「ヴィルベルゲシュッツ(渦巻き)砲」と呼ばれ、オーストリアのアルプス山中にある「ローファ研究所」で、チッパーマイヤー博士によって作られた。

これは地中に埋めた、一種の大きなモルタル製の砲身を使用するもので、発射される弾丸には、石炭粉とゆっくり燃焼する爆薬が入っていた。これで、人工的につむじ風を作り、その上空に乱気流を起こし、飛行機のコントロールを狂わせて撃墜しようというものだった。

実験では、かなり大規模なうず巻きを起こすことに成功し、数百mの範囲まで効果をあげたが、実戦には一度も使用されなかったという。


●これに似た構造で、強力なメタンガス爆発を引き起こす大砲もあった。

原理は炭鉱のガス爆発と同じで、最初これは対空砲の一部として作られた。しかし、対空よりも地上の物体に対する破壊力の方が遥かに大きかったので、この兵器は戦争の終わり頃に、ポーランドの自由の戦士たちに対して使われたという。



●水素と酸素をギリギリの分子比率に近づけて混ぜ、その爆発力によって飛行機を撃ち落とす「風力砲」も開発された。

この奇妙な装置は、シュタットガルトのある会社が考案したもので、「ヒラースレーベン実験場」で実際にテストされた。その際、極めて強力な圧搾空気のかたまりが飛んでいって、約180m離れたところに置いた厚さ2.5センチの木の板を破壊できることが証明された。

この装置は、チェコとドイツを流れるエルベ川にかかる橋の上に作られ、目に見えない“空気の砲弾”で連合軍機を撃ち落とす予定だったが、実用には失敗したといわれている。

 


ナチスが開発した「風力砲」

全長15mほどの筒の先がL字型に折れ曲がっていて、
先端に小さなノズルが設けられている。そのノズル
から目に見えない“空気の砲弾”を発射し、上空を
飛来する連合軍機を撃ち落とす予定だった。

 

●前出の「ローファ研究所」では、リヒャルト・ヴァラウシェク博士によって「ルフトカノーネ(音波)砲」も開発された。

これは大きな放物反射鏡の形をしていて、いくつか作られたうち最後のものは、直径3.3mもあった。

これは、いくつかの発火チューブで出来た燃焼室と直結していて、メタンと酸素の混合物を燃焼室の中へ入れ、ここで2種類のガスが周期的に連続して爆発を起こす仕掛けだった。燃焼室の長さは、連続爆発で生ずる音波の波長の、ちょうど4分の1で、1つ1つの爆発は共鳴により強度の衝撃波となり、次々と爆発を誘発し、非常に高く増幅された“音波ビーム”となった。

 


ナチスが開発した「ルフトカノーネ(音波)砲」

大きなパラボラ反射器と短い筒から出来ていた

 

●ドイツの秘密兵器に詳しいアメリカの科学者ブライアン・フォードは、この「音波砲」に関して次のように述べている。

「『音波砲』が発する音波は、人間の聴覚器官に耐えられないほどの強さだった。約50m離れた所へも、1000ミリバール以上の圧力で伝わり、人間はこれにとても耐えることができなかった。この範囲内では、人間を殺すには、30秒もあればじゅうぶんだった。もっと遠い所でも、例えば約230mまでならば、人間には耐えられないほどの苦痛を与えた。

『音波砲』の開発のために、動物を使ったいくつかの実験が行われたが、実戦テストも、生体テストも実施されなかった。この『音波砲』は、計画された目的には、一度も使われなかった」

 


(左)ブライアン・フォード
(右)彼の著書『ドイツ秘密兵器』

 

●ナチスの科学者たちは、「赤外線」を軍事利用するための研究も積極的に進めたが、最初に開発された装置は、相手方の出す「赤外線」を探知するために使われた。この装置を使って、「赤外線」の発射される根源地を直接探し出し、この地点に向けて射撃ができると、考えられたのである。

その後、「赤外線」の照射を応用した「赤外線照射探知機」が作られ、140キロ以上離れた距離の銃火を誤差角度1分以内という正確さで探し当てることができた。

各部隊がこの探知機を使うと、目標地点は正確に割り出され、真っ暗闇の中で敵の居場所を見つけ、銃の狙いをつけるのは、日中とほとんど変わらないくらいに出来るようになった。

 

自動小銃と機関短銃の両方を兼ね備えた「StG44突撃銃」は、
今日のアサルト・ライフルの元祖である。このStG44用に開発された
赤外線照準器はツィールゲレト(照準装置)1229ヴァンパイア(吸血鬼)
と呼ばれ、第二次大戦の末期に少数使用された。また、このStG44の銃身に
装着する異色の装備も開発され、「クルムラウフ(曲射銃身)」と呼ばれた。
この「曲射銃身」は曲射30度、60度、75度、90度など各種が試験
された結果、2種に絞られ、カーブ30度型は「ボーザッツJ」、
カーブ90度型は「ボーザッツV」と名付けられた。



(左)StG44の先端に取り付けた90度型曲射銃身
(右)30度型曲射銃身用のプリズム利用の照準装置

曲射銃は撃つ方が身を隠したままでも射撃でき、市街戦や
塹壕戦での撃ち合いにはもってこいの武器である。しかし、照準器
のコストや銃身加工の精密さなどのため大量生産ができず、また射撃の
ショックで緩んだり破損することも多く、あまり実用的ではなかったという。
ちなみに、ドイツ軍から曲射銃身の資料を入手したアメリカ軍は、戦後、
自分たちのM3A1サブマシンガンにこの装置を付けたという。

 

 


 

■■第10章:「殺人光線」の謎


●ナチスは、「太陽光線」を集めて敵を攻撃する対空兵器の研究もしていたようだが、これは実現しなかったようだ。

また、ナチスは「殺人光線」の研究をしていたと言われているが、これに関しては専門家の間で意見が大きく分かれている。前出のブライアン・フォードは、「殺人光線」の存在をきっぱりと否定している。


しかし、ナチス軍需大臣アルベルト・シュペーアは、1945年4月、ドイツの労働大臣ロベルト・ライから、ドイツが「殺人光線」を所有していることを聞いた、と述べている。

『Uボート977』の著者ハインツ・シェファーもまた、1945年4月に「殺人光線」のデモンストレーションを見学するようSSから勧められた、と述べている。だが、彼は潜水艦の艦長としてのスケジュールの都合がつかず、参加することができなかったという。


●ちなみに、第二次世界大戦中、日本もまた異常な兵器の研究に取り組んでいた。

このことは、ロンドンの帝国戦争博物館付属図書館の資料で証拠づけられる。『非公開付録I・E:殺人光線』と題された1945年10月3日の記録文書は、下田中将ほかの日本人士官たちを尋問したグリッグス、モアランド、ステェフェンソンの各医師の記録を要約したものである。

文書はこう語る。

「日本軍は、5年半にわたり『殺人光線』に携わっていた。これは強力光線の中に集められた極く短い電磁波が、哺乳類の体に生理学的変化を起こし、死に至らしめるという原理に基づいている。光線を向けられた人間に麻庫や死をもたらすような兵器を開発することが、この研究の狙いだった。」


●文書はさらに、この装置にもっとも適した軍事的応用(対戦闘機)について述べ、日本はこの開発に200万ドルに相当する資本を費やしていた、と記している。また、「殺人光線」を使っての各種の実験、違った種類の動物を殺すのに要する時間についても述べ、最後にこう結んでいる。

「より強力で短い波長の発振器が開発されていれば(これは連合軍のレーダー研究によって可能になりはじめている)、10ないし15キロ彼方から人間を殺せるような『殺人光線』ができよう。」

 

 

●さて、最後になるが、第二次世界大戦が終結した時、連合国側はドイツ軍が開発していた諸々の兵器を目の当たりにして、そのレベルの高さに驚嘆している。

ヨーロッパ戦線の連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、大戦後、ドイツ軍の新兵器の全貌を知るに及んで、次のように語っている。

「もしドイツ軍がこれらの新兵器の開発をもう6ヶ月早く完成させていたなら、我々のヨーロッパ進攻は不可能になっていただろう……」(アイゼンハワー著『ヨーロッパでのクルセード』)

 


ヨーロッパのアメリカ軍司令官
ドワイト・アイゼンハワー将軍
(後の第34代アメリカ大統領)

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:幻に終わった「巨大戦車」の開発


●戦車王国ドイツの「巨大戦車」といえば、「クルップ社」が計画した「ラーテ」が有名である。

これはもう、戦車というよりは「陸上戦艦」もしくは「移動要塞」とでも呼ぶべきものであった。
もちろん実用化されたわけではなく、あくまでもそういう計画があったにすぎないが、

予想重量1000トン、三分割された履帯と転輪を持つ長大な車体に、巡洋戦艦に相当する2連装主砲(28センチ砲)の砲塔をそっくりそのまま搭載してしまうというバケモノ戦車であった。

 


1000トン超重戦車「ラーテ」の想像図


超重戦車「マウス」と1000トン超重戦車「ラーテ」の比較画像

※「ラーテ」のドイツ語読みは「ラッテ(Ratte)」(ドブネズミの意)である。
これは超重戦車「マウス」よりも巨大戦車を作れるぞ!という「クルップ社」のポルシェ博士に
対する当てつけのネーミングだと言われている。計画名は「ラントクロイツァー P.1000」といい、
記号「P」の後の数字は重さを意味していることから「1000トン超重戦車」とも呼ばれる。全長35m、
全幅14m、全高11m、搭乗員20~40名前後で、副武装として12.8センチ砲や2センチ対空機関砲
なども多数搭載。これらは遠隔操作による射撃が可能だった。また、車体後部および側面上部に設置
された対人用榴弾発射器も砲塔内部から自動操作可能で、近接戦闘を挑んでくる歩兵に対して
有効な兵装であった。まさに「ラーテ」は完全武装の巨大な「陸上戦艦」であったのだ。



1000トン超重戦車「ラーテ」プロトタイプ(1/144スケールモデル)

 

●驚くべきことに、ナチス・ドイツ軍は「ラーテ」をさらに上回る超ド級の「巨大戦車」を計画していた。

その名を「ラントクロイツァー P.1500モンスター」と呼ぶ。

1942年末、Uボート設計の特別顧問であった「クルップ社」の取締役エドワード・グロッテが、主任のハッカーに設計図を製作するよう指示。この時に生まれたのが、口径80センチの巨砲(ドーラ砲)をそのまま搭載する「超巨大戦車」の図面であった。

本車両は250ミリ厚の前部装甲を持つ予定であり、駆動装置としてはUボート用ディーゼルエンジン(2200馬力)を4基搭載することになっていたという。

※ もちろん、この計画は構想で終わってしまった……。

 


「ラントクロイツァー P.1500モンスター」の正面図


超重戦車「マウス」と「ラントクロイツァー P.1500モンスター」の比較画像

「陸軍兵器局」の基礎計算では、車体重量およそ1500トン、全長42m、全幅18m、全高14mと
示されたという。その大きさから砲を旋回させることは出来ず、「自走砲」として固定搭載を予定
していたという。搭乗員は100名以上を必要とし、鈍重かつ巨大な図体のため、道路または
鉄道による戦略的な輸送が難しいことなどから、この計画は構想で終わってしまった。

 

 



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