No.b1fha506

作成 2003.6

 

ヒトラーの日本観と日独交流秘話

 

 

序章
ヒトラーが指摘する
「3つの人種」と「ユダヤ菌」の存在
第1章
日本の文化や天皇に好意的だったヒトラー
第2章
2つの世界大戦と日独関係の変化
第3章
SS長官ヒムラーの風変わりな人種理論
第4章
『ヒトラーの遺言』に書かれている
ヒトラーの好意的な日本観

おまけ
「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈1〉
おまけ
「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈2〉
おまけ
「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈3〉
おまけ
「ヒトラー・ユーゲント」と
「大日本連合青年団」の交流
おまけ
ヒトラーとムッソリーニからの贈り物
おまけ
ヒトラーの反ユダヤ主義に
同調しなかった日本政府

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■■序章:ヒトラーが指摘する「3つの人種」と「ユダヤ菌」の存在


●第二次世界大戦中、日本はイタリアとともにドイツと同盟を結んでいた。1940年9月27日にベルリンで結ばれた「日独伊三国軍事同盟」によって、三国の枢軸体制を強化し、イギリスとアメリカを抑制しようとしたのだ。

が、ヒトラー自身は日本をどのように考えていたのだろうか?

 

 
(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。 (右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●ヒトラーは『我が闘争』の中で、世界には「3つの人種」がいると書いている。

1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」。彼の定義によると、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎない、と書いている。そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書いている。

またヒトラーは『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものであると書いている。ヒトラーは同じ敵を持つ仲間として、日本との同盟を考えていたのである。

 

 

『我が闘争』は1925年に第1巻、翌年12月に
第2巻が出版され、1943年までに984万部も出て、
印税は550万マルクに上った。当時のドイツ文芸学の大御所から、
ゲーテの『詩と真実』と並べてドイツの全著作の最高峰と称えられもした。

ちなみに、「我が闘争」という題名は、ダーウィンの言葉
「生存闘争」をなぞったものであった。

 

●しかしヒトラーは、東方のこの同盟国の実力があなどりがたいものだ、とも考えていた。

ナチス・ドイツの軍需大臣を務めた建築家、アルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「人種的観点からむろん問題の多い同盟を彼は拒否しなかったが、『日本との対決』を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーはイタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本は列強国の同盟国とみていた。」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●ところで、『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)という本があるが、

この本は1941年から1944年にかけて、ヒトラーが側近に語りかけた会話を速記録してまとめ上げたものである。

当時、ヒトラーから最も信頼されていた秘書のマルチン・ボルマンが速記録を訂正、また本人から承認を取り、かつ個人保管していた資料なので、俗に『ボルマン覚書』とも呼ばれている。

 

 
(左)ヒトラーに忠実な側近中の
側近だったマルチン・ボルマン大将
(右)『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)

ボルマンはドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるった。
ヒトラーの卓上談義を記録した『テーブル・トーク』は、
「公式記録」として残されたものであり、俗に
『ボルマン覚書』とも呼ばれている。

 

●この『ヒトラーのテーブル・トーク』には、次のようなヒトラーの言葉が記されている。

「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争は、実は前世紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。いったいどれほどの病気が『ユダヤ菌』によって引き起こされていることやら。

日本はユダヤ人を受け入れなかったので、菌に汚染されずにすんだのだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。すべての病気には原因がある。偶然などない。」

「1925年、『我が闘争』(それに他の未発表の論文)に書いたのだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということは分かっているのだ。となると外から叩くしかない。

本来、イギリスとアメリカにとっては日本との和解は多大な利益を意味する。その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人なのだ。私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。」

 

 
(左)ナチス時代に作られた反ユダヤ主義のポスター。
(右)はこのポスターの一部を拡大したものである。ドイツ人の
血の中にユダヤの「ダビデの星」や共産主義や金の亡者の
病原菌がいっぱいいることが図案化されている。

 

 


 

■■第1章:日本の文化や天皇に好意的だったヒトラー


●ヒトラーは日本についてかなり詳しい知識を持っていたが、その情報源のひとつがドイツの代表的な地政学者、カール・ハウスホーファー教授である。(ミュンヘン大学での助手がルドルフ・ヘスだった)。

ヒトラーに『我が闘争』の執筆をすすめ、ヒトラーの政治顧問を務めたハウスホーファー教授は、また滞日経験のある日本研究家でもあった。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。

彼はアジアの神秘主義を深く研究し、チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じていた。(※ しかし1941年に独ソ戦争が始まると、彼はヒトラーと政策面での意見が合わなくなり、冷遇されるようになる)。

 


ドイツの代表的な地政学者
カール・ハウスホーファー教授

1908年から2年間、ドイツ大使館付き武官
として日本に滞在。1934年に「ドイツ学士院」の総裁に就任。
この間、駐ドイツ大使館付き武官であった大島浩と接触してドイツと
日本の政治的連携の確立に関与した。1939年にはSSが運営する
「ドイツ民族対策本部」に所属し、ナチス・ドイツの対外侵略
(生存圏の拡大)構想の理論的支柱になった。

 

●1939年にベルリンで「日本古美術展覧会」が開かれたが、このとき、ヒトラーも訪れている。

ヒトラーは多くの日本の古美術を熱心に見てまわった。特に平清盛像に異常な関心を寄せ、いつまでものぞきこんでいたという。平清盛といえば一代にして栄華をきわめた男。ヒトラーは平清盛に自分の姿を重ねあわせていたのであろうか。

 


1939年にベルリンの「日本古美術展覧会」を訪れたヒトラー

ヒトラーと一緒に、ヒムラー、ゲッベルス、ゲーリング、
リッベントロップなどのナチ党幹部も訪れた

 
(左)ヒトラーと平清盛像 (右)『読売新聞』 1939年3月1日

 この展覧会は1939年2月28日から3月31日まで、
ベルリンの「ドイツ博物館」で開催され、7万人が訪れたという

 

●山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には、面白い逸話が紹介されている。

かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である。

これはドイツが100年試みても、500年間頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ……」

 

 
(左)昭和天皇 (右)鮎川義介。大正・昭和期に
活躍した実業家。「日産自動車」の実質的な
創立者。満州重工業開発総裁。

 

●これはヒトラーが、日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。

「君主政治」を完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ごく自然な形で成り立っていたのである。

※ この「君主政治」と対極をなすものが、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて批判していたのである。

 

 


 

■■第2章:2つの世界大戦と日独関係の変化


●ところで、第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」同士だった。

連合国の一員として参戦した日本は、1914年8月にドイツ帝国に宣戦布告し、ドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島と、南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略。日本の勝利で戦いが終結すると、敗戦国ドイツでは「黄禍論」(Yellow peril)が盛んに唱えらるようになったのである。


●「黄禍論」はアジア人を蔑視し、差別した考え方(人種差別の一種)であり、もともとは「日清戦争」後にヨーロッパ諸国に広まったもので、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主な論者だった。

1905年に「日露戦争」で日本にロシアが敗れると、ヴィルヘルム2世は「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、そのために日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えていたのである。

※ このヴィルヘルム2世は1918年に第一次世界大戦でドイツが敗れた後も、亡命先のオランダで「黄禍」に対する警告を繰り返し発し続けた。

 

 
(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗

過激な黄禍論者だったヴィルヘルム2世は、日本の国際的進出は
キリスト教文明ないしヨーロッパ文明を脅かすとして、「ヨーロッパ
列強は一致団結して、日本を極東に閉じ込めるべきだ」と主張し続けた。
※ このヴィルヘルム2世が宮廷画家に描かせた「黄禍の寓意画」が
「黄禍論」の流布に大きな役割を果たしたと言われている。

 

●この「黄禍論」はアメリカでも広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、太平洋沿岸州議会のハワイからの転航移民禁止などとして具体化し、「排日気運」を激化させていったのである(=「太平洋戦争」の遠因)。

 


『黄禍論とは何か』
ハインツ・ゴルヴィツァー著(草思社)

帝国主義国家として空前の経済的繁栄を
謳歌していた欧米各国は、それまで劣等民族
と信じて疑わなかった黄色人種の台頭に限りない
不安を抱き(自らの「没落の予感」と結び付いて)
「黄禍論」はやがて政治的スローガンとなっていく。

本書は膨大な資料をもとに、政治、経済、文化、
宗教など様々な角度から「黄禍」をめぐる言説
を考察した歴史ノンフィクションである。
興味のある方は一読を。

 

●ところで、1920年代になっても日独関係はそれほど良好ではなかった。

日中戦争が始まる前の時期には、ドイツの反日的な元将軍たちが、上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用した「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。


●しかし、1936年に「日独防共協定」が結ばれ、1940年に「日独伊三国軍事同盟」が成立すると、日本とドイツの友好関係は急速に改善されていったのである。

 

 
1933年1月30日に誕生したヒトラー政権

ドイツの中国に対する軍事援助はヒトラー政権が誕生する
6年前(1927年頃)から始まっていた。「日独防共協定」の精神に
違反するとの日本からの度重なる抗議にかかわらず、ドイツは中国への
軍事援助(軍事顧問団の派遣)を続けていたが、日本との関係を
選択するに至ったヒトラーの意向により、1938年7月に
全面的に中国から引き揚げることになる。

 

●また、1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはその直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。我々には3000年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、アメリカに宣戦を布告している。


●1943年にナチス・ドイツは技術交流の一環として、最新鋭の航洋型潜水艦(Uボート)を2隻日本海軍に無償で譲渡することを決定したが、これはドイツ海軍部内の人々、あるいは専門家の強い反対を押し切ったヒトラーの英断によって実現したのだった。

※「Uボート」はドイツ語の潜水艦の略だが、英語ではドイツ海軍の潜水艦を指している。

 


ヒトラーが日本海軍に寄贈したUボート(9C型)

このUボートは日独共通の戦場であるインド洋に勝利をもたらす
ために贈られたものだが、ヒトラーは日本海軍が同タイプの潜水鑑を
量産し、連合国の通商線を破壊することに期待をかけていたのである。
(元々このUボートは「有償」で日本海軍に提供するという話だったが、
ヒトラーの鶴の一声により「無償譲渡」が決定した。ドイツ海軍が
強く反対したが結局はヒトラーに押し切られる形となった)。

 

 


 

■■第3章:SS長官ヒムラーの風変わりな人種理論


●SS(ナチス親衛隊)長官ハインリッヒ・ヒムラーは、大戦中、日本軍の強さに感銘し、御用科学者に日本人がアーリア民族であることを立証させようとしていたことで知られている。

彼は日本人から日本刀を贈られたとき、日本人とゲルマン人の祭式の共通性を発見。学者の協力を得て、どうしたらこの共通性を種族的に解決できるか、の研究を進めたという。

これは、ヒトラーがつねづね、「なぜ我々は日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか? 間違った宗教を持ってしまったのが、そもそも我々の不幸なのだ」と語っているのを聞いていたからという(ヒトラーは日本の神道を高く評価していた)。

 


SS長官ハインリッヒ・ヒムラー

ヒムラーの若い頃からのオカルト大好きな性格は、
異常なまでに熱を帯びていたことで知られる。彼は敬虔な
カトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長
したが、ナチ党に入党してからは徐々にキリスト教とは距離を
置くようになり、「古代ゲルマン異教思想」に染まっていった。

彼はSSの隊員たちをキリスト教から引き離そうと試みたが、
結局彼らをキリスト教から引き離すことはできなかった。
(ヒムラーの空想的な「異教思想」は他のナチ党幹部
にも受けが悪かったといわれている)。

 

●また、戦局がドイツに次第に不利なものに傾いていった1944年夏、ヒトラーは高校(ギムナジウム)に日本語を必須科目として取り入れることを命令している。最初はとりあえず一校だけをモデル校に選んで試験的に授業を始めることになったが、最終的には全ギムナジウムで英語のかわりに日本語を必須科目にする計画だったという。

そのほか、菜食主義者(同時に禁酒・禁煙)だったヒトラーが、日本の豆腐に注目。“ローマ軍は菜食であれほど強かった”のだから、ドイツ軍にも豆腐を食べさせようという計画を立てていたとも言われている。


●ちなみに、ヒムラーも生野菜の大ファンで、酒もタバコもほとんどやらなかった。

彼は「自然療法」の信奉者で、「あらゆる医師は自然治癒医師でなければならない」と言い、「東方の諸民族」は菜食の結果、健康な身体(と長い大腸)を有すると信じていた。

ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や強制収容所の多くで薬草の栽培が行われた。「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所でもあった。ヒムラーの夢はドイツ国民のすべてが菜食主義者になることで、そうして初めてドイツは彼の思い描く古代アーリア人に戻り、本来の、世界に冠たる国家となるのであった。

 


ダッハウのハーブ園で薬草を摘み取るヒムラーと
SS隊員たち。「ダッハウ収容所」は世界有数の
ハーブとスパイスの栽培所でもあった。

 

●歴史学者の金子民雄氏は著書『文明の中の辺境』(北宋社)の中で、SS長官ヒムラーがチベットに送った探検隊について触れているが、ヒムラーの風変わりな人種理論に関してはこう述べている。

「ナチスの似非科学、すなわち民族学的疑似科学によれば、アジアはアーリア民族の古い揺籃の地であり、ここにアーリア民族が隔離されて住んでおり、チベット人は民族的に見て“純粋”な種であるという理論である。雑婚していない原種というわけである。それにこのヒマラヤの彼方、チベット高原のどこかに、理想郷であるシャンバラが存在するはずであると彼らは信じた。これはジェームズ・ヒルトンが勝手に捏造した地上の楽園シャングリ・ラの原郷である。」

「ヒムラーは、チベット人がスカンジナヴィア(北欧)地方から移住していった後裔であり、そこには失われた大陸アトランティスからの移民たちが建てた偉大なる文明が、かつて存在していたという、まったく正気と思えない妄想にとりつかれていた。この理論を証明しようというのが、民族学者のブルーノ・ベガーだった。

ちょっと考えれば、これはもう正気の状態とは思えない。

ちなみに、チベット人は日本人と同じモンゴル系であるが、ヒムラーは日本人とドイツ人の祖先を同じ系統にしたがっていたという。当時、ドイツと日本は密接な関係にあったから。」

 

 
(左)『文明の中の辺境』金子民雄著(北宋社)
(右)SS長官ヒムラーがチベットに送った探検隊とチベット人たち

 
ドイツからはるばるやって来た探検隊に、チベット人たちは友好的だったという

 

 


 

■■第4章:『ヒトラーの遺言』に書かれているヒトラーの好意的な日本観


●ヒトラーは最後まで忠実だった総統秘書長のマルチン・ボルマンに、公式の「遺言」を残しているが、そこにはヒトラーの好意的な日本観が表明されている。

このヒトラーの「遺言」は、原書房から出版されている『ヒトラーの遺言』(記録者マルチン・ボルマン)で読むことができる。

 

 
(左)ヒトラーに忠実な側近中の
側近だったマルチン・ボルマン大将
(右)『ヒトラーの遺言』(原書房)

 

●例えば、次のような記述がある。

「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう。

日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。

他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。

さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」(1945年2月18日)

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈1〉


●「日独防共協定」の成立から約1年半が経過した1938年8月、

ナチス・ドイツの青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日している。

 


「ヒトラー・ユーゲント」の隊旗

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の代表団はドイツの汽船「グナイゼナウ」号に乗船して、約1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着。

この時、ドイツの若者たちを一目見ようと、数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けたのである。

 


1938年8月17日、横浜に上陸した「ヒトラー・ユーゲント」一行は
横須賀線で東京に入った。そして東京駅に降り立った彼らは、
ブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。

 
(左)東京入りした「ヒトラー・ユーゲント」は明治神宮と靖国神社を参拝した。
(右)日本の青少年団代表100名あまりと共に富士山頂まで登った
「ヒトラー・ユーゲント」は、浅間神社で朝日を仰いだ。

  
(左)伊勢神宮参拝の様子。一行の参拝態度は
外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせた。
(中央)ドイツ大使館でティータイムを過ごす「ヒトラー・ユーゲント」。
(右)京都から大阪入りした「ヒトラー・ユーゲント」。一行はこの後、瀬戸
内海を抜けて九州を歴訪し、最後の訪問先である神戸を訪れた。
規律正しく統制された彼らの姿は、日本の青少年の
指標として大きな影響を与えた。

 

●「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本のホテルの清潔さ、和製の自動車、日本建築、鉄橋・トンネルなどを見て、日本の急速な近代化に驚嘆した。また、忘れ物を届けてもらったり、傷のある商品を値引きしてもらったり、時間通り迎えに来たタクシーを見て、日本人の正直さに感心していた。

また、日本の各村に必ず小学校があること、また、その設備もよく、若い熱心な教師が多く、小学生も行儀がよく従順であることに好印象を抱いていた。さらに、「人の数からだけで判断すれば、100年の長期戦をしても平気だろう」と思わせるほど、平均5人という子供の多さに驚き、子供の愛らしさと子供への母性愛の強さに感動し、二毛作のできる日本の土地の肥沃さを羨望していた。

 



↑「ヒトラー・ユーゲント」の主な訪問先

約3ヶ月(89日もの長期)に渡って、北は北海道から
南は九州まで、日本各地を訪問して熱烈な大歓迎を受けた


 1938年8月16日
 横浜港より入国
 1938年8月17日
 横浜〜東京(明治神宮と靖国神社参拝)
 1938年8月19日
 山中湖畔
 1938年8月20〜21日
 富士登山(山頂まで登る)
 1938年8月23日
 軽井沢(近衛邸レセプション他)
 1938年8月28日
 日光中善寺湖畔(東照宮)
 1938年8月31日
 会津若松(白虎隊の墓参り)
 1938年9月3日
 青森(奥入瀬)
 1938年9月4日
 函館
 1938年9月5日
 札幌〜支笏湖畔
 1938年9月10〜12日
 岩手(政宗像)・秋田(竿灯祭り)
 1938年9月22日
 鎌倉(鶴岡八幡宮)
 1938年9月28日
 神宮外苑(全国青少年団連合歓迎大会)
 1938年10月2〜3日
 岐阜〜関町(日本刀鍛錬見学)〜名古屋
 1938年10月7日
 伊勢神宮参拝
 1938年10月10日
 奈良(法隆寺見学)
 1938年10月13〜17日 
 京都(清水寺、金閣寺など)
 1938年10月18日 
 大阪(大阪城見学他)
 1938年10月22日
 瀬戸内海深勝(鞆の浦など)
 1938年10月23〜25日 
 別府〜宮崎(鵜戸神宮参拝)
 1938年10月29〜31日 
 熊本〜雲仙
 1938年11月3日
 長崎(ペーロン見学)
 1938年11月4日
 福岡(博多人形・修猷館中学)
 1938年11月7日
 広島(厳島神社見学)
 1938年11月12日
 神戸(交歓会)、神戸港より出国

 

 


 

■■おまけ情報 2:「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈2〉


●彼ら「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本国内を巡歴中、行く先々で日本の印象を聞かれ、そのつどコメントを残しているが、団長であるシュルツェは「日本の印象」について次のように語っている。

「現在まで多くの外国人たちはすべて大都会のある一面のみを見て日本のすべてを観察した如くに考えていたが、我らは真の日本の姿を見るには日本の片田舎をも回って親しく日本の青少年達と起居を共にしてこそ、その独特の精神に触れることができると信じた。そしてそれは我らの期待を外らせなかった。防空演習に際しての青年団の活動、岩手県六原道場での厳格なる動作、これらすべては十分日本青少年たちの優れた長所を認識せしむることができた」

「日本の神社や自然を見て、日本国民の魂は自然美より形成されていると実感した。日本の将来は、南西方に向かって一大民族的飛躍が約束されており、東亜の王冠を頂くことになる。……我が国では、民族意識の高揚によって国民の団結を図ってきた。しかし、日本では血の純血と神聖は自然に備わっている。幸福な国だと思う」

「最も我らの印象を引いたのは会津若松の『白虎隊』の墓だった。なぜならば、1920年から1933年までヒトラー総統の困苦時代に、忠勇なるヒトラー・ユーゲントの同志22名は、いずれも18歳の若さで共産党と戦い、壮烈な戦死をした追憶を持っているからである」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
ラインホルト・シュルツェ団長

 

●上のシュルツェ団長のコメントで触れられているように、「ヒトラー・ユーゲント」は「白虎隊」の墓参りをするため、1938年8月31日に福島県の会津若松市を訪れ、約1万もの群衆の大歓迎を受けている。

 


幕府への忠誠を誓いながら滅び去った会津藩の若き武士たちの自刃の様子

※ 20人の少年たちが、会津若松の城下町を一望に見渡せる飯盛山で
 自刃した(そのうち1人だけは急所を外して生き延びたという)

 

●歓迎式の後、「ヒトラー・ユーゲント」は東山温泉の旅館へ向かったが、来日以来初めて宿舎が純日本式だったので、彼らは温泉の浴槽に飛び込んだり、鯛の刺身やお吸い物などをパクついたり、浴衣姿で、日の丸行進曲や会津盆踊りに拍手を送ったり、獅子舞に興味を示したりと、楽しい夜を過ごした。

翌日、天気が悪く、飯盛山の「白虎隊」の墓参りを中止しようとの意見も出された。しかし、ユーゲント側の強い希望もあって、激しい風雨の中、白虎隊士墓の参拝をしたのであった。

 

 
(左)福島県会津若松市にある鶴ヶ城 (右)悲劇の少年部隊である「白虎隊」の墓

自刃した少年たちの遺骸は西軍により手をつけることを禁じられ、約3ヶ月間も放置され、
その後に村人により密かに近くの寺に運ばれ仮埋葬され、後にこの自刃地に改葬されたという。


 
1986年に日本テレビで放送された年末時代劇スペシャル『白虎隊』(DVD)

↑幕末に起こった「戊辰戦争」における会津藩の悲劇を描いた長時間TVドラマ

※「白虎隊」は16〜17歳の武家の男子によって構成された部隊であるが、
会津藩が組織した部隊には他に「朱雀隊」(18〜35歳)、「青龍隊」
(36〜49歳)、「玄武隊」(50歳以上)などが存在した。

 

●この時、「ヒトラー・ユーゲント」は、白虎隊墓地広場にあるドイツの「記念碑」も拝観している。

この「記念碑」は、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが、3年前の1935年に飯盛山を訪れた時に、「白虎隊」の少年たちの心に深い感銘を受け、個人的に寄贈したものである。

そこにはドイツ語で次のような碑文が刻まれている↓

「ひとりのドイツ人が 会津の若き騎士たちへ 1935年」

 

  
(左)駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフ。滞日中、飯盛山を訪れて「白虎隊」の
少年たちの心に深い感銘を受ける。(中央)1935年に彼が寄贈した記念碑。
(このドイツ大使の記念碑は、現在、復元されて白虎隊墓地広場にある)

 

●この「記念碑」は、戦後、GHQの手によって碑面が削られ撤去されたが、フォン・エッツドルフの強い希望により、1953年に再刻のうえ復元された。

ちなみに、この「記念碑」のそばには、1928年にイタリアのムッソリーニが元老院とローマ市民の名で贈った「記念碑」=大きな石柱が建っている。この石柱は、ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。ムッソリーニは「白虎隊」の話に感動し、日本の武士道を尊んでいたという。

※ このローマの「記念碑」の裏面には「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、戦後、GHQが削り取ってしまったと言われている。

 

 
白虎隊墓地広場にある「ローマ市寄贈の碑」

「白虎隊」に感動したイタリアのムッソリーニが、
1928年に元老院とローマ市民の名で寄贈したもの。
ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。

 

 


 

■■おまけ情報 3:「ヒトラー・ユーゲント」来日秘話〈3〉


●「ヒトラー・ユーゲント」の副団長であるレデッカーは、「日本の印象」について次のように語っている。

「日本の印象は余りに大きいので適当な言葉を見出せないほどである。たとえば、富士登山を行ったとき、御来迎が日本の同志諸君の顔に映るのを見て、日本精神のいかに美しいかを体得した。会津若松の『白虎隊』の勇士の墓に詣でたとき、『白虎隊』の精神が身にしみて感ぜられた。今まで多数の外国人が参詣し、有名な人が詣でたにしろ、ヒトラー・ユーゲントの如く心からその『白虎隊』の精神を理解し習得した者はかつてあるまいと確信する」

「また、各地で神社仏閣を参拝したが、日本人が敬神の念が強いのには感心した。戦傷兵士を慰問した時、日本の軍人の強さを知り、かくの如き立派な軍人を持てば日本は永久に勝利者として残ることを我々は確信した。我々は偉大なる国民の叫びを聞いている。それは『日本のため』『日本のため』というリズムである。日本国民の忠誠を国民道徳的な教訓として受け取り、ドイツ魂と日本精神が一致することを知った」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
シュルツェ団長とレデッカー副団長

 

●このように、「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本に対して強い好印象を抱いていたのである。

が、もちろん、彼らに不満がなかったわけではなかった。

彼らの不満としては、まず、「写真撮影禁止区域」が余りにも多いこと、軍部の意向で八幡製鉄所など機械工場・製作工場を見学できなかったこと、武器など軍務関係のものを見学できなかったこと、林業・牧畜や日本茶の採取・製造を見学できなかったこと、また、取材に来る新聞記者の厚顔、礼儀知らず、服装のだらしなさ、愚問の多いこと、慰安旅行のつもりで付いてくる役人など旅行随行者の多いこと、日本精神を体得させるという目的で、スケジュールに神社参拝が多く組まれていること、大臣・知事・青年指導者と農村の青年は立派であるが「健全な中間層がいない」こと、大学や高校にトーマス・マンなどナチに追われた作家やユダヤ人作家の書いたものをテキストに使用する自由主義教授が多いこと、日独文化協会やドイツ文化研究所がナチス的になっていないこと、などが挙げられている。

また、茶、香、華道の真髄は理解できなかったという。

 


近衛内閣総理大臣と「ヒトラー・ユーゲント」

招待晩餐会の食後に、共に円陣を作って歌ったり、
馬とびや駆け足などして、うちとけた中で時を過ごしたという

 

●「ヒトラー・ユーゲント」は、日本に約3ヶ月間滞在したが、彼らの行進を見るために、多くの人々が街路に溢れ出し、内外の集会場を埋め尽くし、興奮と熱狂の中で、「ヒトラー・ユーゲント」の規律のとれた動きと制服に「美的感動」を覚えた。

童心主義の詩人、北原白秋は「独逸青年団歓迎の歌」を作って、ともに歓迎することを子どもたちに訴えた。(この歌は日本ビクターよりレコードが発売されている)。


── 作詞:北原白秋/作曲:高階哲夫 ──
 

 燦たり輝く、ハーケン・クロイツ

 ようこそ遥々、西なる盟友

 いざ今見えん、朝日に迎へて

 我等ぞ東亜の青年日本

 万歳、ヒットラー・ユーゲント

 万歳、ナチス



日本を代表する詩人・歌人・
童謡作家である北原白秋
(1885〜1942年)

 

●「ヒトラー・ユーゲント」に同行した政府関係者たちは、「ヒトラー・ユーゲント」の「鉄のような規律とメカニカルな動き」に感銘を受けて、彼らを今後の日本の青少年団運動のモデルにすべきであると考えるようになった。

例えば、来日当初から関東各地の旅に同行した文部省社会教官、宮本金七氏は次のように述べている。

「すくすく伸びた四肢、グッと張った胸、実に見事な体格で、登山の際の強行軍から見ても体力の点では到底わが青年の比ではないと思った。それに30人のうち眼鏡をかけた者は一人もない。偉大な体格が大戦の疲弊した環境の中に育てられたということを考える時、長期戦体制の我々が考えなければならぬ多くのものがあると思う」


●さらに別の関係者も次のように述べている。

「ヒトラー・ユーゲント代表一行に会って特に目を惹かれるのは、その集団訓練からくる整然たる姿である。指導者の命令で行われる見事なる行動、若々しさ、そしてあの元気、そこに我々は強く惹きつけられるものがある。今まで行われてきた諸々の良き青年団の事業の他に、ヒトラー・ユーゲントのような権威ある組織制度の設けられる事がこの際望ましき大きな事柄の1つであると思った」


●しかし、「ヒトラー・ユーゲント」を厳しい目で観察して、日本青年のほうが精神的に優れていると分析する関係者もいた。

代表的な一人である、外務省調査部第二課の真鍋氏はこう述べている。

「……確かに彼らは体躯も大きいし、眼鏡もかけていない。しかし彼らの体力というか肉体的抵抗力というか、この点は我が日本青年は断じて負けていないと思った。

……彼らは日本の養子制度・見合結婚が理解できないという。ドイツ人は良い血と良い血の結合からドイツ精神・道徳が生まれると信じているが、日本人は良い精神と良い精神の結合から良い血が生まれると信じている。国家を強力にするのはではなく道徳と国民精神である」

「ヒトラー・ユーゲントは良い組織を持っている、鉄の如き規律がある、これをぜひ日本も学ぶべきであるという声が多く聞かれるが、私はこの意見に反対である。ドイツ人は、悪く言えば融通の利かない鈍重な国民である。だから、組織は、規律が崩れたときのドイツは滅茶苦茶である。……だからドイツ人は自分たちに適した組織を作ったのである。彼らの指導者養成方法は、ドイツの文化・伝統に基づくものであり、そのまま日本が受け入れることは危険である」

「来訪ヒトラー・ユーゲントは良い青年たちだが、ナチス的考え方しか知らない。自分というものがない。ナチスは人間から人間らしきものを、言い換えれば、ゼーレ(魂)を奪ってしまう

日本は個人のゼーレが全体のゼーレになりうる。ナチスは全体のゼーレのために、個人のゼーレを犠牲にしなければならなかった。そこに今日、中堅のドイツ人の苦しさがある。しかし、ヒトラー・ユーゲントはその苦しさを知らずにナチスに育て上げられている。この点、ナチスの努力は凄まじいものがあった、と考えさせられた」

 

 


 

■■おまけ情報 4:「ヒトラー・ユーゲント」と「大日本連合青年団」の交流


●ところで、「ヒトラー・ユーゲント」が来日する1ヶ月前に、日本からも各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議会)の代表29名がドイツを訪問している。

 

 

 

●彼らは1938年7月2日にパリからケルンに入ったが、

ベルリン到着後、戦闘帽と団服、巻脚半(巻きゲートル)にリュックサックという服装が「ヒトラー・ユーゲント」に比べてあまりにも貧弱であると判断されて、在ドイツ邦人から「ヒトラー・ユーゲント」を真似た制服を新調されるというハプニングがあったという。

しかしながら彼らもドイツ各地で熱狂的な歓迎を受け、約3ヶ月の滞在中にナチス党大会の参観やヒトラーとの会見を無事に果たし、1938年9月25日にドイツを離れたのである。


●そして1938年11月12日、長い船旅でドイツから帰国したばかりの「大日本連合青年団」と、ドイツに帰国直前の「ヒトラー・ユーゲント」一行が「神戸オリエンタルホテル」で一堂に会し、「交歓会」が開催されたのであった。

 


日独両国の青年団の集合写真
(神戸オリエンタルホテルにて)

同じ年に約3ヶ月もの長い海外視察を
体験した日独両国の青年団は神戸に集合し
「交歓会」を開いて、お互いに親睦を深めた。
この会合後に「ヒトラー・ユーゲント」は
神戸港で見送られて帰路についた。

 

●このように、「ヒトラー・ユーゲント」の来日は、防共(反共産主義)の協定を結んだ両国の青年たちが、互いに締盟国を訪れて親善、交流するという意味合いがあったのである。

 



 

 
「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは1939年末には800万人に達した

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の実態(誕生から崩壊までの歴史)については、別ファイル「ドイツの少年・少女たちとヒトラー・ユーゲント」をご覧下さい。

 



 

■■おまけ情報 5:ヒトラーとムッソリーニからの贈り物


●岐阜県関市にある「関鍛冶伝承館」は刃物や関係資料を展示する施設であるが、驚くことにここにはヒトラーとムッソリーニから贈られた「鉄カブト」と「陶器皿」が保管されているのである。(このことを知っている日本人はどれほどいるだろうか?)

 


ヒトラーとムッソリーニからの贈り物

ヒトラーから贈られたのは中世ドイツの「鉄カブト」(西洋兜)と
サンバイザーのような形をした兜の一部とみられる品。ムッソリーニから
贈られたのは籐カゴのようなデザインになっている白色の「陶器皿」。
(※ ちなみに上の写真は昭和時代に関市で撮影された写真である)

 

●関市の関係者の話によれば、地元有力者らが設立した「美濃刀匠擁護会」は、「日独防共協定」が結ばれた1936年にヒトラーに刀一振りを贈呈。その後「日独伊三国同盟」が結ばれた1940年にムッソリーニにも刀一振りを贈ったという。

そしてこの日本刀のお礼として贈られてきた「返礼品」が、先に紹介した「鉄カブト」と「陶器皿」だったという。

※「陶器皿」はいつごろムッソリーニから贈られたかは不明であるが、「鉄カブト」に関してはヒトラーの直筆とみられる署名と日付が入った「お礼状」が残っているため、贈られた時期などが詳しく分かっているそうだ。

 


岐阜県関町(現・関市)の刀剣関係者たちが
ドイツ大使に日本刀を贈呈した時の様子(1936年)

※ 贈呈した日本刀は「関鍛冶伝承館」の場所に以前あった
「日本刀伝習所」(後に日本刀鍛錬塾)で鍛えられものだという

 

●また、これらの「返礼品」は、以前は市の「中央公民館」で保管・展示されていたのだが、1984年に新しく建てられた「関市産業振興センター」(現・関鍛冶伝承館)へ保管先を変更したところ、市関係者の間で「ヒトラーに関わる展示はもうやめたほうがいい」との強い異論が出たことから、倉庫行きになったという。


●この件について関市の関係者はこう語っている。

「日本刀の返礼に2人の独裁者から届いた品物は、刃物の産地・関の歴史を物語る貴重な史料だが、歴史に悪名を残した人物からのプレゼントとあって、展示したら反発も考えられると市が躊躇(ちゅうちょ)しているうちにほぼ忘れられてしまい、知る人ぞ知る存在になった。もうかれこれ20年以上も倉庫で眠っているので、今では市関係者ですら存在を知る人はわずかになってしまった」

 

この「関鍛冶伝承館」は鎌倉時代から受け継がれる
関鍛冶の技を今に伝える施設である。1階には関を代表する
兼元・兼定をはじめとする日本刀や、その製造工程・歴史に関する
様々な資料が展示されている。2階にはカスタムナイフ作家の
コレクションや、関市の刃物文化が生んだ近現代の
刃物製品がずらりと展示されている。

 

●しかし2006年に入ってから事態は大きく変わり始める。

この年の夏に市文化財審議会委員の1人が「もう戦後60年あまりが経過し、歴史の事実として返礼品の展示を再開してもいいのでは」と発言。この発言と返礼品の由来が『中日新聞』で大きく取り上げられた後、急遽「関鍛冶伝承館」でお蔵入りしていた歴史的資料の再展示が決定。同年11月から一般公開が始まったのである。

 

 
22年ぶりに一般公開された中世ドイツの「鉄カブト」=ヒトラーからの「返礼品」
(※ 最初に紹介した昔の写真と比べると、だいぶ錆びて変色しているのが分かる)

 

●また翌12月には、これらの歴史的資料と並んで、関市に寄贈されたばかりのヒトラー・ユーゲントの「短刀」も一緒に展示されることになった。



1938年10月3日に関町(現・関市)を訪問したヒトラー・ユーゲント
たち全員に、日独友好の証しとして贈呈された短刀(刃長20cm)

 

※ この「短刀」がたどった“数奇な運命”に関しては下の記事が詳しい↓



(左)2007年1月21日 『中日新聞』 (右)「ヒットラー・ユーゲント来訪記念」の文字が読める短刀の中子裏側


---------------【上の記事の内容】---------------


関の短刀帰国 数奇な運命をたどり70年

1938(昭和13)年10月3日。刃都・関町(現関市)の刀剣館で、日本刀鍛錬の実演に目を見張るドイツの若者たちがいた。1936年の日独防共協定締結を受け、日本各地を回っていたヒトラー・ユーゲントの団員30人。刃物産地ゾーリンゲン出身のフリッツ・ヘアウィッグさんも参加し、記念にもらった関の短刀を母国に持ち帰った。それから70年。短刀は数奇な運命をたどって関に戻り、「関鍛冶伝承館」で展示されている。

団員たちはこの日、町中心街を行進し、町民の大歓迎を受けた。当時の新聞は「ユーゲント晴れの刀都入りだ。沿道1キロ余りに1万人の人垣造る」とある。団員に贈られた短刀は、日独友好の証でもあった。

翌1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻。第二次世界大戦となり、多くの若者が戦地に駆り出されて死んでいった。ドイツ空軍の戦闘機パイロットになったヘアウィッグさんも1941年12月、空中戦で戦死した。まだ、21歳の若さだった。兄弟がなかったため、一家は断絶。遺品の短刀は甥(おい)のエルンスト・ニゲロさん(68)が受け継いだ。


普通なら、短刀はそのまま眠り続けただろう。しかし、ゾーリンゲンと関がともに刃物の街だったことから、再び世に出ることになった。

ニゲロさんは、化粧などで使う美粧用刃物の製造会社社長を務めており、関の刃物卸会社社長・井戸誠嗣さん(65)と取引を通じて対面。井戸さんに、短刀の銘を確認してもらったところ、1989年に亡くなった刀匠・中田勇さん(刀匠名・兼秀)が、24歳の時に鍛えたものと分かった。井戸さんは「関の短刀が、ドイツ人青年の遺品になっているとは思わなかった」と振り返る。

ニゲロさんは昨年11月、「家族で大切にしてきた短刀だが、故郷に返したい」と、井戸さんに連絡。短刀を受け取った井戸さんが12月、関市に寄贈した。同じ刃物産地として、海を越えて築かれた人と人との信頼関係があった。

短刀は長さ20センチで、刀身、さやともに保存状態は良い。中田勇さんの長男勝郎さん(63)=刀匠名・正直=は「とても出来がいい。若かった父の勢いを感じる」と話す。


「関鍛冶伝承館」には、関町の団体が贈った日本刀の返礼に、ヒトラーから届いた中世の兜(かぶと)も保管されている。ヘアウィッグさんの短刀は、兜の横に飾られた。

ヒトラーは、ユダヤ人虐殺などで歴史に悪名を残し、ナチスに関わるものはタブー視される。同伝承館でも昨年10月まで、ヒトラーの兜は倉庫に入れたままだったが、歴史的資料として展示に踏み切った。

ヒトラー・ユーゲントが関町を行進した時、小学生だった後藤昭夫市長(72)も歓迎の人垣にいた。無名の若者が関で手に入れ、その死後も守り抜かれた一振の短刀。後藤市長は「関のためを思って返していただき、ありがたい。ヒトラーとナチスの問題はあるにしても、ドイツの若者たちが、関を訪れた意味はあったのではないか」と話している。

 

 

 

●この記事が出てしばらくした後に筆者は「関鍛冶伝承館」を訪問し、これらの歴史的資料をじっくり目にすることができたが、展示期間は限られている場合があるので、これから見に行こうと思う方は事前に「関鍛冶伝承館」の方に展示の有無を確認してから訪問するとよいでしょう。

また「関鍛冶伝承館」(岐阜県関市)から車で約45分の場所(東へまっすぐ30km先)に、かの有名な「杉原千畝記念館」(岐阜県八百津町)があるので、ナチスやユダヤの歴史に興味のある方はそちらに足を運んでみるのもよいと思います(^^)


※ それにしても、ナチスとユダヤに関わりのある2つの歴史的な場所が
同じ岐阜県内に、しかも横一直線上に隣り合って存在しているのは、
歴史の偶然とはいえ何か不思議な縁を感じてしまいます↓


 

 


 

■■おまけ情報 6:ヒトラーの反ユダヤ主義に同調しなかった日本政府


●上で杉原千畝(すぎはら ちうね)氏の名前が出たついでだが、

大戦中、ナチス・ドイツと同盟を結んでいた日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか? 日本人はユダヤ人を迫害したのだろうか?

 

 
(左)6000人のユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはら ちうね)
(右)ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民(1940年)



極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(〜1945年)

1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、
シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた

 

●この問題に興味のある方は、別ファイル「上海と満州のユダヤ難民を保護した日本」をご覧下さい。

 



 

★ おまけリンク ★

白虎隊記念館へようこそ
http://www.byakkokinen.com

 


 



 

ドイツの少年・少女たちとヒトラー・ユーゲント


青年ヒトラーの人生 〜「芸術家」から「政治家」の道へ転進〜

 


 


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