No.a6fhc150

作成 2003.4

 

『ナチスを売った男』について


〜 元イギリス諜報部員の告白 〜

 

 


クリストファー・クライトン
(元イギリス諜報部員)


この男は次のような驚くべき言葉を口にしていた。

「ヒトラー側近のナンバーワンだったマルチン・ボルマン
英特殊部隊によって戦火のベルリンから拉致され、英国に連行された。
その後ボルマンは1959年2月に南米パラグアイで死んだ──」と。

 


 

──はじめに──

 

 
連合軍による「ニュルンベルク裁判」の様子(1945年11月)

この国際軍事裁判はナチスの党大会の開催地だったニュルンベルクで開かれた。
史上初の「戦争犯罪」に対する裁判で、12名のナチス高官に死刑判決が下された。

 

●1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、12名が死刑判決(絞首刑)を受けるという厳しい裁判だった。死刑判決を受けたリストの中で、ただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物がいる。マルチン・ボルマンである。

マルチン・ボルマンは、ナチス帝国の最期の日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消してしまったのである。彼が残した最後の日記には、『5月1日、逃亡の試み』と記されていた。

 


マルチン・ボルマン

ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として
絶大な権力をふるった

 

●ドイツ敗戦直前までボルマンは、総統秘書長、副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるっていた。ヒトラー側近のナンバーワンだった彼が握っていた権力は、ニュルンベルク裁判で起訴されたA級戦犯22名の中でも最高のものだったといえる。

戦後、彼はあちこちから賞金をかけられ、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開し、ベルリンで死んだとか、南米に逃げて匿われてるとか、ソ連に連行されたとか、様々な情報が飛び交い、謎が謎を呼んだ。

新聞で何度か「ボルマン逮捕!」の記事が出たが、警察が逮捕したのはいずれも人違いだった。南米における誤認逮捕だけでも16にのぼる。


●現在、公式の歴史では、「ボルマンはナチス帝国が崩壊する中、国外に逃亡することなく、ベルリンで自殺した」と説明されているが、本当だろうか?

 


激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに
翻ったソ連国旗(1945年4月末)

 

●大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、

著書『復讐者たち ─ ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』(早川書房)の中で、ユダヤ人による「ナチ狩り」を克明に記録しているが、ボルマンの逃亡について次のように記している。

 

 
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』(早川書房)

 

「ベルリンでの戦いが終わった時、ソ連軍第5師団の兵士たちはスパンダウまで来た時、一台の破壊された戦車に行き当たった。その戦車のそばに長い革のジャケットを着た一人の男が死んでいた

その男のポケットの中に一冊の小さな本があった。それはヒトラーの片腕でありナチ党のリーダーの中でも最も抜け目がないと言われていたマルチン・ボルマンの日記帳だった。

その死体はボルマンではなかった。これはすぐに判明した。

しかし、日記の始めには確実にボルマンの字で『5月1日、逃亡の試み』と書かれてあった。

後にボルマンのオフィスで、明らかに彼が焼却を怠った電報が見つかった。

『1945年4月22日。海の向こうの南地帯に分散することに同意、署名ボルマン』

これら2つの文は明確にボルマンの南米への逃亡の意向を表わし、その計画を5月1日、実行に移したことを示している。」

 

 
(左)『ナチスを売った男』(光文社) (右)この本を書いた
クリストファー・クライトン。元イギリス諜報部員である。

 

●ところで、1997年に『ナチスを売った男』という本が出版され、大きな話題を呼んだ。

この本を書いたのは、元イギリス諜報部員のクリストファー・クライトン

正直、驚くべき内容の本である。著者クライトンは断言する。

「マルチン・ボルマンは戦後も生き続けた」と。

 


ヒトラーの側近、総統官房長マルチン・ボルマンは、ベルリン陥落の前夜、忽然と姿を消した。

以降、その消息についての噂は後を絶たない……1945年5月1日の深夜、ベルリンのヴァイデンダム橋で死亡……逃亡地の南米で余生をまっとうした……。とまれ、公式には、1946年10月、ニュルンベルク裁判で死刑判決が下され、1973年にはフランクフルトの法廷で死亡宣告がなされている。

だが、「真実」は……。

本書の著者クリストファー・クライトンの「告白」は、まさに驚くべきものである。

ソ連軍、連合軍による砲撃のただ中、イアン・フレミングが率いる英特殊部隊がボルマンを拉致し、英国に連行。著者は、その現場指揮官であったという! 作戦名は「ジェームズ・ボンド(JB作戦)」。目的は、ナチスの金庫番であったボルマンから、その財宝のありかを聞きだすことであった。

作戦の立案者は、極秘諜報機関「M」の長デズモンド・モートン。ウィンストン・チャーチル首相もこれを承認していた。1954年10月付の著者に宛てた手紙で、チャーチルは「自分の死後、この話の公表を許可する」と述べている。

本書は、これまでけっして語られることのなかった第二次大戦最大の秘話である!


(以上、表紙裏より転載)

 

 




 

★ ここから下は、この本の内容の紹介です ★

ポイントを絞って簡単に
紹介していきたいと思います。

※ 内容の判断は各自にまかせます。
「トンデモ本」の可能性も無くは無いので(汗)、
あくまでも“参考”程度にご覧になってください…。

(真偽はともかく個人的には最後まで楽しんで読めました)

(^-^;)

 




 


『ナチスを売った男』



〜元イギリス諜報部員の告白〜


──内容の紹介──

 

 
(左)『ナチスを売った男』(光文社) (右)この本を書いた
クリストファー・クライトン。元イギリス諜報部員。

 

<この本の目次>

◆第1章 接触──ナチス外相の密使
◆第2章 背景──諜報員の誕生
◆第3章 指令──ヒトラーの財宝
◆第4章 犠牲──工作員パトリシア
◆第5章 着任──バーダムの侵入者
◆第6章 標的──党員番号60508
◆第7章 乱心──フォーキナーの秘密
◆第8章 再会──売国奴の紳士協定
◆第9章 水路──先遣隊潜入
◆第10章 廃墟──第三帝国の惨状
◆第11章 偽装──ボルマンの替え玉
◆第12章 新人──アイクの代理人
◆第13章 降下──ピグレットの小屋
◆第14章 拉致──カナリスの書類
◆第15章 脱出──戦火のベルリン
◆第16章 帰還──同志ナターシャ大佐
◆第17章 救出──切り離し作戦
◆第18章 謀略──モートンのメモ

 

※ 登場人物の説明や、前後の流れ(出来事)や細かい部分などは
どんどん飛ばして、ポイントとなる部分だけを大雑把にピックアップ
しておきます。読みにくいかと思いますが、予めご了承下さい。

(各イメージ画像は、一部を除いて当館が独自に追加)

 

第1章
「JB作戦」の誕生
第2章
ベルリン脱出(ボルマン拉致)
第3章
『バーダム文書』と整形手術
第4章
南米パラグアイで死んだボルマン
第5章
公式に確認されたボルマンの死
第6章
チャーチル首相からの手紙

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 


 

■■第1章:「JB作戦」の誕生


●連合軍がナチス第三帝国の生き残りを包囲する中、

イギリスのチャーチル首相の関心事は、ナチスがヨーロッパの敗戦国から略奪した莫大な財産にあった。

最大の問題は、ナチスの指導者たちが隠匿した現金、ゴールド、宝石、美術品、財産証書を連合国がいかに奪還するかだった。
ヒトラーの腹心たちはこれらの財産を、ドイツ陥落後に、自らの生活資金として隠匿しようとしている、とチャーチルは信じていた。

 


イギリスのチャーチル首相

 

●チャーチルの指示を受けた、「Mセクション」(英国情報部)のデズモンド・モートン長官は、1945年1月21日に極秘作戦「ジェームズ・ボンド作戦」(JB作戦)を立案。

総指揮はイアン・フレミング中佐で、現場指揮はこの本の著者であるクライトン。

彼らの使命は、ナチスの計画を阻止し、資産のありかを突き止めて、可能な限り奪還することだったという。

 

 
(左)チャーチル首相とデズモンド・モートン
(右)イアン・フレミング。大戦中、イギリス海軍情報部に中佐
として勤務し、スパイ活動に従事。戦後は、新聞社の外信部長を
務めた後、それまでのスパイ活動の経験をもとに作家に転じる。
「007/ジェームズ・ボンド」シリーズの生みの親。

 

●ところで、なぜ作戦名が「ジェームズ・ボンド」なのか?

これについて、著者クライトンは次のように説明している。

「〈ジェームズ・ボンド〉という名前は、フレミングが実在の人物から無断で借用した名前だった。1944年11月にカリブ海に旅行したおり、フレミングが見つけた古典的な鳥類学の本『西インド諸島の鳥類のフィールドガイド』の著者の名前だった。戦後、フレミングが創作したヒーローをジェームズ・ボンドと名付けたとき、その名前は自分が考えつくもっとも平凡で退屈な名前だと主張したが、実際にはそれより前の1945年の時点で、彼の心にはこの名前しかなかったのである。

私たちの間では、その名前はただちに省略され、〈JB〉と呼ばれた。その瞬間から、身内で〈ジェームズ・ボンド作戦〉について話すとき、また、文書の公印にもこの暗号文字だけが刻まれることとなった。」

 

 

 

●さて、話をどんどん進めていこう。(^^;

著者クライトンらは、身分を偽ってドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップに会い、次にボルマンと会見したという(1945年3月13日)。

その後、1945年4月末に、クライトンらはボルマンに再び接触。場所はベルリンのドイツ外務省ビルの裏手、ティーアガルテンの東端にある隠れ家(地下壕)だったという。しかし、数日後(正確には4月30日)、クライトンらの正体はボルマンにバレてしまい、武装したSS将校2人を従えたボルマンと、非常に緊迫したやりとりがあったという。

クライトンは、この時の緊迫したやりとりについて、次のように語っている。

「……『ついにその必要な書類が手に入った』

ボルマンは手にした書類をこれ見よがしに振り回した。私に関するデータだった。そこには、私が英国側の二重スパイとして活動していること、ドイツ側に寝返った脱走兵なんかではなく、英海軍士官であることが明記されていた。

『で、この男はどうなんだ』

ボルマンはさらに詰め寄った。

『この君の友人は? ボンド卿と呼ばれているようだが、この男も海軍士官かね』」

 

 

「(武装したSS将校2人の)2丁の拳銃は、どちらかと言うと私に向けられていた。少しずらすだけでフレミングも射程に入る。しかしブラビノフはノーマークだった。どうも敵は彼女を単なる通訳としか見なしていないようだった。これが命取りとなった。質問に答える代わりに私は再度鼻を鳴らした。

瞬く間もなく、ブラビノフがスミス&ウェッソンの38口径を抜き、左手で撃鉄を起こすと、腰の位置から2発放った。弾はSS2人の利き腕を打ち抜いた。狭い部屋の中に轟く2発の銃声は耳をつんざき、硝煙の臭いが充満した。

敵が体勢を立て直す間も与えず、私も拳銃を抜き、ボルマンに照準を合わせた。相手はすぐにうなずき、敗北を認めた。怪我をした2人は腕を押さえてうめいていたが、ブラビノフの早わざと正確さに度肝を抜かれているようだった。フレミングと私には意外な展開ではなかった。彼女の腕前は、バーダムで幾度も目にしていたからだ。

ここで、フレミングが突然流暢なドイツ語で話し始め、我々3人ともが海軍士官であることを明かした。次いで、自分が、ボルマンをベルリンから脱出させ英国に移送するというこの作戦の指揮官であり、英国に渡った暁には、完全に身の安全が保証され、余生を快適に暮らせるだけの金が与えられると説明した。答えは2つにひとつ──この場で死ぬか、それとも我々と一緒に来るか……。

少しの間、獲物は我々の方をじっと見ていた。フレミング、私、後ろの壁……。もちろん、我々にはボルマンを殺す気はさらさらなかったが、相手はそんなことを知る由もない。生死の瀬戸際に立たされていたのだ。ボルマンが口を開いた。挑むような口調だった。

『交換条件は何だね』

フレミングがこの質問に答える。ナチスはドイツ国外において、現金・金・宝石・不動産証書などを奪ってきた。そしてそれらは今、ボルマンの管理下にある。そこで交換条件として、こうした財産すべての割り出しと移譲にボルマンは全力を挙げて協力し、加えて自身の生活やナチス政権の統治について、英国側が尋問することに詳しく答え、その実態を明らかにするのに手を貸すことだ。

今度は何のためらいもなく返事が返ってきた。

『わかった。協力しよう』

そこで我々は今一度、銃をホルスターにしまい、ボルマンのほうは入口に歩み寄って、ドアを開けると廊下に向かって大声で部下を呼んだ。すぐに彼直属の将校が2人やってきて、直立不動でナチ流の敬礼をした。ボルマンが1人に何やらささやくと、彼らは即座に撃たれた2人を部屋の外へとせき立てた。傷を負った2人の運命は誰の目にも明白であった。生かしておくには、多くを知りすぎていた。」

 


激戦の末、ベルリンの帝国議会の
ドームに翻ったソ連国旗(1945年4月末)

 

 


 

■■第2章:ベルリン脱出(ボルマン拉致)


●クライトンによれば、極秘作戦に基づく「ベルリン脱出」は1945年5月1日火曜日の夕刻に決行されたという。(この作戦には、英海兵隊コマンド、英海軍婦人部隊工作員、ドイツ自由戦士軍「GFF」の男女、米海軍およびCIAの前身「OSS」所属の婦人大尉が参加したという)。

クライトンは次のように語っている。

「移動手段はカヤックまたは軍用カヌーに最適なため、計画初期の段階から、作戦は水上を中心に行うことに決まった。つまり、拉致班はシュプレー川とハーフェル川づたいに西(下流)にこっそり去ることができる。それから巨大なエルベ川を北西に進み、前進中の連合国軍と合流する。我々には、こうした作業をこなすことのできる人材も機材も経験もあった。」


「脱出の際の服装だが、フレミングとブラビノフ、私は次のような格好をすることにしていた。ウルスラの防水ジャケットとズボンを改造したものに、ソビエトの特殊諜報部の記章を付ける。ただし帽子と外套はナチスのSSのものにする。地下壕の周辺では、この出で立ちで、正体がばれる可能性を最小限に食い止められる。いったんカヌーに乗り込んだら、もしくはソ連軍に遭遇したら、外套を脱ぎ捨てればよい。雑嚢の中には、兵卒に変装するときのために、海軍の制服(英国もしくは米国のもの)とドイツ国防軍の制服も入っていた。

2300時少し前、ついにボルマンが現われ、すぐにも出発すると告げた。オットー・ギュンター(ボルマンの替え玉)が連れて来られる。まだ頭に包帯をしていたが、国防軍の兵卒用制服を着て、黒の革コートを肩から掛けていた。

〈中略〉

ボルマンにはMセクションで偽造した身分証明書を渡した。これには偽名とナチスの下級職員である旨が記されていた。フレミングから身分証明書を受け取ると、ボルマンは満足した様子であった。本物の身分証明書と遺言状の扱いについては、無事連合軍の手に渡るまで我々が預かり、水や火や爆発にも耐える頑丈なケースに入れておくと説明した。」


「脱出に際してはボルマンが先導した。彼は小ぶりのサングラスをかけ、帽子を目深にかぶっている。ブラビノフがその横に並び、続いてフレミング、その後ろを巨体のルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガー医師が行く。彼はヒトラーのお抱え医師であるが、ひょんなことから我々と一緒に脱出することになった。シュトゥンプフェッガーの後ろにはギュンターが続く。頭に包帯をして私に腕を抱えられている。我々のグループは総勢20名だ。周囲には包帯をしている者が多いので、我々の変装も目立たずに済む。

地下壕(隠れ家)を出て、外務省庁舎の庭を通り、北へ向かって破壊された庁舎の建物の横を抜ける。そして地下道に通じる階段を降りる。地下道の中を十分ほど行くと、目指すフリードリヒ通り駅に着くはずだった。だが、ボルマンが道を間違っていて、駅だと思ったのは、単に街の中心から少し離れて行き止まりになっているところであった。来た道をしばらく戻り、別のところで曲がってようやく駅にたどり着き、地上に出る。

外は月夜で、ただでさえ結構明るかったが、あちこちで火の手が上がり、砲弾が飛び交い、曳光弾が閃いて、さらに超現実的な輝きを醸していた。」

 



クライトンたちは「ヴァイデンダム橋」の近くで
ソ連軍の戦車に遭遇し、仲間2人が即死したという

 

●この後、クライトンたちは「ヴァイデンダム橋」の近くでソ連軍の戦車に遭遇。目の前で直撃弾にやられたドイツ軍の戦車が大爆発し、この爆風をもろに受けたオットー・ギュンター(ボルマンの替え玉)とシュトゥンプフェッガー医師が即死したという(2人の死体はそのまま放置)。

そしてこの後、クライトンたちは銃撃戦を避けながらシュプレー川の土手になんとかたどりつき、小さな船に乗り込んだという。

クライトンは、この時の様子について次のように語っている。

「キャロライン・ソーンダーズがモーターボートで川を下ってきた。フレミングはさっと縄ばしごを下り乗船する。ボートが離岸する際、私は声をかけた。『気を付けて』フレミングはいつもの調子で答えた。『クリストファー、今までの苦労を水の泡にするんじゃないぞ』

そう言い残すと彼は川上に消え、橋をくぐって東に向かった。上空では曳光弾が断続的に閃いていた。続いてボルマンを縄ばしごで下ろす。胸の周りにもやい綱を作ってやり、わきの下に引っかけると、上から2人に支えさせて下ろした。ボルマンがカヤックの前席におさまると、私がその後ろに乗り込み2人でカヌーを押し出した。先頭を行くのは、スーザンとSBSのデビッド・ジョーンズ軍曹、二番手がブラビノフと海兵隊のジョン・ローリンズ軍曹、その後ろがボルマンと私、続いてペニー・ウィレルと無線電信技師のジョアン・マーシャル伍長が来る。このカヤックには短波無線機材が積載されていた。さらに軍医のジェニー・ライト大尉とCOPPのビル・ウェブ中尉が続き、最後尾がジョン・モーガンで、フレミングが乗るはずだった席が空いていた。」



●この後、クライトンたちは何度か危ない場面(死の危険)に遭遇しながら、川を慎重に下っていき、シュプレー川、ハーフェル川というドイツの河川を利用して、無事にボルマンをエルベ川まで護送し、北西岸に駐屯していたイギリス軍に引き渡したという(1945年5月11日)。

こうして、「JB作戦」の主たる目的は無事に遂げられたというわけだ。

 



クライトンたちは、シュプレー川、ハーフェル川というドイツの
河川を利用して、無事にボルマンをエルベ川まで護送し、北西岸に
駐屯していたイギリス軍に引き渡したという(1945年5月11日)

 

●ところで、ここではバッサリ省略してしまうが、この何日もかけて川を下る脱出行の話が、とても面白い。

ソ連軍の包囲網を巧みに切り抜けていくのだが、「レイプ魔」と化したソ連兵が登場したり、ソ連軍の検問に引っかかって仲間が機関銃で殺されたり、色々なことが起きて、ハラハラドキドキの連続である。

クライトンによれば、「JB作戦」遂行中に合計14名の仲間が死亡したという。

 

 

●ちなみに、この脱出行の間、ボルマンの行動はまったく理性的であり、「協力的、友好的かつ積極的で、凶暴な傾向があり邪悪な考えを持っている人物のようにはとても見えなかった」という。クライトンたちとボルマンは水路をともに脱出する間に感情的きずなを深め、一行のみんながボルマンのことを好きになったという。

クライトンは、ボルマンについて次のように語っている。

「……先へ進むにつれ、我々の旅はだんだんと学校の遠足といった様相を呈してきた。身分や地位、性別にかかわらず、全員が同じ釜の飯を食い、一つ屋根の下で寝て、お互いに面倒を見合っていた。しかしなんと言っても主役は、囚われの身のボルマンであった。水の上では他の者と同等か、もしくはそれ以上に働いてくれたが、陸上ではさまざまな拘束を受けていた。いまだに暑くてかさばる包帯を顔に巻いているのみならず、食事のときや寝るとき、用を足すときも含めて、たえず手錠で監視の者に繋がれていた。

〈中略〉

そのころにはみんな、我々の囚人がとても親しみやすく頼りがいのある人物であることに気づいていた。ボルマンも積極的にみんなにとけ込んでいた。本名を知らないので、女性たちはフリードリヒとかフレッドと呼んでいたが、ボルマンのほうも喜んでそれに答えていた。彼がこんなにも好人物であることには私自身驚いていた。

事前の打ち合わせでは、ボルマンは屈強で冷徹な謀略家に見えたが、今ここで敵の手中にいる一個人としてのボルマンは、非の打ちどころのない振舞いをしていた。不服も漏らさないし、癇癪(かんしゃく)を起こすこともない。私は一緒のカヤックに乗っているため、彼に接する機会がいちばんあるが、従順なだけでなく、協力的で勇ましく、かつ強靭な肉体の持ち主であった。驚くほどの腕力である。私の二倍近くあるかもしれない。私の覚えている限り、海軍の新兵で、ボルマンほど速くカヤックをこげる者はいなかった。障害物を越えての強行軍でもへこたれなかったし、判断力も確かだった。これなら、いかに海兵隊の鬼軍曹でもケチのつけようがない。いつしか我々は、彼にも何かと仕事を任すようになった。

さらに、ボルマンはたいていの者より20歳近く年上であったので、女性たち、特にドイツ自由戦士軍の者たちは父親のように接していた。愛情と尊敬を込めてニックネームで呼び、作戦以外のことに関しては、まず彼のアドバイスを求めた。」

 

 


 

■■第3章:『バーダム文書』と整形手術


●さて、イギリスに連行されたボルマンは、ポーツマス近郊のMセクション訓練基地「バーダム」の隔離棟のかなり贅沢な部屋に収容されたという。

そして、ここで『バーダム文書』が作成されたという。

 

 

●この『バーダム文書』について、クライトンは次のように語っている。

「バーダムで、ボルマンは数ヶ月にわたり、秘密情報について集中的に尋問を受けた。800枚にもおよぶ報告書の各ページには、ボルマン本人と尋問担当官の頭文字が署名されている。この貴重な歴史的文書(バーダム文書)には、ボルマンの1920年代から1945年までの個人史とナチ党についての供述が記録されている。」

「この供述の結果、彼とヒトラーの関係について興味深い事実が明らかになった。尋問開始当初、ボルマンはヒトラーを“総統”と呼び、指導者としてそれ相当の敬意を払っていた。ところが尋問が進むうち、“あの馬鹿なじじい”といった、もっとひどい言い方をするようになった。」

「ボルマンは、1945年3月の時点で、この戦争に勝ち目はないことに気づいていた。その事実に直面しようとしないのは、権力を掌握しているあの男だけだ。冷静で計算高いボルマンは、いつそのような事態になっても、最後までヒトラーを利用しようと決心していたのである。」

 


マルチン・ボルマン

 

●『バーダム文書』を作成している間、ボルマンは発見されるのを防ぐために整形手術を受けたという。

クライトンは次のように語っている。

「ボルマンがMセクションの担当者から尋問を受けている間、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開していた。 〈中略〉

彼が発見されるのを阻止するためには、外見や態度から声までも、可能な限り変えなければならない。この問題について何回か話し合った後、モートンはふたたび形成外科医のアーチー・マッキンドーに依頼することにした。しかし、今回は秘密厳守が至上命題である。彼にはバーダムで手術を行うよう要請した。そこで、施設のなかの一棟が一時的に病院に仕立てられ、Mセクションやドイツ自由戦士軍から看護婦が集められた。

何回も手術を重ねたおかげで、ボルマンの容姿には微妙ではあるが見事な変化が生じた。耳の形は変えられ、唇は厚みを増した。手の甲は皮膚を移植され体毛が薄くなり、指紋も変えられた。鼻は少し削られて低くなり、額の傷は長く延長された。

ボルマンは回復を待って社会復帰のための訓練を受けた。訓練の終了時には、歩き方も話し方も別人のようになった。戦争の後遺症というふれこみで、吃音者を模倣していたが、それも時間がたつうちすっかり板についてしまい、ありがたくない質問を避けるときなどは有効な武器となった。必要なら、舌がまわらなくなり話せなくなったふりをすることもできた。

〈中略〉

彼と最後に会ったのは、手術後の回復期間中の7月のことだった。私はスペシャリスト訓練コースを受けるためバーダムを去ることになった。スイートを訪ねると、ほかには誰もいなかった。そのころには彼の英語もかなり上達していた。私はお別れを言いにきたと話した。我々は立ったままじっと見つめあった。ずいぶん長い時間のように思えた。やがて握手すると、彼はいきなり私を抱きしめた。21歳の青年にとっては、なんとも奇妙な瞬間であった。

私の肩を抱いている男はかつての敵であり、どう見ても悪質な戦争犯罪者である。こうしている瞬間にも、以前の仲間たちはニュルンベルクで裁かれており、全世界の半分におよぶ地域で彼の捜索が進められている。しかし、この瞬間はそうした一切を超越していた。この男は私たちといっしょに筆舌に尽くしがたい危険をくぐり抜け、ベルリン脱出の際には人一倍の勇気を示し、我々に協力してくれた──私の頭にはそのことしかなかった。そして私もお返しに彼を抱きしめ、最後にマスクを頭の上からかぶせて戻してやった。」

 

 


 

■■第4章:南米パラグアイで死んだボルマン


●クライトンは、その後、ボルマンがたどった軌跡について、次のような驚くべき「真相」を語っている。

1945年から1956年にかけて、ボルマンは英国で暮らした。しかしその間、ブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国や他の地域に出かけた。そのときは必ずMセクションやCIA(OSSの後を受けて設立された)の監視付きであった。CIAの南米での管理保護チームのリーダーは、誰あろうバーバラ・ブラビノフであった。

スーザンの報告によると、ボルマンも彼女も再会したとたん熱い思いがこみあげてきた。CIAのタフな工作員たちは、自分たちのスター的存在の工作員が世界の誰よりも執拗に追いかけられている戦犯と抱き合っている光景を呆気にとられて眺めた。

スーザンによると、2人の協力のおかげで“めざましい”成果が得られたという。手配中のナチ党員たちの行方が明らかになり、膨大な現金や宝石や金が回収されるなど、大きな収穫が得られた。自由世界の金融や経済を支配して第三帝国亡命政府を樹立しようという企みも阻止することができた。

 

 
(左)1947年9月に誕生したCIA(中央情報局)
(右)3代目CIA長官のアレン・ダレス

クライトンによれば、CIAの
南米での管理保護チームのリーダーは、
バーバラ・ブラビノフだったという

 

「それでも相変わらず、英国政府は有罪判決を受けたナチス戦犯が国内にとどまっていることに神経をとがらせていた。

そして1956年4月初め、ソ連指導者ブルガーニンとフルシチョフの公式訪問の直前、スーザンはアンソニー・イーデン首相に呼びつけられ、英国がボルマンをかくまっているという疑惑のおかげで厄介なことになっていると強い調子で叱責された。彼女が何か言う間もなく、イーデン首相は最後に怒りを爆発させ、机を思いきり叩きつけると、書くのもはばかるような猥褻な言葉で毒づいた。

『我々はあのファ××野郎をVIPなみに甘やかしている! ロシア人どもが来ないうちに追い出しちまえ。あの馬鹿野郎の頭をちょんぎって、海に放り投げてやれ!』

しかしいつものことだが、癇癪(かんしゃく)の嵐が過ぎ去ってしまうと、イーデンは別人のようになり、満面笑みを浮かべ、たいそう礼儀正しくスーザンに語りかけた。

『ミス・ケンプ、どうか彼を4月25日までに国外に退去させてくれ』

スーザンは命令をほぼそのとおり実行した。」

 


イギリスのアンソニー・イーデン首相

 
パラグアイの独裁者アルフレード・ストロエスネル

ナチスを含めてドイツ人に寛大だった

 

1956年4月29日、ボルマンは護衛つきでアルゼンチンに飛び、そこでふたたびブラビノフと会った。しかしそのころには、彼の健康は悪化していた。まだ55歳であったが、世に知られずどこかで落ち着いて暮らしたいと願った。結局、パラグアイを安住の地と定めてひっそりと暮らし、長い闘病生活の末、1959年2月にこの世を去った

ボルマンは地元の墓地に埋葬されたが、しばらくしてCIA、パラグアイ政府、ドイツ諜報機関との密約により、彼の遺体は掘り起こされ、ベルリンに送り返された。そしてユラップ・フェアグラウンドの砂に新たに埋葬され、それが1972年にうまい具合に発見されたというわけである。

遺体が送り返されたのは『しばらくして』と書いたが、それはスーザンもこの作戦については人づてに聞いただけなので、具体的な日付がわからなかったからだ。だがいずれにせよ、ボルマンの晩年についての彼女の証言は、丹念に調査を積み重ねたヒュー・トーマスの結論と酷似している。」

 

 
(右)はパラグアイのイタ市にあるボルマンの墓(現在、墓は荒らされた状態にある)

※ パラグアイの法務省に保管されている公式文書『テラーファイル』によれば、
 ボルマンは1959年に胃ガンで亡くなり、イタ市の墓地に埋葬されたという。

 

 


 

■■第5章:公式に確認されたボルマンの死


●以上で、『ナチスを売った男』の内容(重要ポイント)の紹介は終わりです。


●今回ここで取り上げた話以外にも、「替え玉作戦」 「リッベントロップの紳士協定」 「ドイツ自由戦士軍(GFF)のユダヤ兵によるナチ狩り」 「ニュルンベルク裁判の傍聴席にいたボルマン」などなどの面白い話が満載なので、興味のある方は一読して下さい。


●ちなみに、この本には、ヒトラーにも「替え玉」がいたこと、ボルマンが整形手術を受けたこと、ボルマンはイギリス滞在中にブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国や他の地域に行っていたことなどが書かれてあるが、当館で紹介している「ベラスコの告白」と読み比べてみると、様々な共通点があって面白い。


※ ベラスコによれば、彼が南米にいるボルマンから最後の呼び出しを受けたのが1957年

この時、ベラスコはナチスとの決別をボルマンに告げて別れるのだが、この本の
内容が正しければ、この2年後にボルマンは病死したことになる。

 


大物スパイ・ベラスコ

戦後、ボルマンと接触していたという

 

●なお、クライトンによれば、ボルマンの死体はパラグアイに埋葬された後、掘り起こされて、ベルリンに再埋葬されたというが、

この後、「ボルマンの死」は公式の歴史(表の歴史)では、次のように説明されている。

「ドイツで1972年12月にボルマンの自殺説が再燃。ボルマン捜査を正式に委託されているフランクフルト地検が調査したところ、ベルリンの墓地で遺骸を発見。生前ボルマンの歯を治療した歯科医の検査や元ナチ党員らの証言などを総合的に検討して同地検は翌1973年3月11日、死亡と判断。西ドイツの法廷でボルマンの死が公式に宣告された。

そして1998年、家族の要請で『DNA鑑定』が行われ、骨格がボルマンのものであることが科学的に証明され、遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された──」

 


1972年に発見されたボルマンの遺骨

遺骨は完全ではなく、一部の骨が不足していた。また、
生前のカルテに書かれていない歯に詰めものがしてあった。

※ クライトンによれば、ボルマンの死体はパラグアイに埋葬
 された後、掘り起こされて、ベルリンに再埋葬されたという。

 

●クライトンによれば、この「DNA鑑定」は、彼がボルマンの家族たちと会見したときに提案されたのだという。

クライトンは次のように語っている。

「1996年はじめ、私はバヴァリアを訪れ、マルチン・ボルマンの息子のひとりゲルハルト・ボルマンと会見した。家族の弁護士であるフロリアン・ベゾルト博士と優秀な通訳G・K・キンゲルマン博士が同席した。会見場所はミュンヘンに近いフライジンク郊外のボルマンの自宅と決められた。ゲルハルトの妻と息子も同席し、会見はきわめて和やかな雰囲気であった。

マルチン・ボルマンは1945年に死亡したと信じていた家族は、『JB作戦』について聞かされてもキツネにつままれたような表情であった。それでも、ピグレット(=ボルマンのコード名)救出が実際に行われたことを確認したイアン・フレミングの手紙とマウントバッテンのメモを見せられたときには動揺したようであった。

〈中略〉

私の書く本は、ボルマンの戦争中の記録を根掘り葉掘り暴露するものではない。私はそう強調するのを忘れなかった。それどころか、彼のナチスにおける過去を知らぬまま、1945年に水路をともに脱出する間に感情的きずなを深め、一行のみんなが彼のことを好きになった過程を描く作品になると語った。

家族は、私の話について考える時間が欲しいと言った。しかしゲルハルトは、ベルリンで掘り起こされ、現在はヴィースパーデンの地下納骨所に安置されている頭蓋骨を含む遺骨は父親のものにちがいないと確信していることを繰り返し強調した。別れぎわ弁護士のベゾルト博士は、この問題をすっきり解決させるには、DNA鑑定を行い、遺骨のサンプルと遺族の毛髪や血液を照合するしかないと指摘した。私も、そのような鑑定が実施されるよう強く望んでいる。そうすれば、遺骨が本物かどうか確認され、それがパラグアイから運ばれたものであることが、必ずや明らかになるであろう。

 

 


 

■■第6章:チャーチル首相からの手紙


●さて、ここまで読まれた方のほとんどが、こう思っているだろう。

「この本の内容はどこまで真実なのか──」、と。


●信憑性はどれくらいあるのか? 著者クライトンによる「創作(作り話)」という可能性はないのか?

もし「真実」ならば、ナチスの大物戦犯を結果的に「救出」し、国際裁判の場から「隠した」ことなるが、

これは「社会正義」に大きく反する行為ではないのか、などなど…

様々な「疑問」が頭の中で渦巻いていると思われる。(^^;


●クライトンは読者が抱くであろうこれらの「疑問」に対して「序文」の中で次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 


クリストファー・クライトン



「本書に記された物語は、多くの読者にとって信じ難いものであろう。私に言えるのは、半世紀以上も前に起き、(その性格上)ほとんど記録の残されていない作戦について真実を書き残すために、全力を尽くしたということだけである。私の文学的な創作力は限られていることもお断わりしておく。ストーリーを作り上げることなどできはしなかった。また、私には、ここに含まれた詳細な技術的情報の収集能力もなかった。それどころか、私は自分自身の記憶や、本書で語られている出来事の直後に私と私の同僚が作成した公式記録に頼らざるをえなかったのだ。

諜報担当士官としての私の仕事は、第二次世界大戦中はもちろん、その後も最高度の機密保持が要求された。この物語を公表することについて、私はサー・ウィンストン・チャーチルからもマウントバッテン卿からも書面による許可をもらっている。

ただし、両人からは、それは自分の死後にしてほしいと念を押された。

また同時に、私のかつての同僚たちの生命を危険にさらすようなことはしてはならないとも命じられた。その後イアン・フレミングからも、私に、この物語の公表を促す手紙をもらったが、そのなかで彼は、大成功をおさめたジェームズ・ボンド小説の発想の源は実はこの共同作戦にあったことを明かしている。」


 
(左)イギリスのチャーチル首相 (右)チャーチルから
 著者クライトンへ送られた手紙(1954年10月付)。

 この手紙には次のような言葉が記されているという。

「…私が死んだあと、君の良心がそう命ずる
のであれば、(この話を世間に)話したまえ
……私をかばいだてする必要はない。
私は甘んじて歴史の裁きを受けよう…」

 

「半世紀が過ぎ、時の流れとともに機密の必要性も薄れ、ついに私はマルチン・ボルマンに関する顛末を人々に知らせるべき時がきたと決心した。だが、彼をベルリンから連れ出したこの作戦の生き残りたちへの脅威は、依然として存在する。彼の巨大な個人的財産の行方は今もって不明であり、またそれらの金を自分たちのものと信じ、それを手に入れるためには人殺しも厭(いと)わないという、欲望や怒りに取りつかれた人間も大勢いる(2つだけ挙げれば、KGBとオデッサ[SS=ナチス親衛隊の退役軍人団体]である)。したがって私は、私自身を含めて、生き残っているチームのメンバー全員について変名を使用した。最新の調査によれば、生存者は33名である。

〈中略〉

ナチスの高官を誘拐し、ニュルンベルクでの国際裁判の場から隠すということの道義的問題については、我々は関心がなかった。それは政治家の仕事であり、我々の仕事ではない。我々の仕事はベルリンの廃墟からボルマンを連れ出すことであった。そして訓練の成果と、幸運にも助けられて、我々は成功した。

私が今、この話を語る主な目的は、私とともに危険を冒してベルリンの水路を下っていった、男女の戦友や若者たち(その多くがドイツ人)に敬意を表するためである。作戦遂行中に、そのうちの14名が死亡、また全員が何度も死の危険に直面した。我々の作戦が大成功をおさめたのも、彼らの勇気と決断のおかげだった。

特に、我々が困難を切り抜けることができたのは、女性たち(英海軍婦人部隊員、ドイツ自由戦士軍、そして一人の優れた米国人)の大きな勇気と才能によるところが大きい。最近になってようやく国防省は、敵に対する作戦行動に女性の参加を認めると発表した。だが我々の女性たちは50年も前にまさにそのことを行い、そして成功したのだ。

ここでぜひ言っておきたいのは、ジェームズ・ボンド作戦の配役をしたのは私ではないということだ。私は単に参加しただけである。1945年の時点では、どの参加者も国際的には知られていなかった。イアン・フレミングは英国海軍の無名の諜報担当士官であったし、架空のスパイ、ジェームズ・ボンドは、彼の頭の中でもまだ生まれていなかった。英国や米国でマルチン・ボルマンの名を知っていた人は稀であり、彼の顔を知っている市民は一人もいなかった。フレミングはすでに36歳だったものの、残りの我々はまだ20代だった。危険な戦時使命を与えられ、それを能力の限界まで実行した血気盛んな若き海軍士官、水兵、その他だったのである。

くり返すが、これは私の個人的な話である。歴史ではなく、私が何かを求めての結果でもない。それを受け入れるか否かは読む方の自由である。アリストテレスではないが、私に関心があるのは真実だけであり、人々がどう考えるかではない。

<ロンドン、1996年1月> 」

 

 

 


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