No.a6fhc103

作成 1998.1

 
ベラスコの告白
 

~20世紀情報戦争の舞台裏~

 

── 高橋レポート ──

 

1945年の3月に、“ゴメス博士”のコードネームでベルリンの地下官邸詰めの情報員に選ばれたベラスコ。彼はドイツ第三帝国が崩壊する2週間前まで、ヒトラーとともに地下官邸で過ごした。

地下官邸での生活は、そこにいるだけで発狂しそうになるほど心理的にも物理的にも非常に苦しい生活だったという。そして彼によれば、ヒトラーとエヴァ・ブラウンは4月末に地下官邸を抜け出し、世間でいわれているような死を迎えなかったという。

 

敗戦直前までヒトラーとともに地下官邸
(総統官邸の地下壕)で過ごしたベラスコは
ヒトラーの自殺を否定している

 

以下は、ベラスコの回想録である。

 

──────────────────────────────

 

敗戦間近のドイツは、惨憺たる状態にあった。ナチスの兵器のほんどは破壊され、前線の部隊は次々に敗退していった。そして米・英・仏・ソの連合軍は、八方からベルリンに向かって、続々と進撃を開始していた。

私はSSの情報部員として、海外のエージェントから集まってくる報告をチェックする仕事についていた。そんなある日、SSの総司令部の中にいた私を、直属の上司ジミー・オベルベイル司令官が呼んだのである。

「これからヒトラー総統のいる『フューラー・バンカー(地下官邸)』にいかなければならない。君も一緒にきたまえ」

我々は、ほとんど瓦礫の山となった廃墟のようなベルリンの町を、絶え間ない空襲を避けながら、ヒトラーの迎賓館に向かって走った。たどり着いてみると、高価な大理石でおおわれた壁や床が崩れ落ち、ドアもひどくひん曲がったままだった。建物の中に入ると、いたるところに家具やテーブルがひっくり返り、床は足の踏み場もないほど、書類が乱雑に散らかっていた。我々は、鉄のヘルメットをかぶったSSの警備兵に身分証を検閲されたあと、以前は豪華なホールだった廊下を通り抜けて、地下への入り口にたどり着いた。そこにも警備兵がいて、厳重なチェックを受けた。

その先のせまい階段を下りていくと、小さな空間があり、さらにそこから地底へと通じる急な階段が暗黒の闇へと続いていて、そのつきあたりに、厚い鋼鉄のドアが見えた。これが、地下官邸への入り口であった。防水、耐震機能をもち、どのような空爆にも耐えられる、鉄とコンクリートで固められた、地下の要塞だった。そこにも、黒いSSのユニフォームを着た下士官が、第3の関門を構えていた。

そこを無事通過すると、急に目の前がパッと明るくなり、こうこうとした照明に照らしだされた広い廊下があった。天井が低く、左側のドアの向こうには、大きなキッチンと、コックたちが住む居住区域が見え、廊下の別の端には広い部屋があって、ヒトラーとそのスタッフたちが、食事をするためのダイニング・ルームがあった。廊下のつきあたりには、さらにカーブしたコンクリートの階段があって、それを下ったところに、ヒトラーの執務室と総司令部があった。

オベルベイルと私は、その階段を下りていくと、そこにはさらに広い廊下があり、その廊下の遥か先に、木製のがっしりしたドアがあった。そこにも2人のSS隊員が、警備をしていた。このドアを通り抜けた向こう側こそ、ヒトラーのプライベートな居住空間なのである。我々は、その手前、廊下の片側にある小さな部屋に案内された。そこにはグレーのスーツを着た、痩せぎすの紳士が座っていて、「おはよう、諸君」と、教養の高さをうかがわせる、深く重みのある声で言った。

「私はワグナー大佐。ここでのSS情報部の最高司令官である。きみたちに、しばらくここで働いてもらいたい」

こうして私は地下官邸で、ドイツ降伏の直前まで過ごすことになった。〈中略〉

 


ベルリンの総統大本営として使用された「総統官邸」

※ この総統官邸の「地下壕」は大規模な設備を有していた
防空施設で、ベルリンで一番安全な場所であると言っても
過言ではなかった。長期戦に備えて食料貯蔵庫や
電話交換室、配電室、毒ガス攻撃に対応する
ための空調室も兼ね備えていた。

 

「ヒトラーは狂っている。神よ、お助けください」と私の部屋によろめきながら入ってきたワグナー大佐が気をとりもどすまでには、しばらく時間が必要だった。

ヒトラーがたった今、会議の席で述べた言葉にワグナーはおびえて、その模様を伝えにきたという。総統はドイツ国家の破壊とドイツ国民の完全な抹殺をいま命令した。総統は会議の席で「ドイツ国民にはもはや意思も力もなかったことが証明された。だからわれわれのもっとも基本的な存在価値を考える必要はない」と述べた、とワグナーはいった。

ヒトラーは第三帝国が完全に敗北したことを会議の場で認めたというのだ。

だが私は、ヒトラーのその発言をドイツ人のすべてが信じるとは思わなかった。ヒトラーそのものが狂ってしまっただけだとオベルベイルと確認しあった。そのとおりだった。ナチスが戦いをはじめた当時からすでにドイツ帝国が破壊されて終わるだけだと見通していた通産閣僚のシュパイエルは、ヒトラーのこの発言を無視した。何をいまさらというわけだ。もはやヒトラーの命令をまともに受け止める帝国幹部は存在しなかった。

だが、ヒトラーの命令を忠実に実行する男が一人だけいた。国務大臣でヒトラー側近のマルチン・ボルマンだ。ボルマンは強烈なヒトラー軍団のなかでまるで目立たなかった。もの静かなこの男は、アクの強いゲッベルスや道化師のゲーリングとはまったく肌合いがちがっていた。

ボルマンの地位はドイツが敗戦に近づくにつれて逆に高まっていった。それまでボルマンに命令していた上層部は、いつのまにかボルマンの指令に従うほかなくなっていた。ヒトラーの権威がボルマンをバックアップしはじめたからだ。ボルマン栄達の秘訣は、いつも注意深くしかも感情に左右されない落ち着いた態度にあったようだ。

 


マルチン・ボルマン

※ ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として
絶大な権力をふるった

 

ヒトラーは全ドイツの焦土作戦を命令した。1945年3月、ボルマンはヒトラーに代わってその命令を発令した。それは、老若男女を問わず捕虜も含めて、全ドイツ領地内の人間はすべてベルリンに集結するように指示したものだった。

この命令で何百万人もの人間が飢えて死ぬことになるだろう。だがボルマンの人間性から察して、むしろ残酷な結末にはならないと読んだうえでの命令だろう。国民は利口だとボルマンはみていたようだ。命令を実行しようにも時間が許すまい。道路は破壊され、軍隊の指令系統も乱れ、兵士の士気も失われている。まさにヒトラーのいうとおりドイツ国民は戦いを投げて逃げだしている。ボルマンはヒトラーの命令をあくまで単に命令として発令させたようだ。ボルマンは形式を知っている。

地下官邸ではボルマンとじかに話す機会はなかったが、ボルマンの動きを見るかぎりヒトラーへの献身的態度、明快で素早い意思決定、何をとっても感心させられた。ドイツ第三帝国が崩壊してもボルマンが生きている限り、ナチズムの旗はボルマンが掲げ続けるだろう。

〈中略〉

1945年4月16日、ワグナー大佐は私とオベルベイルに記録資料をすべて焼却するよう伝えてきた。数日前までに受信した報告文書を含めてヒトラーがそれらを読みしだい処理した。そして不安と希望の混じった運命の日がついにやってきた。

1945年4月21日、ボルマンが泥まみれの恰好で、しかもすさまじい形相で地上階から降りてくるのに出会った。地下官邸内の噂では自国ベルリン軍を現場で指揮しているらしかった。

戦闘意欲も失って自暴自棄になったドイツ軍人をヒトラー内閣の副官房長官ボルマンは最後の戦いに駆り立てていた。目の前のボルマンの姿は噂どおりだった。ボルマンは周囲の士官らの敬礼には目もくれずに地下2階に駆け降りていった。私は、そのあとを追うようにして階下の小部屋にもどったが、ドアを開ける一瞬、通路奥に向かうボルマンの後ろ姿を見た。

ボルマンは突き当たりにあるヒトラーの個室のドアに手をかけて衛兵を払いのけるようにしてそこへ入っていった。

ボルマンの態度はそれまでのボルマンではなかった。私は、ボルマンの異様な緊張ぶりを敗戦の象徴だと直感した。名誉以外のすべてを失ってしまった、ボルマンの背中にはそう書いてあるようだった。

ワグナー大佐が小部屋にきた。本日21日限りで地下官邸を引き揚げて別の場所で仕事を継続するから準備するようにといった。来るべき瞬間が到来したのだ。



私はオベルベイルと煙草をまわしのみしながら行く末を思案した。生きてここを出られるのだろうか。ベルリンから脱出できなくても、地下室で死ぬよりはましだ。ドクター・ゴメスは中立国民だから国際法上は死なずにすむかもしれない。いやソ連兵はその理屈に銃弾を撃ちこんでくるだけだ。悲観のなかから都合のよい楽観を見つけだすのは難しい。解放感を味わう一方で、生死のカギを誰かに握られている絶対的な焦燥感がつきまとった。

突然、異常なざわめきが聞こえた。部屋の外からただならない気配が伝わってきたのだ。

ドアを開けて通路の様子をうかがった。ボルマンとSS将校のジンマーマンが私服姿の士官6人を連れてヒトラーの個室を出るところだった。同時に階段方向の通路の両壁に別の士官らが並び始めていた。私がいる小部屋に近いところに立たされた士官にジンマーマンが声をかけていた。耳を澄ませてみた。ジンマーマンは士官に向かって、われわれドイツ軍人の名にかけても敵に弱気を見せてはならないと、その決意を披露していた。若い士官らには馬の耳に念仏だったろう。

およそ2時間が経過した。私は小部屋でじっと次の変化を待った。ワグナー大佐はくるのだろうか。どうやって地下官邸から移動するのか。士官らもその整列を崩さず、次の命令を通路で待ち続けた。

個室のドアが開きエヴァ・ブラウンがあらわれた。右手に書類の束をもち、その腕に毛皮の外套をかけていた。左手には黒革製の鞄をさげていた。エヴァの後ろから私服姿の年配の女性1名と2名の若い女性がついていた。さらにその後ろから軍服のSS将校が3人付き添って出てきた。だがヒトラーは出てこなかった。

以前に見たエヴァの生気はなかった。うなだれたように顔をやや伏せて歩くエヴァの髪の毛はもつれたままでツヤも消えていた。目のまわりには隈が見えた。衰弱しきっていた。エヴァたちが去ったあとも、通路の両側に立つ士官の列はそのまま残った。私もしばしその列に加わったままエヴァの残像に浸って立ちつづけた。

 


ヒトラーとエヴァ・ブラウン

 

突然会議室のドアが開き、ヒトラーを先頭にカイテル将軍、ヨードル元帥、デーニッツ提督らがあらわれた。ヒトラーは通路に整列した士官らの1人ひとりに握手しては言葉を交わした。よろけるように歩いては止まるヒトラーは、私の前にきて握手した。弱々しいヒトラーの手を握りしめた瞬間、電気ショックを受けたような強烈な力を身体中に感じた。ヒトラーの苦悩と痛みがその手を通じて私の身体に雪崩こんできたような気がした。私は全神経を集中して蚊の鳴くようなヒトラーの声を聞こうとした。

「動機のない男はどこへ行くのだろうか?」

ヒトラーの言葉はそれだけだった。

通路でヒトラーはよろめいた。デーニッツ提督とカイテル将軍があわててヒトラーの前方に出て支えようとした。ヒトラーは彼らを払いのけて歩き続けた。うしろ姿を見送る士官らには振り向きもせず右手を漫然と振りながら、1人でゆっくりと階段を上がっていった。

その数分後、ヒトラーと背丈も顔つきも寸分たがわない男が、SS士官に連れられてヒトラーの個室に入っていった。ヒトラーの生き写しと呼ばれてよく知られた男だった。1945年4月21日、エヴァ・ブラウンが地下官邸にきて1週間と経たないその日に地下官邸の主は去った。

生と死の境目の一点を薬で支えてやっとバランスを保っていた1人の男を動かせるのは、可憐な1人の乙女だけだった。ボルマンにもそれは不可能だった。だが、天使を地獄に放ってその男を救うことができるのはボルマンだけだった。

※ 数日後、このヒトラーにそっくりな男(ヒトラーのダブル)は毒薬を飲まされ、ピストルで射殺されたという。結局、ヒトラーは自殺などせず、ボルマンによって強制的に麻酔薬を飲まされ、自分の意思に反して、ベルリンを離れることになったという……。

(ヒトラーの最期については、次章でもっと明らかにされます)

 

 


 

■おまけ情報(写真)


ここで紹介する写真は、ベラスコの情報とは直接関係ないものであるが、

当館は数多くあるヒトラー写真の中で、「あれっ? これは別人じゃないの?」と思わせるような奇妙なヒトラー写真に何枚か遭遇している。

今回、参考までにその中の1枚を紹介したいが、下の写真はいずれも『永遠なるヒトラー』(八幡書店)という比較的高価なヒトラー本に載っている「ヒトラー写真」である↓

 


(左)小鳥と遊ぶヒトラー(『永遠なるヒトラー』のP357より)
(右)新聞を読むヒトラー(『永遠なるヒトラー』のP349より)

 

左と右の「ヒトラー」を見比べてみると、右の人物は目の感じも、鼻やアゴの形も「別人」のように感じる(ニヤけた表情がヒトラーらしくない)。もちろん、この人物がベラスコのいう「ヒトラーのダブル」なのかどうかは分からない。

皆さんはこの2人の人物が同一人物に見えるだろうか?

※ もしかしたら同一人物かもしれないが、参考までに紹介してみました。m(_ _)m

 

 


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第3章

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