No.a6fhb600

作成 1998.2

 

ナチス・ドイツの「東方植民政策」の謎


〜 幻に終わった「東方ゲルマン帝国」建設計画 〜

 

 

ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。

そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを「東方地域へ移住」させることだったという。

しかし、戦局の悪化により計算が狂ってしまった、というわけだ。

現在では、ホロコースト研究の「正史派」の学者の間でも、当初からヒトラーが「ユダヤ人の絶滅」を計画していたとする「意図派」はすでに劣勢で、当初からヒトラーに「ユダヤ人の絶滅」の意図はなく(ユダヤ人の国外追放のみが目的であり)、戦況の悪化とともに飢餓や伝染病などでユダヤ人が死亡したとする「機能派」が主流となっているらしい。


◆ ◆ ◆


ところで、ヒトラーは『我が闘争』の中で「東方生存圏(レーベンス・ラウム)」の獲得と「スラブ民族の奴隷化」を明言していたが、彼の東方植民政策(「東方ゲルマン帝国」建設計画)については、謎が多い。

ここでは、この政策の謎について語る前に、まず最初に「ドイツ騎士団」の歴史について語りたい。「ドイツ騎士団」(別名「チュートン騎士団」)は、十字軍時代の3大宗教騎士団の1つである。この「ドイツ騎士団」が、後にナチスの親衛隊「SS」のモデルになったのである。

 


ナチス親衛隊(SS)

 

第1章
SSのモデルとなった
「ドイツ騎士団」
第2章
SS長官ハインリッヒ・ヒムラー
第3章
ソ連侵攻作戦
〜 「東方ゲルマン帝国」の建設 〜
第4章
「SS帝国」の崩壊と
ヒムラーの最期

おまけ
ナチスの「東方植民政策」について

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■■■第1章:SSのモデルとなった「ドイツ騎士団」


■■3大宗教騎士団の1つ「ドイツ騎士団」の誕生


●「ドイツ騎士団」は、「清貧、貞節、服従」を誓う点など、団規は先駆者である「テンプル騎士団」や「聖ヨハネ騎士団」を範としたが、大きく異なっている点があった。それは入団者がドイツ語圏出身者に限られたこと、そして何よりもドイツ語圏出身の巡礼のみを保護対象としたことであった。

また、ドイツ騎士団員たちは、テンプル騎士団の白地に「赤い十字架」の代わりに「黒い十字架」を縫い込んだマントを羽織っていたが、この配色はテンプル騎士団からの激しい抗議を浴びることとなった。両者を区別するのは肩に縫い取られた十字架の色だけで、非常に紛らわしかったからである。しかし、度重なる抗議にも関わらず、「ドイツ騎士団」は白マントを着用し続けた。

 


「ドイツ騎士団」(別名「チュートン騎士団」)

 

●もともとテンプル・聖ヨハネ両騎士団は、ドイツ人に対して一種の民族的偏見を持っており、仲が悪かった。テンプル騎士団は超国家的性格を持つといいながら、団員の中にはドイツ人騎士はほとんどいなかったと言われている。聖ヨハネ騎士団も大体フランス・イタリアを主とする南欧系で、ドイツ人は少数であったようである。このため、両騎士団はとかくドイツ軍との協力を嫌い、ドイツ人のほうでは結局、両騎士団を模した独自の組織を創設することになった。

 


「テンプル騎士団」

 

●1197年、ドイツ帝フリードリヒ1世のドイツ軍の一部が聖地エルサレムに到着し、諸侯・騎士の参加協力を得られるようになると、翌年、「ドイツ騎士団」を結成。ドイツ人の巡礼の保護にあたらせた。さらに翌1199年には早くも教皇インノケンティウス3世の公式許可を受け、独立の軍事修道会となった。この騎士団も他の騎士団と同様、もともとは巡礼商人が創った野戦病院が母体となっていた。

「ドイツ騎士団」の総長は「ホッホマイスター」と呼ばれ、本部には病院長と軍務長官その他被服・財務各長官の幹部があり、騎士団領の長は「ラントマイスター」とよばれた。総長はドイツ帝国諸侯「ライヒスフュルスト」の資格を与えられ、所領の寄進をうけてたちまち大領主となった。


●13世紀初頭、ドイツ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世がエジプトへ遠征軍を派遣したとき、テンプル騎士団は敵方のスルタンに内通したため、フリードリヒ2世軍は大敗。怒り狂ったフリードリヒ2世は、イタリアとシチリアにあるテンプル騎士団の所領を没収し、テンプル騎士団員を国外に追放した。この時から「ドイツ騎士団」はフリードリヒ2世“直属”の軍隊になったのであった。

 

■■聖地エルサレム奪還を断念してプロイセンへ移動


●「ドイツ騎士団」はパレスチナにおいて、他の宗教騎士団に勝るとも劣らない勇敢さを示した。しかし、出足の遅れを取り戻すことはできず、聖地エルサレム奪還というキリスト教世界の重大使命達成のためのイニシアチブを取り損ねてしまった。

また、聖地エルサレムでは既にこの頃、領土の絶対量の不足から新騎士団領は狭小で、2、3の城砦を託されたに過ぎず、またテンプル・聖ヨハネ両騎士団の対立意識に災いされ、目ざましい活躍は期待できなくなっていった。

そのため、「ドイツ騎士団」は、聖地エルサレムを離れて本国における所領経営に重点を置くようになる。


●13世紀当時、プロイセン人は未だキリスト教に改宗しておらず、ポーランドへの侵入を盛んに繰り返していた。そういうこともあって、バルト海沿岸のマゾヴィア(ポーランド、プロイセン国境地方)領主のポーランド貴族コンラートが、「ドイツ騎士団」に救援を要請してきた(1226年)。

当時のドイツ騎士団長へルマン・フォン・ザルツァは返答を渋っていたが、報酬として「ポーランドとプロイセンの国境沿いにあるクルム地方をドイツ騎士団領として承認する」という神聖ローマ帝国皇帝の内約を受け、ついに聖地エルサレムを去る決心をした。5年の歳月をかけて「ドイツ騎士団」は灼熱の聖地エルサレムを離れ、寒風吹きすさぶ本来の故国、ドイツへと移動していったのであった。

こうして、「ドイツ騎士団」がパレスチナで聖地奪還のために傾けた情熱は、異教徒のプロイセン征服へと向けられることになったのである。

 

■■プロイセンに「ドイツ騎士団」国家を建設


●「ドイツ騎士団」による、東プロイセン地方の軍事植民地化事業(開拓・布教)は順調に進んだ。彼らはプロイセンにドイツ移民を誘導し、原住民を征服しつつその地に「ドイツ騎士団」国家を建設したのであった(1283年)。

ドイツ人以外にもスラブ人の入植も認められており、のちにプロイセン人がキリスト教に改宗すると、プロイセン人の入植も認められるようになった。だが、プロイセン人の都市への居住はついに認められることはなかった。

のちに「ドイツ騎士団」はリトアニアにも侵攻し、異教徒リトアニア人も屈服させた。このような対異教徒戦はほとんどの場合、世俗の諸候との共同戦線により実現するのが常であった。このような「ドイツ騎士団」の侵略の間に建設された都市の中で最も広大なのが、ベーメン王オットカル2世によって建設された「ケーニヒスベルク」(北東プロイセン)である。このドイツによるケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)の支配は、1255年から1945年までの実に約700年間も続いたのであった。

ちなみに、「ドイツ騎士団」の本拠地は時代によってヨーロッパ各地を転々とし、ベネチア、ケーニヒスベルク、マリエンブルク(1309年)などに置かれた。

 


「ドイツ騎士団」のプロイセン本部(マリエンブルク)

 

●15世紀初頭になると、ドイツ騎士団領は最大規模にまで拡大し、一般の諸候と何ら変わらない規模にまで達していた。「ドイツ騎士団」は、既に国家規模ともいえる地域を支配下に収めており、その軍事力は他の世俗国家と比較してもひけをとらないものであった。

しかし、15世紀の段階で騎士団の運命はすでに下り坂にさしかかっていた。異教徒プロイセン人との戦争に始まった「ドイツ騎士団」の活動ではあったが、目的とする異教徒を全て屈服させてしまったために、やがて騎士団は本来同胞であったはずのキリスト教徒の世俗騎士や自由都市の市民と争わねばならなくなったのである。また、「ドイツ騎士団」を招聘した当事者であるポーランドも、「ドイツ騎士団」の隆盛に対して危惧を抱き、「ドイツ騎士団」を政治的ライバル視し始めたのである。

 

■■「タンネンベルクの戦い」と「ドイツ騎士団」の衰退


●1410年に東プロイセン地方でスラブ民族との戦いが起きた。「ドイツ騎士団」はポーランド・リトアニア両国の同盟軍から反撃を受け、惨敗を喫し、「ドイツ騎士団」の主力は粉砕された。騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン以下200名の騎士が戦死した。この戦いは「タンネンベルクの戦い」といい、中世末の戦闘中で最大規模のものとして知られ、「ドイツ騎士団」側は1万2000ないし1万5000、ポーランド・リトアニア側は2万の兵士が参加したとされる。

敗戦後、「ドイツ騎士団」は領地の大半を失った。騎士団領であった都市や城塞の大部分はポーランド王ヤギェウォに降伏し、さらに約50年後、ポーランドとの間に締結された「トルン和平条約」により、ついに「ドイツ騎士団」はポーランドの主権を認めることになったのである。

これにより、西プロイセンはポーランド王の領土となり、「ドイツ騎士団」はなんとか東プロイセンを保ったもののポーランド王に服従する封建臣下となった。


●こうして、「ドイツ騎士団」の勢力は大きく後退することになった。

宗教改革時代には騎士団領の全てが世俗領主に譲渡され、騎士団員はプロテスタントとカトリックに分裂した。

※ ドイツ騎士団長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、ついにカトリックからプロテスタントに改宗。その後(1525年)、彼はブランデンブルク公家を世襲の公とする「プロイセン公国」を作り(これはのちの「プロイセン王国」の基幹となる)、ここに「ドイツ騎士団」は“世俗の騎士団”となった。一方、1809年まで残存したカトリック側の騎士団は、教会財産国有化によって所領を没収され、廃絶となった。



●1772年、フリードリヒ大王による第1回ポーランド分割の結果、西プロイセンはプロイセン王国領となる。

そして1871年に、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)が成立。

 


ドイツ帝国の国旗

この帝国は「神聖ローマ帝国」の次の
統一ドイツ国家という意味で「第二帝国」とも
呼ばれる。1871年から1918年まで続いた。


 
(左)プロイセン王ヴィルヘルム1世
(右)プロイセンの首相ビスマルク

ビスマルクは、プロイセン王ヴィルヘルム1世の
右腕として鉄血政策を打ち出し、プロイセンの軍備拡張を
遂行した。そして普墺戦争や普仏戦争を経てドイツ統一を
達成し、ドイツ帝国を誕生させ、ヴェルサイユ宮殿で
ヴィルヘルム1世の戴冠式を行った。

 

●しかし、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北すると、西プロイセンはポーランドに明け渡されて「ポーランド回廊」と呼ばれ、東プロイセンがドイツ本国から隔離される状態となる。こうして、東西に分断されてしまったプロイセンの再結合はドイツ国民の悲願となった。

のちに、このドイツ国民の悲願を果たしたのが、「第三帝国」の総統ヒトラーであった。

ヒトラーはこの地を再結合したのである。

 


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

彼はドイツの軍事力を過信し、無謀な戦争
へと突入させた。結果、皇帝の座を維持できなく
なり、ドイツは「帝国」から「共和国」へと移行する。

※ 第一次世界大戦後、彼は退位してオランダへ
亡命。彼はナチス政権には好意的だった。ドイツ軍が
オランダを占領した翌年(1941年)に死去。その
 葬儀はヒトラーによって軍葬で行われた。



1924年ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ

西プロイセンはポーランドに明け渡され、東プロイセンは
ドイツ本国から隔離された状態である。この地域に対する
ドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。

 

 


 

■■■第2章:SS長官ハインリッヒ・ヒムラー


■■ヒトラー政権の誕生


●第一次世界大戦の終了後、ヒトラーは軍の命令で、

南ドイツの半秘密結社的団体「トゥーレ協会」の政治サークルに潜入する。

軍のスパイ役として派遣されたのだが、そこでたちまち頭角を現し、やがて党首に選ばれる。

彼は「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」、すなわち「ナチ党」を率いて、
入党14年後には合法的に政権を獲得してしまう(1933年1月30日)。

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗

 

●翌1934年9月、「ドイツ騎士団」ゆかりの古都ニュルンベルクで「第6回ナチス党大会」が開催され、ツェッペリン広場に15万人のナチ党員が大集合した。

この党大会では「1つの民族、1つの帝国、1人の総統」というナチスのスローガンが生まれ、盛り上がった。

この党大会でヒトラーは、自信に満ちた表情で声を高らかにしてこう宣言した。

「私の夢。それは古代ゲルマン以来の失地回復であり、ヨーロッパ全土から東はウラルにまでおよぶ大帝国(千年王国)の建設である! 当面の目標は、大ドイツ。つまり全てのドイツ民族を含む大ドイツ帝国の建設である!」

 



「第三帝国」の総統ヒトラーに熱狂するドイツ国民

ナチスの独裁国家は、中世の神聖ローマ帝国、
1871年に成立したドイツ帝国に続いて
「第三帝国」と呼ばれた

 


■■ナチス党内の地位を一気に駆け上がった男


●ヒトラーの側近の1人にハインリッヒ・ヒムラーという男がいた。

ヒムラーは、1900年10月7日、ミュンヘンで生まれた。

彼は敬虔なカトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長したが、高校生の頃からオカルトに興味を抱き始めていた。第一次世界大戦に志願兵として参加し、戦後、ミュンヘンの工科大学で農芸化学を学び、養鶏や肥料を扱う農業関係の仕事に就職した。

しかし、若きヒムラーの関心は極右活動にあり、レームによって組織された国家主義運動の1つ「帝国戦旗団」という極右団体に所属し、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆にも参加している。

 


ハインリッヒ・ヒムラー

 

●その2年後、ヒムラーはナチ党に入党し、1927年、SS(ナチス親衛隊)全国指導者代理に就任。1929年、当時まだ280人ほどのメンバーしかいなかったナチス親衛隊長となり、以後規模の拡大に全力を尽くした。

1934年に秘密国家警察(ゲシュタポ)長官、1936年にドイツ警察長官に就任。1941年にはヘスに代わってヒトラーの秘書となり、徐々にゲーリングやゲッベルス以上の信頼をヒトラーから得るようになる。

 

 
(左)ルーン文字で表記したSSのマーク (右)SSの旗とヒムラー

 

●このように、党内の地位を一気に駆け上がったヒムラーは、いつしか自分自身が権力者となる未来を思い描くようになっていた。

独自の精鋭部隊を組織し、いずれは第三帝国内部に独立した『SS帝国』を築くのだ」──。

この野望を実現するため、彼は着々と計画を立てていった。

SSの改組は即座に行われ、「一般親衛隊(Allgemeine-SS)」と「武装親衛隊(Waffen-SS)」が再構成された。

 

 
SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、
黒上衣、黒ズボン、黒長靴……というように、
全身を黒で染め上げていた

 


■■ナチス党内で屈指のエリート思想の持ち主だった


●ヒムラーの独特の政治理論の根底には、生物学上の基準と純血主義の概念があり、SSのメンバーにも単にアーリア人種というだけでなく、彼が組織した母性養護ホーム「レーベンスボルン」(生命の泉協会)を通して新しいエリートを生み育てるように奨励した。

 

  
「レーベンスボルン」の産院


 

「レーベンスボルン」で生まれた赤ん坊に対して行われた命名式
(洗礼式)の様子。命名するのはSSの将校である。

「レーベンスボルン」は1936年にテスト的に創立され、
1938年にミュンヘンで裁判所に正式に登録された。SSの
一部をなし、SS長官ヒムラーに直属するものになった。組織の
目的はSS隊員にできるだけ多くの子供を持たせること。良き血
の母親と子供を助けて未来のエリートを育てることであった。

 

●ナチス幹部の中で、ユダヤ人根絶の考えを明確に公の場で口にしたのはヒムラー1人だったとも言われる。

彼はダッハウに最初の強制収容所を建設し、全体的な強制収容計画を練り上げた。SS部隊がこの運営のため設けられ、ドイツ軍のロシア侵攻に従ったヒムラーの特別行動隊「アインザッツグルッペン」は、ユダヤ人やジプシー(ロマ)、共産主義者を山奥の村々にまで踏み入って虐殺した。

 

 
「アインザッツグルッペン」(SS特別行動隊)

「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊でゲシュタポや
SD、
ジポの要員からなり、治安平定のために東欧の占領地域で
敵の検挙や処刑にあたった。おもに標的としたのは、反ドイツ分子や
ユダヤ人、共産主義者、ジプシー(ロマ)、政治的指導者、知識人だった。



※ アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形は
 アインザッツグルッペ(EINSATZGRUPPE)となる。


◆特別行動隊A……司令官フランツ・シュターレッカー (兵力1000名)──北方軍集団に配属。東プロイセンから出撃し、リトアニア、ラトビア、エストニア、さらにレニングラードへと前進を続けた。

◆特別行動隊B……司令官アルトゥール・ネーベ (兵力655名)──中央軍集団に配属。ポーランド総督領北部から出撃し、白ロシアを主作戦地域として、ミンスク、スモレンスク、さらにモスクワへ向かった。

◆特別行動隊C……司令官オットー・ラッシュ (兵力700名)──南方軍集団に配属。シュレジェンから出撃し、北部ウクライナを作戦地域としてロヴノ、キエフ、クルスク、ハリコフと前進した。

◆特別行動隊D……司令官オットー・オーレンドルフ (兵力600名)──南方軍集団第11軍に配属。ルーマニアから出撃し、南ウクライナとクリミア半島を作戦地域としてオデッサ、ニコライェフ、さらにクリミア半島へと向かった。


   
左から、「特別行動隊A」の司令官フランツ・シュターレッカー、
「特別行動隊B」の司令官アルトゥール・ネーベ、「特別行動隊C」の司令官
オットー・ラッシュ、「特別行動隊D」の司令官オットー・オーレンドルフ

 

 


 

■■■第3章:ソ連侵攻作戦 〜「東方ゲルマン帝国」の建設〜


■■「ドイツ騎士団」の栄光と野望を再び!


●ヒトラーは『我が闘争』の中で「東方生存圏(レーベンス・ラウム)」の獲得と「スラブ民族の奴隷化」を明言していたが、彼は「ドイツ騎士団」の名前を挙げて、次のように語っている。

「ヨーロッパで土地を得ようと思うなら、なにはともあれロシアの犠牲においてそれを成さねばならない。そのさい新生ドイツ帝国は、再びかつて『ドイツ騎士団』の進んだ道を歩むことになろう。

それはドイツ人の刀剣、ドイツ人の鋤鍬(すきくわ)によって得た土地で、ドイツ国民に日々の糧を与えるためである。」

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)『我が闘争』

『我が闘争』は1925年に第1巻、翌年12月に
第2巻が出版され、1943年までに984万部も出て、
印税は550万マルクに上った。当時のドイツ文芸学の大御所から、
ゲーテの『詩と真実』と並べてドイツの全著作の最高峰と称えられもした。

ちなみに、「我が闘争」という題名は、ダーウィンの言葉
「生存闘争」をなぞったものであった。

 

●SS長官ヒムラーは東部進出への熱意がヒトラーに認められて、1939年に「ドイツ民族強化全国委員(RKF)」に任命された。

これを受けて「ドイツ民族強化全国委員本部」と「海外同胞福祉本部」が設立された。前者の本部長にはSS本部官房長のウルリヒ・グライフェルトSS中将が、後者の本部長にはヴェルナー・ロレンツSS大将(警察大将兼任)が任命された。

 

 
(左)SS長官ハインリッヒ・ヒムラー (右)ヒムラーと娘のグドルーン

 

●これらの機関は「SS人種・移民局」と連携して植民活動にあたった。具体的には、「SS人種・移民局」が東部植民に関する人種・遺伝学的調査を担当し、「ドイツ民族強化全国委員本部」が植民者の配置・募集を、「海外同胞福祉本部」が交通・運輸を担当した。

ドイツ国内では「レーベンスボルン」(生命の泉協会)を設立、国外では植民を推進し、人種的エリートであるSSを中心にして、ヨーロッパ全体を支配する、というのがヒムラーの目指すところであった。

 

 
(左)は1942年にSSが400万枚作成したパンフレット。
「ウンターメンシュ(劣等人種)」という表現が記載されている。

 

●1941年6月22日、ヒトラー率いるドイツ軍は「独ソ不可侵条約」を破って、

突如「バルバロッサ作戦」と呼ばれるソ連侵攻作戦を開始した。

 

 


1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦

ヒトラーの目的はスラブ民族の奴隷化であり、またヨーロッパ東部の広大な
地域をドイツ民族の移住地及び資源の供給地として確保することにあった

 

●1942年にヒムラーに提出された「東部総合計画」によれば、バルト海沿岸からポーランド全域がゲルマン化される予定であったという。

これに関して、歴史研究家のE・H・クックリッジは、ドイツはソ連を巨大な奴隷収容所に作り変えようとの壮大な計画を練っていたと指摘している。彼の著書『世紀のスパイ・ゲーレン』には次のような記述がある。

「白ロシア(人口550万人/ミンスク、モジレブ、ビテプスクを含む)は東プロシアに併合され、ドイツ人が入植することになっていた。西ロシアの大部分は第三帝国に併合され、ドイツ人入植者の上層部の下で植民地化され、ドイツ人士官らによる統治を受けるはずだった。総人口500万人のこの地域は、モスクワにまで拡大され、ウクライナ、クリミア、コーカサスの一部と、その油田地帯をも含めるはずだった。このドイツ人入植地の中で、ロシア人とウクライナ人は、アーリア民族主義にのっとり、亜人間(サブ・レース)とみなされる。彼らはごく初歩的な教育と農業訓練しか受けられない。それは、奴隷国民となるためである。約400万人のソビエト人は、提供された植民地の中で抹殺する必要があった。それは“自然な手段”つまり、飢えによって達成される。」

 

 

●ヒトラーは支配の効率化と迅速化を図るために、

この地域とドイツ本国とを結びつける夢のような「交通網充実計画」を立てていた。

例えば、クリミア・東欧とドイツ本国とを連結する片側11mの車線を有する高速道路(アウトバーン)を建設する予定であった。

 


1941〜1942年 ドイツが占領したソ連内最大の領土

ヒトラーは、ソ連を占領した暁における「東方ゲルマン帝国」の統治について
きわめて具体的なイメージを持っていた。アウトバーンをウラル山地まで延長し、その
アウトバーンは全て山の尾根に建設して、風が雪を吹きちらす構造にするつもりでいた。

またクリミア半島を、3世紀から4世紀にかけてここに定住していた古代ドイツ民族
ゴート族の名にちなんで「ゴーテンラント」と改称し、“帝国のリビエラ”と
呼ばれるほどのリゾート地をここに建設する計画も立てていた。

 


■■超特急列車 ─ 「スーパートレイン計画」


●また、ミュンヘンとウクライナを結ぶ3m幅の軌道をもつ鉄道網を整備し、

巨大な列車を時速250キロで走らせる計画もあった。

この「スーパートレイン計画」は、最終的にはシベリアの太平洋岸の都市ウラジオストクまで、ほぼ直線コースを突っ走る「欧亜両大陸横断鉄道」になる予定であった。蒸気機関車の全長は70m、客車は2階建てで、内装は豪華をきわめ、計1728人の乗客がドイツ本国からアジアのはずれまでゆったり楽しめるように設計されていた

 


1941年にヒトラーが発案した
「スーパートレイン計画」の車両の設計図


マンモス級の車両を時速250キロで走らせるため、鉄道の軌道幅がなんと3mもあった。
ミュンヘンを基点に首都ベルリンを経由してウラジオストクまで走らせる予定だった。

 

※ この「スーパートレイン計画」に興味のある方は、
別ファイル「幻に終わった第三帝国の“新幹線”」をご覧下さい。

 

 


 

■■■第4章:「SS帝国」の崩壊とヒムラーの最期


■■ヒトラーを裏切ったヒムラー


●SS長官ヒムラーは、1943年に内務大臣、1944年に国防軍司令官となった。

彼の「東方ゲルマン帝国」建設の夢と、自ら権力者として地上に君臨する夢は、ますます強まるばかりであった。

 

  

   

   

ソ連西部の都市「スターリングラード」の戦いで、ソ連軍はドイツ軍に
決定的な打撃を与え、以後の戦局に大きな影響を及ぼした。
(この戦いは、第二次世界大戦の決定的な転機となった)

9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後シベリアの
収容所から生きてドイツに帰った者は、
わずか6000人だった。

 

●しかし、ソ連軍の前に敗色が濃厚となるや、ついにヒトラー打倒を試みる。

とりあえず連合国側に降伏してヒトラーを失脚させ、政権を手中にしてから連合国側と手を結び、その上で対ソ連戦争を継続しようとしたのである。

ヒムラーにとって、SSの本拠地=「ヴェヴェルスブルク城」に伝わる伝説の「東方の巨大な赤い嵐」とは、ソ連にほかならなかったのだ。

 

 
ヴェヴェルスブルク城


歴史あるヴェストファーレン地方の
パーダーボルンの町に近い森の中にある
この城はフン族の征服時代に建てられたもので、
17世紀になって改築を施された古城であった。

SS隊員はこの古城を「ブラック・キャメロット」と呼んでいた。
「キャメロット」とは、アーサー王伝説でアーサー王の居城
があったといわれる土地の名前に由来している。

この「ヴェヴェルスブルク城」には興味深い伝説があった。
東方で巨大な「赤い嵐」が発生し、ドイツと全世界を危機に陥れる。
この嵐はこの城の騎士たちによって鎮圧され、ヴェヴェルスブルクの
騎士団長は「世界の救世主にして支配者」になるというのだ。

この伝説を信じていたヒムラーは、1934年から11年間に
わたり、「ヴェヴェルスブルク城」の主として君臨した。


 
野心に燃えるハインリッヒ・ヒムラー

 

●ちなみに、「ヴェヴェルスブルク城」には、ヒトラーのための最高級の部屋がしつらえられていた。

ヒトラーは騎士団の名誉団員であり、いつでも儀式に出席することができた。しかし、その部屋が利用されたことは1度としてなかったという。それどころか、ヒトラーは「ヴェヴェルスブルク城」に決して近づこうとはしなかったようだ。

ヒトラーは「ヴェヴェルスブルク城」に何らかの危険を感じていたらしい。

 



ヒトラーは名誉騎士団員であったが、
「ヴェヴェルスブルク城」に決して
近づこうとはしなかった

 

●1945年2月、ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のベルナドッテ伯爵を介して英仏との和平交渉を試みたが失敗する。

ヒムラーの動きを察知したヒトラーは、ただちにヒムラーの解任と逮捕を命じた。

ヒムラーは警官に変装して脱走をはかるが、1945年5月22日、イギリス兵に捕らえられてしまう。

結局、ヒムラーは服毒自殺し(5月23日)、その遺体は秘密裡にリューネブルクの墓地に埋葬された。

 


青酸カリで自殺したヒムラーの死体

 

─ 完 ─

 


 

■■■おまけ情報: ナチスの「東方植民政策」について


●アメリカ在住の小説家で、「米国ホロコースト記念協会」の特別コンサルタントを務めたことのあるユダヤ人マイケル・スケイキンは、著書『ナチスになったユダヤ人』(DHC社)の中で

ナチスの「東方植民政策」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 

 
『ナチスになったユダヤ人』(DHC社)
ユダヤ人マイケル・スケイキン著

 

ヒトラーの究極の目標は、2億5000万人のドイツ民族を創り出すことだった

彼の忠実な官僚は、ウラル山脈西側の広大な草原にまず1億人を送り込む計画を立てた。またナチの理論家アルフレート・ローゼンベルクは、北方系ヨーロッパ人(スカンディナヴィア人、オランダ人、さらにはこの計画に賛同するイギリス人植民者たち)も東部ヨーロッパへ遣り、戦争に勝ったときにアーリア化してはどうかと提案した。

熱狂的ナショナリズムが目いっぱい人口統計学的な形を取った恰好のこの民族大移動は、史上最も恐るべき住民移動計画だった

SSの全国指導者ハインリッヒ・ヒムラーは、この東方植民政策(ドラング・ナツハ・オステン)を熱っぽく提唱したが、ヒトラーは計画そのものは気に入ったものの、ヒムラーの神秘主義的人種主義についてはとりあわなかった。 〈中略〉

そら恐ろしいほどクールなヒトラーを後目に、SSはドイツの領土拡張に神話めいた神秘性をまとわせていった。」


武装SSとは、ハインリッヒ・ハイネがこれより1世紀前の1834年に、『グラディエーター(剣闘士)』と風刺を込めて呼んだもののことだ。彼らが世の終末を思わせるような戦いをするのは運命だった。ハイネは、ドイツ・ロマン主義に肯定的な見方をしたフランスの女流文芸家スタール夫人に反論して『ドイツの宗教と哲学の歴史』を著わしたが、その中で彼は驚くべき洞察力でこう断言している。

ドイツの雷は、当然のことながら、いかにもドイツ的である。その動きは素早いものではない。ごろごろと、かなりゆっくりやってくる。しかし確実にやってくる。そしてある日、世界史上に例を見ないような大音響が轟いて、諸君は、その雷がとうとう標的に落ちたことを知る。その烈しい炸裂音に、空を飛ぶ鷲は地に墜ちて息絶え、アフリカのさいはての砂漠に棲む獅子は尻尾を巻いて洞穴の宮殿に身を隠すだろう。そのときドイツではある芝居が上演されるが、それに比べたら、フランス革命などは、ただの無邪気な牧歌にしか思えないだろう』

並はずれた直感によってハイネは、文化という大皿がいかに割れやすいかを悟っていた。ドイツがやがて奈落と化していくことを、ハイネのほかにいったい何人が理解していただろう。」

 


ユダヤの詩人ハインリッヒ・ハイネ
(1797〜1856年)

 

 


 

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS)

 


 


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