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作成 2001.3

 

「第六感」と「輪廻転生」を信じていた

アメリカ陸軍の猛将パットン将軍

 

●戦争映画『パットン大戦車軍団』で有名な、アメリカ陸軍の猛将ジョージ・パットン将軍は、

そのいかめしい風貌に似ず、第二次世界大戦を戦ったアメリカの将軍の中で、「最も教養のある人物だった」と評されている。彼は、映画に描かれたように、詩人としての資質を持ち、毎晩聖書を読む敬虔なクリスチャンだった。

しかし、知性と教養には恵まれていたが、根っからの付き合い下手で、癇癪持ちで、司令官として尊大な態度で闊歩することもあった。

 


ジョージ・パットン将軍

 

●パットンは、北アフリカでロンメル将軍率いるドイツ軍戦車部隊と戦ったことで有名であるが、捕虜になったドイツ軍士官のF・フォン・ワーゲンハイム中佐によれば、パットンは戦車・歩兵合同部隊の最良の指揮者だったばかりでなく、すべての前線においてもっとも恐れられた将軍だったという。

パットンの部下の情報将校は

「パットンは“心霊的な感知器”を使って、陸軍情報部よりはるかに先んじていた」と語っている。

 

 

●アメリカ軍大将オマール・ブラッドレーは、パットン将軍は状況の推移を見透しそれに備える能力の持ち主だったと語っている。

彼は次のように回想している。

「パットンが三個師団を率い、コブレンツ近くでモーゼル川を渡り、迅速に南へと歩を進めている時、突如、彼は前進をやめ部隊を集結させた。順調に行進が続く中、なぜパットンは止まったのか、と私の率いる第12部隊の参謀の幾人かが驚きいぶかった。しかし、戦場におけるパットンの『感覚』を知っていた私は、我々の持っている情報からは判断できなくとも、きっと彼の行動には理由があるに違いないと皆に説いた。

そして、それはまさにその通りだった。翌日、彼らは強烈な攻撃を受けたのだ。しかし彼は行進を止め隊列を整えていたので、それを撃退することができたのである」



●パットン自身も、自分には「第六感」があり、情報部員よりうまく敵のもくろみを察知することができた、と述べているが、結局、彼は抜け目なく立ちまわるよりも、任務に忠実な一参謀にとどまることを選んだのだった。


●パットンの伝記を書いた甥(おい)のフレデリック・エアは、空想物語めいたことや神秘的な色合いを帯びたことはどれも、おじにとってたいへん現実的なことだった、と述べている。

甥によれば、パットンは超感覚的知覚(ESP)をかたく信じており、テレパシー、既視感(デジャヴュ)、予言、生まれ変わりなどはみな、全体でひとつをなすものの一部分らしいと確信していたという。

また、甥によれば、おじは、自分がかつてトロイア戦争で戦ったことがあり、またある時代にはシーザーの第十軍団で戦い、さらに時が下ってステュワート王朝のためにも戦ったと信じていたという。


●ちなみに映画『パットン大戦車軍団』には、パットンが古代の戦場跡にたたずみ、「ここで何百年も以前に戦いがあった。私にはわかる。私はここにいたのだ……」と物思いに耽るシーンがある。

 


『パットン大戦車軍団』
(1970年制作)

パットン将軍の壮絶な生きざまを描いた
戦争映画でアカデミー賞7部門受賞

 

●パットンは、1944年に書いた詩『鏡を通しておぼろげに』の中で、戦士だった自分のさまざまな「前世」を時代順に描いている。

最初、幻はぼんやりとしたものだった、と彼は述懐している。そして戦争の名も定かではなかった。しかし後には、よろいかぶとに身をかためたギリシアの装甲歩兵(古代ギリシアの重装備の歩兵)の鮮やかな幻が見えた──戦列がペルシアのキュロス王と向かいあったとき、彼はよろいを伝う金くさい汗や、じっとり湿った槍のなまなましい感触を味わったのである。彼はもう一度ギリシア人として、アレキサンダー大王と共にティルス(地中海に面した古代フェニキアの都市)の城壁にいたことがある。これに続く8節には、また別の戦士に生まれ変わった彼の姿がいくつか描写され、最後はナポレオンの陸軍元帥のミュラとともに馬を走らせている一将軍の姿で終わっている。

パットンはこの詩を「ふたたび私は戦士として生まれるだろう」と結んでいる。

彼の甥によれば、おじは、第一次世界大戦の後にも自分がこの生涯でもう一度国のために戦い、別の生涯でもまた戦うことになると知っていたという。


●あるとき甥がパットンに、「おじさんは本当に生まれ変わりを信じているんですか?」とたずねたところ、彼はこう答えたという。

「他の人はどう考えているか知らないが、私は疑問に思ったことはないね。考えた結果そう思うようになったわけじゃない。今の人生では来たことがないのに、以前来たことがある──そんな場所があちこちにあるんだ。

例えば、第一次世界大戦で、私が初めて指揮を執ったフランスのラングル高地に着いた時のこと、初めての土地ということで、フランスの若い連絡将校が辺りを案内しようとしてくれた。しかし私はなぜか、『その必要はない。私はこの地を知っている。よく知っているんだ』と、応えていた……まるで誰かが耳元で方向をささやいているかのように、私は運転手に行き先を指示していた。

私はその若い将校を、古代ローマの円形劇場、練兵場、軍神マルスや太陽神アポロンの公会場や寺院に連れていってやった……それどころか、その昔、シーザーがテントを張ったちょうどその場所も見せてやったのだ。そして、その間、まったく間違いを犯さなかったのだ。つまり、私がかつてその地を訪れたことがあるということなんだ」



●第二次世界大戦が終結し、ナチスがヨーロッパ各地から収集した貴重な宝物を見ようと、群れをなして訪れてきたアメリカの政治家や軍の高官たちのなかで、昔から言い伝えられてきた「聖槍伝説」にかろうじて興味を示したのはパットン将軍ただひとりであった。

彼はその地の歴史家を2人呼び、槍の歴史を余すことなく語らせたのである。

 


キリストの脇腹を貫いたといわれる
「聖槍(ロンギヌスの槍)」

 

●その後、パットンは、「アメリカは同盟国であったソ連に対する戦闘に備えなければならない」という彼個人の意見を発表した。

また、ドイツから「ナチ党」を根絶するという政策にも反対を表明し、彼の言動は面倒を引き起こしていたのである。

 

 

●パットンは死ぬほど共産主義を嫌っていたが、アメリカの金融・政界を徐々に牛耳りつつあったユダヤ人のことも嫌っていた。パットンは、ナチスの残虐行為の形跡を目撃してきたにもかかわらず、ドイツを敵とはみなさず、共産主義国ソ連に対する将来の同盟国と考えるようになっていた。

荒廃したベルリン訪問の後、妻に送った手紙にパットンはこう書いている。

「われわれは良くなる可能性のある人種(ドイツ人)を滅ぼし、野蛮なモンゴル人(ロシア人を指す)にとって代わらせ、ヨーロッパ中を共産化させようとしているのだ。非常に残念なことだ……」


●パットンは1945年9月22日の記者会見で、「ナチ党に所属する普通のメンバーのほとんどは、ちょうどアメリカ人が共和党か民主党に属しているようなものなのか?」と問われ、「その通りだ」と答えたため、非難の嵐を受けるようになった。

※ 映画『パットン大戦車軍団』には、このシーンが登場している。

この発言が原因でパットンは翌月、第三軍司令官の任務を解かれ、第十五軍司令官に左遷された。



●この後、パットンはヨーロッパ占領軍の任務に戻る準備をしながら子どもたちの前で、「二度と会うことはないだろうから、お別れを言っておく」とつぶやいた。彼は異国の地に葬られることを予期していたのである。

この不吉な“予言”を打ち消そうとする子どもたちに向かって、彼は謎めいた言葉を返すのだった。

「本当のことなんだ。私にはわかっている。どんなふうにしてかはわからんが、ヨーロッパで死ぬことになっている。だから向こうで埋葬してもらいたい……」



●アメリカからヨーロッパに戻ったパットンは1945年12月9日(左遷されてから2ヶ月後)、ホバート・ゲイ参謀長が運転する乗用車に乗って狩猟に行く途中、アメリカ陸軍のトラックと衝突する事故にあった。

事故自体は軽微なもので、運転手やトラックの乗員たちは負傷しなかったが、運悪くパットンだけ重傷を負い、頸椎の損傷のため首から下の体が完全に麻痺状態になってしまった。


●病院に運ばれたパットンは看護婦に、「2週間しないうちに死ぬ運命なので、治療をしても納税者の支払ってくれたお金の無駄になるだけだ」と語ったという。

パットンの“予言”通り、事故から12日後(12月21日)、幾度か死を口にしたあと、夕刻6時に息を引き取り、彼の遺体はルクセンブルクのアメリカ軍墓地に埋葬された(享年60歳)。


●パットンの最期の言葉は「(自動車事故は)軍人の死に様ではないな」だったという。

戦場でジープに乗って往来しながら傷ひとつ負わなかったアメリカ陸軍の猛将パットン将軍が、終戦直後に米軍同士の「自動車事故」に巻き込まれて不遇の死を遂げるというのは何とも皮肉な歴史である……。

※ この突然で不可解な「自動車事故」について一部の研究家の間では、パットンを疎ましく思っていた勢力による「暗殺」だったと指摘されているが、真偽のほどは不明である。

 

 


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